新春なので病棟では入院患者さん達が駅伝を観ている。
駅伝は残酷なスポーツだと思う。またその残酷さがいかにも日本的なスポーツだと思う。チームの命運を一人に背負わせて走らせるのに、周囲がするのは声援ばかり。実のある援助がないので、選手は孤軍奮闘を強いられる。一人が下手をうつとチームごとリタイヤすることになるから冒険的な戦略も取れない。堅実に、まじめに、耐えて走ることが美徳とされる。失速した選手は落伍者扱いである。彼らのことを語る報道の上から目線ぶりは観ていて痛い。痛くてこの数年ほど駅伝はまともに観られない。
昔はスポーツって一般にそんなものなんだろうとしか思わなかったが(だから体育会系って付き合ってられないんだよねとも思っていたが)、自転車のロードレースを見始めると、こんな考え方をする種目もあったのかと瞠目した。ロードレースではチームが一体となってエースを勝たせようと協力する。エースの前を走って風よけになり、飲み物や食べ物を運び、寒いときの上着を運び、万が一にも接触事故などでエースがこけないように周囲をかためて保護し、云々。チームの命運のかかったエースならみんなで勝たせようじゃないかと、合理的かつプラグマチックなチームプレーが行われる。
まあ昨年のツールでのアスタナみたいな例外はあるかもしれんが、一般的にはそういうものだ。
たとえばレースの序盤でエースの風よけのために前を走り続けて体力を使い果たした選手が後にリタイアしても、それは単に彼が自分の責任をはたしたということにすぎず、彼が未熟だとかいう話にはならない。彼がアシストしたエースが最終的に勝利すれば、その栄誉はアシストした選手にも共有される。リタイアしたからと言って彼に後ろ指をさそうという発想は観るがわにもない。
であればこそ、戦略として序盤にあえて先走って「逃げ集団」を形成するという戦略も取り得る。実力を考えればゴールまでのどこかでメイン集団に追いつかれ追い抜かれることは確実な、いっけん無謀な独走であっても、彼がそうして独走することでチームの戦略にも寄与することができる(らしい。いまひとつ、逃げがチームに具体的にどう寄与するのか私にはピンと来ないのですみません)。少なくとも逃げ集団はテレビ中継によく映るのでスポンサーは大喜びするし、逃げた彼らが最終的にメイン集団に追い抜かれ、力尽き果ててリタイアしたところで、チームが負けることにはならない。
そういう駅伝と自転車ロードレースの精神風土の違いが、そのまま、彼我の風土の違いにもなっているような気がする。先走りも異端も許されず、かといって実質的な応援もあるわけではない孤軍奮闘を強いられ、失速やリタイアはそのまま周辺を巻き込んでの破滅となり二度と浮かび上がれない日本。向こうではどうなのか日本を出たことがない私にはよく分からないけれど、日本で駅伝が精神性の塊みたいに称揚されるのと同じようなありかたで、自転車ロードレースの精神が社会の精神のあり方を象徴しているのだとしたら、向こうでは才覚ある個人の独走をあたたかく見守る雰囲気があるんだろうと思う。その独走が最終的に潰えても、次のレースではまた走ることが許されるんだろうと思う。エース級の人の奮闘にはチームが惜しみなくアシストする雰囲気があるんだろうし、アシストの人たちも自己の犠牲をそれほど自己憐憫することはないんだろうと思う。そうしてアシストされて勝つエースもいたずらに高ぶったり卑下したりすることなく、シンプルに勝利を喜びアシストに感謝するんだろうと思う。行ったこともない社会を理想化しすぎだろうか。
さいきん日本の男子マラソンが世界の水準に追いついていかないのは駅伝という競技が悪いんだとは聞いたことがある。どんどんスピード重視になっていく世界の潮流のなかでは、確実さを極端に重視する駅伝の選手育成方法では世界で勝てる選手は育たないんだそうだ。それは陸上競技に限ったことか?と問うてみたい気はする。
カテゴリー: よのなか
あらかじめ「ゆとり」と呼ばれる人々
当直明けに例によって当直室で昼飯を食べていたら、テレビで新卒大学生の就職難について語っていた。ちょうど「ゆとり教育」で育った人たちが新卒大学生として社会に出ようとしている、まさにそのときに就職難が重なってしまったとのこと。
就職難も外在的な要因ばかりではなく、ゆとり教育世代ゆえの内在的な原因もあるとの教育評論家のコメントもあった。いわく、彼らは自分がどうしたらいいか分からないんじゃないかと。これまで大人の意向に逆らわずに生きてきた故にと。
