PCR抑制論のこと

COVID-19が始まったころには、SNSではPCR抑制論が猖獗を極めた。PCRを行っても偽陽性で真の診断には結びつかない、希望者が押し寄せて医療崩壊する、云々。

私はその論調に乗らなかったが、べつに手柄だというわけではなく、単に幸運だっただけだ。患者数が極めて少ないときの検査は陽性的中率が低い云々の、ベイズ推定の知識を披露して喝采をあびたいという誘惑を、当時感じた記憶はある。それをやらなかったのは、白状してしまえば、単に大勢に先を越されておっくうになったからだけであった。

ベイズ推定について熟知していたわけではない。ベイズ推定については医学部の講義は1コマ、卒後には基礎的な総説でときどき復習した程度の、臨床医の知識としてはありきたりな程度だ。それらの知識においては、検討する臨床検査の内容はブラックボックスだった。感度と特異度は全ての臨床検査においてトレードオフの関係にあり、感度と特異度がトレードオフならベイズの適応のうちだと認識していた。PCRも、その感度と特異度を語り得る以上はベイズの俎上にあるものと考えていた。そのばけもののような特異度のゆえに例外的なものとして扱うという認識は、発想の内にはなかった。

私の専門範囲は新生児医療なのだが、仕事の中でベイズ推定と縁の深いのは先天性代謝異常等検査である。実際の罹患率が高くても数千分の1,低ければ数十万分の1などという、医者人生の数十年に新患1人遭遇すれば多い方みたいな疾患を、古典的なガスリー法であれ最新のタンデムマス法であれ、検査一発で確定診断するのは不可能だ。その感覚を敷衍すれば、PCR一発で診断確定というのはほとんど不可能なことのような印象があった。

PCRについては、正直まったく知らなかった。qPCRという基本的概念さえ知らず、いまだにゲル電気泳動で判定していると思っていたほどだ。蛍光の度合いを肉眼で判定しているのだろうから偽陽性・偽陰性も一定程度はあるだろうなという、根拠を欠いた思い込みをしていた。NICUから発注するPCRといえば髄液の単純ヘルペスウイルスDNA検出程度だったが、新生児ヘルペスという疾患がどれだけ稀なものかは知っているので、念のためと出した検査が全て陰性で返ってきても怪しみはせず、検査の内容を具体的に調べることはなかった。このへんはお恥ずかしい限りだが、忘却して都合のいい記憶を捏造し始めないように、自戒として書き残しておく。

ただ、週1回だけ当院NICUにアルバイトにきていた大学院生に、PCRというのは喧伝されているほど難しい技術なのかと、流行初期に聞いてみたことはあった。全然簡単なものですよというのが回答だった。プライマーの配列さえわかれば、プライマー作るのに24時間、あとはどしどし検査できますと。京大医学部の大学院で簡単だというものが世間一般でも簡単なものなのかという推定の限界はあれ、世に言われるほど熟練を要する困難な技術というわけではないのだろうとは思っていた。

臨床医として行うべきと思った検査を外部から制約されるのは癪に障るという、狭量な人格に由来する心情もあった。そうは言っても地方の公衆衛生担当者がてんてこ舞いしているとも報じられており、何らかPCRの施行数を増やせない資源上の理由があるのだろうとは思っていた。いっぽうで、まったく前例のない状況において、まずデータを集めないでどうするのかという疑問もまたあった。そこに費やす資源がないのなら拡充すればよかろう、人手にしても機材にしても金銭を出してかき集めることはできようとも考えていた。

私が部長をつとめるNICUは京都府初の認可NICUである。京都府の周産期死亡率が全国でも最下位を争っていた時代に、総病床数167床の小規模私立病院が、大学病院や赤十字病院にさきがけて認可NICUを設立し、自院救急車による新生児搬送を開始して現在に至る。むろん京都府からも相当の補助を頂いている。国からだって、特異的に当院へというわけではないにせよ、全国の周産期医療拡充の過程で相当の予算が投じられ資源が拡充されてきたのを、同時代で見てきた。駆け出し時代からそのような職場そのような業界に勤めていると、資源がないからと問題への対処を最初から諦めること、少なくともそれを当然として恥じないような論調は、不甲斐なさを通り越して、奇異なものにも感じられた。

