どうやら控訴はしないらしいし

まったく予想通りに無罪判決だったわけだが。どこをどうひねれば有罪判決が出るやら私ごときには皆目見当も付かなかったのだが。検察も控訴しない方針だと伝わってくるのも理の当然であろう。しかし理の当然を言えば逮捕もあり得なかったわけで、ときに現実は想像力の限界を超えたことが起こるから厄介で。
すみません心嚢穿刺やったことないのに救急から手を引いてません。
今日の朝日新聞の朝刊に(うちは大阪本社の13版で29ページに掲載)鳥集徹という人の「大野病院事件『産科医無罪』で終わるな」というご意見が掲載されていた。

だが、捜査機関が介入したおかげで、明らかにされた事実があったことには違いない。つまり、医師が中心になって行った病院や県の調査では、遺族が知りたかった「真相」をすべて明らかにすることはできなかったのだ。この事実を、医師側はもっと謙虚に受け止めるべきではないだろうか。

と説き、医療側は捜査機関が介入する余地のあることにこだわらず事故調の設立に合意すべきだと主張しておられる。
そりゃあ捜査が専門の機関なんだし日本の警察は決して無能じゃないんだから着手したからには新事実もみつけるのが当たり前だろうよとか言うのはつまらん突っ込みかもしれん。私も過去には、事故調査機関は避けてとおれない道だなというような認識にもとづく記事を、このブログにも書いたように記憶している。しかしこの論説など拝読すると、あのころにもしも事故調が実現していたとしたら時期尚早だったのだろうなと思う。今この時点ならどうかは、まだ分らない。
たとえばこの逮捕劇の時期、小児科医が軽症患者の時間外受診が多すぎて疲れたとブログに書いて炎上していた時期なら、この鳥集氏の主張が世の大勢を占める主張だっただろうなと思う。むしろこの主張はまだ穏健な部類かもしれなかったなとさえ思う。ひょっとしてその時期に事故調が作られていたとしたら、その制度とか運用とかはずいぶんと医療側に対して厳しいものになっていたことだろうなと思う。
しかし当時に事故調が活動を開始していたとしたら、その厳しさがちょっと厳しすぎるんじゃねえかと思いつくほどの想像力を当時も今も私は持ち合わせていないようにも思う。事故調ってのはこんなものなんだろうなと思いながら、事故調から告発されて刑事裁判になった医師の運命を心配することになっていただろうよと思う。それもまた私の想像力の限界だ。今回の逮捕起訴も想像もつかなかったし。
事故調の設立を推奨する鳥集氏ですら、

捜査機関への通知の問題だけでなく、中立公正性を担保できるかなど、事故調にはいくつもの課題がある。

とのご認識である。中立公正性への懸念は私が指摘するまでもなく鳥集氏もご言及のようだ。とすれば、当時もしも事故調が立ち上がっていたとしたら中立公正とされるポイントが今とではずいぶん違ったんじゃないかという点では、鳥集氏も私と認識を一にするところだろうと思う。そのポイントが那辺に位置するべきかという点では、たぶん見解を全く異にすることだろうけれども。
あのころに事故調がうまれていたとしたら、それは鳥集氏が仰るような

「小さく早く生んで、市民と医療者とで充実した組織に育てていこう」

といったささやかな発足のしかたではなく、もっと大々的に医療者に辛くあたる機関になっていたんじゃないかと、いまさら当時の風潮をかえりみて私は戦慄する。いや鳥集氏の論説を拝読して久々に、昔はそうだったよなあなんて思い出してしまいましてね。小さく早くってのは計画的な分娩を比喩のネタにしておられるのですかね。紛争の多い周産期まわり(今回なんてまさにそれではないか)を題材になさるのはあんまり慎重な態度とは思えないんですがね、まあ、そのたとえ話におつきあいして申すなら、あのころなら小さく早くどころではない、なんだか血糖コントロールに難渋した糖尿病のお母さんから出生したかのように、巨大な赤ちゃんとして事故調は誕生したんじゃないかと思うんですがね。児頭骨盤不均衡やなんかで難産したり、出生後も低血糖とか多血症とかでがんがん輸液したり部分交換輸血したりと、設立だけでもいろいろ大騒動になったんじゃないかと思いますがね。
いや、そもそもこういう組織で中立公正性が担保できないってのは、それは生まれてくる赤ちゃんの肺に十分なガス交換能力が担保されてないんじゃないかみたいな致命的に危ういお話じゃなかろうかとさえ思う。その状況で出生させようというのを「小さく早く生んで」と仰るあたりはずいぶんあっさりとした表現がおできで羨ましい限りだと、新生児科としては感心してしまう。生育限界を超えてるかどうかの超未熟児をあえて分娩にもっていくかどうかってのは我々でももうちょっと気を遣って考える問題だ。
鳥集氏の論説は

