学会は最終日。今日もまず大学へ寄ってからJRで神戸へ行く。
今日は生命倫理に関して集中的に見てきた。会頭の意向もそのへんにあるらしくて、今日はいちにち倫理の日ともいうべきプログラムだった。ことに、Steven R Leuthnerという人の “Fetal Palliative Care”という講演が秀逸だった。米国の人の優れたところは観念にではなく実務に現れるのだなと思った。自分たちは何に気をつけてどういうケアをしている、と淡々と述べていくだけだし、その根拠もいささか泥臭いほどのプラグマティズムだと見受けられたが、それでも彼ほど深くなるとその深さが質に転化しているような気がする。この人の文献をいくつか読んでみないといけない。
松田一郎先生の「日本の文化、価値観を元にした生命倫理を考える」がその次に続いたが、さて日本の文化や価値観とはなんぞやというところで、さいきん宮本常一先生やなんかの民俗学や歴史の本をいろいろ読んで、ひょっとして医者がイメージする日本の文化や価値観ってひどく一面的でないかとも思ったりしていたところだった。他国からの侵略を受けたことのない和の国、ねえ。たとえばさ、いったい戦国時代の戦争ってのは戦国武将が世直しをしたくて戦ってたとでもお思いで?
日本人って、生命倫理みたいなことでも、原則が上から降ってくるってのじゃあなくて、一件一件の事例から湧き上がるようにボトムアップでいつのまにか横並びになってるってのが伝統的なあり方じゃあないかとも思った。大きな物語じゃあ日本人は救えないし、「倫理」とか原則とか言った時点ですでにそれは日本的な概念じゃないんだ。などと、宮本常一先生の「忘れられた日本人」を読んで、昔の日本人ってこんなに物事を話しあう習慣を持っていたんだと驚いたりしたことも思い出して、会場で考えていた。
午後は18トリソミーの子らに対する医療的介入の倫理をあつかったポスター討論やらワークショップやら見てきた。こういう倫理の話になると「話しあうことが大事ですね」という、しごく当たり障りの無い、朝日新聞の社説みたいな結論になるんだけど、そしてそれは日本人の倫理の出来上がり方が帰納的・ボトムアップ的なものだと考えればまあ当然の落ちなんだけれども、それはどうなんだろう、そんな結論を出しにわざわざNICUを出てみなさん神戸まで来たのか?そんな土産話で留守番役は満足するのか?神戸牛をキログラム単位で土産に買わんと角が立つんじゃないか?
こういう温い結論とか吹っ飛ばすような画期的な、従来とは一線を画すような高レベルの倫理が語られないものかなとも思う。RDSに対するサーファクテンのような、PPHNにたいするNOのような、従来の小賢しいちまちました苦労が跡形もなく吹っ飛ぶような異次元のものが登場しないかなと。でも生命倫理ではそんなのが出てきても信用しない方がいいかもなとも思う。ふと気がつくと虐殺収容所に送り込む子を選別しているようなはめになりかねない。