嘆くことの是非(1)

生まれ来る子の障害を覚悟できるか
各テーマ系列ごとの追跡を容易にするべく自己トラックバックの多用を試みています。以下本論。
のっけから若い医学生に忠告めいたことを申し上げたい。
人の心はべくとべからずとを基軸にして動くものではない。そんなふうには出来ていない。
嘆く行為は嘆かれる対象を傷つけるものであろう。我が子の有り様を嘆いてはならぬ。それが分からぬ親はない。
しかしそれでも嘆いてしまうのが人の心というものだ。倫理学と心理学が全く別物の学問であることに思いを致さねばならぬ。
べくとべからずとの軸は、人の心を支える回転軸にはならず、むしろ斜交いに人の心に突っ込まれ、その自在な回転を止める働きをする。
臨床にあって患者さんの心を考えるときは、この、べく-べからず軸をいかに挿入するかではなく、斜交いに何本も突っ込まれたこの邪魔者をいかに解除していくかと考えていくことだと思う。

生まれ来る子の障害を覚悟できるか

 取り敢えず出発点としての現実を認識することから始めよう。生まれ来る子に障害のある可能性を念頭に置いている人が実際にはどの程度居られるのか。Johnnyselfさんがご指摘のように、決して多くはないと思う。
 少なくとも、この問題に正対する人は少ないはずだ。だが、正対していないけど・・・という人はかなり多いのではないかと思う。
 外来に訪れる妊婦さんやご家族にアンケートすることを考えよう。「生まれ来る子に障害のある可能性を考えたことがありますか?」
相当慎重な質問が必要であろう。「縁起でもない質問」であるからだ。大抵の方は挑発されたように感じるだろう。怒り出す人も多いと思う。
この質問が社会的に禁忌とされている理由は、「みんな薄々は考えているから」ではないかと思う。考えるだに恐ろしい事態であるが、有効な打開策が見あたらず、考えても結論が出ない。結論のでない問題を未解決のままに抱えておくのは心理的に負担が大きい。耐えきれる人は予想外に少ないのではないか。耐えきれないために、そんな問題は無かったことにする。合理性には欠ける対処法だが、しかし心理的負担を糊塗するには有効な方法だ。
処理できない問題に対する対応として「問題の存在そのものを否定する」というのはごく一般的に見られる心理だ。鳥や牛の伝染病対策にせよ、原発の管理にせよ、なんでこんな放置の仕方をと後になって指弾される類の失態の裏には、迂闊さに加えて、この否認の心理が働いているのだと常々思っている。
最初のアンケートに戻れば、おそらくうちの病院の産科外来と、市内で大繁盛している産科医院外来とでは、答えは有意に異なると思う。潜水艦との違いは魚雷の有無だけというアメニティの当院産科にそれでもお出で下さる方々は、NICU併設という点に安心をお求めの方々であるからだ。逆に一般産科医院の外来では、妊婦さん相手にそんな質問をしたら、回答が得られる間もなく業務妨害で警察を呼ばれる羽目になるだろう。否認したがってるのは妊婦さんだけではない。
たとえアンケートの結果が違っても、それは、決してアメニティの良い産科に行く妊婦さんたちの思慮が足りないということを意味しない。検討に際して真に興味深いのは、回答の表面に現れた数字の違いではなく、回答を出すまでの妊婦さんたちの態度だと思う。その数字がどれほど妊婦さんたちの真意を反映しているか。調査方法を具体的にどうするかは心理学者の知恵が要るが(アンケートではなくインタビューにして回答者の態度を観察するとか)。
まだ書きたいことの4分の1も書けていないのだが、ここまで書いたら産科当直から母体搬送の連絡があった。NICUで待機します。