ロールズ的「無知のヴエール」を用いた新生児生命倫理はどうだろう

ロールズ―正義の原理 (現代思想の冒険者たち)

ロールズ―正義の原理 (現代思想の冒険者たち)

重症新生児の治療中止をめぐる倫理的考察は主に、「いかに決定するか」の手続きを巡ってなされてきた。決定の内容については個々人の信念や直感に任されている。功利主義の枠組みを出ていない。したがって現状では、「正しい手続きに基づいた誤った判断」がなされうるのではないかと危惧する。

ロールズは「無知のヴェール」という仮定を提案している。自分がその社会においてどの地位に(政治的とか経済的とか)出生するのか分からないという仮定のもとで、それでも同意可能な社会のルールを追求するというものである。本人は思考実験として提案したものだろうが、その設定どおりの事態が、新生児医療の臨床では日常的に生じている。どのような身体で/どのような家庭に/どのような社会に出生するのかが分からないと仮定した際に、どのように処遇されると取り決められた社会になら、生まれてくることに合意できるだろうか。

頭の下げ方のこと

昔、隣町の高校に通ったのだが、近所に中学時代の恩師が住んでおられた。部活の練習で休日に登校した折、路上で恩師にたまたま出会った。立ち話をしていた際に、部活の部長が通りかかった。部長ですと紹介したら、それはそれはyamakawがお世話になっておりますと、高校生を相手に深々と頭を下げてくださった。それがとても嬉しかったことを覚えている。また初老の中学教諭が高校生に頭を下げる姿がとてもかっこうよく思えたこともまた、よく覚えている。なるほど、人に頭を下げるのはこうやるんだと思った。今も、できるだけ見習うようにしている。

恩師には色々習った。しかし社会科という教科の宿命的なもので、当時習った知識はすでに時代に遅れてしまった。今となってはこの教訓が、彼に習ったなかで最大の教訓かも知れないと思う。

「神と科学は共存できるか」

神と科学は共存できるか?

神と科学は共存できるか?

宗教と科学は互いに異なる問いに答える体系であるから、宗教では言及できない問題があるのと同様に、科学では言及できない問題もある。著者の認識はそういうことだと思う。私もまたまったく妥当な認識だと思う。

医学が純粋に科学であった場合、NICUでときになされる「どうしてうちの子がこんなことにならなければならないのですか」という問いには、医学では答えられない。「それはB群溶連菌という細菌の感染症で・・・」云々とか言っても、たぶん、親御さんはそういうことを聞きたいんじゃない。この手の質問をしたときに親御さんが本当に聞きたい種類の答えを、現代の医学は準備していないし、将来もおそらく、この質問に答えるような発展の仕方はしない。もしこの質問にダイレクトに答えるようになったとき、医学はたぶん科学ではなくなる。

その互いの領分があるということについて大多数の宗教者は分かっているし、大多数かどうかはともかく科学者も分かっている。分かろうとしない宗教者が公立学校で進化論を教えるのを禁じようなどという愚行をはたらく。それは愚行なのだが、科学が答えられないことに答えようとする科学者の越権もまた愚行であると、著者はやんわりと批判しているように見える。

そもそも宗教と科学の対立という構図そのものすら、近代になって作られた歴史だと著者は言う。中世にも大多数のキリスト教神学者は地球が丸いとは分かっていた。コロンブスがきつく質問されたのは、地球が丸いと彼が言ったためではない。そんなことは当時から共通認識だった。彼への質問は、コロンブスの見積もりでは地球のサイズは小さすぎるのではないかという点に集中していた。そしてその指摘は当たっていた。

著者自身のそういう論はまったく妥当なものだと思うのだが、本書には訳者が妙に長い自説をくっつけていて、その説は「それ見ろ俺も言ったろう、科学が万能なんだよ宗教なんて引っ込んでりゃあいいんだよ」という論であって、自己顕示と誤読が二重に痛々しく、途中で読むのを切り上げて京都市図書館の返却ポストに放り込んできた。これだけの本を理解せずに翻訳するなんてある意味すごい芸当だとは思った。

新生児専門医受験、ついでにジャパンカップ観戦

10月の22日と23日、東京で新生児専門医の試験を受けてきた。医師免許をとって、小児科専門医をとって、新生児専門医。入門、初段、二段、という見当だろうと思う。もうこれ以上はいいかなと思うのだが、たぶん、「・・・指導医」というのが今度はでてくるんだろう。敵がインフレーションしている。少年ジャンプの連載漫画に登場できそうだ。

ペーパーテストは10年以上もやってるんだから淡々と問1から解いて全問正解で当たり前だろうと思ったのだが、意外に手応えがあった。これから受験される方々には、「二番目」に注意しろと忠告しておきたい。「・・・において最も多いものは何か」というのが小児科専門医レベルの出題であるときに「・・・において最多のものから二つ挙げよ」というのが新生児専門医の出題である。

長年やってる新生児科医のあいだでも議論が分かれるんじゃないかねと思う設問もあった。うっかり過去問なんて出回ったら大騒ぎになるんじゃないかな。しかし誰の意見も同じになるような定説ばっかりじゃあ小児科専門医一般ていどの出題にしかならんだろうし、仕方のないことではあろう。

受験会場は東京大学だった。試験のあった建物のすぐそばに三四郎池というのがあった。もちろん見物に行った。なんとなく宝ヶ池みたいな池かと思っていたが、意外に深い窪地の底にあった。排水に一工夫ないと水があふれるんじゃないかと思った。

二日目の口頭試問が午前10時には終わった。有り難く当地の休日を堪能させていただこうと、宇都宮までいってジャパンカップを観戦してきた。田野町交差点をちょっと過ぎたところの、周回路が下りきって登りに入るあたり。交通規制が始まってからだと一番見に行きやすい地点だと見当をつけた。