この新卒の人たちも気の毒だと思う。社会に出ようとしたその時点で既に、彼らは「ゆとり教育世代」として語られている。本人の具体的な能力や意思以前に、「ゆとり」というラベルで世代ごと一括されてしまっている模様。スタート時点で自分の責任ではないビハインドを負わされている。なんだかこれは新たな差別なんじゃないかとさえ思う。しかも彼らのゆとり教育と併行して行われた経済政策の結果がいまの不況と財政難だ。
就職難の対策は景気回復とワンセットだろうし、いまの状況で十分な対策が可能だとはなかなか思えないけれど、でもその言い訳に「彼らはゆとりだから」と言われそうに思える。就職難は社会的にも憂慮するべき事態だとは分かってますけど、それ以前にこの世代は使えないから雇わないんです、云々。たとえそのような偏見をはねのけて就職できたとしても、古来から新人は失敗を重ねて成長するものなのに、その失敗すらも「ゆとり」故のこととされて、指導不十分なまま早々に諦められるんじゃないかと思う。その結果、見放されて挫折から回復できないまま早々に職を離れる若者が多発するんじゃないかと危惧する。それもまた「また我慢のきかない根性無しのゆとりが逃げ出しやがる」「仕事はそういうものではない」「不毛な自分探しをしおって」云々と語られるんだろうと思う。
そんな正義感に満ちあふれたことを書く私も、テレビの特集に出ていた若者の顔を見てると、なんだかこいつら使えそうにないなという印象を受けてしまって、あまり偏見から自由ではないなとの自覚はある。今はまだ医学部生であろうゆとり教育世代の皆様には、新生児科ではそういうことは言わず丁寧に指導するからぜひ新生児科に来てくださいね。と多少棒読み気味に付け加えて本稿はおしまい。
東京オリンピックが無くなって
東京でのオリンピック開催がなくなったとのこと。
石原都知事に言わせれば、プレゼンでは勝ってたのにと、ウラでなにか不当な権謀術数が渦巻いたかのような口ぶりであったが、プレゼンがそこまで大事だなんて誰が彼に吹き込んだものやら。そういうことを言って都の予算から多額の宣伝工作費を巻き上げていったプレゼン屋さんたちだろうか。
ものごとには、プレゼンみたいな方法論を越えた、大義ってものが要るんじゃないかと思う。南米大陸に初の五輪をと言われたら、そうだよね日本で2回目っつうよりも南米で初のほうが開催しがいがあるよねと、日本でも肯く人が多いんじゃないかと思う。それは大義とも言えるレベルの説得力だと思う。プレゼンの芸だけでひっくり返そうってのはきつい。たぶん、裕次郎の兄ですって言っても、説得力の上乗せにはならない。
まして、これまでさんざん排斥的な言辞を繰り返してきた彼が、いまさら国外からの好意を得ようったって、それはさらにきつい話だと思う。けっきょくこれまでの彼の言動は大規模な内輪受けの連続だったので、今回はじめて彼は内輪の外に出たってことだろう。あの年で引退前になって「みのほど」を知らされることになるってのも辛いもんだろうけどね。
究極召喚内閣
こんどの政権交代をいろいろな人がいろいろに言っているようだが、私には「究極召喚内閣」(@FFX)と評したら腑に落ちる感がある。よのなかを救うためには政権交代だか究極召喚だかしか無いとみんなで信じて、じっさいにそれを使って旧来の害悪たる「シン」を倒してみて、いくばくかのナギ節は訪れたけれど、そのうちに使った究極召喚にエボンジュが乗り移って新たなシンとして復活してしまう。
いまはナギ節。あくまでも。永遠に続くかどうかはわからない。
・・・とか書いて投稿して、おもむろに「究極召喚」で過去の記事を検索したらこのネタ一回使ってた。陳腐さは世間も私も変わりないようだ。
コンタドール君の行く末が心配
NHK-BSでツール・ド・フランスの特集番組があった。サイクルロードレースのルールや基本的な戦術に関して、簡潔ながら的を射た解説がなされていた。リアルタイムで観戦していたときには腑に落ちなかったことも、なるほどそういうことだったのかと納得できて、見応えのある番組だった。
