過去の書き物について

むかし同じタイトル「こどものおいしゃさん日記」で書いていたexciteブログとはてなの旧稿について、このWordPressに無事移行しました。

頂いたコメントは移動できていない模様です。コメントを下さった皆様には申し訳ありません。

エキサイトブログとはてなについては今後更新する予定はありません。

うまそうに食べるということ

 

  両親の再婚でとつぜん姉妹となった二人の、妹のほうは料理が得意で、姉のほうは妹がつくったものを実にうまそうに食べる。ちなみに上の表紙絵で奥のセーラー服の子が妹、手前のいかにも天真爛漫そうなのが姉。

 この姉の食うところを読んでいると、この二人が互いに全く知らない間柄でとつぜん同居を始め、互いに理解をふかめていく過程において、妹の料理の上手さと同じくらいに、姉の食べっぷりの良さが貢献しているように思える。うまそうに食うというのは人徳なのだなと思う。腹さえ減ってて作り手が上手ければ誰だってできるだろうそんなもんと思っていたが、それは違うようだ。作り手がどれほど上手に料理しても、食べる人間がつまらない食べ方をしたら、その料理は片手落ちのまま、未完成なままなんだ。

 俺はもうおっさんだし、世の中の人間関係には波風があるというのはわかっているつもりだ。だけれどもこの二人の物語はひたすらうまいものを作っては食う話に終始してもらいたいと思う。俺はこの子らがニコニコと料理を作って食べる話を読み続けたい。もうすぐ3巻が出るらしくて楽しみだ。

インフルエンザワクチンを全員に接種するのは無理

個別接種でまかなおうとしてもインフルエンザワクチンを小児全員に接種するのは無理という話をする。

当地、京都市左京区なのだが、小児人口は各年だいたい1200人内外である。インフルエンザワクチンを1歳から12歳までの1200人×12年に年2回、13歳から15歳の1200人×3年に年1回接種するとする。合計32400回の接種が必要になる。

ワクチン外来を効率よく回すとしても、小児科外来での個別接種では1回3時間の外来で50人接種できれば上々である。小児科医1人が午前午後かかって1日で100人接種するとする。1週では500人になる。1ヶ月を4週とすれば2000人だ。

インフルエンザワクチンはシーズンものだ。当地では1月に流行が始まる。11月と12月の2ヶ月で接種を済ませなければならない。8週と考えて小児科医1人で4000人。合計32400回の接種とすれば、2ヶ月まるまるインフルエンザワクチンを接種し続けることに専従する小児科医が京都市左京区には8人必要になる。

これはおそらく左京区の小児科開業医が全員で取り組まなければならない人数である。非現実的な話だ。個別接種で希望者がと言っている限り、当地の小児にインフルエンザワクチンを広く行き渡らせるのは無理なことだ。

 

三顧の礼

当直が立て込んだり残業が続いたりしてだんだん気持ちが疲れてくると、なんとなく投げやりな気持ちが膨らんできて、なんかもういいやこの状況がプチッと終わりにならないかなとか、後先の考えのない破滅願望が浮かんできたりする。

そうやっていまの仕事をリセットして、どこかもっと場末の小さな小児科でひっそり地味な臨床を続けている自分を想像したりする。でもそこはそれ往生際の悪い自分のこととて、そこへもう一度新生児をやらないかと誰かが持ちかけてくるという想像もしてしまうのが浅ましいところである。

たとえば諸葛亮を迎えにきた劉備玄徳みたいなお話が自分にも起きないかみたいな。あるいはもっと凡庸なお話の類型として、なんとなく熱意を失ったロートルの俺がぼんやりと日々を送っているところへ、熱意に溢れた若手がやってきて、彼に担がれほだされてもういちど最前線に、とか。

しかし多くの場合、むろんプチッと自分でスイッチを切るのは可能なんだけれども、そうやってスイッチを切って惰性の航行にはいったところで、現実にはもういちどエンジンをかけてくれるような若い奴が現れるなんてことはまずあり得ない。老いるまで惰性で日銭を稼いで、稼げなくなったら忘れられたままひっそり消えていくんだ。

