母乳育児と朝日新聞

朝日新聞に母乳育児に関して世間の誤解を助長しかねない特集記事が載せられた由で、日本ラクテーション・コンサルタント協会が緊急声明を出している(参照:PDFです)。ちなみに朝日新聞の記事は朝日のウエブサイトで検索をかけても見つからなかった。いちおう読んだ記憶はあるのだが、私自身の印象としては、わりと文献なんか調べてまめに取材もして、方向性は間違ってるけど態度としてはまじめに書いた記事だと思った。記事の原文をご参照いただけないのが残念である。ラクテーション・コンサルタント協会の声明から内容をご推察願いたいと申したらルール違反だろうか。
私見であるが、やっぱり母乳哺育とかカンガルーケアとかは、じっさいにやっているところを見て意外とうまくいくもんだねという実感を持ってるかどうかで、認識が極端に異なるんじゃないかと思った。
それは例えば飛行機のようなもので、たとえば19世紀の人にジェット旅客機の設計図を見せても、それが空を飛べるのだと信じる人はかなり少ないんじゃないかと思う。朝日新聞の記者さんも、たぶん母乳育児の上手くいっているところを見たことがなかったんじゃないかと、私は推測している。巨大な金属塊が飛行できるなんて信じられないと19世紀の人が仰るのと同じ水準で、母乳だけで上手くいくということが信じられないんじゃないかと思う。
でも19世紀の人が飛行機を信じられないからといって、彼らを未開だと見下すのは間違いだ。彼らがこんなもの飛ぶはずがないと言ったとしても、ある意味でそれは正しいことだからだ。19世紀の人がジェット旅客機の設計図を見せられたところで、やっぱり19世紀にはジェット旅客機は作れないし飛ばせないのである。飛行機にはじゅうぶん強くて軽量な金属材料が必要だし、それを精密に加工する技術も必要だ。機械技術のみならず、真っ平らな滑走路が引ける建設技術とか、計器飛行のための通信技術とか電子技術とか、色々とインフラが必要だろう。それのない19世紀に、ジェット旅客機だけが単独で実現することはあり得ない。
精密加工といえば20世紀に入ってからでさえ、零戦のエンジンのボールベアリングは今のパチンコ玉ほどにも正確な球形ではなかったというし。
19世紀という時代が飛行機を信じられない環境であるのと同様のレベルで、朝日新聞社というのは母乳育児を信じられない環境であるのだろうなと、今回の記事を読んで思う。朝日新聞社というのは記者さんがご自身で母乳育児ができるような職場じゃないんだろうな。出産後の職場復帰が困難だったり、仕事中の搾乳とかできなかったり。母乳にこだわってると出世できなかったり。推測だけど。
環境に負けず独立不羈で母乳育児を完遂したとしても、自分の子だけ見てただけでは認識を変えるには不十分かも知れない。子育て中の社員同士で母乳育児について語り合ったり助け合ったり、社外の子育て中の親御さんと交流があったりとかいった、豊かな人間どうしのつながりのなかで、多くのこどもたちが母乳で育っていくのに接していると、なお、いろいろな認識が深まっていくのではないかと思うのだが。それは母乳に限らず、いろいろな世の中の叡智についても。
そうしてしっかり子育てをした社員がその後も不利益なく(いやむしろその過程で得た知恵ゆえに)出世する人事システムとか、そういう懐の深さを朝日新聞社がどれほど備えているのか。母乳育児を問うた記事で、問われるのは朝日新聞社自体であるように思える。

赤ちゃんは泣くものだと思っていた

生れたばかりの赤ちゃんは数分間は泣き続けるものだと思っていた。大声で泣くことで肺が開くのだと思っていた。だから帝王切開に立ち会ったときも、赤ちゃんを受け取ったらラジアントウォーマーにのせて羊水を拭き取って、あとはひたすら泣かし続けていた。
さいきん、とあるきっかけがあって、帝王切開で娩出されたばかりの赤ちゃんにカンガルーケアを何例か行った。体を拭いて気道の安定を確認しだい、お母さんの胸のうえに赤ちゃんを載せる。むろん蘇生術が必要な赤ちゃんにそんなことしている余裕はないが、呼吸も安定して緊張も良い、アプガー1分値をカウントしたらあとは5分まで暇を持てあますような元気な子たちを対象として。
赤ちゃんはお母さんの素肌にのせるとぴたっと泣きやむ。今まで泣きわめいていたのが嘘のように。息が止まったのではないかと不安にさえなるが、しかし赤ちゃんを支えた自分の手からは赤ちゃんの呼吸運動がしっかり伝わってくる。赤ちゃんの顔をみてもチアノーゼはない。
あれはお母さんから引き離されて泣いていたという一面もあるのかも知れないと今さら思う。彼らはお母さんの何に反応して泣きやむのだろう。匂いという説もあるが、なんだかそういう機械的なお話に還元して語るのは野暮なような気もする。