医師側も「無罪」を喜ぶばかりでなく、大野病院事件の遺族をはじめとする被害者の声に、真摯に耳を傾けてほしい。

と締めくくられている。はたして大野病院事件のご遺族は「被害者」の範疇にはいるのか、そうじゃないんじゃないですかというのが今回の裁判の結論だったんじゃないかなと私は疑問に感じる。そのへんはまたモトケン先生のブログとかで勉強しようと思うけど、ただ、今となってはこの論説はもう主流じゃないよなという印象は避けがたいし、状況分析としてそれはたぶん間違っていないと思う。事故調がこれからできるにしても、この論説が主流派だった時代にできたかも知れない事故調とはかなり色彩の異なるものになるんだろうと思う。
本来なら世の風潮に流されない事故調が理想なんだけど。

トリアージ考

 NHKの小児救急特集に関する感想の続き。
 本診に先だって手短で定型的な予診を行い、重症度に応じて本診の順序をきめる、いわゆるトリアージであるが、今後の救急診療には必須の手順となろう。重症者を迅速に診るということの、医学的な重要性はいまさら本稿で述べるまでもあるまい。加えて、リスクマネージメントの面もあるということを付け加えさせていただく。米国では(日本でも既出か?)化膿性髄膜炎に関して、外来受付時間から抗生物質の初回投与までに2時間かかったのは遅すぎ怠慢であるという訴訟があったと聞く。病院側が敗訴したというおそろしい追加情報まである。
 
 現状でさっそく当院にも採用できるかというと、それは困難であろう。医師一人看護師一人でやってる小児科時間外では、トリアージに専念できる人員がない。当院では予診票を書いていただき、看護師が簡単な問診をするので、それがいくばくかトリアージのかわりになっている程度だろうか。めったに順番を変えることはないんだけれど。
 
 人数もさることながら、小児の病歴を手短に聴取しバイタルサインなど把握して重症度を判断するなんて、そうとう小児科の経験を積んだ医師なり看護師なりが必要だ(経営的な思惑からおそらくはベテラン看護師の仕事になるんだろうけど)。うちはそんなことができる優秀な人を時間外にも揃えておけるほどの病院かどうか。
 
 昔は私も漠然と、こどもを3~4人も育てた経験のあるベテランならたいてい一目で子供の重症度は分るだろうと考えていた。しかしよく考えてみれば、やはり「専門的」な手順が必要なのだ。というのは、トリアージを行えば、大多数の軽症患者は後回しにされるのである。トリアージの成否は、担当者の診断能力はむろんのことであるが、この後回しにされる大多数の人たちに納得を頂けるかどうかにかかっている。この人たちに、お子さんはこれこれの点でいま順番をとばして診察室に入った子よりも軽症なのですという説明を、客観的な用語を用いてできるかどうかである。その点で、年功を積んだだけでは足りないのである。
 
 むろん、それも、軽症者は後でよいというコンセンサスが得られていればの話である。重症だろうが軽症だろうが関係あるもんか私の子を先に診ろというレベルの主張をされたら、トリアージのシステムは機能しない。
 
 そんな理不尽な主張をすると、じっさい自分の子が重症であった場合に困るだろうという理屈は立つ。しかし、大多数の小児救急患者は軽症である。大多数の軽症の中からいかに極少数の重症者を検出するかが小児救急の勘どころなのだ。大多数の親子にとって、子が重症に陥ることなど生涯(すくなくとも小児期には)経験せずに済むのである。したがって大多数の親子には、トリアージなどなくても、実際のところ困りはしないのである。むしろ後回しにされる言い訳みたいな、不利益なモノなのである。
 
 先に述べたNHKの特集でも、トリアージで先に診てもらえた子の親御さんが、重症だったから早く診て貰えて安心でしたと肯定的にインタビューに答えていた。しかし、本当に聞くべきは、軽症だとされて待たされた子の親御さんたちの感想だろうと思う。親御さんたちは納得してお待ちだったのか。納得しておられたとして、それは医学的に納得されたのか、それとも成育医療センターというビッグネームに威圧されてのことなのか。その人たちが、いやあうちは待ちましたけどあの子は大変そうでしたしね、助かってよかったですよと、おっしゃって下さるかどうか。ぜひ知りたい。
 
 救急医療など、限られたリソースの配分をいかに最適化するかという問題においては、参加者のおのおのがシステムの円滑な運営に協力するという、総員の善意を前提にしないと、最適解は出せないものじゃないかと思う。各人が各人の利益を追求することが最適化の道になるためには、リソースが無限に供給されなければならないんじゃないだろうか。経済学的にはどうなんだろう。各々の善意を前提にしないと救急は回らないってのは、現場での実感なんだがね。相手を潜在的な(あるいは明示的な)敵と見なしての救急医療なんて燃え尽き必発だと思う。
 
