いまさらブラインドタッチとか誰か自慢する?

 紙カルテを電子カルテに切り換えた直後には、看護師の大半が両手の人差し指だけをつかったキー入力をしていた。今ではブラインドタッチでの入力ができないスタッフはいなくなった。みんな当たり前にできることになってしまって、ブラインドタッチという言葉すら、とんと聞かなくなった。

 私がブラインドタッチを憶えたのは大学の頃で、教則本を1冊買ってきて2週間ほど練習した。今の若い人はたぶんそんな労力は使っていないと思う。特別に練習をしなくともネットで遊んだり電子カルテに記載したりしているうちに自然に覚えるのではないだろうか。

 外国語もそんなものかもしれない。今のところ、日本語以外の言葉をつかうのは特殊技能と扱われているけれど、その特殊さの度合いがしだいに減りつつある。そのうち、俺って英語できるんだぜって言っても、俺ってブラインドタッチで入力できるんだぜという程度のありがたみしかなくなるのだろう。

 それはみんなが外国語の習得に努力を重ねたためというばかりではなく、ある水準までなら外国語もブラインドタッチも習得はそれほど難しくないし、その水準でもけっこう使えるものだということが、露見してきたためではないかと思う。ブラインドタッチは難しいものだと主張して教則本を書いていた人らのお世話にならなくとも入力作業をさらさらこなす人たちが多くなったように、今後は、外国語は難しいものだという先入観を飯のタネにしてきた人たちの頭越しに、みんな外国語を読み書き話すようになるのだろうと思う。

 

英会話って意外に簡単なのかもしれない

 必要に駆られてではあれ、さいきん臨床で親御さんと話すのに英語を使わなければならないことが続いた。それが意外にうまくいったものだから、我ながらすっかり調子に乗ってしまって、英語で語るのって思ったより簡単じゃないかという気さえしている。

 親御さんは多くの場合、私の言うことを理解しようと努力してくださるし、私にわかるように語ろうともしてくださる。私の英語が下手でも、その下手さを理由に私とのコミュニケーションを拒絶する人はいない。まして、そうして拒絶「せざるを得ない」ことの責任を私にかぶせて優位に立とうとする人もいない。

 そのような、意思を疎通させるということ自体に関する善意が、疎通した内容における善意悪意とは別のレイヤーで、存在するものらしい。通じることを前提にできない外国語での意思疎通を強いられてみると、この善意の意義が身にしみる。

 

周産期医療がサービス業になったのかもしれない

NICUの入院数が減ったまま回復しない。毎年、春先から初夏にかけて減り、夏から回復する緩やかな波はあったのだけれど、この1〜2年の減り方は尋常じゃない。なにか、新たな時代に入った感がある。昨年の入院症例総数は例年の3分の2だ。

今では当地のNICU病床は、需要に対して限られた供給量を分配するといったものではなくなった。需要に対して供給が潤沢にある状況である。こういうときに需要側の便利もシステム全体の効率もいちばん宜しくなるのは「市場経済」と言われるものだろう。ようするにだ、いまの京都の周産期医療は、文字通りのサービス業になっている。病的新生児入院を施設間で押しつけあう時代は過去のものとなり、奪い合う時代になっている。

それはかつて目指した状況ではある。京都中のNICUを見回しても1床も空床がないという状況は過去のものとなった。赤ちゃんにとっては慶賀の至りである。いまお産するなら京都ですよ。

前任者がいよいよ退職し、自分が文字通りのトップになった状況で、さてと思うと、周辺状況がずいぶん変わっている。身も蓋も無い話だが、昔の「入れ食い」時代の感覚では経営的に苦しい。3対1看護をささえる看護師の人件費もたぶん現状では稼ぎ出せてない。どうやったらうちのNICUを生き残らせていけるのか、頭が痛い。

