サウンドレベルメーターは意外に安く、NICUは意外にうるさい。

サウンドレベルメーター(騒音計)GS-04 デジタル騒音計 音測定器

この機種だったか、看護師さんたちが看護研究をしたおりに買い込んできたものがNICUに置いてある。高価なカテゴリーの機械かと思っていたら意外に安いので驚いた。予算執行の障害がすくない私立病院の常なのか安いおもちゃはわりと簡単に買って貰える。
しかしNICUのなかでこの機械を使ってみると、自分の耳には静粛に感じられるNICUもじつは意外にうるさい。なかなか50dBを下回らない。誰かがSpO2なりHRなりのアラームを鳴らし始めると、いちおう最小レベルの音量に設定してある筈なのに、いっきに60dBに達してしまう。
むろん夜間である(なんぼ部長バカ一代な私でも昼間にそんなことして遊んでいるわけにはいかない)。ということはNICUの赤ちゃんたちは常時50dB以上の騒音に晒されていることになる。「騒音に係る環境基準について」を参照するとどうにもよろしくない。やっぱりこれはAAを満足して当然というのが世間様のご期待であろうが、Cすら満足に満たせていない。
ちなみに(むろんカラの保育器で試しましたよ)保育器の手窓をぱあんと勢いよく閉めたらメーターの表示がかるーく70dBを越えた。アトムの2100Gだからわりと新世代の保育器なんだがね。赤ちゃんの耳元で突発する70dBの騒音。無神経に保育器の手窓を開け閉てしてたらそれだけで赤ちゃんの耳を潰しそうだ。手窓はそっと閉めろ。昔から口うるさく言い伝えられてきたNICUでのお行儀作法の重要事項ではあるが、むべなるかな。

早期からの経静脈的アミノ酸投与

超低出生体重児では、脳室内出血とか慢性肺疾患とか動脈管開存症とかいった合併症がそれほど重篤でなくても、なんとはなく体重増加が悪い。出生予定の時期に体重2500gを越えている子は珍しかった。それが普通だと以前は思っていた。子宮外では自分で呼吸し消化しなければならない。胎盤・臍帯という極めて高度の呼吸・栄養装置を切り離され未熟な肺と腸を未熟な脳がコントロールして自律しなければならない以上、ある程度の歩留まりは避けられないと思っていた。
解決策はコロンブスの卵的に簡単なところにあった。出生当日からの積極的な経静脈的アミノ酸投与である。胎内で臍帯経由で母体から入る潤沢な供給には及ばないにしても、せめて体組織を維持するために必要な1日体重kgあたり1gのアミノ酸を、出生後も絶やさず投与して飢餓期間を作らないようにするというやりかたである。
以前はブドウ糖液で輸液を開始し、日齢2から母乳投与開始、母乳が進まない子には生後1週間をめどに経静脈栄養開始が原則で、アミノ酸も早くても生後5日くらいからの投与となっていた。まだ尿量も出ない不安定な時期からアミノ酸を投与することが代謝に悪影響を与えるのではないかということが、早期からのアミノ酸投与をためらう理由であった。他施設には、糖などのカロリー源を十分に与えない状態でアミノ酸を与えても結局は熱源として消費されるばかりで身にならないと、早期からのアミノ酸投与をしかりつけるお年寄りもあったと聞きおよぶ。
しかし出生当日からアミノ酸を実際に与えてみても、以前に心配していたようなコントロールのつかない代謝性アシドーシスなど生じなかった。生後1週たって浮腫が抜けたあとも、昔のように小乗仏教の修行僧のようなひからびた痩せかたをすることはなくなった。そういう風にいったん痩せるのが当たり前と思っていたので、超低出生体重児たちがみずみずしいままに体重増加に転じることに驚かされた。
それより驚いたのは、その後の体重増加も改善したことだ。だいたいその日の体重の1~2%増加を目標とするのだが(体重800gの子なら1日体重増加が8ないし16g)、慢性期の栄養管理は以前と方針の変化はないのにぐりぐりと体重が増える。あたかも体重増加のモードが胎児期から変更なく続いているとでも言うかのように。これまで当然と思っていた超低出生体重児の緩慢な体重増加は、けっして必然的なものではなく、出生後に数日間の飢餓期間をおかれたために身体の栄養管理モードが変化した結果の、人為的なものだったようなのだ。
ようなのだ、というのは、生理的条件の超低出生体重児というものが原理的に存在し得ないため検証のしようがないのだ。健康上の問題がなければもともと子宮内に居た人々なのである。何らかの事情があって外へ出てきた人々であり、外へ出たということ自体が彼らに無視できない影響を与えている。その何らかの事情あるいは影響がどこまで不可避なものなのか。今の時点で不可避と思っているようなことがじつは避けられることなのではないか。健康モデルが想定できない状況でそれはどうやったら知ることができるだろう。
あるいは避けるべき事なのかどうか。こうして体重増加を維持することが、急激に発達中の脳を守ることにつながるのではないかというのが現在の新生児業界の主流的な考え方であるが、ひょっとしてこの子たちが成人して以降、いわゆるメタボリックシンドロームに悩まされることにはならないのか。多少肥満しても発達の良い方が幸せだろうという考え方を言う人もある。私もその意見にどちらかと言えば賛成なほうなのだが、しかし肥満ながら発達がよいぞ学校の成績も優秀だぞと言って過剰に働いたあげくに若くして心筋梗塞で過労死してしまうということになっては詰まらないと思う。畢竟詰まる詰まらないは一人だけで決まることじゃなくてその時の社会のあり方とかも影響するんだろうと思う。ただこの子らの一生に関して棺を覆って事を定めるとするなら、自分が現役の間には結論は出そうにもない。
こんな単純なことで、みたいな書き方になったけど、中心静脈栄養云々には出生体重500gとか600gとかの子にダブルルーメンで中心静脈が確保できての話なんだからそれなりに技術は必要なのだよ。臍静脈使うにしてもそうたやすいことじゃないし。私はできるだけ末梢静脈からPIカテーテルで確保する方針で居るのだが。腹臥位にしやすいし。
しかし、この方式が良いと分ってみると、これまでこの方式を用いなかった子たちには申し訳なく思う。その時々での最善を尽くしているつもりではいるのだが、進歩の速い分野ではその最善の具体的内容がどんどん変化する。2年前3年前の最善でNICU時期を過ごした2歳児3歳児を発達外来で健診させていただきながら、今ならどうしただろうと思うことはある。そう軽々しく試行錯誤のできる分野でもないんだから目新しいものにつぎつぎ飛びつくのも憚られるしと、この子らの時期に導入をためらったことに内心で言い訳をしてみる。仕方がなかったと思ってみる。思ってはみても、この子らの成長に手柄顔をする気分にはなれない。むしろこちらが救われる思いをさせていただいている。
俺が指導して発達が改善したのだと公然と語れる先生方がうらやましい。多少、いい気なものだと思わないでもない。
空床は重症2軽症2。ちょっと暇なので閑居にしてろくなことを考えない。