 トリアージの成否に関する責任を利用者側に押しつけたような内容になってしまったが、むろん、トリアージの成否を決める一番の要因は診療側の診療能力であるとは、肝に銘じております。その点、いずれまた書かせていただくかも知れません。
 それと、これは声を大にして言いたいんだが、トリアージは確かに必要だけど、トリアージさえすれば救急医療のリソース配分は上手くいくから総量の拡充は不要だなんて議論が行政なんかから降ってくるようなら、それは違うよと申し上げたい。

後医は名医で後知恵は猿知恵

本日朝のNHK「おはよう日本」で8時ちょっと前、小児救急の危機なる特集が流れた。ストーリーとして、
1.初期診療が遅れ後障害の残った症例の呈示
2.担当医の「もうちょっと早く治療できてたら」という言質
3.限られたリソースで重症者を迅速に診療しなければならないという問題提起
4.成育医療センターで行われている「トリアージ」の紹介
こういう起承転結であった。
特集の着眼点としては、まずまず合格点であろう。人を増やせったって今日明日すぐに増やせるわけでなし、初期段階で重症度を判定して重症者から診ていく「トリアージ」は今後は必須のものとなろう。それを指摘したということで、この特集を制作した意図は正しいと思った。
しかし特集の具体的な内容にはおおいに疑問を持った。最初に登場した症例の疾患はインフルエンザ脳症なのだ。40分かけて二次救急に搬送されたが、「けいれんを止めるばかりでインフルエンザという診断に至らず」、2時間後に隣の町の高次救急の病院へ搬送されたとのこと。その2時間がなければもうすこし予後が良かったのではないかという、ご両親のお言葉があった。
決してこのご両親をあげつらう意図はない。その意図はないのだが、しかし、その2時間を急いで何かを行っていたら後の障害が軽減されていたかというと、はなはだ疑問と申し上げざるを得ない。インフルエンザ脳症ってのはおそろしい病気だ。発症時点ですでにカタストロフィックな疾患だ。こういう特集で、トリアージして早めに対処すれば後が良くなる典型例だと取り上げられるような生やさしい疾患じゃないと、私は思っていたのだが。
二次救急病院段階での対処はそんなにまずかったか? まずけいれんを止めた。正解だ。そのうえで、もしも意識障害が続いていたら、状況に応じて気道確保など行ってできるだけ状態を安定させ、原因の究明にはいる。それは意識障害の救急対応の一般的なセオリーだが、そこでインフルエンザ脳症という診断が得られていたとして、この2時間のうちに行えば予後が良くなるようなインフルエンザ脳症に特異的な治療法がなにかあるかというと、私は存じ上げない。
しかし、ストーリー第2段階で、この二次病院から紹介をうけた高次病院(熊谷という土地の西隣にある自治体にある病院だ)の、この子の診療に当ったという女医さんが、もう少し診療が早かったら予後が現状よりも良かった・・・可能性があります(けっこう付け足し的に間をおいて)と明言された。いったい何をすれば?初診から2時間の内に行えば予後の良くなるようなインフルエンザ脳症の特異的治療っていったい何?とこの女医さんにはぜひ伺いたいものだと思った。私もまたけっしてリソースの充実しているとは言えない二次病院で小児科救急をやってる人間ですからね。ぜひお伺いしたい。こんな全国放送の特集で、いかにも手落ちと言わんばかりの指摘を受けるような、そこまで言うほどなら熊谷周辺ではよほど常識的な治療法なんだろうけど、京都の私は存じ上げない。何をしたら良かったの?
そもそも2時間って遅かったの? この二次病院で果敢にこの症例を引き受けた先生はどうやら小児科医ではなかったようなのだが。患者さんのご自宅から緊急走行で半径40分以内に引き受ける医療機関が存在しなかったような症例を、果敢にお引き受けになったわけだ。ひょっとしたらこの症例に専念できなかったかもしれない、多忙さが過酷を極めるのが常の二次病院でさ。けいれんを止めるしかしなかった、ってNHKの人はこともなげにおっしゃったけど、40分かけて搬送して病院に到着時にはまだけいれんしてたんだ。そんなものすごいけいれん重積を止めただけでも大したものだ。それから搬送に耐える状況まで2時間でもってった訳だろ? 2時間もって言うけど、現場だとあっという間だよ。私はこの二次病院は大したものだと思う。特集では、こんな半端なすかたん病院に運んだのが時間の無駄だって言わんばかりの扱われようだったが。紹介をうけた医者にさえ遅いと言われてしまったが。
しかし画面に出た略地図だと患者さんのご自宅からこの二次病院より最終的に落ち着いた高次病院のほうが距離的には近そうだったけどな。他所を悪く言うならなんで最初から自分のところで診ない?
たぶんこの女医さんもまた果敢にタミフルを投与しステロイドパルスとガンマグロブリンを行い、あるいは脳低温療法とかまで行って、高次病院の機能の限りを尽くした診療を行ったことだろう。二時間前から行っておればこの子の後障害が軽くなったような素晴らしい治療を。その業績にけちをつけるつもりはない。
しかし前医をこんなふうに腐してはいけない。この女医さんに全国放送でこんなことを言われたら、今後この病院はけっして小児救急を引き受けようとしないだろう。けいれんする子供を乗せて救急車が40分走らねばならないような土地で、必死に状況の崩壊をくいとめている二次病院を、たたきつぶすのは容易ではあろうが軽率に過ぎる。愚かに過ぎる。
周辺には、この高次病院には今後は決して患者さんを紹介するまいと、肝に銘じた医療機関も多かろうと思う。最初から自分たちで診ろよと。トリアージでもなんでもしてと。しかし高次病院に紹介できないと、重症そうな症例を引き受けることは無理だ。一斉に、周囲の医療機関が守りに入る。防衛的に、とことん軽症例しか診なくなる。子供をつんだ救急車なんて全車門前払いだ。この高次病院が一手に引き受けることになろう。一手には診れない? いや、診れるはずだ。今後は白血病も腫瘍も小児外科症例も循環器も内分泌も、紹介患者はがた減りするから、思う存分近隣全体から小児救急をどんどん引き受けて、適切な二時間以内のインフルエンザ脳症治療に邁進すればいいんだ。