しかし現状を作った責任は自分たちにあるんだと思う。さいきんの診療報酬やなんかが新生児医療に関して手厚くなり、病院経営にとっては新生児は稼げる分野という認識になってるんじゃないか。特に当地では当院のような総病床数200にも満たない小規模病院が、ホスピスやらNICUやら特殊な分野を運営して、それなりにやっていけることを示してしまったわけで。それならうちの病院でもやってみようやと、他の病院の院長先生や事務長クラスが考えてみても不思議じゃあない。要するにビジネスモデルってやつになってしまったんじゃないかと。

選択肢

 昨日は近畿新生児研究会という催しがあって、大阪まで出た。

 往路の地下鉄の中吊り広告で、DoCoMo対応のスマホの広告があった。1メーカーから3機種あるらしい。濡れても大丈夫なもの、2画面あるもの、CPUがクアッドコアのもの。

古代中国の百科事典によると、動物は次のように分類される。
・皇帝に属するもの
・香に満ちたもの
・飼いならされたもの
・乳飲み豚
・人魚
・お話に出てくるもの
・放し飼いの犬
・この分類体系自体に含まれているもの
・逆上したもの
・数え切れないもの
・ラクダの毛のように細い筆で描かれたもの
・その他
・いましがた水差しを壊したもの
・遠くから蝿のように見えるもの

 参考 外園康智「古代中国の百科事典にある動物分類」http://www.nri.co.jp/opinion/kinyu_itf/2008/pdf/itf20081208.pdf

 俺が選ぶとしたらどれになるのだろうかと思った。迷うところである。防水で2画面あってCPUがクアッドコアスマホがあればiPhoneから乗り換えたかもしれない。しかしどれか一つって、互いに排他的な選択肢なのかこれは。

 この広告は俺にどれを推奨しようとしているのかという肝心のメッセージが伝わってこない。君たちは何が売りたいのか。これが私たちの考えるスマホだという主張はないのか。結局俺は迷うだろう。別にiPhoneでとくに困ってるわけでなし、他にもいろいろ迷うネタに不自由しているわけでなし、迷うことの心理的な負荷が高い割に、迷うこと自体にワクワクするお買い物の喜びは当面この方面にはない。ということで、迷うことのストレスを遮断するべく、その広告を視界から外すこととした。

 研究会自体は実り多いものであった。勉強になった。素直に誉めれば良いことにはあまり言及する熱意が湧かないのが不徳のいたすところではある。

 帰りがけ、iPhone用のイヤホンが欲しいと思って天満橋エディオンに寄った。今はBOSEのIE2を使っているが、密閉型のも一つ欲しいと思う(周囲の雑音をいっさい遮断したいと思うこともあるのです)。試聴コーナーで、ソニーのXBA-20を試聴して驚愕した。素晴らしい音だった。どう素晴らしかったか具体的に述べよなんて難しい課題は振らないで欲しい。とにかく良い音だった。この小さなイヤホンの中にこびとさんのバンドが入ってて生演奏してるんですと言われても信じるレベル*1BOSEのIE2を買ったときには、小生意気にこの小ささでBOSEサウンドではないかと笑うゆとりもあったものだが、今回はもう降参するしかなかった。いやこれがソニーだよと。さいきん落ち目だと評判だけどこういうものを作るんだよあの会社はと。

 でも高い。売値で一万四千円とちょっと。買えない値段ではない。この音ならこの値段に値する。というより音を聞いたらこの値段では安い。技術者は泣いてるんじゃないかとも思う。でもまあ、正直、そのとき財布の中にその現金はなかった。

 というので、隣の売値6千円程度だったかのXBA-10を、未練がましく試聴してみる。こちらも確かに良い音である。良い音なんだけれども、隣のXBA-20を私はうっかり先に聞いてしまっている。先に聞いてしまった耳には、「まあ、良い音なんだけどね」という音に聞こえてしまう。これを買うのは妥協だと思う。安物買いだと思う。やっぱりXBA-20を買いたいと思う。買いたいけれど今は金がない。それで何も買わずに帰る。