こうして書き留めたのは、あくまでも現時点においての記録の意図である。第5波が奇跡的に落ち着き、病棟も落ち着いて受け持ち患者もなく休日出勤も必要のない、終日自宅で過ごせる日となった。こういうことは時間が経てばたつほどに自分を正当化する方向へ記憶が傾くものである。書き残しておくに如くは無し。

NICUのカーテン

昼過ぎNICUに入ってみると、カーテンレールの工事をしていた。個々の保育器とその周辺の小範囲を囲んでカーテンを引くことができるようになった。普段は空調や監視のつごうがあるから開放しておくけれど、カンガルーケアや直接授乳などを保育器周りで行いたいときのプライバシーの確保が容易になった。

カーテンは看護師たちのかねてからの念願であった。今回の工事は彼女らが自分たちで看護部上層や経営とかけあって予算を取るところから始めたことだ。俺の手柄といえばケチをつけなかったことくらいだ。

うちのNICUの看護師たちの積極性というか行動力というか、たいしたものだと思う。彼女らの肝が据わっていないと重症入院が受けられない攻めきれないということになるんで、看護師の勇敢さというのはNICUの宝だ。このカーテンは直接に赤ちゃんの命を救うというものではないが、たぶんこのカーテンをつけたことでうちの看護師たちはいちまい勇敢になったと思う。

神殿つうもんは人の心の中に作るもんやで、とかのナザレの大工も言ってなかったか。

衰退するNICUで

NICUの入院患者が2人にまで減った。二人しかいないと静かなものだ。人工呼吸器の作動音も絶えて久しい。覆いを掛けた保育器や人工呼吸器が立ち並ぶ、倉庫のような暗がりの片隅で、赤ちゃんと看護師がひっそり過ごしている。この子らももうすぐ帰る。私は事務仕事も面白くなくてVolpeの新版を読み続けている。

例年は冬になると極低出生体重児の入院が続くものだが、この冬はその増加がまったくなかった。悪い比喩だが、昭和29年、北海道の海にニシンがぱたっと来なくなったときはこういう感じだったんだろうかとすら思う。この数年、減った減ったと書きながら細々続けてきたが、今度こそ本物という感触がある。

鰊も獲られたくないだろうし赤ちゃんだって入院したくはないだろう。ニシンは獲りすぎで資源が絶えたんだろうが、そりゃあ赤ちゃんは生まれるのを片端攫えてくる訳もなし、NICUの入院数が減ったのは産科医療の進歩が効いている。ひと頃は維持不可能だった妊娠が維持できるようになり、今日明日にも早産で分娩だと腹をくくって待機した胎児も、けっきょく危機を乗りきって正期産で元気に産まれ退院していく。赤ちゃんの元気は何より言祝がれることであるし、漁師さんたちを見習って俺たちも他の仕事を探すところなのだろう。そうして時代は過ぎる。当事者には色々の感傷はあれ、時代が過ぎるってのはそういうものなのだろう。

NICUががらがらなのは当院ばかりではなさそうで、京都府の周産期情報ネットワーク情報を参照すると、大半の施設が受け入れ可能の意思を示している。それも複数の空床を提示している。時代は変わるものだ。今夜もし入院紹介があれば府外搬送だと重い気持ちで過ごす当直はもう過去のものになった。生まれる赤ちゃんの1人1人にとっては、これは良いことだ。憂う必要はなにもない。

この状況を懸念するとすれば少子化の面からだろう。少子化が進行し、子供を産む年齢層の女性の数すら減り始めて久しい。世の中の人には、まだそれほど子供が減った印象は持たれていないかもしれないが、この入院数の減少には少子化もむろん影響している。NICUに入院する子供の総数が減ると、少ない入院は総合周産期母子医療センター他の大施設に集約されていく。我々のような末端の施設はまっさきに変化の波をかぶることになる。少子化をもっとも鋭敏に観測できる場所である。

