大飯原発の再稼働に関して

大飯原発の再稼働が議論になっていると、ニュースで再々報じられている。そして私も再々、娘に、父さんは再稼働に賛成なの反対なのと聞かれる。正直、白黒つけた回答をしかねて困っている。

節電をすればだいじょうぶ電力は足りると言われても、そういう事情だから節電のために未熟児の人工呼吸器を5時間ほど止めてくださいと言われると困る。人工呼吸器なんて消費電力はそう多くなかろうしバッテリーでなんとかと言われたとしてもだ、加温加湿槽がとんでもなく電気喰いなんで、たぶんあれはバッテリーではどうにもならん。試すつもりにもなかなかなれない。

別に多少貧乏になったっていいじゃないかと仰る反原発の人におかれては、明らかにあるいは言外に、別に産業用の電力なんてカットして製品がたしょう傷んだところで原発再稼働の悪に比べればどうってことないと仰っておられるように思うのだが、ひとときの停電で取り返しがつかなくなる「製品」のなかに、人工呼吸器に依存している未熟児達もぜひ含んで考えて頂きたいと私は思う。

とはいいながら。人工呼吸器が止まるとおおごとだし大飯再稼働賛成と、娘に断言するのも躊躇される。

全くの原発停止も極端だし、全面再稼働も極端だし、その「中を取って」最低限ぼちぼち稼働させながら次第に自然エネルギーと置き換えていくってのが、中庸の徳ってもんでいいんではないかと、そういう考えも安易なような気がする。中庸がいちばん低リスクだなんていう定量は誰もしていない。たとえばの話、安全のために立地をよく考えて最新型の原発を作るという選択肢と、いまある古い原発をとりあえず再稼働するのと、どちらがよい選択なのか。おそらく最新型の原発を新しくという考えは、全面再稼働よりもさらに右翼側の、とことんの極端と位置づけられるだろう。しかしそれは、一見して中庸の、古い原発再稼働よりも、危険な考え方なんだろうか。

それとまあ卑近な話で恐縮なんだが、多少貧しくなってもいいやな原発は全廃だと仰っておられる向きがあんまり強くなると、なんだか仕事せんでも何となくどこかに生活費を請求できる人たちがどんどん発言力を増していって、額に汗して働く人が働いてすみません勘弁してくださいとその人らに謝ったあげく、これで勘弁してくださいと所得税やら年金保険料やら頭を下げつつ差し出すようなことになってしまっているようで、いまひとつこう、虫が好かない。

原子炉とハードディスク

 NICUで使っている超音波検査機は安物だから、検査した結果の画像はMOディスクに書き込む仕様になっている。うっかりしたことにMOドライブを買い損ねていて、今となっては中古品しか売ってないから、記録した画像もパソコンや電子カルテ端末に取り込めなくて、当の検査機の画面でしか参照できない。まあ、それであんまり不便じゃないけど。

 MOとかJazとかZIPとか、ひところいろいろな記録媒体が出てきてたように記憶している。ZIPドライブもデータのバックアップ用にと誰かがNICUに持ち込んでたが、なんだか使い物にならなかったような記憶がある。

 最近の自然エネルギー関連でいろいろなものが登場してくる様子が、なんだかこのあたりの様子に似ているような気もする。なんとなく寸が足りなくてパッとしない感じがとくに。

 記録媒体についてはなんだかんだしているうちに、結局は昔からあったハードディスクが、頑丈になり大規模にもなって*1、MOもJazもZIPもその他もろもろも、あのころ乱立したものはいつの間にか刈り払われてしまった。

 そんなふうに、結局は原子炉がまた盛り返してくるのかなとも思う。今の原子炉はあのころのハードディスクのような、20MBとか100MBとか、数字はよく覚えてないけどフロッピーディスク何十枚分か程度の記憶容量しかなくって、しかも店で買って持って帰るときに箱のカドをぶつけたらそのままお釈迦になるような、しょぼい世代のものなのだろうけど。

