君にそんなことは言われたくない。

大人への道 (内田樹の研究室)
おっしゃることはいちいちごもっともであるが、ごもっともな内容でも語る人の属性によってはごもっともと首肯できないこともある。狭量だとか属人思考だとかとのお叱りはあるだろうが。

「他者と共生する能力の低い人間」は「必要なものを自分の金で買う以外に調達しようのない人間」だからである。

こういうことを、必要なものを若い世代からただで搾取することで調達してきた世代の人に言われると非常に腹が立つんだが、それは私が狭量だからだろうか。

研修

自施設のマンパワーが人並み程度にはなったところで、かねてよりの懸案であった新生児研修のために大学病院へ通うことにした。別に引っ越すでもなく、自施設ちかくの自宅から自転車で通っている。あこがれの自転車通勤。ジテツウ。自施設だと自転車よりも歩いた方が早いくらい近いので。
そんなご近所に二つもNICUがあってどうするんだという突っ込みも全国からあるだろうが、しかも大学病院は賀茂川を挟んで二つあるので実は三つのNICUがご近所なのだが、じっさいに通ってみると患者層がずいぶん違う。まるで無駄ではなかったんだなと認識を新たにしている。むろん面食らっている。小児外科とか心臓血管外科とか、新生児科・小児内科だけでは収まらない子ばかり。なにかと勝手が違うなと思いつつ、5年目の女医さんといっしょに下っ端仕事をしている。まあ、それはそれで楽しいんだが。
他からあれこれ呼ばれず一日NICUに居ていい生活なんて、楽しくないわけがないじゃないか。
全国広いとはいえ、いちどは一施設の部長を名乗った医者が、その肩書きのままで研修をしているなどという事態はそうそうないだろう。国内でもいちばん薹がたった研修医ではなかろうかと思う。最近の発達心理学では人間は一生発達し続けるものらしいから、それはそれでよかろうと思う。

やっぱりNICUでの育て方を間違うと自閉症になるのかね

3年ほどまえに書いて、なぜかそのまま封印していた文章である。岩倉の国際会議場で小児科学会の学術集会があった年のもののはず。なぜ封印したんだろう。なにかびびったんだろうか。我ながら分からない。でも今なら220円払って市バスで行くことはないな。自転車で行きます。当然。
4月の日本小児科学会学術集会の抄録集をつついていて、下記の記載を見つけた。

NICUの児は治療のために過剰で不快なストレスにさらされている・・・近年、早産児の大きな後遺症は減少したが学習障害やADHD、自閉症などの高次脳機能障害が見受けられる。過剰刺激と本来必要な親からの抱っこなどの安心できる優しい刺激を受ける機会が少ないことが、この問題に結びついていることは容易に理解できる。

やっぱりNICUでの育てかたが悪いから未熟児が自閉症になるんですかね。それは「容易に理解できる」ほど自明なことなんですかね。
私もディベロップメンタルケアはそれなりに勉強したつもりだし、この演者が仰りたいことはたいがい想像がつく。でもこうしてベッテルハイムの二番煎じみたいな言説が自分の専門分野から持ち上がってくると、自閉症児の親としては心穏やかではない。
ベッテルハイムは精神分析的な観点から、冷たい親が敵意を持った育て方をするから子供が自閉症という精神疾患を患うのだと力説した。それが一世を風靡してしまったので、一世代前の自閉症児の親はずいぶん辛い思いをなさったと聞く。やがて自閉症は先天的な脳の器質的障害によるものだとされ、親の育て方が悪かったのだというベッテルハイム一派の説が否定されて今に至る。
今度は「育て方が悪くて成長著しい時期の脳に障害を及ぼすから自閉症やADHDなんかが後遺症として現れる」という言説が登場したわけだが。精神分析でないぶん進歩だとは思うけれども、またもや育て方の影響を云々せねばならないには違いない。今度は親としてではなく、NICU医師として。でも私なんぞのように両方兼ねている立場ではなおさらしんどいな。
そしたらNICU退院後の時期にも、育て方が悪かったら自閉症になるんだろうか。だとしたら、親御さんにはとんでもない重荷を背負わせてこどもさんを帰すことになるね。共働きで抱っこの時間が長くは取れなさそうなんですが将来の自閉症につながるんでしょうか、とか、ご心配になられるんじゃないかな。それとも、例えばNICU退院前後の時期に臨界期があって、それ以前のストレスなら自閉症の元になるけどそれ以降なら大丈夫、みたいな話があるんだろうか。それならあんまり「自明」な話でもないやね。
自閉症の病理やそれにまつわる歴史についてきちんと勉強した上で、この演者はここに自閉症を持ち出しているのだろうか。あるいは他のディベロップメンタルケアに関わる人たちも、環境要因で自閉症が生じるという言説の危険さが分かってるだろうか。この言説を不用意に口に出すってね、日本小児科学会の公式ロゴにハーケンクロイツを選定しようと提案するくらいやばいことだと思うんですがね。それなりの覚悟で言わんと。
こういう質問は口演の会場で直接演者にぶつければ良いんだろうけれども、残念ながら学会に参加できる見込みがまるでない。220円で日帰りで行ける場所なんだけれどもね。