番組の大きな柱として、アスタナのアルベルト・コンタドールとランス・アームストロングの確執が取り上げられていた。当初はチーム内で疎外されていたコンタドールが、山岳ステージで実力を発揮しチームの尊敬を勝ち得て、ツール後半ではチーム唯一のエースとしてじゅうぶんなアシスト陣の協力を得つつ2度目の総合優勝を手にした、というストーリーであった。
実情をそれほど大きく外れてはいないストーリーだと私も思う。ただこの語りかただと暗にランスが卑怯な悪者とほのめかされているようで、釈然としない。ランスも当初は自分が総合優勝する気でツールに挑んだのだろう。でもそれはコンタドールの足を引っ張って引きずり下ろそうというような下世話なお話ではなく、シンプルに自分のほうがコンタドールよりも走れると思っていたのだろうし、そのほうがアスタナというチームにとっても良い成績につながると心底思っていたのだろう。ランスにとって自分よりも走れる存在があるということ自体がそもそも想像しにくかったというバイアスも、まあ、あるんだろうけれど。
加えて、緒戦のコンタドールは、ランスの目から見れば、自分がアシストするべきエースというにはどうにも頼りなかったのではないだろうか。あるいはアスタナの他の選手達にとっても。エースというのは、こういう過酷なレースであればなおのこと、チーム上層部がこいつがエースだと言ったからエースになれるというものではなく、チームのみんなの心のそこからの納得を得てはじめてエースになるのだと思う。
番組では、問題がが顕在化したのは第3ステージだったと伝えている。マルセイユを出発して地中海沿岸を走るコースの終わり近く、最強のスプリンターMark “EXPRESS” Cavendishを擁するチーム・コロンビア・ハイロードが強力な横風のなか速度をどんどん上げた結果、選手の集団がおおきく分断された。ランスはその状況に素早く対応し、大きく遅れる前に先頭集団に追いついた。その時点の総合1位でマイヨ・ジョーヌを着ていたカンチェラーラもしかり。またアスタナのアシスト達も(まあ他チームならエースクラスの実力者揃いなんだけど)遅れることはなかった。ただコンタドールだけが、後方集団にひとり取り残された。アスタナの選手達は、ランスも他の選手も誰一人として、コンタドールを前方に引っ張り上げるアシスト仕事をしようとしなかった。
サイクルロードレースでは、同一集団でゴールした選手は同一タイムとして扱われる。錯綜するゴール前での無用な争いと事故を防ぐためのルールである。同一集団でゴールすれば総合成績は変動しないから、追突や落車の危険を冒してまでライバルの前に出る必要はない。逆に、総合優勝を狙うならその時点での総合1位の選手と同一集団でゴールすることが絶対条件である。21ステージ3500kmを走り抜いてさえ秒単位の差しかつかないような勝負では、たった1ステージでも総合一位からタイム差を広げられるような失態を演じては致命傷となりかねない。
第3ステージでコンタドールがやらかしたのはそのような失態だった。モナコから3日目、まだ勝負が始まったばかりのこの時点でマイヨ・ジョーヌに置いて行かれるか?その時点までなら、アスタナの選手達もまだどちらをエースとして遇するか迷っていたかもしれない。しかしあの横風の中で、アスタナの選手達にはコンタドールに対する失望が広がったのではなかろうか。こいつはアホかと。当然ついてくるものとばかり思っていたら何をしとるんだと。こんな迂闊な奴がマイヨ・ジョーヌ獲れるのかと。アシスト達とはいえツールに出るような選手である。しかも他チームならいざ知らずアスタナのアシストである。彼らに、このアホは俺らの自己犠牲に値するのかという自問自答をさせてしまったのなら、その時点でエース失格である。
むろん、そんなアホでもそいつしかいなければ、アシスト達も後退してコンタドールを取り囲み、護送するかのようにメイン集団まで引っ張り上げていただろう。やれやれとため息をつきながらでも。しかしランスがいる。年齢的限界にさしかかりつつも、かつてツール7連覇の実績のある人だ。今回もきっちり状況を読み切って、勝とうとする選手ならぜったい居なければいけない場所にきちんと居る。やっぱりこの人だよなと、アシストはみんな思っただろう。
