断る力

断る力 (文春新書)

断る力 (文春新書)

おもしろく読んだ。たしかに昔の自分には欠けている視点だと思った。でも昔の自分がこの視点で生きてたら人生を誤っただろうなとも思った。自分にしかできないことに集中するってのは、それは何かできる人間しか取りえない戦略であって、何もできない人間がそれをやったら何にもすることがありませんってことになる。自分探しのあげく、なにもできない中年になる。

それってけっきょく今の俺とかわんないじゃないか・・・なら断る力があってもよかったかな。はは。

自然のこと

お産やなんかで「自然」を礼賛する人に出会うと不思議な気分になる。

私は田舎の一軒家で育った。子どもの頃に家で友人と遊んだという記憶がほとんどない。理由は簡単で、そもそも子どもの足で歩いて行ける範囲には私の家にしか人が住んでいなかった。

父は勤め人をしながら週末の作業で実家の手入れを一人でやっていた。井戸は定期的に掃除が必要だったし、便所はくみ取って畑にまいていた。便所を改築したときに、飼っていた鶏の糞をくみ取り口に蹴って入れて、便所は最初にこうするものだと教えてくれた。人糞だけでは発酵がうまくいかないんだそうだ。

家の周囲は当然に「自然」であって、海と山だった。遊べば遊べたんだろうけれど、遊び方を教えてくれる年長の子どもおらず、私一人では手に余った。山はほとんど手が入っておらず、迷い込んだら行方不明になるんだろうなと思った。海で泳ぐこともあったが、いま溺れても気づける場所には誰一人いないんだなと思うとおっくうになった。何やかやで本ばかり読んでいた。今更思えばもうすこし父を手伝っておればよかったのかもしれない。

成人して医者になってからも、「自然」なるものにあまり好印象がない。自然は容赦がないよと思う。都会の人は(妻でさえ)どこかで無意識に「ピンチに現れるヒーロー」を期待しているような気がする。でも本来の自然では、って帰省するたびこんな箱庭みたいな規模の山や海だったかと思うんだけど、とにかく人の手のない本来の自然では、勝手に一人で泳いだ子は深みに流されて溺れたらそのまま溺れて終わるのが結末だという認識が、私の根っこにある。

今は排泄したら水を流せば糞尿がどこかへ消える生活に、私も慣れてしまったけれど、でも、たとえばの話、水洗便所が当然という都会的勘定の感覚で、お産は自然なことで手間暇なくともうまくいくのが当然と直感的に考えられるとしたら、多少、勝手な勘定ではないかなと思う。井戸をメンテして水を得て、排泄したものの始末も自分で仕舞うような、自然の中での生活はそういう手間暇をいちいち要求してくるし、うまくいかないときにも救いのヒーローは現れない。

クリートのねじをなくした

土曜日の午後、ロードで上賀茂から産大前経由で岩倉と走ってきたのだが、帰宅後、右足のクリートからねじが一本抜け落ちているのに気づいた。

なんだかうまくペダルにはまらないなと思っていたが、クリートの固定が緩んでいたためだったようだ。よくこんなんで走って帰ってこれたな。

走行前の点検でタイヤの空気は忘れずに入れることにしているのだが、今後はクリートのネジの増し締めも忘れずにやらないといけない。

以上覚え書き。

SHIMANO(シマノ) SM-SH11クリートセット [Y42U98010] セルフアライニングモード ペア M5×8mm

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本来はロード購入でお世話になった岩倉のVIGOREさんで購入するべきなんだろうけど、今回はクリートがないとVIGOREまで走ることもできない。アマゾンに発注して自宅まで届けさせることにした。

ちゃんと専門店で買うといろいろ教えてくれるので、勉強になる。まだ初心者なのでちょっとした一言でもありがたい。その点は医学書の専門店とは違うなと思う。医学書の場合、商品の選択はまったく自己責任である。

デザイン変更

ブログのデザインを「breeze」から「hatena2-white」に変更した。自分のブラウザは字を大きくする設定にしていたのだが、デフォルトに戻してみて、自分のブログの字の小ささに唖然とした。そろそそ老眼も入ってくる年齢なので小さい字は多少辛い。

あまり色使いが派手でなくて、しかもクールなデザインがほしいのだが。hatena2-whiteもちょっと垢抜けない気がして、しばらく模索することになりそうな気がする。

つまらない模索だけれど。

子供を泣かさないで診療する

北斗神拳の伝承者争いで、師が見守る前でラオウケンシロウが虎と対決するというシーンがあった。虎はケンシロウの前ではおとなしく頭を垂れたが、ラオウには襲いかかった。ラオウは虎を一撃で倒し、虎にすら見くびられるケンシロウではなくて自分に跡目を継がせたらどうだと先代に言った。師の見解としては、虎はラオウの前では死を恐怖したがケンシロウの前では観念した;従ってケンシロウの拳こそ真の暗殺拳だ、とのこと。

小児科の外来をやってると子どもにひどく泣かれることがある。とくに予防接種のときなど、これでもかというくらい泣かれる。逆に不思議に泣かれないで済むこともある。どういう事情の違いなのかよくわからない。なにかラオウケンシロウの違いのような、こちらの態度が相手に伝染するようなところがあるのかもしれないと、ときには考えてしまう。自分の心身の調子がよいこと、外来がそれほどだれず焦らずのほどよい混みかたであること、など、子どもを泣かさないいろいろな条件はありそうな気がする。