諸葛亮劉備玄徳が迎えに来なければ埋もれたままで人生を終えたのだろうし(劉備玄徳以外の人物が迎えに来たって埋もれたままの人生とそう変わらなかっただろうし)、彼はそれでも淡々と人生を終えたんだろうと思う。そこで足掻こうとするのは私のような足掻いたところでどうってことない小物なんだろう。

そこで嫌味を言えば、たまにお前ほんとに医者かと聞きたくなるような悲惨な著書を世に問う医者、そういう天下に通じる大道を外れて不遇の身になりながら諦めもできない、かといって誰も三顧の礼をとってくれない、そのまま消えることも再び燃え上がることもできない半端なエネルギーのなせるわざかもしれないなと思う。見苦しい、けれど我が身に通じるような気もして無碍に切り捨てることもしがたい、痛々しい感じ。それなりに認知がゆがんでいて、まだ天下を目指していたころには見向きもしなかったようないんちき臭い嘘に自分で騙されてしまって。

自施設NICUの終焉を予想する

 今年度から、過去1年間に超低出生体重児の新規患者を4人以上診ていない、あるいは開頭・開胸・開腹いずれかを伴う新生児手術を6例以上やっていないNICUでは、新生児特定集中治療室管理料1を請求できない決まりになった。同2なら請求できるのだが、それでいただける報酬は1の8割である。2割引というのはかなり痛い。事実上、これは上記条件を満たさない施設に柔らかく退場を促す施策である。

 出生数1000にたいしNICUベッド数3という、NICU拡充の量的目標は全国の都道府県において達成できたというのが厚生労働省の認識である。京都でも、京都府下での年間出生数2万に対しNICU認可病床数60、京都市内に限っても年間出生数1万1千〜2千に対し病床数45と、数の上では目標を達成している。

 数はそろったということで、政策的には今後は質の向上を目指す時代だ。事実として、極低出生体重児の生存率には、重症度をそろえて比較してもなお施設間格差が存在する。施設間格差に影響する因子のなかに、極低出生体重児の年間入院数がある。多く入院する施設ほど、死亡率が低い。質の向上のために極低出生体重児の入院を特定の施設に集約するのは、方向性としては正しい。他にもいろいろな因子があるだろうから、集約化ばかりを推し進めることには弊害もあるだろう。とはいえ、とりあえずあまりに極端に年間入院数の少ない施設に退場を願うのは、地域全体の新生児医療の水準向上のためには正しいことだろうと思う。

 その目で見るなら、自分の新生児科医としての実感として、超低出生体重児(極は1500g未満、超は1000g未満)年間4人というのはかなり緩いラインである。超低出生体重児の直近の出産が予想される緊急母体搬送の搬送先として、超体出生体重児を年間4人以下しか診てない施設を候補に挙げるのはかなりためらわれる。むしろ、よく6人とか8人とか10人とか言わなかったなと、厚生労働省の慎重さに感心したくらいである。

 問題は、自分の施設がこの施策によってふるい落とされる側にあるらしいということだ。この施策について話を聞いた時点で、過去の実績から試算してみて、この10年以上、この4人の水準を割り込むことはなかったという結果を得ていた。それで年度当初は鷹揚に構えていたのだが、本年度に入って以降これで5ヶ月間、当施設では超低出生体重児の新規入院が途絶えている。予想外の事態である。

 昨年度末までの入院数を計算すると、このまま年末までに超体出生体重児が1人も入院しないということになれば、新生児特定集中治療室管理料1を請求できなくなる。むろんあと4ヶ月はあり、そのうちには1人くらいは入院もあるだろうと言えば言える。しかし過去の実績をふりかえれば、まるまる3ヶ月以上超低出生体重児の新規入院が途絶えたことはない施設なのだから、過去にはなかった何か新しい状況が生じているらしいとは、現時点でも言えることである。

 このまま入院がなかったら、施設の方向性としてどうするべきなのか、いろいろ思案している。

 