居心地のよいNICUとは

部下は育てるな! 取り替えろ! ! Try Not to Develop Your Staff (光文社ペーパーバックス)

長野 慶太 / 光文社

アホな上司はこう追い込め! (光文社ペーパーバックス)

長野慶太 / 光文社

居心地のよいNICUとはどういうNICUか、とさいきん考えている。
内田樹先生の影響でもある。先生がくりかえし仰る、社会の変革をめざす集団ならその集団自体の内部にはすでに自らが実現しようとしている社会の形態が実現していなければならない、という指摘は正鵠を射るものだと私は思う。NICUは社会変革をめざす集団ではないが、しかし、赤ちゃんを含めた家族の新しい出発点となる場所ではある。家族がこれから闊達で幸せな家庭となるのなら、その出発点たるNICUのスタッフである我々もまた、幸せな、きもちよい仕事をしているはずなのだ。風通しの悪い抑圧的なNICUから送り出されても、そこから出発する新しい家族もまた風通しの悪い抑圧的な家庭にしかならないのではないだろうか。
しかし職場のいごこちを追求しようとしたときに、つい、疑似家族的な人間関係を求めてしまうというのが、よくある陥穽なのではないかと思う。とくに私の年齢層、そろそろ新人の年齢が自分自身よりも娘や息子のほうに近くなってきたあたりから、その傾向が顕著になるのではないかと思う。
疑似家族的な人間関係はNICUの人間関係としてあまりよろしくない。けっきょくNICUは家庭ではなく職場であって、しかも仕事の内容がかなり重大な帰結をもたらす職場であって、それなりに厳しくなければならない、という事情はある。それは言うまでもないことだ。加えて、私のようにあるていど年長になった人間が疑似家族の家長的な配役を演じ始めたら、若い人たちにはずいぶん抑圧的だろうと思う。大多数のスタッフにとって、それは居心地のよい職場を実現する道筋ではないのではないか。
半人前のこどもたちを育てて一人前にして世に送り出したり跡目を継がせたりするというのが、家族の物語であろう。疑似家族的な人間関係を職場に求める上司は、擬似的なこどもの位置に置いた部下を半人前扱いする。そして家長たる自分自身は、彼らを育てねばならないと変に意気込む。疑似家族の幻想に立脚した上から目線で。
だいいち家族においては、一人前になったこどもは出て行くか親を隠居させるかのどちらかである。部下に出て行かれて人手が足りなくなるのも隠居させられるのもきらう家長的上司は、構造的に部下を半人前扱いする。部下の客観的な能力には関係なしに、先験的に、彼の部下は半人前と決まっている。上司としては、自分は彼らを育てようと骨折っているのに、「近頃の若い者ときたら」いつまでたっても成長しない、ということになる。俺が育てて面倒見てやらんとこいつらは駄目だ、と彼は思っている。じつは彼らに去られて困るのは自分の方なのに。
しかしそもそも職場においては、構成員の誰一人として一人前以下の扱いを受けてはならない。一人前に扱われればこそ一人前の仕事をする、というのが働くものの本来のありかただと思う。ちなみに半人前に扱われるのに一人前の仕事を要求されるのは奴隷という。奴隷扱いされる職場がいごこちのよい職場であろうはずがない。というか、奴隷扱いされて居心地よくなるような変態はうちのNICUにはいらない。
奴隷は職場を去る自由もない。こどもに家庭を去る自由がないのと同じ。
前置きが長くなったが、そういうことをあれこれ考えてまとまらないでいるときに、この2冊を読んで深く感じ入った。疑似家族ではない、あくまでも職場の、人間関係はどうあるべきかということが論じてある。他の評でも言われていることだが、タイトルこそ扇情的であるものの、書いてある内容は真っ当である。おりにふれ、繰り返し読むべき本だと思った。だがさすがに、医局の本棚に置いておくのは憚られる。
しかしこの2冊を読んで我が意を得たりと思うのはかなり危険なことだ。この2冊の大前提として、読む立場の自分自身がそうとう厳しく自律していることが求められている。この2冊の内容を実践するにふさわしいほどの実力の人なら、むしろ、俺なんかがこんな実践やって大丈夫か?と常に疑っていることだろうと思う。逆に、自省なしにこの2冊をそのまんま鵜呑みにしてしまうようなレベルの人が、鵜呑み実践をやってしまうとかえってまずいんじゃないかと思ったりする。自分をも疑いながらおそるおそる実践するのが本書の正しい読み方ではないかと思う。少なくとも、私ごときには。