小松左京の短編に、サラリーマンの主人公が営業でたまたま訪れた産科医院で、ふと気がついてみれば赤ちゃんが1人もおらず新生児室が静まりかえっているというものがあったと記憶する。赤ちゃんが生まれなくなったのですと助産師が言う。その帰路、うららかな春の日にも、子供の声が街からほとんど聞こえない。御大の作品としては淡々とした、これといって起伏のない小品であったが、いまの様子は御大の想像どおりだ。

撤退戦

 超低出生体重児の入院数が少ないまま年をこした。新年度からは医師数が減ることになった。今後の自分の仕事は撤退戦の指揮ということなんだろうな。

 総病床数が200にも満たない小さな私立病院が、当地ではまったく手つかずだったNICU医療を手がけて、医療的には多くの赤ちゃんをお世話できたし、商売的にはまったく手つかずの市場に一番乗りで濡れ手に粟の収益があがった。たしかこういう状況をブルーオーシャンと呼ぶのだよね。

 しかしその後、「なんだああやればいいんだ」とばかりに大規模病院がつぎつぎNICUに参入してきた。当地に一個もなかったNICU認可病床が、今では厚生労働省の目標とする出生1000あたり3床を上回るほどまで充足された。となると、どうしても、小児外科も心臓血管外科もいつだって緊急手術できます的な、うちでは病院の総合的な体力としてとうてい追いつけない大施設に、主流を奪われる形となった*1

 「お医者様」水準の世間智しか備えない身で、他の業種の商売にはむろん疎いから根拠のない想像だけでこれから先を語るが、おそらく私らがここまでやってきたことはたぶん「ベンチャービジネス」だったのだろうと思う。であれば、他の大規模施設が台頭してきた時点で部門ごと売却して病院には投資した資本の回収を、俺ら職員は新たな雇用先をというのが、いわゆるベンチャービジネスの王道だったのだろうと思う。我々の業界でそのような部門のリストラが可能なのかどうかはよくわからんが。

 主流ではなくても地域周産期母子医療センターとして、地道な周産期医療を着実に継続するというのが次善の策ではあった。しかし少子化の進行が予想よりも早かった。不妊治療における多胎妊娠の抑制や新生児蘇生法の普及など、産科医療の進歩も手伝って、極低出生体重児も新生児仮死も入院症例ががくっと減った。これは世間的には大変に良いことだ。しかし他人様のトラブルをメシの種にする不浄な職業としては、メシのタネが減るというのは、喜ぶにしても手放しではいけない。何らかの対策が必要となる。

 えげつない言い方で多くの読者諸賢にはご飯が不味くなるかもしれず恐縮ながら、もはやうちの施設にとって新生児医療はブルーオーシャンではない。他分野以上に人件費を喰う(3対1看護ですよ。小児科医24時間専従ですよ。)部門ブルーオーシャンではなくなったときに、それでも今まで通りにNICU医療を看板に押し通していくのが良いことなのかどうか。儲からなくなったらベンチャービジネスなんてやってる場合じゃないのではないか。本業の、小児科一般の地域医療の需要にきちんと応えているかどうか足下をしっかり見なおす時機ではないか*2。小児科地域医療の一部門としての周産期新生児医療はなくてはならない部門だが、そこに傾注するあまり他の分野が手薄になってはいないか。新生児専門医以外の面々が傍流に居るような気分を味わってはいないか。そのあたりを見なおす時機なのだろうと思う。

 その当たりを見なおして、ブルーオーシャンを見限って地道な方針に立ち返った場合、傍目には先代が立ち上げたNICUを寂れさせた凡庸な後継者っていうふうに見えるんだろうとも思う。まあ悪名は覚悟しておかんといかん。

 

*1:私自身はうちのNICUの創生期の数年を、先代部長と2人でつくった若手の医師が他施設に去るときに(それは長年のご希望の最先端施設への転勤だったから栄転である)その替わりとして赴任してきて、そのうちに部長職も引き継いで、絶頂期からだんだん日が陰る様子をここまで見てきた。まあ個人的には、「売り家と唐様で書く三代目」じゃなかろうかとの批判は甘受せざるを得ないとは思っている。

