尊厳とか輝きとか

6日土曜の午後、大阪で開催された日本小児科学会の倫理委員会公開フォーラム「子どものいのちの輝きを支えるために ー重度障害をもった子どもの人権と尊厳をどのように守るかー 」という催しに参加してきた。午前の外来を終えてNICUを一回りしてから京阪で大阪へ出たので拝聴できたのは後半だけだったが、それでも、さいきん薄れかけたモチベーションを持ち直すのにはよい機会だった。
重症児の医療の歴史は、まったく医療の対象とすらされなかったという先史時代を経て、何が何でも救命延命するという黎明期があり、それはちょっと非人間的にすぎないかというアンチテーゼが公に語られるようになった革命の時代を経て、今に至るというのが私の理解である。
このアンチテーゼ、もう気管内挿管とか人工呼吸とかでやれる治療行為をすべて行って延命一辺倒の生涯を送らせるのではなく、治療行為の内容を選択してでも(その結果として計測される生涯時間は短くなったとしても)他にもっと充実した人生の送り方があるんじゃないかというものだが、このアンチテーゼを、それまでの禁を破って語り始めた世代の人たちが、いまぼちぼちと臨床の実務をリタイアして、仕事の総括がてら後進にものを語る年齢になっている。
この人たちが働き盛りだった時代の最先端の技術が人工呼吸だったらしくて、彼らは重大な選択の岐路の象徴として人工呼吸の開始をやり玉に挙げることが習慣になっている。いったん人工呼吸を開始したら中止するという選択肢はないというのに、生涯を病院の一室で人工呼吸をしたまま長生きするのが人生か?と。
しかしこの「人工呼吸をしない」という選択に対する強烈なカウンターとして、「人工呼吸をしたまま家に帰る」という選択をした患者さんとご家族がある。そういうご家族が、登壇した革命期の医師に対して、先生のご意見は人工呼吸にたいしてひどく否定的ではないかと質問がなされた。
そんなことはない、といういささか型どおりの回答に続いて(言葉よりもその口調のほうが真意を語るかのような回答ぶりではあった)、自分は長年にわたって重症児の医療にたずさわってきたし多くの親御さんにも接してきたから、皆様がよく頑張っておられることもよくよく存じております、という意味のことを彼女は言った。そしてその上から目線の物言いが当然に惹起する結果として、会場の反発を買った。いやそんな、なんぼお偉い先生ったってそんな他人様の人生を総括評価するような言動はあまりに礼を欠くでしょうよと私も思った。
その医師は回答の締めくくりに、どのようないのちも輝いていなければなりません、だったか、輝きという言葉を繰り返しておられたが、他人の人生の質を云々すること自体の倫理性もさることながら、その語りに美醜の尺度をもってするというのはなおさらどうなんだろうと思わされた。時代が時代ならこの人は若い兵士の死を桜にたとえて顕彰してたんだろうなと思った。

彼に分からないのは

モジモジ君の日記。みたいな。 – 育児の事、「結局カネの話ではないのか」経由で、北沢かえるの働けば自由になる日記 - 書いて置けよ、わかるようにを読んだ。以下、言い尽くされた感想かもしれないけれども、心覚えとして書き留めておく。
・すくなくとも私の息子(自閉症ですが)には、やっちゃいけないことを教えることは可能なので、「障害児だから『分からない』」と一括りにされると、彼には傍迷惑な話である。この言説が人口に膾炙すると、「障害児」と呼ばれる子供のなかには息子同様に迷惑する人が多いんだろうなと思う。あんまり「障害児だから」という括りはして欲しくないものだと思った。
・あるいは、その場ではもっと具体的に障害の内容を説明されてたのかもしれなくて(相手の心に届く状況だったとは思えないけど)、北沢かえるさんが相手の個人情報のことを考えて詳細を書かれなかっただけかも知れないけれども、でもそうだとしたらそれはそれで息子にとっては迷惑だな。どういう意図にせよテキストは自走するものだし。って、釈迦に説法か。
・うちの息子に関しては、規範を教えることよりも、いったん身につけた規範からの「適切な逸脱」を教えることの方がよほど難しい。たとえばクルマが一台も走ってこない休日の赤信号も彼はぜったい渡らない。同じことをしてあるときは叱られあるときは放置されるとなるとかえって彼には混乱とストレスの元だろうなとも思う。どういう場面にせよやっちゃいけないことをしたら画一的に叱られる方が彼にとっては理想じゃないかと思う。世界の見通しが立つという点で。