 帰ったあとも未練がましく、ソニーのウェブサイトを見たりする。XBA-20の上にはXBA-30があり、その上さらにXBA-40があるらしい。その上にはたぶん大豪院邪鬼との対戦が待ってるんだろう。20であれだと30、40はどうなるんだよと思う。中に収まっている重要な部品の数が次第に増えるらしくて、ナンバリングが上がるほどに成りが大きく太くなっていくんで、やっぱり20くらいが見た目にはいいなとも思う。思うけど40とか試聴したら考えが変わるかもしれんと思う。でも40の値段ならさらに思い切ればゼンハイザーのHD700とか手が届くんじゃないかとも思う。やっぱり迷う。迷うので先送りする。

 たとえばXBA-20しか選択肢が提示されなかったら、私は購入に踏み切っていたかもしれない。いやクレジットカードくらいは持ってるんでね。これがソニー好みですと、一点突破を試みられたら、買ってたんじゃないかと思う。IE2しか売らないBOSEとか、iPhoneしか売らないアップルとかのように。4点から選べる幸せにはもう皆さん疲れてるんじゃないか。とくに一見さん相手には、これが当店当社の商品ですと、一点推しで出したほうが売れるんじゃないか。XBA-40とかHD800とかいった代物は、客の気質や背景を熟知した亭主が、お客様には特別なものがございますと、こっそり裏手から取り出してくる一品ものという位置づけでいいんじゃないか。

 

 

*1:ATOKはこびとって入力して小人と変換しないぞ。かたくなに。なんて政治的に正しいかな漢字変換だ。

「ソ連史」を読んだ

ソ連史 (ちくま新書)

ソ連史 (ちくま新書)

 逸話的なことはいろいろ知ってるんだけれど、通史として読んだことはなかった。読んでみて面白かった。

 私が物心ついて新聞など読み出した頃、ソ連はブレジネフの時代だった。盤石の独裁体制という外観だった。人類が文字を発明した頃からソ連には共産党書記がいたんじゃないかと思えるほどに、盤石で変化のない国だった。

 フルシチョフやその周辺はけっこう本気で、国民の生活条件の向上に取り組んでいたと、本書にはある。いかに本気だからって現場の生産力が伴わない以上は、中間管理職による辻褄合わせとか無理強いとか横行したんだろうけれども、でもトップにそういう意思がぜんぜんないよりはマシなのだろう。そのお陰もあってブレジネフの時代には社会保障もけっこう充実していて、国民はそれなりの暮らしができるようになっていた。

 実際、ブレジネフ時代のソ連とか、東欧諸国とかでは、政治的に高望みして先鋭な言動をとりさえしなければ経済的にはそれなりの暮らしができていたと、佐藤優氏の著作にも証言がある。

 ・・・ソヴェト政権と共産党は、国民の生活水準を高めること、人々の要望に応えることに関心があったし、民意に敏感でさえあった。共産党が政権を独占し、国家が経済を管理し運営していた以上、およそあらゆる分野における人々の不満が政府や党に対する不満となったからであり、このことは党も政権も正しく認識していた。共産党が掲げていた「党の目的は、人民の幸せ唯一つである」との訴えが建前に過ぎなかったとしても、支配を正当化し安定化するためには人々が実感できる成果が必要であり、党と政権はそうした成果を得るために努力した。この意味で、ソ連の指導者たちが国民の生活水準の向上を訴えたのは、決して建前や偽りではなかった。(178頁)

 むろん自家用車とか良いアパートとかいった、どう稼いでも手に入らないものはあったし、そういうものを諦めて、そこそこの暮らしに甘んじていれば、貧困層として限りなく底辺へ落ちていくこともないような、そういうセーフティネットは現在の日本よりもしっかりしていたんじゃないか。少なくとも、セーフティネットをしっかり整備しなければならんという責任感、あるいは、政策に関する説明責任の意識、説明責任を果たさなければ統治がうまく行かないという切迫感、そうした意識をソ連指導者はひょっとして最近の日本の政治家よりも強く持っていたのではないかと、本書を読んで思った。