あるいは、そこまで厳しく見放してはいなかったのかもしれない。ああもう焦れったい若造だなと呆れ顔くらいで済んでいたかもしれない。そこで反省しておれ、ゴール後のミーティングでこってりお灸を据えてやるからと、年長のアシスト達には暗黙の了解ができあがったのかもしれない。色々と叱るポイントはある。メイン集団を風よけにボサーッと後方を走ってなかったか?その先でコースが直角に曲がってるって分かってたか?曲がった後はこの向かい風が横風になると予想してたか?云々。他にもある。貴様ジロの第3ステージの顛末を観てたか?Cavendishが集団落車に巻き込まれて取り残されペタッキに負けたろ?ちょうど今日のお前さんと同じ負け方だったろ?とか。
コンタドール君にしてみれば、本来のエースである自分をアシストせずみんなで先に行ってしまったのは不当だと思うのが自然である。ランスが横やりを入れてくるからチームがおかしくなってしまったのだと思うことだろう。それは自然だと思う。そして、エースの座が危うくなったのは自らの未熟さが招いた自業自得という側面もあるということは認めたがらないだろう。それも自然だと思う。ただここで自然というのはそれが正しいというのではなく、未熟者の行動としては自然だという事だ。コンタドール君が、チームの方針として俺がエースということに決まってるんだから他の面々はランスも含めて俺のアシストをするのが当然だと思ってしまう程度の未熟者だとしたら、そうやって他責的になるのが自然なことだ。
コンタドールは今期限りでアスタナを去る。来年からヴィノクロフとかいうドーピング野郎がエース気取りで復帰してくるので、アスタナの今の主力選手はほとんどが今期で去る。名監督ブリュイネール氏もランスの新チームに移る。コンタドール君も、アスタナに残る意義も義理も全くない。来年からどこで走るのかは未定らしいが、しかし彼が移籍先のアシストたちの信頼を得られるかどうか、どうにも心許ないような気がする。サストレールとかあだ名されたりしなければいいんだけれど。
ランスもそういうことを言ってるんじゃないかなと思う。彼のツイッターから。
Seeing these comments from AC. If I were him I’d drop this drivel and start thanking his team. w/o them, he doesn’t win.
hey pistolero, there is no “i” in “team”. what did i say in March? Lots to learn. Restated.
核実験
「やあ将軍、元気か。困ったときには電話してみろってタローに勧められたんだが。」
「そう言う声はアキヒロだな。元気がないじゃないか。君らは前任者を粗末にするからばちが当るんだぜ。俺みたいに神格化しておけば楽なのにさ。」
「その読み方やめてくれよ。困ってるときにますます滅入るじゃないか。」
「ああ、そういえば彼は気の毒だったな。もうお葬式は終わったかい? 俺も故人の遺徳を偲んでちょっと6カ国協議にでも顔を出してみようかね。」
「恐ろしいことを言ってくれるね。君にそんなことされたらいよいよ俺の立場がないよ。」
「そうだろうね。やっぱり俺に悪役をやれって相談かい?」
「頼むよ。このままじゃ針のむしろだ。」
「しかしテポドンはもう使っちゃったし、だいたい急に言われても燃料詰めるのだって大変なんだぜ。もっと他の奴ってえと・・・あれ使うか。」
「あれって・・・まさか・・・あれかい?」
「ふふふ。そのまさかよ。」
「そりゃさすがにまずくないか? 洒落じゃすまんぞ。」
「案外と小心者なんだな。そこで仲介してポイント上げるのが君の役どころだろうに。」
「そ、そういうものなのか」
「伊達にながいこと独裁者やってるわけじゃないんだよ。まあ、まかせておきな。そりゃそうと君も生れは日本のくせに『泣いた赤鬼』って話は読んでないのかね。これからは独裁者だって教養を問われる時代だぜ。蓄財ばっかりじゃ時代に取り残されるぜ。いい映画を何本か薦めてやるから観るとよいよ」
「まだそんなに貯めちゃいないよ。だいいち俺はもともと金持ちなんだよ。でもなあ。教養ねえ。確かにタローは漫画ばっかり読んでてひんしゅくを買ってるしな。今度のことも彼には言わない方がいいかな」
「まあ、な。それが彼のためかもな。でもバラクには何とか取りなしてくれよ。それだけは頼むぜ」
「ああ。分ってるよ」
いや単なる独り言ですので
友人の友人がアルカイダだと公言するのと深夜の公園で裸になるのとはどちらが恥ずかしいことだろう。
後ろー!後ろー!!