「自分の子なのに、『わからない』って決め付けるなよ」って気持ちもあったな。

という言葉は私にとっては激励的に、有り難く響く言葉である。このお子さんが具体的にどれくらい「わからない」子なのかは知りようがないし、この子の親御さんが無為無策だと責めるつもりは毛頭無いが、しかし、社会性の障害を持つ子の親や関係者の大概は、規範を身につけさせるべくかなりの努力をしているので、この北沢さんの記事を読まれた方々に、「発達障害児の親は子の躾もせず社会に無条件の寛容を要求している」などと思われるようでは大変な誤解である。そういう思い込みで障害者攻撃の波をおこすのは止めて欲しいものだと、関連するあっちこっちのサイトを見て思った。
・北沢さんが気にしておられた、「弟くん」が私も気に掛かる。この子のほうは典型的な「障害者のきょうだい」としての苦境に居るように思われる。彼には相応の配慮が必要だ。
色々書いたけどもやもやして未完成だな。

搬送に関しては一言申し上げさせて頂きたい

*minx* [macska dot org in exile] – 障害についてちょっと意識調査というか、クイズです
「神は細部に宿る」が信条の私としては本件に関して枝葉末節をつついてみたいと思います。
普段から新生児搬送なんてやってますと、搬送用保育器を救急車に載せて据えるのは日常の業務なわけですが、搬送用保育器は載せてブレーキかけるだけでは危なくて走れません。保育器のフレームに幅を合わせた強力なフックで救急車の車体に対してがっちりと固定しないと、保育器は必ずひっくり返ります。
その普段の経験を敷衍して申し上げれば、鉄道輸送でも、客席が取り外されただけののっぺらぼうな床に車椅子を並べただけでは、危なくて、列車はとうてい走れなさそうに思います。新生児科の感覚では、座席を外した後にはどうしたって車椅子の固定具をつけなきゃならない。いや、別に固定具なんていらないよってのなら通勤用の詰め込み車両を持ってくればいいじゃないですか。乗降口も広くてたくさんあるし段差もないしでけっこう使えるんじゃないかと思います。走れさえすればね。
そこまで手間をかけて車両に細工するなら、わざわざ元に戻すまでもなく、いったん作ってしまった車両は車椅子の団体様専用として保管しておく方が財産になると思います。鉄道雑誌なんて見てると、特定の使用目的に特化した小数の車両ってけっこういろいろありそうだし、車椅子の団体様専用客車をこの機会に保有しても罰はあたらんでしょう。財産になるものなら鉄道会社が費用を負担してもよいと思います。これが問1の答えです。
ですが車椅子での旅行って、車椅子に座り続けるほうが快適なのでしょうか。使用者の身体の形(脊柱の側彎とか)に合わせた「座位保持装置」としての車椅子ならまだしも、病院で見かける通常の車椅子ってあんまり座り心地がよくなさそうな気もします。なんとかこのお客様に通常の座席(あるいは幅が必要ならグリーン車にでも)で旅行して頂けるような工夫をするのが結局は費用対効果がもっとも高くなるような気がします。お客様は快適・鉄道会社も費用がかからないということで。
もう国鉄が記憶の彼方になっちゃったので国有か民営かでの区別はよくわからないけど、例えばJR東海とちほく高原鉄道とに同じ基準をあてようとするのも酷かと思います。JR東海なら特別車両を整備するのもよかろうけれど、ちほく高原鉄道ならダイヤを工夫して人手もあつめてなんとかキハの座席にお乗り頂くってことになるんじゃないでしょうか。あるいはJR北海道が特別ディーゼル車を作ってちほく高原鉄道に乗り入れるってのもいいかな。そういう、金とか知恵とか言った有形無形の費用を分担するのになら、国有も民営も区別はないと思います。

