居心地のよいNICUとはどういうNICUか、とさいきん考えている。
内田樹先生の影響でもある。先生がくりかえし仰る、社会の変革をめざす集団ならその集団自体の内部にはすでに自らが実現しようとしている社会の形態が実現していなければならない、という指摘は正鵠を射るものだと私は思う。NICUは社会変革をめざす集団ではないが、しかし、赤ちゃんを含めた家族の新しい出発点となる場所ではある。家族がこれから闊達で幸せな家庭となるのなら、その出発点たるNICUのスタッフである我々もまた、幸せな、きもちよい仕事をしているはずなのだ。風通しの悪い抑圧的なNICUから送り出されても、そこから出発する新しい家族もまた風通しの悪い抑圧的な家庭にしかならないのではないだろうか。
しかし職場のいごこちを追求しようとしたときに、つい、疑似家族的な人間関係を求めてしまうというのが、よくある陥穽なのではないかと思う。とくに私の年齢層、そろそろ新人の年齢が自分自身よりも娘や息子のほうに近くなってきたあたりから、その傾向が顕著になるのではないかと思う。
疑似家族的な人間関係はNICUの人間関係としてあまりよろしくない。けっきょくNICUは家庭ではなく職場であって、しかも仕事の内容がかなり重大な帰結をもたらす職場であって、それなりに厳しくなければならない、という事情はある。それは言うまでもないことだ。加えて、私のようにあるていど年長になった人間が疑似家族の家長的な配役を演じ始めたら、若い人たちにはずいぶん抑圧的だろうと思う。大多数のスタッフにとって、それは居心地のよい職場を実現する道筋ではないのではないか。
半人前のこどもたちを育てて一人前にして世に送り出したり跡目を継がせたりするというのが、家族の物語であろう。疑似家族的な人間関係を職場に求める上司は、擬似的なこどもの位置に置いた部下を半人前扱いする。そして家長たる自分自身は、彼らを育てねばならないと変に意気込む。疑似家族の幻想に立脚した上から目線で。
だいいち家族においては、一人前になったこどもは出て行くか親を隠居させるかのどちらかである。部下に出て行かれて人手が足りなくなるのも隠居させられるのもきらう家長的上司は、構造的に部下を半人前扱いする。部下の客観的な能力には関係なしに、先験的に、彼の部下は半人前と決まっている。上司としては、自分は彼らを育てようと骨折っているのに、「近頃の若い者ときたら」いつまでたっても成長しない、ということになる。俺が育てて面倒見てやらんとこいつらは駄目だ、と彼は思っている。じつは彼らに去られて困るのは自分の方なのに。
しかしそもそも職場においては、構成員の誰一人として一人前以下の扱いを受けてはならない。一人前に扱われればこそ一人前の仕事をする、というのが働くものの本来のありかただと思う。ちなみに半人前に扱われるのに一人前の仕事を要求されるのは奴隷という。奴隷扱いされる職場がいごこちのよい職場であろうはずがない。というか、奴隷扱いされて居心地よくなるような変態はうちのNICUにはいらない。
奴隷は職場を去る自由もない。こどもに家庭を去る自由がないのと同じ。
前置きが長くなったが、そういうことをあれこれ考えてまとまらないでいるときに、この2冊を読んで深く感じ入った。疑似家族ではない、あくまでも職場の、人間関係はどうあるべきかということが論じてある。他の評でも言われていることだが、タイトルこそ扇情的であるものの、書いてある内容は真っ当である。おりにふれ、繰り返し読むべき本だと思った。だがさすがに、医局の本棚に置いておくのは憚られる。
しかしこの2冊を読んで我が意を得たりと思うのはかなり危険なことだ。この2冊の大前提として、読む立場の自分自身がそうとう厳しく自律していることが求められている。この2冊の内容を実践するにふさわしいほどの実力の人なら、むしろ、俺なんかがこんな実践やって大丈夫か?と常に疑っていることだろうと思う。逆に、自省なしにこの2冊をそのまんま鵜呑みにしてしまうようなレベルの人が、鵜呑み実践をやってしまうとかえってまずいんじゃないかと思ったりする。自分をも疑いながらおそるおそる実践するのが本書の正しい読み方ではないかと思う。少なくとも、私ごときには。