内田樹先生がついに医療崩壊について御言及である

Tokyo Boogie Woogie (内田樹の研究室)において、内田先生が医療崩壊に触れておられる。先生の慧眼には常々尊敬の念を禁じ得ないものであるが、今回のご発言はいささか遅きに失した感がある。

今現場にふみとどまって身をすり減らしているいる医師たちをどう支援するか。
それが行政もメディアも医療の受益者である私たちにとっても喫緊の課題であるはずだが、そういう考え方をする人はきわめて少ない。

そういう考え方をする人は極めて少ないのだそうだ。先生ご自身が今さらお気づきになったからって他の人まで認識が足りなかったことにしてしまうのはどうかと思うのだが。それって先生が戒めておられるところの、「知らない」ための勤勉な努力ってやつじゃないだろうか。それとも、さいきん読売はともかくも朝日でさえも医療崩壊の特集記事を連載し始めているのを読んで、だいぶ多くの人に医療崩壊に関する危機感が共有されてきて慶賀の至りと思っていたのは、私の現状認識が甘いのだろうか。内田先生は毎日や産経をご購読だというだけなのかな。
これまで、内田先生のブログには、いまどきの若い奴らはやりがいのある仕事とやらばっかり求めてけしからんとか、仕事のリターンが自分自身に返ることを求めるのではなく自分の仕事が全体の利益になることを喜びとせねばならんとか、まともなシステムは構成員全体の20パーセントほどの人数が働いていれば回るものだとか、いろいろと勤労に関するご高説が数多く掲載されてきた。当直で疲れた頭には、内田先生のそういうご高説は、「今現場にふみとどまって身をすりへらしている医師たち」に負担を押しつけるのに都合の良い理屈としか読めなかった。
身も蓋もなく言えば、「コンビニ受診だなんてぶつくさ言わんと深夜救急も徹夜で診てろよ」とか「安くて定額制の当直手当も無給呼び出しもブーたれんと夜中の帝切くらい3件でも4件でもやれよ」とか「おめーら一部が過労死して全体が回るのがフツーなシステムなんだよ分ってんのかよこの世間知らずどもめが」とかいう声が、内田先生の声に重なって、かのブログの紙背から聞こえてたのだが。先生と同世代な日医の偉いさんのようにも聞こえる声で。
その内田先生にいまさら支援云々言われてもねえと思う。せめて我が身を振り返って恥じるところがないか確認してからにしてほしいものだと思う。それもしないうちに「そういう考え方をする人はきわめて少ない」などと根拠もなく先駆者気取りをなさるのは、はた目に美しい姿ではない。
社会的な影響力の大きい人だから、彼が医療崩壊を食い止めようとする側にちょっとでも与してくれたら、有り難いには違いない。良いご意見ですと誉めて煽ててこちら側へ引きずり込むのが、大人の得策なのだろうよと思う。ここで彼を批判して、それならもういいよと開き直られ従来の路線に戻られると、我々にとっては損失である。しかしまあ、釈然としないことというものも世の中にはあるものだ。とくに狭量なこどものおいしゃさんにとってはね。