紋切り型

紋切り型の言い回しというのがいろいろある。たとえば列車は電車でもシュッポッポ。シュッポシュッポ言いながら走ってる汽車って実物みたことあります?
私が最もよく耳にする紋切り型は、聴診器を当てられた赤ちゃんに向かって親御さんが「冷たいねー」と仰るもの。今どき昔ながらの冷たい金属聴診器なんて使ってる小児科医居るのか?と思う。私のはリットマン社の小児科用、もちろん「non-chill」加工のされた製品である。冷たい聴診器が冷たいと糾弾されていた時代よりは余程快適なはずである。常に暖めてるし。
根の深い紋切り型もある。障害児が可哀想かどうかに関わるもの。
障害があるから可哀想、というのは紋切り型。
ビルゲイツも広汎性発達障害であったから自閉症だからって可哀想とは限らないというのも、(さるサイトでそう主張してある記事を読んできたところだけれど)残念ながら、自閉症児の親としては紋切り型に聞こえる。障害があるから可哀想というよりは余程高水準だが、もう聞き飽きました。この言説はあくまでも、障害があるから可哀想という一番低次元の言説に対抗するカウンターパンチとしての存在にとどまって欲しい。独立して存在意義を求める言説にならないで欲しい。
うちの子はビルゲイツでもアインシュタインでもないもの。実際に、こういう特異的な能力を持つ自閉症の人って自閉症者全体の中では少数派である。特にアメリカの映画では自閉症者は特異的な能力を持つことになってるが、あれは認識がエキセントリックに過ぎる。「レインマン」でカードの並びを全部記憶したりとか、「マーキュリー・ライジング」で国家機密レベルの暗号を一目で解読したりとか、そういう特殊能力を一般の自閉症児者に期待されても困る。
優れた能力がある障害児の例を挙げて障害があるからって可哀想じゃないと言われると、何の取り柄も無さそうに見えるうちの息子はやっぱり可哀想なんかなと思ってしまう。
障害を補って余りある能力を持つ人もあるから障害即可哀想ではないというのは、もう障害児の親としては聞き飽きて余りある紋切り型である。障害があるから可哀想と言われるよりは遙かに良いですよ。特定の分野に才能があってそれを生かしてゆく人生の幸福さも分かります。特殊な才能があったらおおいにそれを生かしてゆかれたら宜しい。祝福します。でもね、冷徹な事実だけど、障害児も障害のない人同様、取り柄のない平凡人であることが多いのよ。障害さえなければ平凡な人生を送る幸せを享受できるのに、障害があったら特殊能力を持たないと可哀想扱いってのは、ちょっと差別的な考え方じゃないかと思う。
それと、これも冷徹な事実だけど、高機能自閉者はかなり「可哀想」な人生を送っている。
ビルゲイツ氏の社会性の無さはマイクロソフト社が世間にどれだけ波風立ててるかをみても一目瞭然だけれども、彼にプログラミングの才能がなかったら、いったい彼はどういう人生を送っていただろう。想像してみて下さい。今のマイクロソフト社のように振る舞う個人を。羨ましい人生を送っているだろうか。マイクロソフトの社長ではなかったビルゲイツ氏と立場を変わってみたいと思う人、だれか居ますか?
高機能自閉者が就労に成功する率は中機能自閉者(幾分かの精神発達遅滞を伴う)よりも低いと聞いている。その原因の多くは周囲の理解の無さにある。彼らの抱える問題を周囲の者が(あるときは自分自身でさえ)理解できないことによる対処の不完全さ。頭は良いはずなのに何故いちいち常識を外れた言動ばかりするんだという冷たい視線。書き出したらキリがないけど(私の自伝を聞きたい?)、ビルゲイツ氏でもアインシュタイン博士でも無かった大多数の広汎性発達障害の子には、それなりの対処をしないと、やっぱり可哀想なんです。