母乳育児と朝日新聞

朝日新聞に母乳育児に関して世間の誤解を助長しかねない特集記事が載せられた由で、日本ラクテーション・コンサルタント協会が緊急声明を出している(参照:PDFです)。ちなみに朝日新聞の記事は朝日のウエブサイトで検索をかけても見つからなかった。いちおう読んだ記憶はあるのだが、私自身の印象としては、わりと文献なんか調べてまめに取材もして、方向性は間違ってるけど態度としてはまじめに書いた記事だと思った。記事の原文をご参照いただけないのが残念である。ラクテーション・コンサルタント協会の声明から内容をご推察願いたいと申したらルール違反だろうか。
私見であるが、やっぱり母乳哺育とかカンガルーケアとかは、じっさいにやっているところを見て意外とうまくいくもんだねという実感を持ってるかどうかで、認識が極端に異なるんじゃないかと思った。
それは例えば飛行機のようなもので、たとえば19世紀の人にジェット旅客機の設計図を見せても、それが空を飛べるのだと信じる人はかなり少ないんじゃないかと思う。朝日新聞の記者さんも、たぶん母乳育児の上手くいっているところを見たことがなかったんじゃないかと、私は推測している。巨大な金属塊が飛行できるなんて信じられないと19世紀の人が仰るのと同じ水準で、母乳だけで上手くいくということが信じられないんじゃないかと思う。
でも19世紀の人が飛行機を信じられないからといって、彼らを未開だと見下すのは間違いだ。彼らがこんなもの飛ぶはずがないと言ったとしても、ある意味でそれは正しいことだからだ。19世紀の人がジェット旅客機の設計図を見せられたところで、やっぱり19世紀にはジェット旅客機は作れないし飛ばせないのである。飛行機にはじゅうぶん強くて軽量な金属材料が必要だし、それを精密に加工する技術も必要だ。機械技術のみならず、真っ平らな滑走路が引ける建設技術とか、計器飛行のための通信技術とか電子技術とか、色々とインフラが必要だろう。それのない19世紀に、ジェット旅客機だけが単独で実現することはあり得ない。
精密加工といえば20世紀に入ってからでさえ、零戦のエンジンのボールベアリングは今のパチンコ玉ほどにも正確な球形ではなかったというし。
19世紀という時代が飛行機を信じられない環境であるのと同様のレベルで、朝日新聞社というのは母乳育児を信じられない環境であるのだろうなと、今回の記事を読んで思う。朝日新聞社というのは記者さんがご自身で母乳育児ができるような職場じゃないんだろうな。出産後の職場復帰が困難だったり、仕事中の搾乳とかできなかったり。母乳にこだわってると出世できなかったり。推測だけど。
環境に負けず独立不羈で母乳育児を完遂したとしても、自分の子だけ見てただけでは認識を変えるには不十分かも知れない。子育て中の社員同士で母乳育児について語り合ったり助け合ったり、社外の子育て中の親御さんと交流があったりとかいった、豊かな人間どうしのつながりのなかで、多くのこどもたちが母乳で育っていくのに接していると、なお、いろいろな認識が深まっていくのではないかと思うのだが。それは母乳に限らず、いろいろな世の中の叡智についても。
そうしてしっかり子育てをした社員がその後も不利益なく(いやむしろその過程で得た知恵ゆえに)出世する人事システムとか、そういう懐の深さを朝日新聞社がどれほど備えているのか。母乳育児を問うた記事で、問われるのは朝日新聞社自体であるように思える。