その点、予防接種外来は次々に処置していかねばならないという焦りはある。他の医師の予防接種外来と並行して隣のブースで一般外来をやっていると、隣のブースから殺気が溢れてくることがある。医師や看護師や親御さんや子どもの、焦燥やら恐怖やらあれやこれやの感情が入り交じり増幅し合い、うっかりブースに入ろうとしたら無数の拳に反撃されるんじゃないかと思うほどの結界をつくっている。あれじゃ泣くわと思う。一般外来で診ている子までおびえてしまう。

自分がその渦中にあれば為す術もなくやはり泣かせてしまうんだけど、最近ちょっと考えているのは、平然と当たり前のことをするような態度でいたほうが、子どももかえって落ち着くんじゃないかということ。穏やかな声や笑顔と流れるような所作で、しごく当たり前のことが行われているのだという雰囲気を演出すること。

ちなみに、自分自身の記憶として、転んだあと初めて泣かずに立ち上がれたときのことと、予防接種のあと初めて泣かずにいられたときのこととは、いまだに鮮明に記憶している。そのときの幼稚園の情景、園庭で立ち上がったときに膝小僧に付いていた砂とか、集団接種の行われた教室の壁の棚と流し台とか、絵に描けそうな気がする。泣かずにいられるんだ、という、我がことながら予想外の事態の驚き。痛いことをしなければならないのは実際のところ恐縮なのだが、いろいろな疾患への免疫に加え、そういう成功体験もおまけで持って帰ってもらえたらいいなと思う。

これが百日咳だ

YouTube – Clinical Examples of Pertussis

コメント欄で百日咳についてコメントを頂いたので(TEE様ありがとうございます)、百日咳の典型的な動画を提示してみる。典型的にはこういう咳をする。呼気時に息を吐ききるまで息継ぎできず連続して咳をしていること、吸気時にヒューッと音がしていることに着目。かかってしばらくは普通の風邪と区別しにくい咳だが、なかなか咳が治らないなと思っているうちに数日でこういう咳に変化してくることが多い。

典型的には、というのは、言い訳めいて恐縮だが、典型的ではないことも多々あるからだ。三種混合(ジフテリア破傷風・百日咳)いわゆるDTPワクチンを接種していると、かかっても軽症で非典型的になる。もちろん、だからワクチンを接種してはいけないなどと、どこかの狸じみたことを言っているわけではない。こういう咳をし出したときにはもうマクロライドを飲んでも遅い感がある。ワクチンで予防するのが最善だ。

そういう咳ではありませんかと外来で聞くのは、まねをしてみせるのもなかなか難しい。動画を共有できるサイトはありがたい。外来で「youtubeでよく似た咳を見たんです」とか仰って頂くと参考になるかも知れない。外来の電子カルテ端末から親御さんに見て頂ければいいんだけど、そうするとコンピューターのほうの感染対策が難儀になる。ジョブズ氏のiなんとかを活用するのがよいのかもしれない。

百日咳という語は中国語も共通らしくて、「百日咳」で検索すると中国の偉い先生の解説動画が上位にくる。英語の pertussis で検索したら咳の実例動画が上位にわりと多かった。whooping coughで検索したら意外にも中国同様に偉い先生の解説が多そうだった。

百日咳の注意点というか、医者からの言い訳というか、あれは夜と昼の差がかなり激しい。昼の外来ではけろっとしていても、夜になると1時間おきに咳き込んで吐いたりしている。「夜がきつい」「咳き込んで吐く」はけっこう強いキーワードだったりする。むろんこれも簡単ではなく、喘息もまた夜がきつい疾患なので、鑑別は往々にして困難である。血液検査ではリンパ球優位の白血球増多が特徴的だが、ワクチン後ではこれも出ないことがあるし、そもそもこの所見が出てきた段階ではすでに手遅れ感が漂っている。

本当に自分の治療で治っているんだろうかと思うこと

病院で一般小児科外来をしていると、「近所の・・・先生にかかって薬をもらったけど治らないから」という受診が相当数あるんだが、拝見しながら、この子が来なくなったことで、近所の先生はこの子が自分の処方で治ったと思っておられるんだろうなと、考えたりする。近所の先生を腐すまでもなく、私自身、再受診しない子は改善したから来られないんだと考えがちだけど、私のところで治らなかった子がたとえば日赤とか市立病院とかけっこう流れてるんじゃないかと思ったりもする。

内科の先生方はそうではなかろうけれど、小児科医は来なくなった患者は治ったから来なくなったんだろうと考えるのが習慣だと思う。とくに一般外来の大多数を占める急性疾患については。それが陥穽になってることもあるんじゃないか、と、十年一日のような近医処方を拝読しながら考えたりする。これで治ると思っておられるんだろな、と。感冒の子にことごとく第3世代セフェムの経口薬が出してあったり、そのほかもろもろ。

こうやって患者さん側の判断で受診先を変えられると、診療内容にフィードバックがかからない。フィードバックがかからないと診療が上達しない。診断も、処方内容も。地域の医療機関のあいだを患者さんが順繰りに移動していくことで、地域の医療機関の診療レベルが妙に低いところで均衡したりするんじゃないかと懸念する。

とは言っても、受診先を制限することでこの均衡を打破して診療内容が向上するかというと、そうでもなくて、小児の自然治癒力はものすごいものがあるから、どんなへぼい処方でも治るものは治る、というか、有り体に言ってへぼい処方にもかかわらず治ったりする。そういうのを自分の治療のおかげだと思ってると、狭い井戸の中で勘違いをして独善的な診療を続けることになりかねない。

一番いいのは、先生のところにかかった患者さんがこのように仰って私のところに来られたよ、という情報がやりとりできることなんじゃないかと思う。そういうやりとりを活発にできるような雰囲気のある土地では、診療レベルが上がるんだろうなと思う。