正規雇用じゃなくて派遣を雇うのはほんとうにお得なんだろうかと思ったこと

負荷試験やるんで早出して、9時からは外来。

私の診察ブースの隣が準備ブースになってて、予診票の受け渡しやら、体温や体重やといった基本的データの入力やら行っているのだけれども、今日はそこに詰める事務員さんがまったく初心者で、看護師があれやこれやと指導する声が漏れ聞こえていた。

外来を進めつつ、漏れ聞こえる声を聞きつつ、こうやって事務員さんを派遣でまかなおうってのは、病院として、ひょっとして損をしているんではないかと思った。

なにさま、こうやって指導を続けることで、配置された事務員さんに加え、看護師さんも指導でそうとう手が取られていた。二人分の人件費が空転したように思える。

それで今後何とかなるんだか、よく分からない。小児科外来の業務は多彩だ。とりあえず次の山は週末の予防接種外来か。数十人を間違いなく切り回さなければならない。

でも事務員さんは、色々苦労して仕事を覚えて、ようやっと円滑に進められるようになったあたりで、交替になる。どういう事情でそういうことになってるんだかよく分からない。私がよく理解できない方面での利害関係か何かで、派遣でおいでの事務員さんが小児科外来の業務に熟達しては困る事情があるんだろう。

でも、小児科外来で最初に患者さんの対応をする事務員が、あんまり素人くさい愚鈍な対応をしては、病院の得にはならないような気がする。むしろ損だろう。切り詰めることができた人件費で補って足りるほどの小さな損失なのか、私には分からない。

原子炉とハードディスク

 NICUで使っている超音波検査機は安物だから、検査した結果の画像はMOディスクに書き込む仕様になっている。うっかりしたことにMOドライブを買い損ねていて、今となっては中古品しか売ってないから、記録した画像もパソコンや電子カルテ端末に取り込めなくて、当の検査機の画面でしか参照できない。まあ、それであんまり不便じゃないけど。

 MOとかJazとかZIPとか、ひところいろいろな記録媒体が出てきてたように記憶している。ZIPドライブもデータのバックアップ用にと誰かがNICUに持ち込んでたが、なんだか使い物にならなかったような記憶がある。

 最近の自然エネルギー関連でいろいろなものが登場してくる様子が、なんだかこのあたりの様子に似ているような気もする。なんとなく寸が足りなくてパッとしない感じがとくに。

 記録媒体についてはなんだかんだしているうちに、結局は昔からあったハードディスクが、頑丈になり大規模にもなって*1、MOもJazもZIPもその他もろもろも、あのころ乱立したものはいつの間にか刈り払われてしまった。

 そんなふうに、結局は原子炉がまた盛り返してくるのかなとも思う。今の原子炉はあのころのハードディスクのような、20MBとか100MBとか、数字はよく覚えてないけどフロッピーディスク何十枚分か程度の記憶容量しかなくって、しかも店で買って持って帰るときに箱のカドをぶつけたらそのままお釈迦になるような、しょぼい世代のものなのだろうけど。

 あるいは、やっぱり原子炉もZIPドライブみたいなものでしかなくて、実はハードディスクに相当する技術は天然ガス発電だったりするんだろうか。

*1:ワシの若いころはの、ハードディスクの記憶容量はMBで勘定していたもんじゃった。

病児保育 夜間保育

毎年この時期は看護師の年度末の退職者で気が重い。人生足別離サヨナラダケガ人生ダとうそぶいてみても空しいばかりで。

 喫緊の課題は夜間保育と病児保育だろう。寿退職はめでたいんじゃなくて、結婚したら働き続けられないという職場の欠陥の現れだ。結婚しても子どもができても働き続けられる環境を整えないと次の段階へは進めない。今は子どもを育てつつタフにNICU仕事をしてみせる先輩の姿がなくて、後続が続かない。

 それにしても病児保育は入れ食い確実な沃野だろうのに、供給がほとんど無いのはどういうわけだろう。現状の勉強からしないといけないな。
 

 

「仕事ができる人」の集まったチームは仕事ができるのだろうか

「忙しい人」と「仕事ができる人」についてもう一つ。

「仕事ができる人」によって構成されたチームって、仕事ができるチームなんだろうかねと。実例見たことないんで分からないんだが。

何とはなく、そう言うチームからは大きなブレークスルーが出ないような気がする。何とはなく、小器用にまとまっててそつなく日々の業務はこなせてるんだけど、発展がないというか、新しい局面に入らないというか、冒険しないというか。「幼年期の終わり」のオーバーロードみたいな、煮詰まってて上のレベルにいけない、みたいな。