 政治的自由についても、私がこれまで持っていた予断よりも、ソ連の人民は享受していたようだ。共産党中央の指導部に対する批判などタブーはあるものの(まあ、タブーがあってはそもそも自由とは言わんけれどもね)、そのタブーの範囲が意外に狭かったこと、そもそもスターリン以後は恐怖政治による統制という選択肢が放棄されていたこと、それに加え、そもそも取り締まり自体がソ連なりの緩さ不徹底さで、隅々まで行き渡らなかったこと、いろいろあって、政策に関する主張とかけっこうなされていたという。

 じっさい、今の日本に、政策に関する意見を述べる手紙を政府宛に書いたことのある日本人が、万単位で数えるほどにいるかどうか。言論の自由は権利としてあるけれど公共の何とやらのために自粛している人が大多数ではないかと。我々は政治的にも経済的にも自由を謳歌しているはずが、なんとはなく自縄自縛で息苦しい思いをしていて、それでも旧共産圏の人民よりはマシなはずだと決め込んではいるけれど、案外と旧共産圏の人らは、その時代にその中にいる感想としては、意外に悪くないと思っていたのかもしれない。
 
 

TEDってなんとなくもういいやと思う

自宅のケーブルテレビの機械に、TEDの番組がたくさん自動録画してあって、たまに見るんだが、なんとなく「これはもういいや」という気分がする。どことは言わないけど、なんとなく、もうこういう練り上げられたプレゼンの時代は過ぎたなという気がする。潮目はどのあたりだったのだろう。アップルのジョブズ氏が亡くなった頃だったのかな。

あそこに集まっている人ってふだん何してるんだろう。フィリップ・K・ディックの小説「パーキー・パットの日々」だったか「火星のタイムスリップ」だったかで、映画俳優とかいう肩書きで毎日毎日テレビのバラエティ番組に出演してて、とうてい本職の映画の撮影にあてる時間などなかろうと言われる人々が出てくる。似たようなもんかなと思う。

あるいは、やはりディックの複数の小説で、視聴者が参加するテレビ番組というのが出てくる。家庭に台本が配ってあって、セリフが視聴者の番になるとテレビ出演者が喋るのを止めてカメラの方を見たりする。視聴者は台本にあるセリフを読み上げる。出演者はあたかも視聴者のセリフを聞いたかのようにその後の番組を進める。むろん台本通りであるから話のつじつまはあう。傍からみてると馬鹿馬鹿しい。でもディックの小説世界ではテレビ視聴者はその台本による番組参加に夢中になっている。屋外は開発に行き詰まった火星とか、核戦争後とかで外出困難になった地球ってのもあったかな、何様、そんなもの以外にやることがない世界の話である。とは言いながら、テレビ見ながらツイッターやるのと、それほど違いはないような気もする。想定された台本通りのことをつぶやかないといけないってところなんかが。

EPSON EP-804Aの無線LAN接続がうまくいかない件に関して

バッファローのAirStationを介したEPSON EP-804Aの接続がうまく行かない件、最終的にはAirStationの「プライバシーセパレータ」を「使用しない」にするとうまく行きます。

http://www.ah-2.com/2011/12/01/epson_wlan_unconnectable.html: プリンタが無線LANでつながらない(プリンタ・PCの両方が無線の場合接続できない) « AH-2 が参考になりました。ありがとうございます。

生じていた問題点は、EP-804AとAirStation(WHR-G301N)のあいだの接続はAOSSで確立できるのに、おなじ無線LAN上にあるパソコンから検索をかけてもEP-804Aを検出できないというもの。

解決法は上記引用のサイトにあるとおりなのですが、WHR-G301Nの設定画面ではプライバシーセパレーターの設定は「無線設定」→「拡張(11n/g/b)」にありますとだけ付記しておきます。

娘と2人で半日潰したのでメモ。ええ、楽しかったですよ。

2013/03/03誤字訂正