「日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想」を読む

任文桓著「日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想」ちくま文庫を読んだ。出版社リンク

著者の実家は日韓併合後没落し、併合時3歳であった著者は貧困の中で育った。16歳で単身日本に渡り、人力車夫や牛乳配達、家庭教師、岩波書店店員と様々な仕事で費用を稼ぎながら同志社中学・第六高等学校・東京帝国大学法学部と進み、高等文官試験に合格して朝鮮総督府の官吏となる。日本敗戦後は韓国で親日派の排斥あるいは朝鮮戦争といった危機を切り抜け、李承晩政権で国務大臣職を勤め、野に退いてからは実業で活躍する。タフな人生である。この人に「タフでなければ生きていけない」と言われたら黙って平伏するしかなさそうだ。

タフさに加え強運さが尋常じゃない。著者が日本に渡って数日後に関東大震災が起こる。道中心細くなって京都の知人宅に立ち寄っていなかったら来日早々地震と朝鮮人虐殺に遭っていただろうという。素の運の強さだけでもたいがいだが、周囲の人にも異様に恵まれている。著者自身も言うように、砂漠で水をくれる人が繰り返し現れる。学費に困ってこれでは退学だと思っていたら黙って工面してくれる人、高級警察官僚宅の家庭教師や府立医大教授宅の書生仕事といった得がたい仕事を世話してくれる人、岩波茂雄のように自社に即決で雇ってくれる人。圧巻なのは朝鮮戦争時に北朝鮮軍から身を隠していた際に、自分はなくしたと言えば再発行できるからと自分の身分証明書をくれた人まである。

それだけ魅力的な人物だったのだろう。この人のタフさの秘訣はけっして自暴自棄にならないところだ。どんな窮地にあっても諦めず生存の道を探す、しかし正道を逸れず、無駄な悪あがきはしない。誰のせいと人を恨むこともない。こういう胆力があって粘り強い人物なら、周囲もその窮地には一肌脱いでやろうという気にもなるものなのだろう。とかくこの人には投資して無駄金になりそうな気がしない。必ず生きた使い方をするという信頼がおける。

しかしこの人自身の幸福を考えると、はたして日本帝国官吏の道を選ぶべきだったのだろうかとは疑問に思う。故国を支配する帝国の官吏となって帰国し、その地位をもって同国人の福祉のために尽くすという志であったとのことだが、植民地政府で待遇には露骨に差別を受け、挙げ句に敗戦とともに身分を失う。植民地政府の日本人同僚は他人顔して引き揚げてしまう。同国人には白眼視される。独立のためと思えば李承晩や上海亡命政府の面々のように海外で抵抗運動するほうが良かったかなと彼自身も述べる。俺の意見としては彼は東京帝大を出たあと日本の朝鮮のの枠にとどまらずもっと自分本位に雄飛してもよかったんじゃないかと思う。岩波茂雄と会食して蒸気の志を述べた際に、君は思ったよりつまらない奴だなと叱られた逸話、岩波氏も俺と同じようなことを考えたんじゃなかろうか。

とはいえ他の選択肢は俺ごとき貧困な想像力では思いもつかない。当時の世界情勢でどこへ行けばよかったのかもわからない。満州などまさに身の破滅だし(俺の祖父がそうだ)、欧州に渡ってては大戦で命がない。渡米してのし上がるくらいしか思いつかないが、いくら能力があってもアジア人だと差別されて不遇に終わる結末も見えてそれなら故国にいても一緒かもしれないと思う。

著者は韓国政府での自分の仕事にかなり誇りをもって語っている。曰く李承晩らも上海亡命政府の面々も韓日併合前の古い政治意識しか持たず、日本統治下で変化の進んだ韓国社会から遊離していた。とくに行政においては日本統治下で官吏の倫理がそうとう進歩したのに、苦しい亡命生活での裏切りや持ち逃げの記憶を引きずって疑心暗鬼のまま新政府を発足させようとしていた。著者は儒教倫理に雁字搦めになって没落した実家の事情もあり、儒教に支配された旧来の朝鮮社会のありかたにかなり批判的である。朝鮮総督府の内部から見てきた占領下の故国についての現状認識と、官吏時代に鍛えられたという実務能力をもって新政府に貢献したという、一本スジの通った誇りが感じられる。そういう誇りをもって人生を振り返ることができるなら、彼の選択も悪くはなかったと思う。けっきょくこんな凄い人はどんな選択をしてもそれなりに凄く生きていくのかもしれない。俺などのケチな想像力が及ぶ範囲を超えて。

 

 

 

 

 

「遠すぎた家路」を読む

「遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち」ベン・シェファード著、忠平美幸訳、河出書房新社刊2015年(出版社リンク)を読んだ。原題はBen Shephard, THE LONG ROAD HOME: The Aftermath of the Second World War. 2010。

第二次正解大戦後の欧州での、独ナチス政権により強制労働あるいは絶滅の目的で移動させられていた人々に関する戦後処理の話。

フランスやベルギーなど西欧から労働力として強制的にドイツ国内へ移動させられていた人々については本国に帰る世話をすればよかった。東部戦線でドイツに投降しドイツ軍に荷担していた旧ソ連軍の面々は、情け容赦なく本国へ送還され、むろん処刑された。東プロイセンやズデーデン地方などから追放されドイツ国内で難民となっていたドイツ人たちは、まあ自業自得っつうことでとあまりケアされなかった模様。

