認めたくなくてしばらく考えずにいたけれど、知命といわれる歳になって一月ほど経った。
たとえて言えば日曜日の午後3時ころのような気分だ。それなりによい天気の日曜日だったが、すでに日は陰って、今さら新たに行楽にいく時間でもない。日が暮れるまでに何か小さい散歩くらいはできるかもしれないし、宵の口には夜ならではのお楽しみもあるかもしれない。でも昼の盛りははっきり過ぎてしまった。まだ朝日が昇ってまもないうちは、よい天気になりそうな陽光をあびて、どんなすばらしい一日になるだろうと思ったものだった。しかしふりかえってみれば、昼の盛りをとくに何に使ったわけでもないような気がする。その場その場のことを忙しく消化していくうち、とくに何のあったわけでもない平凡な日曜になってしまって、ああもうはっきり日が陰ったなと思う、今はそんな日曜の午後3時頃。
困ったことには、日曜日の夜が明けたら月曜日の朝がくるようには、人生には朝はこない。何時頃になるか、いまはとりあえず大病もなしそう早くはないにしてもいずれ寝てしまうし、寝てしまえば次の朝はこない。
知命というからには、この歳になればよほど天命をさとって覚悟が決まるものなのだろうと思っていた。しかし実際にその年になってみれば、どうやらそういうものでもなさそうだ。単に、自分の人生にはもう大きいことは起こらないという諦めだ。いまそこに自分がいる、この自分の位置こそが自分の天命なのだというお話のようだ。なんのことはない、童話の青い鳥みたいなもんだ。
さて。
耳順という年齢まであと10年だ。この、もう日曜が残り少ないという怒りや焦りを鎮めて、腹が立たなくなって6時半のサザエさんを観るまでにあと10年かかるもののようだ。おのれの欲するところに従っても矩を超えなくなるまでさらに10年。もう桃太郎侍を観て寝る時間じゃねえか。
こういう手厳しい指摘を2600年も前にしていた孔子というひとは偉いもんだよなと思う。