歩行者には逆らえない

緊急搬送中も、大型車は意外にじゃまにならない。大型トラックやバスがぎりぎりに幅をよせて道を譲ってくれる様子は、後ろから見ていて神業にさえ見える。
搬送の妨げとして一番大きいのは道路を横断する歩行者ではないかと思う。救急車が接近してきていても横断を始める。気づいていないのか、気づいていてもまだ遠方だから十分渡りきれるとお思いなのか、あるいは歩行者が青信号なんだから当然渡る権利があるとお思いなのだか。
当方としては減速せざるを得ない。しかし救急車が減速しつつ接近してきていても、横断を断念して後退される歩行者のかたは実は少数派である。さすがに平然と渡り続ける方も少数だが、しかし後退する人よりは多い。大半の人は、立ち止まる。立ち止まってこちらをじっと見る。保育器の脇にいる私と目が合うことさえある。進路に立ち止まられている限り緊急車両でも減速せざるを得ない。こちらが十分減速するのを見定めて、おもむろに渡り続けられる。誰かが渡り続けると、それでは自分もと後から後から続いて渡る。運転士がマイクで「歩行者のかた道を譲ってください」と呼びかけてはじめて、自分にも道を譲るという選択肢があるのだとお気づきになるご様子である。
道路を横断中に立ち止まって接近中の車をじっと見るというのは、猫には往々にして見られる行動である。それでは彼らも猫並みの知性の持ち主ばかりなのかどうか。だとすれば、京大の講義は猫語で行わねばならぬ。まあ、工学部や理学部・農学部といった入試に国語がない人らが横断する今出川通りで、そういう大学生が頻繁に出没するのはまあ仕方ないと思う。彼らはたぶん法律の文面が読めないんだろうから。しかし、あろうことか、いちど東山近衛(北東が京大教養部・北西が医学部基礎・南西が京大病院)の角で大学生らしき男が自転車で救急車の目前に飛び出して横断していったことがある。こいつの写真が撮れていたら学部長に送りつけて処分を求めるところだったのにと、今でも思う。小児科の卒試受験資格永久停止とか。残念である。
むろん、そういう人をはねても良いとは思わない。道義的に許されないのは無論のことである。が、そんな当たり前の議論に深入りするのは野暮だから勘弁してよねということで読者諸賢にもご納得いただいたことにする。加えて卑近な面でもはねるのは非実際的である(例えば犬や猫なら思い切ってはねる方が急ハンドルや急ブレーキで人を巻き込む事故を起こすよりまだマシであるというレベルでの実際性のお話で)。はねたらさすがに救護義務は生じることだろうから、その場に足止めで、搬送の迅速さにも影響する。外傷のプレホスピタルケアなんて慣れない仕事を求められたあげくに、交通事故の責任に加えて外傷の治療の仕方が悪いから医療ミスだなんて責められる羽目になるのは御免である。
以下無用のことながら、緊急走行中の救急車による事故で奪われる命も一般の乗用車の事故で奪われる命も、命として貴重さに変わりはないと思う。というか、命の貴重さの比較などする不遜さを私は持ち合わせない。しかし、その命が損なわれたことに関する責任のとらえ方とか心情のありようについては、違いがあるものだと思う。あって欲しいなと思う。まるで違いなしと言われたら救急医療の存続は困難である。現行の制度でもたしかそのような思想になっていたと思う。
例えば充実した人生を送り老衰で大往生を遂げた命と、泥酔した運転手に衝突されて夜の海に突き落とされ亡くなった子どもの命と、命には違いがないが残された人の心情とか責任のありかたとかには違いが生じるように。

待っている命がある

拙稿「救急車の事故をおもしろがる朝日新聞」に対して、以下のコメントを頂いた。

人命を容易に奪える車という凶器を扱っている以上、
安全走行よりも重視される価値観など無いと思います。
言わんとする趣旨は判りますが、医者として及第点でも、
あなたの認識はドライバとしては落第点、またはそれ以下だと思います。
事故が起きた時、緊急時の救急車に奪われる命と、
乗用車に奪われる命に違いが有るんですか?
相応する理由が有れば安全運転しなくて良い感覚は、
家族を事故に巻き込まれた人間には非常に違和感を感じます。