母乳とミルク、米とスターチ

たとえばトウモロコシやジャガイモから得られたスターチを射出成形とかなんとかで直径数ミリメートルの楕円形に成形したとする。その粒の成分を分析したら炭水化物やらタンパク質やらが相応含まれていたとして、それを根拠にその粒を米と称してよいかどうか。その粒を多数集めて加水し高圧下に加熱して糊化させたとして、それを飯と呼ぶかどうか。その糊化したものを俵型に固めてワサビを塗り魚肉を載せたものを、寿司と称して出されたら寿司屋の客は納得するかどうか。
母乳と人工乳の関係というのは、この米と成形スターチとの関係だと私には思える。いくら我が社の人工乳は分析したら母乳同然の栄養分をふくんでいますと人工乳のメーカーに宣伝されても、だからってそれが母乳と同格と言いたくないのは米と成形スターチを同格と言いたくないのと同じである。母乳育児は栄養ばかりではなく文化の問題でもあるのだ。
現在の日本では、店頭には輝くばかりの赤ちゃんの笑顔を描いたミルク缶がならび、育児の象徴といえばほ乳瓶になってしまった。企業から派遣されたスタッフが定期的に津々浦々の産科病棟にやってきて、出産後まもないお母さんたちに「調乳指導」をしてゆく。産院退院の時には人工乳の缶にもろもろのグッズをつけた「おみやげ」が企業の出資で配られる。
我が社の成形スターチはコメ同様の炭水化物・アミノ酸組成を実現していますと、たとえば米国の穀物メジャーが主張して、その粒を詰めた袋に実った稲穂あるいは茶碗に盛った炊きたての飯の絵を描いたりしたものを売り込んできた場合、消費者はそれをコメとみなして買うかどうか。そんなものが店頭に並んで米を駆逐し始めたときに、栄養のバランスがとれている成形スターチのほうが食品として子供たちの健康によいと言えるのかどうか。穀物メジャーが送り込んだ調理指導員が全国津々浦々の小学校にやってきて、家庭科の授業で「調飯指導」と称してスターチの炊き方を指導したら、PTAは納得するかどうか。そのスターチを食するのに特別な食器が必要だったとして、日本人の食の象徴がその食器だとされたらそれは日本の文化にとってよいことなのか。
そういうものだと分った大人がそれでもと言って食べるぶんには自由だ。米を食べたくてもときには不作の年もあろう。あるいはきついコメアレルギーだが糊化スターチなら食べられるということがもしもあったとして、そういう人が寿司というものを食べてみたいと仰ったなら、スターチ寿司を食べることに異論のあろうはずもない。同様に、いろいろな事情で母乳が飲ませられないということもときにはある。お母さんが抗ガン剤を投与されているとか。赤ちゃんに特殊な先天代謝異常があるとか。どうしてもコメあるいは母乳が使えない事情があるときに、代替品が用いられることはあり得ると思う。コメでなければ飢えたほうがマシだとか口のおごったことは言いたくない。まして代替品を食べているから卑しい奴だなどと他所様を見下すようなことはしてはならない。
しかしあくまで代替品は代替品なのであって、それは栄養成分が同じとかいう理由では片付かない格差なのである。本家の足りないところを遠慮がちに埋めるくらいが代替品の正しい立ち位置だ。代替品がデフォルトづらして本家を押しのけるのは本末転倒である。
その本末転倒な状況を許していることに、赤ちゃん関連の仕事をしている身としては忸怩たる思いである。本稿はけっして人工乳を用いているお母さんたちを攻撃する意図で書いたものではない。
出産後30分以内に初回哺乳とか、一日8回ないし12回以上赤ちゃんが欲しそうにするたび与える哺乳とか、完全母児同室とか、そういう基本的な母乳確立の努力をせず、お母さんはお産で疲れただろうからと称して生れたばかりの赤ちゃんを新生児室に「お預かり」にして初回哺乳は生後8時間からとか、その後も哺乳といえば赤ちゃんが泣いたときに瓶哺乳するだけで結果として一日5~6回程度の哺乳しかしてないとかいう産科病棟はうちばかりではあるまい。そういう悪習をルーチンにしている産科で母乳が出ないから人工乳でとお母さんに「指導」するのは、赤ちゃんの立場に立ってみれば、たとえば、春先は眠いねとか梅雨どきは雨が多くて嫌だねとかいって代掻きも田植えもしないまま7月になり8月になってしまって、それで今年の稲は不作だから成形スターチを米と思って喰えと言われたようなものではないかと。それは、今年も精一杯がんばってはみたけれど天候不順でどうにもなりませんでしたと言われてスターチをわたされるのとは事情や印象が違うのではないかと思う。そういうスターチが子供たちの学校給食に代替米と称して出されたら親として納得できるかどうかだ。人工乳も同じようなスタンスで考えるべきではないかと、赤ちゃんの医者としては思うところである。
以下、不要のことかも知れないが。但し書きをいくつか。
・いま現時点で赤ちゃんに人工乳を与えているお母さんを弾劾する目的でこう書いているわけではない。母乳が当然で人工乳はあくまで代替品だと思うが、それとこれとは別の話。正しく支援すれば「母乳が出ない」ことはまずないと、母乳育児推進の人たちは主張されるし私もそれに反論する根拠をもたない。であればこそ、母乳ではなくて人工乳を「選ばざるを得なかった」お母さんたちに対しては、周囲の支援が足りなかったのではないかと反省こそすれ、当のお母さんたちを責めるのは当らない。
・子育て経験のないお母さんに十分な支援なくいきなり完全母乳を強いるのは、あたかも、まったく素人の都会人に種籾をひとにぎりわたして、これを栽培して子供がたべる米を自給しなさいと強いるようなものだ。それができなくてスターチを食べるはめになったとて、できなかった人を責めることがあろうか。

