今月唯一の休日

身内に不幸があって忌引きを頂いたりしたとはいえ、それでも身内の不幸に関して代行を手配しないと帰省できないような業務を休日に抱えていたりはしたわけで、今日明日は今月の週末において唯一、業務を抱えない土日である。土曜午前中の外来を済ませたら、そのまま月曜朝まで義務はない。

土曜午前の外来は11時が受付締切だけど、11時が受付締切の外来は10時50分に駆け込んでくる人があるのは当然のことで、そういう人に点滴をして2時間待ちで帰宅が2時になるのはまあご愛敬。帰ろうかと思っていたところにNICU当直医が新生児迎え搬送の依頼を受けたりして、迎え搬送の間の留守番を、既に帰宅済みの自宅待機番の医師を呼び寄せていてはそれだけ迎えが送れるので私が代行したりして、連れてこられた赤ちゃんの入院時処置に目鼻がつくまでは帰ろうに帰れなかったりして、ずるずると月1回の休暇が削られていく。

医者仕事とはそういうものかもしれない。そういうものだと納得しないような不心得者に医者の資格はないと、お叱りはあるかもしれない。まあ、そういうものだということにしておこう。And so on. そういうものだ。

「ソ連史」を読んだ

ソ連史 (ちくま新書)

ソ連史 (ちくま新書)

 逸話的なことはいろいろ知ってるんだけれど、通史として読んだことはなかった。読んでみて面白かった。

 私が物心ついて新聞など読み出した頃、ソ連はブレジネフの時代だった。盤石の独裁体制という外観だった。人類が文字を発明した頃からソ連には共産党書記がいたんじゃないかと思えるほどに、盤石で変化のない国だった。

 フルシチョフやその周辺はけっこう本気で、国民の生活条件の向上に取り組んでいたと、本書にはある。いかに本気だからって現場の生産力が伴わない以上は、中間管理職による辻褄合わせとか無理強いとか横行したんだろうけれども、でもトップにそういう意思がぜんぜんないよりはマシなのだろう。そのお陰もあってブレジネフの時代には社会保障もけっこう充実していて、国民はそれなりの暮らしができるようになっていた。

 実際、ブレジネフ時代のソ連とか、東欧諸国とかでは、政治的に高望みして先鋭な言動をとりさえしなければ経済的にはそれなりの暮らしができていたと、佐藤優氏の著作にも証言がある。

 ・・・ソヴェト政権と共産党は、国民の生活水準を高めること、人々の要望に応えることに関心があったし、民意に敏感でさえあった。共産党が政権を独占し、国家が経済を管理し運営していた以上、およそあらゆる分野における人々の不満が政府や党に対する不満となったからであり、このことは党も政権も正しく認識していた。共産党が掲げていた「党の目的は、人民の幸せ唯一つである」との訴えが建前に過ぎなかったとしても、支配を正当化し安定化するためには人々が実感できる成果が必要であり、党と政権はそうした成果を得るために努力した。この意味で、ソ連の指導者たちが国民の生活水準の向上を訴えたのは、決して建前や偽りではなかった。(178頁)

 むろん自家用車とか良いアパートとかいった、どう稼いでも手に入らないものはあったし、そういうものを諦めて、そこそこの暮らしに甘んじていれば、貧困層として限りなく底辺へ落ちていくこともないような、そういうセーフティネットは現在の日本よりもしっかりしていたんじゃないか。少なくとも、セーフティネットをしっかり整備しなければならんという責任感、あるいは、政策に関する説明責任の意識、説明責任を果たさなければ統治がうまく行かないという切迫感、そうした意識をソ連指導者はひょっとして最近の日本の政治家よりも強く持っていたのではないかと、本書を読んで思った。

 政治的自由についても、私がこれまで持っていた予断よりも、ソ連の人民は享受していたようだ。共産党中央の指導部に対する批判などタブーはあるものの(まあ、タブーがあってはそもそも自由とは言わんけれどもね)、そのタブーの範囲が意外に狭かったこと、そもそもスターリン以後は恐怖政治による統制という選択肢が放棄されていたこと、それに加え、そもそも取り締まり自体がソ連なりの緩さ不徹底さで、隅々まで行き渡らなかったこと、いろいろあって、政策に関する主張とかけっこうなされていたという。

 じっさい、今の日本に、政策に関する意見を述べる手紙を政府宛に書いたことのある日本人が、万単位で数えるほどにいるかどうか。言論の自由は権利としてあるけれど公共の何とやらのために自粛している人が大多数ではないかと。我々は政治的にも経済的にも自由を謳歌しているはずが、なんとはなく自縄自縛で息苦しい思いをしていて、それでも旧共産圏の人民よりはマシなはずだと決め込んではいるけれど、案外と旧共産圏の人らは、その時代にその中にいる感想としては、意外に悪くないと思っていたのかもしれない。