ご指摘はいちいちもっともな内容である。当方として個人的には反論可能な筋合いのものではない。救急医療に私一人が関わっているのなら、返す言葉もございませんとしか申し上げようがないところである。しかし、ここで返す言葉が無くなっては、全国で新生児搬送に携わっている医師が多かれ少なかれ「相応する理由が有れば安全運転しなくて良い感覚」をもっているような誤解を生じかねず、それはただでさえ疲弊しつつある新生児医療に多大な迷惑を及ぼすので、泥臭く弁解をさせていただくこととする。
まず、「安全運転しなくてよい」と考えて新生児搬送に携わる医者など、いるわけがない。そんなことを考えていると他人様に思われたというだけでも、なんだかバカにされたような気がして悔しくさえある(その状況をもたらしたのが自分の浅慮と筆力の無さであることは重々承知していてもだ)。だいたい何科であれ、交通外傷がどれだけ悲惨なものか知らない医者など医者じゃない。そいつはろくに救急医療の研修を積んでないということだからだ。
そういう一般的な理由はさておいて、もっと卑近な話をしよう。我々が安全を軽視しない理由の一つには、事故があった場合、もっとも危険なのが(搬送中の赤ちゃんを別格とすれば)当の我々新生児科医であるからだという事情がある。運転士はシートベルトをかけて、エアバッグつきの運転席に座っている。搬送用保育器に向かい合うベンチに中腰で座っている我々には、エアバッグはおろかシートベルトさえない。赤ちゃんの状態に注目していると車外に目を配るすべもなく、当ると覚悟して身構えることすら不可能である。赤信号の交差点に無謀なやりかたで進入した場合、青信号側の車に側面衝突されると、我々は救急車内でもんどり打つか、あるいは救急車の側面と保育器とに挟まれることになる。今回の事故では同乗の医師も助手席に座っていたようだが、二重三重の激しい衝突の様子からして、もしも保育器の隣に座っていたら、彼は助からなかったかもしれない。
だから私はなにも今回の事故に関して、救急車の運転をしていた方に過失が無かったとは申していない。もし過失がないのなら警察の逮捕は不当逮捕ということになるし、今回の事故を警察発表だけで報道したマスコミはまた相変わらずの医療バッシングだとするべきであろう。そういう主張をする気は毛頭無い。
ただ、実は顔見知りではあることだし、寛大な処置をと願うものである、とは、申し上げさせていただきたい。
朝日新聞を攻撃したのは、彼らが淡々と事実の報道に徹せず、不真面目な、珍ニュース扱いの報道をしたからである。小賢しく嘲笑的な記事の書き方をするゆとりをかました割には、医師同乗で迎え搬送に行くという状況がどういう状況であるか、迎えに行く先にはどのような状態で患者さんが待っておられたか、さらには京都第一赤十字病院が新生児搬送車を失うということが京都の地域医療に対してどういうダメージを与えるか、そういう考察を全く欠いていたからである。
どのような患者さんが待っておられたかについて、各紙は考えただろうか。そこまで大きく紙面を割く方針の無かった他紙ならともかく、凝った見出しに手間と紙面を費やした朝日新聞なら、それに触れるスペースもあったろうに。未明に起きた事故だけど当日は夕刊が休みで締め切りは朝刊だったのだから、取材の時間だってあったろうに。ふざけるには十分だけど取材には足りない時間だったのだろうか。救急車に「つくられて」しまった負傷者の命を問題にする一方で、救急車を待っていた命には何の言及もいらないのだろうか。
ここは通りすがりさんのお言葉を借りよう。事故が起きたときに緊急時の救急車に奪われる命と、現実に救急車を待っている患者さんの命と、違いがあるのか? いや、前者が一般的にはあくまで仮定の存在、後者がすでに現実となっている存在であることを考えれば、一般論として同列に比べるのはかえって後者に対して不当である。今回は前者も危うく現実となりかけたわけで、この比較を現実に迫られるような恐ろしい事態になったわけだが。私もまた新生児搬送の当事者として回答を迫られているのだろう。私としては、搬送依頼元の産科医院で出生直後に呼吸困難を生じてNICUからの迎えを待っている赤ちゃんの命と、救急車のサイレンに気づかずぶつかってくる車の運転手さんの命と、あるいはぶつかられる救急車に不安定な姿勢で乗っている自分の命と、比較することを現実に求められるような辛い目には、あまり遭いたくないと思うわけだが。虫が良すぎる願いだろうか。この比較をどう思うかと、朝日の今回の記事に関わった人らに聞いてみたい気もするのだが、大新聞を相手に蟷螂の斧もよいところ、なのだろうね。
その現実化を防止するような運転技量の極みが、高いところにはあるんだろうと思う。緊急車両を安全に運転できるという、運転技術の極みが。実現できなかったら珍ニュース扱いで嘲弄されるというような低いところには、それは無いと思う。むろん、事故を起こしても仕方ないとは言わない。仕方ないとは言わないが、できなかったからって浅慮な新聞に嘲弄されるのは不当だと思う。それも、虫が良すぎる感覚だろうか。

救急搬送 医師が「調整役」

紙面(朝日新聞大阪本社の14版)では「たらい回し」なんていうお下劣な語は使ってないのに、asahi.comではしっかり湧いて出ている。この語には自立した感染増殖機能かなにかあるのかもしれない。浅慮さとか陳腐さとかいうバックドアを突いて感染するんだろうと思う。たった10バイトでたいした能力である。

急患対応に調整役 たらい回し対策 地元医師ら配置
2008年01月07日
 救急患者のたらい回しが起きた時には「調整官」に対応させます――政府は4月から、急患の搬送先の医療機関が見つからず手遅れになるのを防ぐため、搬送先を探して、受け入れを依頼するコーディネーターを全都道府県に置く事業を始める。救急隊の手間を省いて、搬送時間をできるだけ短くする狙いがある。
 コーディネーターには、医療知識に加え、地元事情にも詳しいことが必要なため、地元の医師を充てたい考え。平日の夜間(午後4時ごろ~翌日午前8時ごろ)と休日(土・日、祝日)をカバーできるようにする。

asahi.comの記者の言語感覚はさておくとしても、政策としては画期的である。色々と応用のきく発想であるのがすばらしい。本邦では他にも危機的な状況にある分野は数多い。救急医療でうまくいったら、こんどは財政知識に加え地元事情にも詳しい税理士さんに、もっと徴税できる税務署を探して徴税を依頼するコーディネーターになってもらったらどうだろう。次年度から国の一般会計は黒字になるだろうし、国債なんて金輪際発行しないで済むんじゃなかろうか。
それはそうと、国債っつうのは経済学的には一概に悪なんですかね?