*2:あえて時機と書く。

祖父のこと

 母方の祖父は満鉄の職員だった。とうぜんのように敗戦時には幼かった母も含め家族をつれて苦労して引き揚げてきた。戦後も農業を中心に勤勉に働いて、私が物心ついたときにはすでに故郷でそれなりの暮らしを回復していた。苦労した人だとは母や他の人から人づてに聞いたが、当人は全く苦労話をしなかった。周囲の人の言葉の端々に、祖父への尊敬が感じられた。承認欲求的な面では、ことさらに苦労話をしなくてもよい状況の人ではあった。

 母もまた実家の自慢をしたがる人ではなかったのだが、幼い頃に両親や兄弟と這々の体で帰国したという思いはあるようで、中国在留の日本人孤児帰国のニュースは食い入るように見ていた。そうして母が話すには、引き揚げのときには土地の人が逃げ道を手引きしてくれたとのことだった。祖父が土地の人に辛くあたることがなかったためだろうと母は言った。あの祖父ならそうだろうと私は思った。

 祖父は私が研修医だったころ、癌で亡くなった。病床を見舞ったさいに突然、昔話をし始めた。兵役で衛生兵として中国に渡った話だった。たぶん満鉄職員になる前だろう。下級兵士なので中国のどこに連れて行かれるかは知らされないのだけれど、故郷の人には海の色を見ておけと言われたとのこと。海が濁ってきたら黄河付近で、濁らないままなら揚子江付近だと。どっちかなら命が危険で他方なら安全だと言われていたというがどっちがどっちだったか、祖父は明言したように思うが私が覚えていなくて申し訳ない。でも海が濁らなくてほっとしているうちに云々と聞いた覚えがあって、たぶん上海付近に上陸したんだろうと思う。上海なら北方よりマシだったとすると、上海事変南京事件よりも前だったのだろうか。

 上陸したらさっそく診療にあたる仕事場を設営したのだそうだ。ロール状に巻いてある真っ白な布を、転がしてさーっと広げていったと。当時は何も思わんかったが、今にして思えばあの布も徴発してきたんだろうなあと言った。それなり黙ってしまった。私はそれで暇乞いして当時の研修先だった滋賀に戻ってきた。そのうち、亡くなったという知らせが来た。

 なにかあの先にも話したいことがある様子ではあった。話せないまま抱えてきたいろいろの事情が祖父にもあるのだろうと察せられたし、たぶんそれを聞けたら祖父にとっても幾ばくか救済になったのだろうと思う。でも一度の面会ですべて語り尽くせるものでもなかったのだろう。そう簡単に語れるのなら既に語っていただろう。何回か見舞いに通えればよかったと思う。当時は駆け出し医者の仕事で頭がいっぱいで、加えてしだいに定型発達を外れる兆候を見せていた息子の心配もまたあって、祖父には申し訳ないことに、彼のためにしばらく休暇を延長してみようかとは思いつきすらしなかった。

 年月がたって中国人の超低出生体重児を双胎で受け持つ機会があった。かなり危険な状況であったが乗り切って元気に退院した。祖父が助けてくれたのかもしれないと思ったし、母を含めた祖父一家の引き揚げを援助してくれたかの国の人たちにもなんらか恩返しになったのではないかとも思った。*1

*1:日本の健康保険を最大に利用したんで二人前の医療費おそらく2000万円はかかっているはずで世界に冠たる日本国の保健医療制度にも感謝しごくだし保険料をご負担くださっている読者諸賢をはじめ皆様にも感謝しごくではあるが。

絶滅危惧種のつぶやき

私は医師3年目から5年目まで、滋賀県の僻地にある公立病院に勤務した。今で言うなら後期研修医にあたる時期だが、一人前に外来もしたし、おおくの新生児の主治医もした。出生直後から退院、その後のフォローアップまで。加えて土地の乳幼児健診にも出務して、たくさんの乳幼児に接した*1。6年目からいまの職場に赴任した。私の経歴は、フォローアップから始めてNICUに入ったというものである。当時はあまり奇異にも思わなかった。

しかしそういう経歴で新生児医療に入ってくる医師は、今後はもういないのだろう。多くの大規模NICUでは、フォローアップは特に当直が辛くなった等の事情でNICUの第一線を退いた医師の仕事である。妥当と言えば妥当な仕事だ。医療においてもその他の人生全般についてもそれなりに経験を積んでいたほうがよかろうし、就学までフォローするとしても7年は必要となれば終身職を得た常勤医でないと不都合だろう。それはそういうものだと思う。