赤ちゃんは泣くものだと思っていた

生れたばかりの赤ちゃんは数分間は泣き続けるものだと思っていた。大声で泣くことで肺が開くのだと思っていた。だから帝王切開に立ち会ったときも、赤ちゃんを受け取ったらラジアントウォーマーにのせて羊水を拭き取って、あとはひたすら泣かし続けていた。
さいきん、とあるきっかけがあって、帝王切開で娩出されたばかりの赤ちゃんにカンガルーケアを何例か行った。体を拭いて気道の安定を確認しだい、お母さんの胸のうえに赤ちゃんを載せる。むろん蘇生術が必要な赤ちゃんにそんなことしている余裕はないが、呼吸も安定して緊張も良い、アプガー1分値をカウントしたらあとは5分まで暇を持てあますような元気な子たちを対象として。
赤ちゃんはお母さんの素肌にのせるとぴたっと泣きやむ。今まで泣きわめいていたのが嘘のように。息が止まったのではないかと不安にさえなるが、しかし赤ちゃんを支えた自分の手からは赤ちゃんの呼吸運動がしっかり伝わってくる。赤ちゃんの顔をみてもチアノーゼはない。
あれはお母さんから引き離されて泣いていたという一面もあるのかも知れないと今さら思う。彼らはお母さんの何に反応して泣きやむのだろう。匂いという説もあるが、なんだかそういう機械的なお話に還元して語るのは野暮なような気もする。