中山成彬という人が陳腐な題材の失言を三連発して国交相を辞任した。題材に新味がなくても三連発で威力があった。ゴルゴ13で読んだ突撃銃の進化に、トリガー1回で3発の弾が出ますというのがあったが、やっぱり失言も進化して攻撃力を増すんだろう。
当直室でつけたテレビニュースにちょうど出たのだが、地元の県連の会長さんにちょっとは慎めと言われたその直後にまたも日教組云々と繰り返したこの人の芸風は、むかし客席のよいこのおともだちの「後ろ、後ろー!!」という絶叫にまったく耳を貸さなかった志村けんを彷彿とさせた。
こういう失言というのは意図してやるんだろうか、それともうっかりやるものなんだろうか。システム的な考慮が必要なヒューマンエラーなんだろうか。それとも、何かほかの重大なことから目をそらすなど隠された目的のことなんだろうか。あるいは、堅い仕事をじっくり勤め上げてきた初老の男性がとつぜん近所の大型ショッピングセンターで安物の鍋を万引きして捕まるという類のお話なんだろうか。
空床はゼロですが戦後教育のせいではありません。
大分県で採用不正を理由に20人の先生がやめさせられる
大分県で採用に関して不正があったとされる2008年度採用の教諭が20名ほど、解雇されることになったと報じられた。
世間に疎くてよくわからんのだが、採用試験を経て正式に雇用関係が成立したはずの人たちを、採用段階で採用側の内部処理に不備がありましたからと一方的に解雇することが可能なんだろうか。この人たちが生徒への体罰や性的虐待を常習的に行っていたとかならまだしも、現状でこのような解雇のしかたは法律的にOKな話なんだろうか。上級官庁はよく当事者に説明をした上でと言ってるようだが、はじめに解雇ありきで説明ってそれはインフォームド・コンセントとは言わんと思うが。それとも、私は自分の世間知らずぶりを改めて反省しなければならないのだろうか。まあ、法律の話は法律を知らない人間が知らないまま論じても不毛だし、よほど不合理ならモトケン先生のブログあたりに何か出るだろうと期待して、私は現段階ではこれ以上の素人法律論議は控えようと思う。疑問を感じますということだけは明言しておく。
心情的にはどうにも気の毒でやりきれない話である。まだなりたてとはいえ仮にも先生と呼ばれる立場の人に、まるで日雇い派遣みたいに明日からもう来なくていいからと一方的に言い渡すってのはどうなんだろう。先生ってその程度のものなのよと先生を束ねる教委自身が吹聴してよいものだろうか。ばれた分だけ切り捨てればいいのよとばかりその年度だけ切り捨て処分して、それ以前の年度はお構いなしとするのは、甘いんだか辛いんだか判然としない話のようにも思えるし。総じて、今回の処分には釈然としない。
採用過程での不正も、べつに受験者側が採用側にばれないような仕掛けをしたわけではない。むしろ受験者の与り知らぬところで受験者の身内と採用側とがたくらんだことである。それで受験者が割をくうのはどうにも不公平なような気がする。採用側で不正をしていた人たちのほうは、天網恢々疎にして漏らさず的に処罰を受けたのだろうか。そっちが先だろうと思うのだが。そっちが先だろうという常識を逆手にとって、若い人を処断することで身内への糾弾に幕を引こうという魂胆なのだろうか。それならずいぶん卑怯な話だ。すくなくとも、彼らに今回の処断を言い渡した人たちは、この若い人たちの人生をけつまずかせたのが自分たちの身内だという責任を意識した態度であっただろうか。子供たちを訓導する先生たちをさらに束ねる教委の人なら、その程度の高潔さは身から滲み出てしかるべきかと思うのだがどうだろうか。
今回の顛末ではどうしても解雇された若い先生たちの身になってしまう。今回の損得勘定は彼らにとって圧倒的にマイナスだった。自身が不正に関与していたわけでもあるまいに。こうして解雇されるくらいなら最初から雇用されなかったほうがその後の経歴に与える影響も少ないだろうに。地元では固いとされる、それこそ不正を働いてでも子を就職させたいほど人に羨ましがられる仕事についたのが一転して既卒の無職者だ。これから職を探すとしても、よい職があるんだろうか。職を探して歩く先々で、ああ採用試験の不正がばれて首になった元教諭かと後ろ指をさされかねないのではないか。