そういう、ある意味で単純な状況の人々ばかりではなく、ソ連に侵略され併合された旧バルト三国からの避難者とか、労働力として強制連行されているうちに本国で共産主義の傀儡政権が成立してしまって帰国する希望をなくしたポーランド人とか、ドイツの占領下でこの際にと反ソ連活動もおこなったウクライナ人とか、それにもちろん強制収容所から解放されたユダヤ人とか、そのような帰国先のない人々への対処が難題で、本書の本題となっている。

対処といっても魔法の杖などなく、不満にかかわらず帰国するよう説得する、説得に応じない場合にはキャンプをぐるぐる移動させて居着かせないようにする、新たな受け入れ国を探す、など地道な対策がとられた。現状を維持するあいだにも食糧や衣類、居住施設などの調達が必要になる。軍政ではそういう支援はどうにも無理のようで、民政の面々が軍と渡り合って苦労している。ユダヤ人に関してはパレスチナ移住イスラエル建国という手段もとられたが、そこで生じたパレスチナ難民については本書で扱う範囲を離れているらしく語られていない。

対処の現場では彼らは必ずしも十分な同情をもって扱われたわけではなかったとのこと。特にユダヤ人については、当時まだホロコーストの実情が周知されておらず、生存者たちは気力なく働こうとせず不平ばかり言う連中と蔑まれた由。とはいえユダヤ人はもと住んでいたところに帰国したところで、共同体は壊滅し生活基盤もすっかり略奪されつくして文字通り「帰る家もない」状態であった。蔑まれつつも彼らの行き先は確保されなければならなかった。

新たな受け入れ国で従来の職業につけるかというと、やはり単純労働の受け入れ条件ばかりで、ポーランドで医師をしていた人がオーストラリアに肉体労働者として移住したりもしたとのこと。理不尽なのは出身国による格差で、教養ある中産階級出身者が多く大半が英語を使えるバルト三国出身者は受け入れ側も比較的歓迎するものの、低所得の階層が多かったポーランド人などは受け入れ先も乏しかった。

イギリスという国はたいしたもので、1943年まだ戦中のうちに、このような戦後処理の難問が発生すると予測して対策を打ち始めていた。そんなもんドイツ人が悪いんで俺たちの責任じゃねえと放置しそうなものだがと思ったが、それは私のさもしい島国根性の発想なのだろう。

しかし戦中はホロコーストもまだぼんやりした噂としてしか伝わっておらず、蓋を開けてみれば準備していた対策の規模はまったく不足だった。イギリスの国自体が戦費の負担で破産しかかっており、イギリス政府はどうにかして米国に金を出させようと四苦八苦した。戦中の経過でイギリスの発言権はまったく地に落ちており、ソ連はイギリスの言うことなど歯牙にもかけず東側諸国への帰国を執拗に迫るばかりだった。イギリスは米国政府に対し、人道的視点のみならず対ソ関係の視点で煽って支援を得ようとした。我が事のように責任をもって始末をつけようとするイギリス政府の態度はたいしたものだと思う。経済的な破局や疫病などの社会問題が本国まで波及したらたまらんという問題意識もあったようだけれど、たとえば現在の日本政府が北朝鮮破局後の混沌にどれだけ当事者意識を持って準備しとるかっつうと怪しいもんだと思うし、これはたいしたものでしょう。

 

 

 

退官する小児科教授を送る

母校の小児科教授が退官されたので先の日曜に祝賀会に行ってきた。翌日、病院に留守居で休日救急をお願いしていた同門の医師に、会はどうでしたと尋ねられ、以下のようなことを喋った。

教授の退官祝賀会の常で、次々に挨拶が立ち、研究のみならず附属病院運営についても業績が縷々讃えられた。とかく優秀な人であったと逸話が並べられた。今後の再就職先も重要な地位で大いに活躍を期待すると。さすがに教授となると送辞も話の規模が大きいなと思った。応えて教授も、優秀な先輩の名をあげて感謝を述べられ、盛況のうちに閉会となった。

教授が退官するときに彼を評する尺度が「優秀さ」であるような、俺たちはそういうところにいるのだなということに、一抹の寂しさは感じた。それは入学したての学生たちが互いを値踏みするときの尺度ではないか。教授まで務めた人の大学生活の終わりに語ることは他にないのか。この期に及んで俺たちは自他の優秀さをまだ問題にせねばならんのか。

他にはと言って、附属病院の発展とかそういうカエサルに返却する部類の些事はこのさい置いておこう。そんな話は経済学部の連中が経団連の集まりにでも語っておればよいのだ。神に返す話、神に預かったタラントにつける利息の話をしたい。

問題にせねばならんのかと自分に問えば、不惑を過ぎ知命が迫る年になってなお、優秀と評されたいという子供じみた焼け付くような欲望を自覚する。大人になったらがき大将になりたいと言ったのび太を彷彿とさせる。じゃあ優秀さ意外になにかこういうときに退く人の半生を語りうる言葉が自分の中にあるかと探してみて、実はなかったと気づいて愕然とする。そんな大学の新入生みたいな価値観を脱却できないまま、より成熟した大人なら持ちうるはずの眼差しや言葉をいまだ持たないままなのかと、月並みな表現だが忸怩たる思いに駆られる。

大学で何を学んできたのか。医者やってて何か思うところはなかったのか。もうすこし豊穣な言葉で半生を語りうるような成熟は得られなかったのか。そういう俺が明日も発達フォロー外来をする。NICUを退院した子供たちのその後を診察すると言いながら、この子らにこんな人生を歩んで欲しいと思うところはないのか。「優秀になって欲しい」ではNICUでした苦労に比べて貧弱にすぎないか。

俺自身が引退する頃にはそれもわかるようになるのだろうか。