70回目の長崎原爆忌を過ぎて

 長崎の被爆者も年老いて、語り部が少なくなりつつあると聞いた。8月9日の登校日には毎年被爆者の話を聞いていたのにほとんど忘れてしまった、長崎県民の風上にも置けない私としては、それについて何を言う資格もないと言われればそれまでなのだが。しかし「それまでなのだが」とみんなが言って語るのを止めた結果が現状だとも思うので、70年目の原爆忌を過ぎて、個人的な見解というのを書き付けておく。

 長崎で被爆の話を聞いて育ったことで、戦争とか平和について自分たち長崎県民は何か他者に優越する見識をもったかのような錯覚をしていたと、私は自らを省みている。東京や沖縄やその他、国内外のあちこちの土地の人たちに対して、そうは言っても君たちは通常兵器しか知らないだろうという意識をどっかで持っていた。それを他人のせいにするのは卑怯だがあえて言う。長崎の原爆に関してそういう意識を持つような教育を私は受けてきた。

 なぜ長崎の被爆体験を聞いてくれという願いが聞き届けられないのか。自分が欲しいものを手に入れる最善の方法は自分がその欲しいものを他者にくれてやることだと言う。その理屈を応用すればだ、被爆の体験を受け継ぐものであると、長崎に戦後生まれた私たちが自己規定するならば、私たちが行うべき主張は「私たちの話を聞いてくれ」ではなかったはずだ。「私たちに話を聞かせてくれ」であったはずなのだ。「あなた方のところではどうだったのですか?」という問いであったはずなのだ。

 その問いをどれほど私たちがしてきたか。私たちがそれを問うように長崎で育ってきたか。たとえば原爆資料館に他の土地の戦災についてなにか学ぶよすががあったか。たとえばワルシャワレニングラードドレスデンが、あるいは敗戦間際のベルリンが、那覇が、南京が、どういう惨禍をなめたか、私が知ったのは勤め先が夜間小児救急を断念した結果として10年来の睡眠不足から解放され、実に10年ぶりに本を読むようになってからあとのことだった。いやそういう本の向こうにある他所様のお話を持ち出すまでもない。父方の実家については8月9日は原爆投下の日だが、当時満州にいた母の実家にとっては8月9日はソ連参戦の日だ。祖父は80歳過ぎるまで健在だったのに、私は彼の苦難を聞かねばならんという意識すらなかった。

 長崎も広島も叩けば埃が出る都市だ。聞いてまわればいろいろと、自分達自身にとって耳の痛い話が出てきただろう。その耳の痛さに自分たちが耐えないで、どうして米国人があれは終戦のために仕方ないことだったと嘯くことを責められよう。そうして聞いて歩くうちには、あの戦災について異常に執念深く聞いてまわってるあいつらは何なんだという興味ももたれよう。それにしても君らずいぶん熱心だね、なにかわけがあるのかねと相手が言って、それからじゃないかね。いや実はね僕らのところではねと語り始めるのは。

 

 まあとりとめもない個人的見解ながら。

7月の博多で上着が要らないということ

 先週末、文中に明記するなら7月第2週ですな、博多で行われた日本周産期新生児医学会の学術集会に参加してきた。

 この学会が前回博多で行われてから何年経つんだったか。原発が止まる前だったのは確かだ。前回とのもっとも目立った変化は、会場で上着が要らないということだった。

 私も長崎の大村湾沿岸で生まれた人間であるから夏の九州の暑さは知っているつもりだ。それで前回は上着無し半袖シャツで来たのだったが、会場が寒いのに往生した。ものすごい冷房だった。あんまり寒いんで、街中で上着が売ってないか探したが、当たり前の話ながら7月の博多で長袖の上着などほいほいと手に入るものではなかった。

 今回は念入りに上着を持ってきた。世の中が熱中症対策で困っている時勢に低体温症なんかで搬送されてたまるか。しかし会場の冷房は、まあ、当たり前の強さになっていた。半袖でふつうに過ごせた。やれやれと思った。関西電力と並んで九州電力もたしか原発停止で苦しいと聞いているから、節電に迫られての面もあるんだろう。しかし、なにより、7月の博多で長袖上着を探してさまようといった大バカなことをしなくてすむ時勢というのは、あんがいと、まっとうな方向に進んでいるってことじゃないかとも思った。