救急車の事故をおもしろがる朝日新聞

まずは全文引用する。2007年12月24日朝日新聞13判△20面より。字の大きさもなるだけ再現してみる。ただし逮捕された運転手さんの個人名は伏せます。年齢も伏せた方が良いかなと思いますが、年配の方です。医師の名前はもともと書いてありません。

救急車なのにけが人作る
多重事故4人軽傷
 22日午後11時45分ごろ、南区九条油小路交差点で、京都第一赤十字病院(東山区)の救急車が乗用車と出会い頭に衝突、はずみで別の事故処理中だった警察車両や信号待ちしていた3台の車に相次いでぶつかり、計4人が軽傷を負った。南署は救急車を運転していた同病院の契約運転手・・・容疑者(・・)を自動車運転過失致傷容疑で現行犯逮捕した。
 同署の調べでは、救急車は男性医師(・・)が同乗し、長岡京市内の病院に向かう途中で、患者は乗っていなかった。・・容疑者は救急車の赤色灯をつけ、サイレンを鳴らしていたが、交差点の信号は赤で、安全確認を怠ったという。

他紙の淡々と事情を伝える記事のなかで、朝日新聞のこの見出しが際だっている。
下衆な見出しに、気の利いた記事を書いてやったという下卑た嗤いが透けて見える。
年末の番組再編期に午後7時半から9時までの特番で「仰天!世界の珍ニュース」とか銘打って流す類の扱い方である。
朝日新聞の記者にしてみれば、救急車などという人命を救うべき立場のものが他人にけがをさせるとは何事かという糾弾の意図を込めての記事というのが、表向きの意図なんだろうと思う。私も表向きには、そのご意見全くその通りと思います。他人様に怪我をさせるなんて言語道断でございます。ええ。私も、救急車で事故を起こしても仕方がないなんて一切申しませんよ。表向きには。
しかし、この書きように、珍ニュースで笑いをとろうという意図が見て取れて悔しい。彼らの認識では、第一日赤の面々は救急車を運転していて他人様に怪我をさせるなんて言語道断なんだから反論する権利も資格もありはしないというところなんだろう。何を書いて嗤ってやっても朝日新聞側にリスクはなしという判断なんだろう。ノーリスクで他人を叩いて嗤おうという卑怯な魂胆がたいへん醜い。この記者は中学高校時代には何人かいじめて自殺に追い込んだりしていないのかな。
マスコミの問題意識が、他人様に怪我をさせてけしからんという程度の認識で終わってるのも、何とも歯痒い。
いったい救急車に医師が同乗して患者を迎えに行くという状況がどういう状況であるか、朝日新聞のみなさまは(たぶん賢い人ばっかりなんだろうけど)、想像したことがおありなんだろうか。通常の患者転送なら送り元が仕立てた救急車で動くのだよ。医師同乗もないことのほうが多いのだよ。今回、患者を迎えに医師同乗で走ってたってことは、迎えの高次医療機関側が医師を派遣して、搬送前に必要な処置を済ませてから監視しつつ搬送するような状況なのだよ。
ゆっくり走っていられる状況ですか?
ゆっくり安全走行して間に合わなかったら、どういう記事をお書きになりますか?
「医療ミス!たらい回しも間に合わず!」「交差点での事故が怖かった?それでも医者か!」くらい、この記者さんなら書くかもしれんなと思う。怖い怖い。
緊急走行中なら赤信号でもモーターサイレンを鳴らして徐行しつつ進行する。余儀なくされない限り停止はしない。むろん確認はするものの、通常の走行に比べて安全と言うことはありえない。しかも、搬送元で患者さんを拝見して状況を落ち着かせてならまだしも、収容前である。一刻も早く搬送元に到着して診療に取りかかりたいのが、搬送側の心情である。朝日新聞にはそれがわからんのだろうか。
内情を明かせば京都第一赤十字病院は総合周産期母子医療センターなのだから、この救急車は新生児搬送にも使う救急車なのである。それが大破したのである。京都市内に新生児搬送を医師同乗で行っている救急車はこことうちとの2台しかないのに、その1台が、「乗用車と出会い頭に衝突・・・3台の車に相次いでぶつか」ったような事故にあってしまったわけである。どうするんだよと思う。年末年始が思いやられる。