やっぱり、無我夢中さってのは大事なんじゃないだろうか。

若いお医者さんは「仕事ができる人」のつもりになってはいけないよ

20代の真面目な人ほど損をしている!『忙しい人』と『仕事ができる人』の20の違い

 仕事ができるかどうかってのは、端的に、その仕事ができるかどうか以外のなにものでもないんじゃないかと、私は思うのだが。各々の仕事に関する具体的な事情を捨て置いて、こういう「態度」論に還元してしまうのは、まあ参考にはなるにしても、本質は突かない。それは日本の企業が終身雇用の正社員で構成されて、なんの業界であれ詰まるところは「サラリーマン」であった、フジ三太郎が何の仕事をしているのかさっぱり分からないけれどそれでもフジ三太郎の姿に大多数の成人男子が自分を重ねて見ることのできた(あるいは、重ねて見ているものだというのが社会的に共有された認識であった)時代の論考のしかたじゃないだろうか。

 若い医者に限らず、必死に仕事を覚えようとしている人が、この「仕事ができる人」の態度をとったら、若いくせに何を勘違いして余力を残して仕事に当たってるんだと頭の一つもこづきたくなるだろうと、私は思うが。この「仕事ができる人」は、自分の仕事の上限を見切っていることが前提だから。ここが合格点、合格点のこれくらい上を飛行すれば地上のでこぼこに当たらず高空飛行可能、と、分かってないとこの態度は取れないはず。

 医者ってそれが分かるのか?これからの時代には医者に限らず、どの分野でも、これくらいやっとけばいいやってのが分かるものなのか? iPhone4Sはすごい機械だと思うし、満足しておおいに遊ばせて貰っているが、たぶん2年して6くらいが出たら陳腐化して見えるだろう。アップルの仕事にしてそれなのに、いったいNICU仕事においても「これくらい」が果たして分かるものなのか。私には分からない。現在のStates of artがこれくらいと思っても、たぶん1年2年で陳腐化するし。まして仕事の仕方も覚えなければならない程度の若い医者が、医者仕事の「これくらい」が分かるものなのか。分かるような奴は生意気で嫌だな。それにたぶん、いまの時点で分かったような気になってたら、ふと気がつくと同期からはるかに取り残されてるってことになるよ。

やればできるじゃないかということ

最近あんまりブログを書いていないんだけれども、なんで動機が薄れたのかと考えてみた。卑近なことを言えばiPhoneフェイスブックで遊ぶのに忙しいからなのだろうけれど、自分の言うことが職場で通るようになってブログで鬱憤を晴らす必要性が薄れたってこともある。

なにさま、今は思うことがどんどん実現している感じがする。病棟で重度心身障害児の呼吸管理もできるよう態勢を整えよと院長から命じられたり、外来に臨床心理士を雇用できたり、NICUではグラフィックモニタ付きの人工呼吸器がデフォルトになったり。追い風。追い風のスピードに負けずに走るのが精一杯って感じ。

以前は何をしても向かい風だった。というか、空気のなかにいる感じがしなかった。粘性抵抗の強い液体のなかにどっぷり漬けられて、どちらに動こうにも動けない感じ。終日、「なぜそれができないか」の言い訳を作るのが仕事だった感じ。

でも部長の肩書きを得て、まあ部下のいない「担当部長」でも部長名義でいちおうの稟議は書けるしってんで、あれこれ動いてみたら、できないはずだった臨床心理士の招聘もできたし、買えないはずだった高嶺の花の人工呼吸器が意外に簡単に手に入ったし。じゃあ今までできない言い訳をしていたのは何だったんだよと思う。手を抜いていただけかよ結局のところ、といういらだちや申し訳なさも当然あるが、それ以前に、言い訳に使った手間暇や心理的負担の方が、実現に使ったコストよりもよっぽど大きかったじゃねえかという、憤慨というか。ひどく人生を無駄にした感があるというか。

そしてその言い訳は自分に対しても言い訳として効いていたんだなと思う。できないことと諦めたことにして、勉強を怠っていた。人工呼吸器ひとつにしても、買ってしばらくは性能を生かしきれていなかった。グラフィックモニタ付きの人工呼吸器が欲しくてたまらないんだったら、手には入ったら即刻使えるくらいにグラフィックの読み方を勉強しておくべきじゃなかったかという反省がある。