母乳とミルク、米とスターチ

たとえばトウモロコシやジャガイモから得られたスターチを射出成形とかなんとかで直径数ミリメートルの楕円形に成形したとする。その粒の成分を分析したら炭水化物やらタンパク質やらが相応含まれていたとして、それを根拠にその粒を米と称してよいかどうか。その粒を多数集めて加水し高圧下に加熱して糊化させたとして、それを飯と呼ぶかどうか。その糊化したものを俵型に固めてワサビを塗り魚肉を載せたものを、寿司と称して出されたら寿司屋の客は納得するかどうか。
母乳と人工乳の関係というのは、この米と成形スターチとの関係だと私には思える。いくら我が社の人工乳は分析したら母乳同然の栄養分をふくんでいますと人工乳のメーカーに宣伝されても、だからってそれが母乳と同格と言いたくないのは米と成形スターチを同格と言いたくないのと同じである。母乳育児は栄養ばかりではなく文化の問題でもあるのだ。
現在の日本では、店頭には輝くばかりの赤ちゃんの笑顔を描いたミルク缶がならび、育児の象徴といえばほ乳瓶になってしまった。企業から派遣されたスタッフが定期的に津々浦々の産科病棟にやってきて、出産後まもないお母さんたちに「調乳指導」をしてゆく。産院退院の時には人工乳の缶にもろもろのグッズをつけた「おみやげ」が企業の出資で配られる。
我が社の成形スターチはコメ同様の炭水化物・アミノ酸組成を実現していますと、たとえば米国の穀物メジャーが主張して、その粒を詰めた袋に実った稲穂あるいは茶碗に盛った炊きたての飯の絵を描いたりしたものを売り込んできた場合、消費者はそれをコメとみなして買うかどうか。そんなものが店頭に並んで米を駆逐し始めたときに、栄養のバランスがとれている成形スターチのほうが食品として子供たちの健康によいと言えるのかどうか。穀物メジャーが送り込んだ調理指導員が全国津々浦々の小学校にやってきて、家庭科の授業で「調飯指導」と称してスターチの炊き方を指導したら、PTAは納得するかどうか。そのスターチを食するのに特別な食器が必要だったとして、日本人の食の象徴がその食器だとされたらそれは日本の文化にとってよいことなのか。
そういうものだと分った大人がそれでもと言って食べるぶんには自由だ。米を食べたくてもときには不作の年もあろう。あるいはきついコメアレルギーだが糊化スターチなら食べられるということがもしもあったとして、そういう人が寿司というものを食べてみたいと仰ったなら、スターチ寿司を食べることに異論のあろうはずもない。同様に、いろいろな事情で母乳が飲ませられないということもときにはある。お母さんが抗ガン剤を投与されているとか。赤ちゃんに特殊な先天代謝異常があるとか。どうしてもコメあるいは母乳が使えない事情があるときに、代替品が用いられることはあり得ると思う。コメでなければ飢えたほうがマシだとか口のおごったことは言いたくない。まして代替品を食べているから卑しい奴だなどと他所様を見下すようなことはしてはならない。
しかしあくまで代替品は代替品なのであって、それは栄養成分が同じとかいう理由では片付かない格差なのである。本家の足りないところを遠慮がちに埋めるくらいが代替品の正しい立ち位置だ。代替品がデフォルトづらして本家を押しのけるのは本末転倒である。
その本末転倒な状況を許していることに、赤ちゃん関連の仕事をしている身としては忸怩たる思いである。本稿はけっして人工乳を用いているお母さんたちを攻撃する意図で書いたものではない。
出産後30分以内に初回哺乳とか、一日8回ないし12回以上赤ちゃんが欲しそうにするたび与える哺乳とか、完全母児同室とか、そういう基本的な母乳確立の努力をせず、お母さんはお産で疲れただろうからと称して生れたばかりの赤ちゃんを新生児室に「お預かり」にして初回哺乳は生後8時間からとか、その後も哺乳といえば赤ちゃんが泣いたときに瓶哺乳するだけで結果として一日5~6回程度の哺乳しかしてないとかいう産科病棟はうちばかりではあるまい。そういう悪習をルーチンにしている産科で母乳が出ないから人工乳でとお母さんに「指導」するのは、赤ちゃんの立場に立ってみれば、たとえば、春先は眠いねとか梅雨どきは雨が多くて嫌だねとかいって代掻きも田植えもしないまま7月になり8月になってしまって、それで今年の稲は不作だから成形スターチを米と思って喰えと言われたようなものではないかと。それは、今年も精一杯がんばってはみたけれど天候不順でどうにもなりませんでしたと言われてスターチをわたされるのとは事情や印象が違うのではないかと思う。そういうスターチが子供たちの学校給食に代替米と称して出されたら親として納得できるかどうかだ。人工乳も同じようなスタンスで考えるべきではないかと、赤ちゃんの医者としては思うところである。
以下、不要のことかも知れないが。但し書きをいくつか。
・いま現時点で赤ちゃんに人工乳を与えているお母さんを弾劾する目的でこう書いているわけではない。母乳が当然で人工乳はあくまで代替品だと思うが、それとこれとは別の話。正しく支援すれば「母乳が出ない」ことはまずないと、母乳育児推進の人たちは主張されるし私もそれに反論する根拠をもたない。であればこそ、母乳ではなくて人工乳を「選ばざるを得なかった」お母さんたちに対しては、周囲の支援が足りなかったのではないかと反省こそすれ、当のお母さんたちを責めるのは当らない。
・子育て経験のないお母さんに十分な支援なくいきなり完全母乳を強いるのは、あたかも、まったく素人の都会人に種籾をひとにぎりわたして、これを栽培して子供がたべる米を自給しなさいと強いるようなものだ。それができなくてスターチを食べるはめになったとて、できなかった人を責めることがあろうか。