場末のNICUにいると医学生や研修医時代の先生方と接する機会が少なくて、彼らの実情を直接確かめることがなかなか困難なんだけど、いろいろな経路で間接的に伝わってくる情報を考えると、私らのころより今の研修医達はよほど自分のキャリア形成について意識が高そうである。私もまあ当時には珍しかった「大学病院では研修しない道」を選んだ人間だし「意識の高さ」を揶揄する意図も資格もないのだが*2、でも今どきの意識の高い研修医達は、研修医が外来枠を任されたり長期にわたるフォローの責任を負わされたりするような、リスクマネジメント的に危うい施設は敬遠するんだろう。施設側としても、あえてそのリスクをとろうとする研修医に応じる気概はなかなかないだろう。

新生児医療はやりがいのある分野だし、選択する若手はなかなか目が高いと思う。目が高い若手は早期から目標を定めて、キャリア計画のもと脇目も振らず研修するんだろうと思う。青年負いやすく学成り難し*3。でもそういう無駄のないキャリアを歩む新生児科医ばかりになると、私のような横入り組は絶滅するんだろうと予測する。そうしたときにNICUの風合いが変わるのではないかと一抹の危惧はある。

*1:自分の長男がその中で接した最重症だった

*2:私が大学病院を避けたのは、指導もろくにせずまともな給料もくれず食費も救急処置の技量もアルバイト先で入手するのが前提なのを嫌っただけの逃げの選択なんだけど。

*3:初期研修2年後期研修3年で小児科専門医取得、さらに3年新生児専門医研修して新生児専門医取得、4年間大学院に行って博士号取得、さらに海外留学2年、合計14年。24才で医師免許とって14年したら38才。

タダで貰って得をしたと思っていてもだ

ビフィズス菌製剤を無料で提供していただいているお話の続き。

無料というのはどうにも危ういんじゃないかと思う。極低出生体重児の全員に与えることがこれからの決まり事となるような、そういう基本的なものをだ、一企業の善意に頼ってしまうのは、キキカンリ的にどうなんだっつう話。森永さんには縁起でもない話で恐縮なんだけれど、昔は森永さんって業界の一番手じゃなかったよね。みなさん雪印乳業さんって憶えてる? まあ人工乳業界では森永さんよりシェア低かったかもしれないけど(よく知らない)。でも雪印乳業がああなる前、ああなりかねんよと真面目に考えてた人っているの?

まあ森永さんが倒れるよりももっとやばいのは、森永さんがにっこり微笑みつつ我々の業界の首根っこをぎゅっとつかんでしまうってことだろうね。森永さんがビフィズス菌をタダで配ってる限りは、他のメーカーがそれを商品として有料で売るなんてことはないじゃないですか。俺もタダで配ってみようとか思って製品開発に取りかかるような、暇と金の余った企業なんてなかなかないでしょう。極低出生体重児むけビフィズス菌製剤はとうめん森永乳業さんが独占だ。我々は森永乳業さんと縁を切ることが不可能になるんだ。これからますます。

製剤製剤ってさっきからなんとなく行ってしまってるけども、まあナマの菌じゃなし粉末なんだけれども、あれは薬なんかね。日本国で人が口から摂取するものは薬品か食品かどっちかだってことになっている。薬品なら薬事法の管轄だし、我々は保険診療やってるんだから保険収載されてない薬品は御法度だ。でもあんまり薬としての認可を受けているふうじゃない。じゃあ食品なのかというと、喰って美味いといって森永さんは売ってるわけじゃない。なんかしらんけど効能がありそうなことを言ってる。はっきり効能をうたったら、はっきりと薬になっちゃうからね。なんとなくの効能だ。とするとあれはトクホなんすかね。トクホとも記載はしておらんようだがね。

