乏しいリソースを分配する

「発展」と「アフリカ」 – 過ぎ去ろうとしない過去
この秋から冬にかけてのインフルエンザワクチン接種で、医薬品が足りないという状況を経験した。金を出しても正当性を訴えても医薬品が手に入らないというのは初めての経験だった(神戸の震災の時も同じような状況があったのだろうが遺憾ながら記憶にない)。
リソースが足りない状況での人間の行動というのは浅ましいものだとつくづく思った。それでも私の患者さんは、お子さんは現状でワクチンの優先枠に入るほどの重症ではありませんと申し上げたら聞き入れてくださる方ばかりで、ありがたいことだった。しかし目を外に転じれば、昔の人はこういう状況を餓鬼道にたとえたのではなかろうかとさえ思える言動に接することも再々で、いろいろと考えさせられた。
ワクチンひとつ足りないだけでこれだよという記憶の新しい身で、トラックバック先のアフリカのこと(さらにその言及先のエントリまで)を拝読したのだが、やっぱり腹のふくれた人間は腹の減った人間のお作法についてあんまり居丈高なことを言っちゃいけないなと思った。腹のふくれた人間自身、いざ腹が減ったのに食料が手に入らないという状況になってみれば、どういう行動に出るか知れたものではない。と、今回の新型インフルエンザワクチン配給と接種の過程で学んだ。


・NICUには「超未熟児」は居ない。超未熟児と診断名のついた○○君が居るだけだ。診断も治療も個別の状況によって行う。「超未熟児」なる抽象的な概念に対して行われる治療は何もない。「アフリカの貧困」に対する対策に関しても、臨床の目でみればあまりに漠然としすぎている。どこそこの地域の、とか、何かもう少し具体的に限定された対象に対して、対策は立てられるものだろうし(じっさいにhokusyuさんが「大雑把な括り」と仰っているのを私はそういう意味にとったのだが)、実際に現地でもあるいは世界のどこかでも、そのような具体的で地に足がついた努力を地道になさっておられる方々がおられるはずなのだ。全体を救うにはそういう地道な努力が一歩一歩なされるのが迂遠なようでいて実は一番の早道なものではないか?NICUでも、重症の子を救うのは、病態の一つ一つを丹念に洗い上げて一つ一つ治していく地道な治療なのだし。病態のすべてを一気に吹き飛ばせるような魔法の治療なんて、少年誌の連載漫画には登場しても、現実にはなかなか存在しないものなのだ。
・そういう地道な努力をなさっておられる方々に対して、たまたま誤用御用評論家の書いた本を何冊か読んで勝手に絶望するってのは礼儀としてどうなのか。援助物資を途中で搾取する連中の倫理性を上から目線でどうこう言える立場か? まあ絶望ってのはそう不健康一辺倒な態度ではないかもしれんけど。前向きの健全な絶望ってのはあり得る美徳だと思う。
・どうこう言える立場か?といえば、HIV感染と診断された子に対してミルクを与えなくなるというアフリカの親を、ALSと診断されたら介護負担も家族任せにして放置する国の面々が非難できるんだろうか。
・植民地って、冗談でしょ?ねえ?ODA予算も財政への負担が大きいとか言ってるご時世に、なんで植民地?みなさんそんな太っ腹でいいの?私の乏しい歴史の知識では、たとえ「資源」とかがむちゃくちゃおいしい土地だけつまみ食いしてさえも植民地経営ってのは必然的に赤字になるもんだ、と習ってきたんだが。いったいこれまで欧米が植民地を手放したのは彼らの高潔な精神故ですか?私はてっきり、どうやったって儲からんと悟ったから手を引いたんだとばっかり思ってたんですがね。
・ここまで書いておいて何だが、hokusyuさんのエントリには「ネタにマジレス」の無粋さを感じなくもない。いや、ネタにマジレスも立派な芸風だと私は思うけど。私もしょっちゅうやってるし(自覚はしているのですよ>読者諸賢)。

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