ナイーブさの一形態

「テレビ・ビデオの長時間視聴が幼児の言語発達に及ぼす影響」
たくさんのコメントを頂きました。ありがとうございます。
おそらく、テレビやビデオを長時間見せるのはよくない、というのは日本の小児科医のコンセンサスになりつつあると思います。私のスタンスもまた、決して、どんどん見せましょうというものではありません。「まあ、何事もやりすぎはよくないものだというし、テレビも見せすぎはよくないかもしれんなあ。」くらいに思っています。「良くないかもしれんけど、学問的根拠があるわけでなし。俺が外来で小児科医として語る言葉はみのもんたより重いはずだし、そんないい加減な話で親御さんにプレッシャーかけても仕方ないし。それなりの事情はそれなりにあるもんだし。テレビの他に話すことは山ほどあるし」くらいでしょうか。例えば私は子どもが喘息で病院に来てるのにたばこ臭い親御さんには無茶苦茶厳しいですよ。1歳過ぎたのに麻疹のワクチン接種してない子の親御さんとかにも。
片岡教授一派に対して私がむかつくのは、彼らの思慮の足りないナイーブさに対しても、だと思います。むろん自閉症児の親としては、言語発達遅滞と自閉症の区別も付けられぬくせに自閉症の急増がテレビのせいだと言い切っちゃうような奴が小児科の教授をしているという事実には暗澹としますが(どのレベルの医科大学の・・・って敢えて言っちゃうよ。教授はもっと酷いこと言ってるんだから)。それに加えて、恐らくは子どもにテレビを長時間見せてはよくないという言説に表立って反論してくる小児科医は居ないというナイーブな油断が、こちらの神経に障ります。少々論立てが甘くても重要な主張をしてるんだから構わないだろうという態度が見えます。また小児科学会雑誌の、実際に本当に査読してるんかいと疑わしくなるような編集方針もまた、政治的意図が見えて苦しいです。
小児科学会の会場で片岡教授の講演にずいぶん多くの小児科医たちが熱心にメモをとっていたとか、批判的立場から覗きに行った方の報告をききました。おそらく学会後、各地の外来で、「ところでお母さんお子さんにテレビを一日何時間見せてるの?え、2時間?だめだめ!テレビを消して言葉かけしなきゃ言葉が遅れるんだよ。いいね!言葉かけだよ!」みたいな「育児指導」が熱心になされていることでしょうと想像して寒いです。
小児科医のメーリングリストで署名を入れて片岡教授への反論記事を投稿するとしたら相当の覚悟が必要です。おそらく、大半の参加者はそんな論争のために学問的根拠を得る労力を惜しみ、傍観にとどまることでしょう。そして「育児指導」に熱心な数人の小児科医を相手に歩み寄りのない不毛の論争を続け、疲れた方の投稿がとぎれて立ち消えになることでしょう。まあ、私は変なやつという風評がそうとう立ってるらしいので、無視されるだけかもしれませんが(それはそれでちょっと悲しいのですが)。