 あるいは、やっぱり原子炉もZIPドライブみたいなものでしかなくて、実はハードディスクに相当する技術は天然ガス発電だったりするんだろうか。

*1:ワシの若いころはの、ハードディスクの記憶容量はMBで勘定していたもんじゃった。

「仕事ができる人」の集まったチームは仕事ができるのだろうか

「忙しい人」と「仕事ができる人」についてもう一つ。

「仕事ができる人」によって構成されたチームって、仕事ができるチームなんだろうかねと。実例見たことないんで分からないんだが。

何とはなく、そう言うチームからは大きなブレークスルーが出ないような気がする。何とはなく、小器用にまとまっててそつなく日々の業務はこなせてるんだけど、発展がないというか、新しい局面に入らないというか、冒険しないというか。「幼年期の終わり」のオーバーロードみたいな、煮詰まってて上のレベルにいけない、みたいな。

やっぱり、無我夢中さってのは大事なんじゃないだろうか。

若いお医者さんは「仕事ができる人」のつもりになってはいけないよ

20代の真面目な人ほど損をしている!『忙しい人』と『仕事ができる人』の20の違い

 仕事ができるかどうかってのは、端的に、その仕事ができるかどうか以外のなにものでもないんじゃないかと、私は思うのだが。各々の仕事に関する具体的な事情を捨て置いて、こういう「態度」論に還元してしまうのは、まあ参考にはなるにしても、本質は突かない。それは日本の企業が終身雇用の正社員で構成されて、なんの業界であれ詰まるところは「サラリーマン」であった、フジ三太郎が何の仕事をしているのかさっぱり分からないけれどそれでもフジ三太郎の姿に大多数の成人男子が自分を重ねて見ることのできた(あるいは、重ねて見ているものだというのが社会的に共有された認識であった)時代の論考のしかたじゃないだろうか。

 若い医者に限らず、必死に仕事を覚えようとしている人が、この「仕事ができる人」の態度をとったら、若いくせに何を勘違いして余力を残して仕事に当たってるんだと頭の一つもこづきたくなるだろうと、私は思うが。この「仕事ができる人」は、自分の仕事の上限を見切っていることが前提だから。ここが合格点、合格点のこれくらい上を飛行すれば地上のでこぼこに当たらず高空飛行可能、と、分かってないとこの態度は取れないはず。

 医者ってそれが分かるのか?これからの時代には医者に限らず、どの分野でも、これくらいやっとけばいいやってのが分かるものなのか? iPhone4Sはすごい機械だと思うし、満足しておおいに遊ばせて貰っているが、たぶん2年して6くらいが出たら陳腐化して見えるだろう。アップルの仕事にしてそれなのに、いったいNICU仕事においても「これくらい」が果たして分かるものなのか。私には分からない。現在のStates of artがこれくらいと思っても、たぶん1年2年で陳腐化するし。まして仕事の仕方も覚えなければならない程度の若い医者が、医者仕事の「これくらい」が分かるものなのか。分かるような奴は生意気で嫌だな。それにたぶん、いまの時点で分かったような気になってたら、ふと気がつくと同期からはるかに取り残されてるってことになるよ。

引き継ぐときにはつまらないものですがと言う

 NICU部長を拝命して数年経つ。最初はほんとうに名ばかりの管理職だったが、最近は病院経営のお話にもときどき混ぜていただいている。

 むろん今の自分に経営の才覚や知識があるわけではない。だいたいは末席に謙遜して、院長達が病院改革の話をするのを拝聴しているばかりではある。そればかりであっても意外に充実感がある。彼らの姿は、少しでもよい病院を後進に残そうと奮闘しているように見える。引き継ぐ世代としては嬉しいことである。しぜん、前のめりに聞くことになる。

 こういう充実感はNICUを引き継いだころはあまり感じなかった。当時のNICUはあまり変革志向のない部署だった。施設全体としては現状維持が最善最適ということが暗黙の了解であった。改善の余地があるとすればそれは各人の臨床的資質の向上であるということになっていた。

 そういうふうに組織の改善を属人的要素としっかりリンクされると、改善すなわち前任者の否定ということになる。前NICU部長とか、過去に働いてくれた医師や看護師や、あるいは過去の自分自身まで含めて否定することになる。それがいやで改善を渋り、現状こそ最善と、まだ開設して20年とたたない施設が老舗のふりをしていた。京都では応仁の乱以前に発足していないと老舗とは言えないのに。