新生児医療に新人をリクルートするために

若い医師には小児科へ来ようとする人は少なく、小児科の中でも新生児をやろうとする人はなお少ない。新人のリクルートのためには新生児医療のすばらしさをアピールしなければならないと、業界内のメーリングリストでときに声高に語られたりして、やれやれと思う。
新生児医療が詰まらない仕事だとは決して言わない。それは医療一般がそうであるように、新生児医療もけっしてクソ仕事ではない。
新生児医療とて、最先端のところにはマンパワーは潤沢にある。先天性横隔膜へルニアでNOつかったりECMO回したり、左心低形成症候群の子にぎりぎりの低酸素療法で体循環を維持したり、そういう華々しい症例が次々に入ってくる施設なら、薄給で(あるいは給料は派遣元施設持ちでも)ばりばり働く若い人たちもまた次々にやってくる。絶えずNICUに泊まり込み、そういう施設に入院するほどの症例が現れるや奪い合うかのように群がりよってくる。最新の病態生理の知識を駆使した、半分以上「保険の通っていない」最新治療が行われ、その治療方針もまた同じメーリングリストで声高に語られる。
そして、そういう急性期を乗り越え、そういう施設に入院するほどでもなくなった赤ちゃんたちは、「後方病床」へバックトランスファーされる。じっくり体重を増やして自宅へ帰れるほどまでに大きくなるまでの、あるいは、「在宅人工呼吸」などでとにもかくにも自宅へ帰れるようになるまでの時間を過ごすために。
手が足りないのは後方病床なのだ。たとえばうちのような。心臓も外科も診る態勢になく、ひっそりと超低出生体重児にカンガルーケアを行いながら、ときに依頼される新生児一過性多呼吸やら発熱やらの赤ちゃんを迎え搬送に行くような病院。NICUにとりあえず一人留守番を置いて毎日外来をしなければならんような病院。行われる治療の9割9分までは議論の余地なく確立された病院。そういう病院に、勉強にこようという物好きはそうそう居ない。やってくるのは、大学院入学の順番を1~2年待っている期間の、ほんとは血液志望だったりアレルギー志望だったりする、医局派遣の若者たち。確かにまじめに仕事はするが、生涯を賭けるという気迫には欠ける。
むろん、そういう気迫を持っているのなら、当院に来るようではキャリア形成の計画が浅はかであると言えば言えよう。私もそれが分っているからこの記事も愚痴でしかないのだが。うちのような半端な規模の施設では、渡りの途中で2~3年の滞在は良いとしても、それ以上は、投資した時間に対して得られる利益の分が悪すぎる。たしかに、それはそうなのだ。

そういう病院に居て、ひたすら空床を公示し続ける。近隣の名だたる施設がつぎつぎ公示空床数を0-0と閉ざしていくなかで、まともに病院の名前を覚えてすらもらえない弱小施設の私たちには、最後まで空床を開け続けるのが存在意義だと思っている。「彼ら」が、それは自分たちが診るほどの症例ではないという、そういう症例を彼らまで回さずうちで食い止めることが、彼らには彼らが診るべき症例に専念してもらうことが、うちの存在意義だとは思っている。でも、そういう仕事に尊敬が集まることはない。彼らの視線には私らの仕事は汚れ仕事である。彼らとて、私らの仕事が停止したら自分たちも立ちつくすしかないとは分っているのだけれど、でも、その仕事の跡取りに娘が惚れても結婚するのは断固反対、議論の余地すらないとでも言うかのような、そういう立ち位置の汚れ仕事である。
新人に新生児医療が素晴らしいと思ってもらいたいなら、そう思う君たち自身が、私らの仕事を素晴らしいと心から思ってみろよと思う。そう言われたら君たちは言うだろう。いや自分たちも君たちの仕事の重要さはよく分っている、素晴らしい仕事をなさっていると尊敬していますと。いや、私が言うすばらしさとは、そのすばらしさではないのだ。その違いは君たちに分るだろうか。あるいは、分ったとして、分ったと認める勇気が君たちにあるだろうか。それがわかって、それでも、君たちの仕事がじゃなくて私たちの仕事が(だって君たちの最先端施設より私らのような場末の施設のほうがよほど数は多いのだよ)、すばらしくて生涯を賭けられる仕事であると、新人たちに言えるのなら、新生児医療への新人リクルートは軌道に乗ることだろうと思う。