バッソの走りを生で観れた。当初は集団の前のほうで水なんか飲んでのんびりしていたが、レースも後半になるとかなり気合いを入れて走っていた。まあ、新生児専門医を受けに来た甲斐があったってものだ。

最終周回で新城幸也がアタックを決めていたのも観た。残念なことにあとで追いつかれたらしいが。ついでに宇都宮ブリッツェン栗村修監督がチームカーを運転しておられるのも観た。おおナマ栗村だ。声援してみればよかっただろうか。

モッズローラーのがたつきを調整した

Minoura Japan ? MOZ-Roller

ベアリングを押さえるナットを増し締めをしようとしても締めることができないくらいしっかり締まっているにも関わらず,シャフトが左右に数ミリ動くがたつきがある場合があります。

まさにその状態であったため調整。

ナットを抜き取り,ローラーを立ててシャフトを作業台の上にトントンと当てるとシャフトが抜けてきます(ベアリングを固定している接着剤により多少固い場合があります)。

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反対側はベアリングが樹脂キャップに残ったままになっているので,抜き取ったシャフトを反対側の孔から突っ込み,押し出すようにしてベアリングを抜いてください。
ベアリングの周囲に接着剤(ロックタイト840を推奨)を塗布してから,再び樹脂キャップの孔にはめ込みます。次いでシャフトを孔に通し,最後にもうひとつのベアリングをシャフトに通して樹脂キャップの孔にはめ込みます。

ロックタイト840というのはたぶんロックタイト480の間違いなんだろうと思う。

ここに書いてあるとおりの作業だと、「最後にもうひとつのベアリングをシャフトに通して樹脂キャップの孔にはめ込」むのがやりにくくて、けっきょくベアリングを一つ潰してしまった。

自己流で恐縮だが、ベアリングを抜くときの過程をまったく逆にたどるとやりやすいように思う。まず一方のベアリングを樹脂キャップの孔にはめる。このときにはシャフトをベアリングの孔にローラーの逆側から突っ込んでたたき込む。他端のベアリングは、まずシャフトにナイロンナットで固定して、シャフトをローラーに差し込みつつ、樹脂キャップにはめ込む。

円形のシャフトを握りしめてナイロンナットを締めるのは、握力がいくらあっても足りないので、他端にナット(ナイロンではない)を2個ねじ込んで、互いに締め上げる。ダブルナットというのかな。このナットにスパナをかけてシャフトが回転しないようにする。

潰したベアリングはアマゾンで買い込んだ。6200Zと刻印してあったので、その通りに入力して検索した。一個二〇〇円あまり。そんな値段なのか。ベアリングの値段なんて今まで考えたこともなかった。

届いたベアリングは元のものと同じようにはまったのだが、当たり前のようで、すごいことだと思った。工学系のひとたちには当たり前のことなんだろうけれど、やたらバラツキの多い対象を相手に仕事しているもので、こういう事も新鮮だ。

使えない医者とは

どういう医者が使える医者かという論点には諸々あろう。有能さにおいて多様性のある医者が集まったチームが良いチームであるからには。むしろ使えない医者というほうに共通要素は多かろう。他のどのような美点を兼ね備えていても、こういう欠点がある医者は使えないとしか言いようがない、と、そういう要素は確かにある。

そういう悪徳のなかで私がいちばん嫌うのは「そこにいない医者」だ。病棟にいない医者。外来にいない医者。とにかく、その場にいない医者。

たまたまその場にいないだけってこともあろうけど、でも、ランダムさだけでは決まらない。必要とされる現場に不思議にいない医者ってのは確かにある。何をしているか知らないけど。逆に、不思議に急場に現れる医者ってのもある。使える医者の代表だ。

予知能力者でもあるまいし前もってその場にいろなんて無理だと言われるかも知れない。しかし、病状の把握ができてればある程度の見当はつくはずだし、もしもその見当がつくほど勘ばたらきがよくないと自覚しているのなら、せめて、病棟担当のときは病棟を巡回していること、NICU担当のときはNICUにいること。それくらいはできるはずだ。

その場にいない医者に限って、後から現れて、ああだこうだと後知恵を述べるわけだが。回診が後知恵披露の場になると聞いててうんざりする。述べる医者は偉い医者のつもりでしゃべっているんで、少々痛い。

まして、それが若い医者だったりしたら、そんな奴どうやって育てろってんだよと臨床研修システムを恨みたくもなる。何かあったら呼んでくれって君は何様だ? わざわざ呼ぶ手間かけてまで仕事をさせて頂けるって思ってるの? 黙って干すよそんな奴。

これは私が繰り返し使うネタなので聞き飽きた人には恐縮だが、ドラえもんでさえ野比家に常駐していたのだよ。君は四次元ポケットもってるんかい? 呼ばれたらどこでもドアでとんでくるんかい? 手遅れになったらタイムマシンで取り返せるんかい? 

メールが使えない人にも

一般公募で新生児蘇生法の講習会をやっていると、ときおり電話で受講申し込みがある。話の腰を折られると復帰に人一倍の時間がかかるたちなので、外来を中断されるのは人並み以上に困る。ということで開催要項にあるとおりにメールで申し込んでくれるよう頼んでみたところ、メールは使えませんと言われることが再々あった。

今どきそんな人がまだ居るんだ、と驚いたのだが、考えてみれば年配の助産師さんなんてそんなものかもしれない。でもそういう人にも蘇生法の講習は受けていただかなければならない。そういう類の活動だ。少数の優等生が先鋭的に習得しておればよいこととは違う。

ウェブで公募してメールで受け付けて、それで網羅できると頭から信じ込んでいたのだが、どうもそれでは草の根ぶりが足りないようだ。