はっきりしなくても何となく病院に入り込んで赤ちゃんの口に入り込めているのは、そりゃあもちろん安全性についてけちをつける余地がないからではあるけれど、こんなふうに曖昧なまま入ってこれるのはやっぱりタダだからだろうね。病院も経済的な機構であるからには、病院の中で動くものは病院の経済的ルールに従わなくっちゃならない。そして経済的ルールにおいては価格ってのが物理学世界のルールにおける質量みたいなものなんだ。経済世界で値段のないものは物理世界での質量のないものみたいなものなんだ。だから物理世界で質量がないものみたいに、無料のビフィズス菌製剤は病院の中を自由に動く。薬品じゃないから薬局は関知しない。食品かもしれんけど代金の決済が生じるわけじゃなしと栄養科もなんとなく埒外だ。かといって医療機器や消耗品みたいに購買部が在庫を管理して問屋に交渉するもんでもない。さすがに質量はあるから壁を通り抜けて現れるわけではないが、病院の経済的な壁はするすると通り抜けて、いつのまにかそこにある。まあ、森永の営業の人が持ってきてくれてるんだろうけど。

ビフィズス菌製剤の無償提供について

topic02 健全な発育をサポート:ビフィズス菌 M-16V | CSRの取り組み | 企業情報 | 森永乳業株式会社

低出生体重児にたいするビフィズス菌投与はNICUの業界内でもスタンダードと認識されつつある。特に壊死性腸炎の予防には効果があるとのことで、壊死性腸炎の多い国々では投与しないことは非倫理的だとまで言われている。

当院でも提供を受けている。有り難いことである。有り難くはあるが、いまひとつ釈然としない思いも、どこかで感じている。

自分の狭量さ、他人に頭を下げたくなさが、そう感じさせているだけかもしれないけれども、NICUを管理運営するものとして、人工乳メーカーに対して余計な借りを作りたくないとは思う。

人間、くれるものを貰えば礼のひとつも言うものである、礼のひとつも言えばそのついでに他の話題のひとつふたつも出るものではあるし、ほんらい物売りに来ている人間ならその話の締めくくりには自社製品をよろしくと言うものである。言われていちいちよろしくするようでは銭がいくらあっても足りないが、しかし最初にものを貰っておればよろしくしないのには抵抗が強くなる。

タダでくれるものを寄越せと求めておきながら、母乳育児推進と称して彼らの人工乳を閉め出していくことができるのか、産科病棟で母親達に「調乳指導」をしていく同社社員達を閉め出すことができるのか。俺の面の皮はそこまで厚いだろうか。

不満をブログに書けるのは無責任さの現れだったのかもしれない

在宅介護で苦労しておられる重症児のためにレスパイト入院を実現したく、一部はすでに開始している訳だがそれをシステマチックに行いたく、病棟の一部を改装してハイケアユニットなんて作れないものかと、改装のラフスケッチを建設会社さんに渡して見積もりを頼んだりしている。むろんユニットのできを決めるのは天井や壁じゃなくて人なので、これからも苦労はあれこれあるんだろうけども。

昔なら、重症児のレスパイト先が無いのはどうしたことか云々とこのブログに不満を書いていたのだろうが、その不満で読者諸賢のお耳を汚すのではなく解決策を病院経営層に言えるようになったのはありがたいことで、出世というのもしてみるものである。

むろん三顧の礼で迎えられるまで爪を隠してましたとかいうのでもなくて、頭ごなしに命令してもへそを曲げるばかりの私を、院長やら教授やら(知己らしい)が上手に誘導してくれているんだろうとも思う。やらされていると思うと愉快さが減るから自分の知恵だということにしているけれど。

とは言いながら改装も半端なことを企てては却下されることが繰り返され、まるで進歩が無いのはお恥ずかしいことである。過去記事にも同様のことを書いたような気がしているが恥ずかしいので検索する気にならない。

繁忙と閑散の差が大きすぎる

4月中頃からだいたい半年ほど、NICUが延々と満床続きだった。さいきん、潮が引くようにどんどん退院していき、ついに入院数が3人にまで減った。

看護スタッフにもずいぶん疲労がたまっていたので、しばらく平穏に過ごすのもいいかもしれない。スタッフのみんなにはこのさい疲れをいやしたり、忙しい間につもった疑問点を解消するような勉強をしたり、いろいろと平穏なときにしかできないことをしてほしいと思う。現状なら勉強会も日勤のうちにやれるくらいだ。