新生児医療に新人をリクルートするために

若い医師には小児科へ来ようとする人は少なく、小児科の中でも新生児をやろうとする人はなお少ない。新人のリクルートのためには新生児医療のすばらしさをアピールしなければならないと、業界内のメーリングリストでときに声高に語られたりして、やれやれと思う。
新生児医療が詰まらない仕事だとは決して言わない。それは医療一般がそうであるように、新生児医療もけっしてクソ仕事ではない。
新生児医療とて、最先端のところにはマンパワーは潤沢にある。先天性横隔膜へルニアでNOつかったりECMO回したり、左心低形成症候群の子にぎりぎりの低酸素療法で体循環を維持したり、そういう華々しい症例が次々に入ってくる施設なら、薄給で(あるいは給料は派遣元施設持ちでも)ばりばり働く若い人たちもまた次々にやってくる。絶えずNICUに泊まり込み、そういう施設に入院するほどの症例が現れるや奪い合うかのように群がりよってくる。最新の病態生理の知識を駆使した、半分以上「保険の通っていない」最新治療が行われ、その治療方針もまた同じメーリングリストで声高に語られる。
そして、そういう急性期を乗り越え、そういう施設に入院するほどでもなくなった赤ちゃんたちは、「後方病床」へバックトランスファーされる。じっくり体重を増やして自宅へ帰れるほどまでに大きくなるまでの、あるいは、「在宅人工呼吸」などでとにもかくにも自宅へ帰れるようになるまでの時間を過ごすために。
手が足りないのは後方病床なのだ。たとえばうちのような。心臓も外科も診る態勢になく、ひっそりと超低出生体重児にカンガルーケアを行いながら、ときに依頼される新生児一過性多呼吸やら発熱やらの赤ちゃんを迎え搬送に行くような病院。NICUにとりあえず一人留守番を置いて毎日外来をしなければならんような病院。行われる治療の9割9分までは議論の余地なく確立された病院。そういう病院に、勉強にこようという物好きはそうそう居ない。やってくるのは、大学院入学の順番を1~2年待っている期間の、ほんとは血液志望だったりアレルギー志望だったりする、医局派遣の若者たち。確かにまじめに仕事はするが、生涯を賭けるという気迫には欠ける。
むろん、そういう気迫を持っているのなら、当院に来るようではキャリア形成の計画が浅はかであると言えば言えよう。私もそれが分っているからこの記事も愚痴でしかないのだが。うちのような半端な規模の施設では、渡りの途中で2~3年の滞在は良いとしても、それ以上は、投資した時間に対して得られる利益の分が悪すぎる。たしかに、それはそうなのだ。