君らは「びじねすまーん」だから

優秀なナースがいるとシステムがなかなか改善されないという話
元記事を拝読して、論文もついでに読んでみた。内容は元記事の如く。
でもこれってHarvardのBusiness Shoolの人が書いたんだよな。Medical Schoolじゃなくて。現場の人っつうよりは管理者層になる人らの系列が書いた論文なんだよね。あるいは、管理者層の人らに対して「貴院の運営にはこういう問題(注)があります」と進言して金にする「こんさるたんと」稼業に進もうとする人らのね。
(注)たとえば接客がねずみ王国のやりかたを見習ってないとかね。ちゅうちゅう。
そういう人らにとっては、現場でなんとかしてしまう面々ってのはどっちかというと敵なんだろうなと思う。将来には病院管理者やなんかの経営者を目ざす面々がこういう思考をして、まわりにイエスマンと尻ぬぐいばっかりを置かないよう自戒するってのは歓迎だけれど、コンサルタントのニッチ拡大を目指した意図があったら嫌らしいなと思う。
どういう現場でもそうだろうけれど現場ってのは恒久的なもんじゃない。絶えず小さな破綻を生じ続け、誰かがその綻びを繕い続けてなんとか維持していくのが現場ですから。いや、仕事ってそういうもんじゃないんですか?優秀なナースが居るとシステムがなかなか改善されんかもしれんけど、居ないとシステムは崩壊するんじゃないかな。改善されんシステムでも動かないシステムよりは遙かにマシだと思うが。
それは医療の業界にいると当たり前の認識なんじゃないかと思う。私ら医療の業界がとくべつシステム運営に疎いというわけじゃなくて。人体もたとえば血小板やなんかが絶えず血管の微少な破れを補修し続けてないとたちまち皮下出血だらけになるわけだし。そういう日常のメンテナンスが破れた身体(ときには精神)を世話するのがなりわいだと、「とりあえず目前の綻びを繕っておく」ことに関してはBusiness Schoolの人らより敏感なはず。
加えて言えば、「下手に手を加えてかえって事態が悪くなる」のも臨床にはよくあるお話で。「カイゼン」に関してはまず身構えることにしている。止めてはいけないシステムなら、とりあえず動いているうちは手をつけないというのも美徳の一種じゃないかと。

用語規定では「尊厳死」とは何をさす語なのだろうか

厚生労働省は、終末期の治療方法を文書で前もって確認しておくことに診療報酬をつける方針なのだそうだ。そのニュースに接して、我ながらいささか単純直截な読書だよなと思いつつも「イェルサレムのアイヒマン」を再読した。
イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告
ハンナ アーレント / / みすず書房
ISBN : 4622020092
ホロコーストに関するナチの文書には、「絶滅」とか「殺害」とかいう不穏当な言葉は出てこないそうだ。一切の通信には厳重な「用語規定」が課せられていた。

殺害を意味するものと規定されていた暗号は<最終的解決>、<移動>Aussiedlung、および<特別処置>Sonderbehandlungだった。移送は<移住>Umsiedlung、および<東部における就労>Arbeitseinssatzとされたが・・・(同書67ページより引用)

<尊厳死>ってのは、用語規定的に、なにか別のもっと露骨な概念をさす語ではないんだろうねと念をおしておきたい。<終末期の治療方法>ってのも何かをさして言う用語じゃないんだよね。本人が望まなかった延命治療ってのは、本人が望まなかった劣等人種としての生なんぞといった下劣な概念と一線を画すものなんだよね。そこで一笑に付そうとしている君、君の着ているのは本当に白衣かい?確かめてみた方がよい。鍵十字のついた黒シャツじゃないことを。

この用語規定方式の懸値なしの効果は、それを使う連中に自分らのしていることを自覚させないことにあるのではなく、殺害や虚言について彼らが抱いている古い<正常な>知識によって自分のしていることを判断することを妨げることにあった。(同書p68)

最初のガス室は一九三九年に、「不治の病人には慈悲による死が与えられるべきである」というこの年に出されたヒットラーの布令を実施するために作られた。・・・中略・・・人目を偽り偽装するために注意深く考え出されたさまざまの<用語規定>のうち、<殺害>という言葉のかわりに<慈悲によって死なせる>という言葉が用いられているこのヒットラーの最初の戦時命令以上に、決定的な効果を殺し屋どものメンタリティに及ぼしたものは一つもない。(p86-87)

引用ばかりの記事になってしまった。何だかうまくまとまらない。場末のNICUに勤務する身では「尊厳死」なんていう大層なお言葉を拝聴することはめったにない。そもそも、医師としてご縁を頂いた方々(赤ちゃんも、むろん含む)の死に関して、私は尊厳があったのなかったのと申し上げる立場にはない。
以下の情報源に深謝。
終末期の治療法、意思確認に診療報酬 – What’s ALS for me ?
これが人間か──終末期の治療法、意思確認に診療報酬 – モジモジ君の日記。みたいな。