「テレビ・ビデオの長時間視聴が幼児の言語発達に及ぼす影響」

またまた日本小児科学会雑誌にこんなタイトルの論文が出ました。筆者にはあの片岡直樹教授も名を連ねておられます。
1歳半健診時点で発語遅れのある幼児にはテレビ・ビデオ視聴が一日2時間以上の子が多いという調査結果から、テレビ・ビデオ視聴が発語遅れに「影響を与えている」という結論を出しています。
調査結果と結論の間に飛躍があるように思います。発語遅れの子に長いことテレビを見ている子が多いという調査結果が出たと言うことは本当としても(調査結果が嘘ならもう論じるに値しません)、発語遅れの原因がテレビの長時間視聴であるという因果関係の方向性はこの調査結果だけでは定まりません。長時間視聴は発語遅れ(あるいは発語遅れをもたらす他の原因での発達障害)の結果であるという可能性を排除し得ません。この論文の論法なら、例えば、脳性麻痺の子に車いすの使用者が多いという調査結果をもって車いすが脳性麻痺の原因であるという結論が出せてしまいます。
こういう、結論が先に立った研究を、厳密な意味の科学と呼んでよいのかなと思います。
テレビ・ビデオの長時間視聴を止めさせたいという結論が先に立って、その結論に矛盾しない「調査結果」を発表してくるものだから、これは自然科学の方法論とは異なってきています。むしろ科学の衣を着た政治的主張あるいは布教に等しいと思います。

When Bad Things happen to Good People

When Bad Things happen to Good People  
 邦訳 「なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記」 H・S・クシュナー著 斉藤武訳 (岩波書店 同時代ライブラリー)
 最近私がブログに頻々に書いている障害のテーマについて、本書を参考文献に挙げないのは妥当ではない。本書で読んだことをさも自分で考えたかのように語るのはちょっと気が引ける。
内容は題名のとおり。善良に暮らしていた人に突然に災いが降り掛かってくるという不条理を扱った書物である。著者はユダヤ教のラビである。早老症という、幼児期から身体に老化を生じ10代で老衰死する難病で愛息のアーロン君を亡くされた。自分は御心に適う生活をしていたはずなのにこれは不公平なのではないか、仮に自分に何か落ち度があったとしても、何故にその罰が自分ではなくて息子に下されねばならなかったのか、その痛切な問いから始まる書物である。
その問いに、彼は真摯な回答を出している。自ら苦しんだ末にしか出せない回答だと私は思う。その素晴らしい回答を要約する技量は私にはない(そんな文章力があったらいいなとは思うが)。下手なネタばれの愚も避けたい。
紹介のために、一部を邦訳から引用する。

アーロンが生き、そして死につつある時、私たちの助けとなった本や人は、そう多くはありませんでした。友人たちは助けようとしてくれましたし、親切にしてくれましたが、十分な力になってくれたとは言えません。また、私の読んだ本は、神の栄光を守ろうとすることに重きを置き、理論的な証明でもって、悪はほんとうのところは善であり、悪はこの世界を善いものにするために必要なのだと述べるのみで、死につつある子供をかかえる親たちの苦悩や困惑を癒そうとするものではありませんでした。それらの本は、自らが提起する疑問に答えようとしているだけで、私の問いにはなんら答えてくれなかったのです。
この本は、そういうたぐいの本ではないことを願います。私は、神を擁護したり、説明しようとしてこの本を書いたのではありません。すでに出版されている多くの専門書に、さらに一冊を加える必要もないでしょうし、かりにその必要があったとしても、私は正式に哲学を学んだ人間ではありません。私は、人の悲しみを体験した人間であり、根本的に神を信じる人間です。死や、病気やけが、そして拒絶や失望によって人生に傷ついた人のために、また、この世に正義があるなら、こんなことが自分に起こるのはまちがっていると考えている人に読んでもらいたくて、この本を書きました。
そのような人にとって、神とはいったいなんなのでしょうか?そのような人は、いったいどこに、力や希望を求めればいいのでしょうか?もし、あなたがそのような思いを抱く人のひとりであり、神の善や公平を信じようと思いつつも、自分自身や愛する人びとにおそいかかった理不斥な不幸のために信じられないでいるとしたら、そして、この本がそうしたあなたのお役に立つことができるならば、私は、アーロンの痛みと涙からいくばくかの祝福を取り出せたことになります。
もし、私のこの本がその目的であるべき人間の苦悩や痛みからそれて、神学的解釈論にはまりこみそうになったとしても、なぜこの本を書くことになったのかというアーロンとの体験が、私を原点に引き戻してくれるだろうと願っています。

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