そういう病院に居て、ひたすら空床を公示し続ける。近隣の名だたる施設がつぎつぎ公示空床数を0-0と閉ざしていくなかで、まともに病院の名前を覚えてすらもらえない弱小施設の私たちには、最後まで空床を開け続けるのが存在意義だと思っている。「彼ら」が、それは自分たちが診るほどの症例ではないという、そういう症例を彼らまで回さずうちで食い止めることが、彼らには彼らが診るべき症例に専念してもらうことが、うちの存在意義だとは思っている。でも、そういう仕事に尊敬が集まることはない。彼らの視線には私らの仕事は汚れ仕事である。彼らとて、私らの仕事が停止したら自分たちも立ちつくすしかないとは分っているのだけれど、でも、その仕事の跡取りに娘が惚れても結婚するのは断固反対、議論の余地すらないとでも言うかのような、そういう立ち位置の汚れ仕事である。
新人に新生児医療が素晴らしいと思ってもらいたいなら、そう思う君たち自身が、私らの仕事を素晴らしいと心から思ってみろよと思う。そう言われたら君たちは言うだろう。いや自分たちも君たちの仕事の重要さはよく分っている、素晴らしい仕事をなさっていると尊敬していますと。いや、私が言うすばらしさとは、そのすばらしさではないのだ。その違いは君たちに分るだろうか。あるいは、分ったとして、分ったと認める勇気が君たちにあるだろうか。それがわかって、それでも、君たちの仕事がじゃなくて私たちの仕事が(だって君たちの最先端施設より私らのような場末の施設のほうがよほど数は多いのだよ)、すばらしくて生涯を賭けられる仕事であると、新人たちに言えるのなら、新生児医療への新人リクルートは軌道に乗ることだろうと思う。

近畿新生児研究会

3月1日に大阪で開かれた近畿新生児研究会へ行ってきた。病棟で急変があったりして病院を出るのが3時過ぎになり、4時半ころ会場に到着した。会場は都島なのに京阪を間違って京橋で降りてしまって地下鉄を遠回りするはめになり、それもまた遅れる原因になった。
慢性肺疾患の演題をほぼすべて聞き損ね、母乳関連の演題をもっぱら拝聴してきた。とくに岡山医療センターの山内先生の講演は、これまで伺った母乳関連の講演の中でも白眉であった。お母さんに対しても赤ちゃんに対しても押しつけがましくないケアがだいじ、と私は教訓を得たのだが理解が浅いだろうか。赤ちゃんは生まれてすぐにお母さんの乳首を匂いを頼りに探して吸い付く力をもっているのだけど、かといってこちらが無理矢理にくわえさせようとしても赤ちゃんは怒るだけ、とか。お母さんイコール聖母と決めうってのケアは良くないよとも。今までの自分のイメージとして、母乳育児を提唱する運動って、清く正しく美しくあることを強制されるお母さんや赤ちゃんに対する「上から目線」のご指導って感じで、なんだか国防婦人会みたいでいやだよねと思いがちだったのだが、認識を新たにした。
ただ(この「ただ」を言うから私はメインストリームに乗れないのだが)、山内先生も仰るところの、日本の母乳育児の伝統が女性の社会参加によって衰退したというのは本当なのだろうかと、そこだけ突っ込んでみたいとは思った。社会学の集まりじゃないんだからと遠慮したのだが。
昔から日本の女性はおおいに働いていたはずだがね。私の田舎でも周りはみんな農業だったけど昼間に家にいるお母さんって誰もいなかったけれどもね。都会でも似たり寄ったりじゃなかったのかな。まあ田畑や職場に連れて行って哺乳するというのもありだったのだろうが、さあ、そこで行われていた母乳育児が正しいやり方だったろうか、山羊の乳を足してたとかいう話も聞いたことがあるし。三食とも米飯味噌汁漬け物なんて時代の母乳がそんな理想的な組成だったのかねとも思うし。
なにさま、そんな正しい母乳育児が行われていたはずの時代の、あの悲惨な乳幼児死亡率はなんだったのかねとも思うわけで。完璧な母乳育児をみんながやっててあれじゃあ母乳ってあんまり大したことないんじゃないか? 母乳がいったん見放され人工乳が全盛となっていった時代をふりかえっても、けっしてその時代の人々が浅慮であったと決めつけることはできないと思うんだが。その時代にはその時代のやむにやまれぬ思いがあったのだろうし。そりゃまあ反省と軌道修正は決して悪い事じゃないんだが、先人に対して礼を欠かないようには気をつけるべきなんじゃないかな。