しかし今回解雇された人々にとってもっとも衝撃だったのは、実力で勝ち取ったと思っていた職業が実は不公正の結果であったという、その事実そのものであろうと思う。それを知らなかったのが自分だけという事実がさらに追い打ちをかけたと思う(あるいはそっちが本命か?)。周囲も自分をその程度にしか見ていなかった。就職に際してこれで一人前だと祝福してくれた人々が、陰では自分を半人前と思って不正な下駄を履かせていた。それを知らなかったのは自分ばかり。そういう、いかにも「庇護下にある半人前」の立ち位置に自分があったという事実を思い知らされたことこそが、最大の衝撃ではなかったかと思う。今回、採用取り消しを言い渡されて涙を流した人もあったと報じられ一部ではずいぶん貶されている。しかし同じ立場なら俺も泣くよなと思う(私の両親は私を同じ立場に立たせるような愚か者ではないが)。その涙は解雇に対する涙と言うこともあろうがそれはあくまで二次的なものだろう。まして、けっして、知らなかったから勘弁してくださいという甘ったれた心情から流れる涙ではないと思うのだ。
教委は希望があれば臨時採用で雇うとかなんとか人を小馬鹿にしたような恩着せがましいことを言っているが、いろんな意味で、この若い人たちは大分を出るべきではないかと思う。まずもって、この、教委に責任はないと言わんばかりの被害者面が気にくわない。まあ私が気にくわないからって関係ないかも知れないけれど。でもここで頭を下げて臨時採用で残ったとしても、結局はこの団塊の世代な連中に舐められたまま潰しの利かない年齢までいいように使われて捨てられるだけなんじゃないかと思う。
社会で生きてゆけば知らないうちに多くの人のおかげをこうむっているということに、いつか気がつくものではあろう。ああ自分一人でがんばっていたつもりが俺はまだまだ皆様のおかげでなんとかやっているのだなあと嘆息することは良くある話だと思う(それとも私だけですか?)。その嘆息が成長の糧なのだと思う。それはそうなのだが、しかし、今回のようにあまりにも根源的なところで不正かつ過剰な横やりが入る環境では、知らず知らずにスポイルされてしまう。全く変質してしまった人生を振り返って、これがあの頃の未来なのかと愕然とすることになろう。
それにまあ、そんな親やら恩人やらに取り巻かれた環境で歩き始めるのって息苦しくないですか?と思うのだ。私など小児科医修業を故郷の長崎で始める羽目にならなくて本当によかったと思っている。田舎はどこへ行っても何らかの情報網がつながっている。駆け出し時代の失敗がいちいち親や恩師や恩顧の人々に伝わったらと思うといてもたってもいられない。大手を振って故郷を離れることができただけでも、大学受験へ向けて猛勉強をした甲斐はあったと思う。あのまま親の息のかかるところで医者修業を始めていたとしたら、今の私は今以上にはんちくな人物であったことだろうと思えてぞっとする。
いやそれは私のような凡人に限ったことでもなかろう。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康とほぼ同時代に偉人を3人も輩出しながらついに名古屋が都になれなかったのは、中島らも氏の指摘のように、彼ら偉人とて旧悪を知る人々の多い土地を嫌ったということの現れではないだろうか。海外に目を向けても、かのナザレの偉大な大工も、故郷ではろくろく奇跡を起こせなかったと福音書には伝えられている。ヨゼフのうちの私生児が何を言うとるかとか、長男坊のくせに正業に精を出さず新興宗教にはまりおってマリアさんが泣いとるぞとかいう視線に耐えられなかったに違いないと思う。
でもこの教委の指揮下にある教師たちって、世間の風当たりが強くなったからって若い同僚を無情に切り捨てるんだから、世間の風向きが変わったら教え子を戦場に送り込むんだろうな。
うだうだとそんなことを考えながら新生児搬送1件。
1件では空床は埋まらない。今日も重症2/軽症2.