小児用肺炎球菌ワクチン及びヒブワクチンの接種の再開について|緊急情報|厚生労働省
震災ですっかり過去の話になってた感がありましたが、今月から再開です。
まっすぐな道でさみしい
小児用肺炎球菌ワクチン及びヒブワクチンの接種の再開について|緊急情報|厚生労働省
震災ですっかり過去の話になってた感がありましたが、今月から再開です。
今日はオンコールだし、春の北山にはスギ花粉が渦を巻いて腐海みたいになってるし、このところ自宅ガレージで3本ローラーに乗り続けている。
今日はロードで1時間、なんとか乗れた。心拍130前後で、時速22〜23km前後で、ケイデンスは70台。見る人が見たら、この数字はたいがいな貧しい数字なんだけれども。誰が花脊峠を越えたいんだって?と聞かれて恥じ入らざるを得ないような。
しかし延々とペダルを回し続けるのは案外と辛いものだ。モッズローラーはペダリングを止めたらあっというまに回転が止まるので、安全ではあるのだが、休めない。道路を走っているときって意外にペダリングを止めて休んでいることが多いんだろうと思う。
乗りはじめはがたがたと振動がした。ローラー台の脚のねじに緩みがあって、がたついていた。ねじを締め込んだら滑らかに走れるようになった。多少残った振動は、おそらくホイールがゆがんでいるのだろうと思う。一段上等のに買い換える頃合いかもしれない。R500なんてゆがみを修整する工賃だけで原価を超えるだろうとも思うし。ペダリングが上達して、転倒したり変な過重をかけたりしてホイールを痛める可能性が低くなったら、ホイールを買いに行くことにしよう。
ガレージでこういう珍しいことをしていると、道行く人との交流がどうしても生じる。先だっては子どもが入ってきて困った。その次はVIGOREのご主人に見つかった。急に前の道で車をとめて話しかけてくるので、誰かとおもったら、自分が乗っているロードバイクを作った本人だった。チェーンステーには彼のサインまで入っている。
こちらはなんとか乗れるようになったところで、とうてい人と話しつつ乗り続けるような余裕もなく、さりとて急に止まると転げそうだったし、あまり満足なご挨拶もできず失礼してしまった。まあ、むこうは専門職だし、余裕がないのは見ればわかったろうとは思う。
そのうえで、このロードをこういう風に使うのは店のコンセプトに沿うのだろうかとは思った。そういう血まなこで乗る系統の自転車ではないような、もうすこし優雅なところを目指すお店のようにも思った。申し訳ないかな。
しかし、なにさま、私としては40過ぎて打倒花脊峠なんて目指してる立場なんで、なりふり構ってはいられない。構わない証拠に、ついにレーパンまで買い込んでフル装備である。フルカーボンの自転車を買うほどの甲斐性や度胸がないところが私の限界かもしれないけれど。
1回目が終了した。トーキング・ハイから回復するのに1日かかった。
受講生からはしっかり受講料をいただいて、義援金に回す手配をした。なにさま、手持ちのお金を拠出するばかりではなく、復興支援の事業が義援金を増幅するようなシステムを作ってみたかった。むろんそれは車輪の再発明的なことであって、「チャリティー」という概念には今さら感さえあるが、私にとっては、乏しい懐から1回きり義援金を出して義理を果たしたことにするという、それ以上のことをするのは初めてのことだった。
受講料はいささか高めだと思った。正直、俺がインストラクターでこの受講料として、俺が管理職だったら研修費として支出をみとめるかどうか、たしょう微妙だと思った。受講生の皆様にも、それは同じ印象だったのではないかと危惧している。
しかしここで言い訳がましく申し上げるが、受講料は受講の対価ではない(ということでご勘弁いただけませんでしょうか)。そこでお金を払うことが対価ではないということ。これも自分にとっては初めてのことだった*1。対価でないとしたら何か、というと、これは贈与なのだ*2と私は思っている。
受講料は全額義援金に回す。東北地方の皆様には義援金を、受講生の皆様には日本周産期・新生児医学会公認の新生児蘇生法プロバイダー登録を、私にはインストラクターの貴重な経験を、うちの病院には、まあ、業界内での宣伝のチャンスってことになるのかな*3、学会は大喜びで新品の講習会セットを貸してくれて会場セッティングまで手伝ってくれたけど、たぶん震災までは何となく低調だった講習会普及事業がなんとなく活発になる気配を感じているのかもしれない。関係者がいろいろなものを玉突きのように贈与しあったことだった。
そういう、対価ではなくて贈与でつながるありかたというのが、自分にとっては新鮮だった。対価ではないから、フェアとかイーブンとか、相場とか、なにより得と損とか、そういう計算は上品さを欠かない程度に控えめにして、自分が出せるものを出し、受けるものを有り難く受ける。あの場はそういう場になっていたんじゃないかと、首謀者としては思う。というか、そうであって欲しいと願う。
どう考えても一番多くを受けたのは私自身なんで、それもまた申し訳なくはあるのだが。