ポケットにソイジョイを入れておく

白衣のポケットにソイジョイを一本入れている。空腹時に急に搬送や緊急帝王切開のお呼びがかかったときの非常食である。1本130kcalそこそこ。とりあえず空腹でふらふらせず一仕事する程度には腹が持つ。満腹で眠くなることもない。
ソイジョイにはチョコレートやビスケットにない利点がいろいろある。NICUの熱気に負けて溶けたりしない。そこそこ丈夫で、崩れて粉を出すことも少ない。手や口まわりが汚れない。適度に不味いからおやつ代わりに喰ってしまうこともない。
みのもんたの口車に乗せられているような気分になるのが難点である。

旭山動物園のペンギンと保育器の未熟児たち

新生児科医なら一度は旭山動物園を訪れるべきである。
まずは、かの有名な水中トンネルで、ペンギンが水中を「飛ぶ」のを、一度は直接に見てくるべきである。彼らは「泳ぐ」のではない。そのスピードの形容は「飛ぶ」が相応しい。あんな剣呑な鳥とは一緒には泳ぎたくないものだとさえ思う。クチバシがこっちの腹にあたろうものなら風穴が空く。
陸に上がったペンギンの鈍重なイメージが一新される。元来ペンギンは水中を飛ぶ鳥なのだ。よちよち歩きに陸を歩くのは仮の姿なのだ。
その目で保育器の中の未熟児達を見る。彼らもまた陸に上がった水棲動物だ。四六時中寝ているようにさえ見える彼らも、胎内では我々NICUスタッフの想像を超えて敏活であったはずなのだ。陸のペンギン同様、我々は保育器の赤ちゃんに、脆弱で切ない愛らしさを感じがちであるが、しかし、それは赤ちゃんのタフな一面を見損なっているのかもしれないと思う。
今日は朝のうち1/1であったが、午後から満床。なのに明日もハイリスク分娩予定あり。
意のままにならぬもの、鴨川の水、叡山の僧兵、さいの目、それにNICUの空床。
ちなみに「おこし、煮付け、焚き火、団子」と言えば、桃太郎の好きだったものである。
余談だけど。

赤ちゃんとの縁を切らない

先だって院内電話で、産科の先生から。
「緊急母体搬送の依頼があったんですが、病状はかくかくしかじかで、NICU空いてますか?」
空いてますかって、朝から既に院内出生の早産児を3人受け入れてるんですけど。
うち1人は人工呼吸管理中なんですけど。
空床なんて無いでしょう、普通。今朝から4床以上空いてるって言いましたか俺は?
でもまあ・・・産科も立て続けの帝王切開にめげず頑張ってるんなら、ここはNも心意気かと。
「空いてます」こう答えるにもけっこう腹を括ったんですが。私はなにせ小心者でね。
「そうですか。それでは受入について産科部内で相談します」 ・・・え?
何か順番間違ってないかと思いつつ待ったところ、果たしてその数分後、
「産科では母体搬送の受入は無理ですので、出向いて分娩立ち会いの上で新生児搬送入院でお願いします」だそうだ。
はあ(ため息混じり)。
きみらが頑張るのを前提で、院内緊急用のとっておき空床を使うことにしたのに。
そういうの他人のフンドシで相撲を取るって言わないか?
なんか釈然としないなあと思いつつ、依頼元に連絡をして搬送に向かう。緊急帝王切開の娩出には何とか間に合って、予定通りの新生児搬送入院となった。当日は、その後は院内緊急分娩のケースは生じなかった。とっておきの空床を潰したことによる不都合はなし。例によっての綱渡り、結果オーライの自転車操業。でも、まずは、よかった。
冷静に考えてみれば、今日びの周産期に、他人のフンドシを借りない潔癖さなど薬にもならない。自科の満床を理由にしてこの赤ちゃんとの縁を切ることを潔しとしなかった、産科医師の志や善しとなされねばならぬ。

蘇生処置なしにApgar1分10点ってどうすれば実現できるのだろう

いまだに、一切蘇生処置無し(酸素投与も無し)のApgar1分10点の子って自分が立ち会った分娩では行き当たったことがない。たいていは皮膚色で減点して8点とか9点とか。筋緊張も呼吸も良好で元気に泣いてる子でも(だから他項目は全て2点満点でもさ)、1分じゃチアノーゼが完全に消えるのって無理だと思うんだけどな。
そりゃあ新生児科医が立ち会う分娩なんだからそれなりにハイリスクなんだろって言えば言えるけど。ハッピーに進む分娩ではそういうタフな子も居るのかな。
ときどき他医で出生して新生児搬送入院になった子の情報用紙に「蘇生処置なし:Apgar10」なんて記載があって、この子の分娩を拝見してみたかったと思う。ましてそういう子の主訴が「呼吸困難・チアノーゼ」だったりすると、もう訳が分からない。まあ、陥没呼吸があっても呻吟しててもApgarスコアには影響しないし、次第に進行する呼吸困難っていう病態もあり得る話だし。それで納得することにはしてるんだけれども。

車椅子が入れない病院には新生児搬送にも行けない

私らは病院関係者だからバリアフリー投資は当然と思っている。現代の病院で車椅子にのって動けないなんて信じられないってものだ。
新生児搬送用の保育器はバッテリーや人工呼吸器や酸素・圧縮空気のボンベを載せてもなお、外形の大きさは車椅子サイズに納まっている。保育器を救急車に積み込むためのリフトは元来は車椅子用だから当然である。スロープにせよエレベーターにせよ、車椅子で動ける範囲ならたいがい入ってゆける。
しかし搬送先の産科医院の構造によっては、搬送用保育器を救急車から降ろせない病院もある。玄関にいきなり高い段差があったり、病室までのエレベーターが無かったり。一応降ろして行けるところまでは行くが難儀だという病院もある。絨毯の毛足が深くて車輪が埋まったりとか。
取り敢えずの初期処置を済ませていざNICUへ帰ろうというときに、分娩室のラジアントウォーマーから直接に搬送用保育器に赤ちゃんを移せるか、それとも赤ちゃんを抱きかかえて徒歩で救急車まで戻らねばならないか、この手間の差は結構大きい。特に赤ちゃんに気管内挿管をした後なんて、誰かが赤ちゃんを抱き、歩調を合わせて別の誰かが赤ちゃんの気管チューブを保持し加圧バッグで人工呼吸を続けなければならない。それを、大抵は2階とか3階にある分娩室新生児室から駐車場の救急車までだ。途中で事故抜管でもしたら最低だ。逆に病室までも車椅子が入るような病院なら、搬送用保育器に乗せて安定した赤ちゃんを病室のお母さんのところまでちょっと運んで面会してから搬送に出発なんて、すこしは小粋な配慮もできようというものだ。
東横インには障害者向け設備がない。それを徹底したコストダウンと捉えて今後も東横インを利用するか、あるいは法令を軽視して存在するべきものを省略するホテルなんて他に何を省略しているか分かったもんじゃないとして東横インを忌避するか、それはもう利用者側の判断だろうし、その集合知で東横インが今後繁盛するか衰退するかが決まるんだろうし、その成り行きには現代の日本社会の意識が如何様にあるかがちょっとは反映されていると考えてもよいんだろうと思う。別カテゴリーのホテルに関する考察はよくわからんにしてもそれは「誰がためにかりんは鳴る」この記事に賛成。新生児科としては、これから産科医院をお選びの際には、駐車場から分娩室あるいは病室まで車椅子で入れるかどうかを、横目で見ておかれるのも宜しいかと、我田引水な付け加えをしたりする。
ただ障害者団体は言わずもがなのことだからと黙ってたら棚上げされ無視されていくのが世の常だから、野暮に見えても言うことは言うというのはけっこう重要な戦略なのではないかと思う。それと、マスコミとしては誰かの怒りの絵が欲しかったんで、怒りの声を上げた障害者団体が取り上げられることはあっても、ボイコットを始めた障害者団体ってのは報道されないんじゃないかとも思う。実際にはバクバクの会でも自閉症関連でも内部情報としては種々の選択や工夫の情報はけっこう行き交っている。それを外へ出してみると案外と面白いのかも知れないと、かりんさんの記事を拝読して考えたりもした。ただ東京ディズニーランドのホワイトカードは随分と悪用された挙げ句に廃止になったし云々と、負の面も無いではない。
付け加えるなら神戸空港の障害者向け駐車場に車椅子では越せない段差があるってのは呆れたし笑えた。あの空港を象徴するようなお話だと思った。たぶん神戸空港も障害者が利用するのを想定してなかったんだろう。でも飛行機が離発着するのは想定してるよね?滑走路から駐機場までの間にも段差がないか確認した方がよくないか?ジャンボジェットが越せないような段差があったりするかもしれないよ。