 後の世代にも進歩を続けさせるためには、自らを完成形として引き継がせてはいけないのだろう。これでよいと言って渡しては後進の手足を縛ることになる。自ら否定しつつ改善の動きを沿えて渡すことが必要なのだろう。これでは駄目なのだ、駄目なものを背負わせて済まない、せめてこういう改善をしてきた、そう言って低姿勢に引き渡すべきなのだろうと思う。むろん内心ではこの組織の仕事は存続させるべき仕事だと確信していても、それでも、これほど完成したものを引き継げて嬉しかろうと、○○アズナンバーワンと言わんばかりに引き継いでは、その時点で停滞が始まるのだろう。どこかの国の政治経済みたいに。

 これは良いものだと言われて引き継いだものはあまり嬉しくなく、まだ駄目だといって改革に奮闘しているものを引き継ごうとしている方が嬉しいというのは、いささか逆説的ではあるが、釣れた魚かまだの魚かという違いだけとは限らず、多少なりとも普遍的なことではないかと思うので、こうして記しておく。
 

もうすこし狡猾な人間に国防を任せたい

 一川防衛相がブータン国王を招いた晩餐会を欠席し、政治資金パーティの会場でこちらの方が大事と放言した。続いて、田中聡沖縄防衛局長が、米軍普天間基地移転に関して婦女暴行にたとえた話をしたとして更迭された。

 国防の枢要を担う立場にこのような人々を配置していていいのかと突っ込んでみたい。彼らは自らの職務に関して、多少規範を外れた内容に言及しても周辺はみな自分の仲間であるから大丈夫、という前提をおいた行動をとった。「ここだけの話だけどさあ・・・」という話をする誘惑に逆らう自制心もなく、周りがひとり残らず「ここだけの話」ができる身内なのかどうかを見極める判断力もない(というかさあ、そういう状況なんざあり得ないくらいわきまえてろよいい年して)。

 なんかそう言う人たちに国防に関する機密に触らせておくと、あちこちで「ここだけの話」をされそうで怖い。ましてわざわざ自分で酒席を設けて報道各社を招いて「ここだけの話」をする会を開催しようってのはどういう了見なんだか。ということで田中もと局長の更迭は、発言内容の不道徳の故ばかりではなく、彼の資質はこの任に向いたものではないらしいという理由もあってではないか。

 報道各社の諸氏も多少はお怒りになってもよろしいんじゃないかと思う。そりゃあ記者クラブにもご参加でしょうし御用記事の一つ二つもお書きでしょうよ。だけれども、こういう話をしても黙らせておけるだろう位に思われてるんじゃあ、小馬鹿にされ方も相当なものですよ。

 とはいえ、「ここだけの話」をいっさいしてはならないなどとは言わない。「ここだけの話」という形で、いかに中央が沖縄のことを思っているか、しかしどうにもこうにもならないところへ追い込まれているのかを、切々と語ってみるってのはありじゃないだろうか。あるいは、シジョーとかカクヅケとかリマワリとかに一喜一憂しない、すがすがしい国家のあり方に対する尊敬や羨望を語ってもよくはないか。白々しいと興ざめになるのが落ちかも知れないが、その猿芝居をやりおおせて、周りにそれを信じ込ませられるほどの狡猾な人でないと、なかなか国防は担えないんじゃないか。

 あるいは、こうなることも計算の内の深謀なんだろうかとも考えてみる。

 普天間基地の移設については、話の節目節目で中央政府の人が茶々を入れる。なんかこう、東京でも実はあんまり話を進めたくないんじゃないかと思う。こじらせるだけこじらせて、オバマ閣下もう二進も三進もいきません、本邦において貴国軍がこれいじょう駐留をつづけるのは国民感情の上から不可能ですと、申し上げるための布石なのではないかとも思う。田中氏は自らの地位を犠牲にして、ほとんどもう自爆テロとしか言いようのない発言に挑んだのではなかろうか。いや、他にこの田中もと局長の言動になにかの思慮があったと言えるような筋書きは思いつかないんでね。

 ブータン国王の晩餐会すっぽかしも、たとえば今後胡錦濤氏とかプーチン氏とかの晩餐会も同様にすっぽかして見せることができたら、あるいは何らかの政治的に重要な意味合いを持たせることができるかもしれない。いや君らどれだけ図体のでかい国だって威張ってても俺らブータン国に対する以上の尊敬はしてませんから、とか。いや胡錦濤とかプーチンとかあいてじゃなく、オバマやヒラリー相手にそれをやることで、二人の志が完遂されるのかもしれない。

 たぶん、彼らはその作戦を「ココダケノハナシ作戦」と命名していることだろう。作戦完遂の暁には、勇者達を讃えたい。今はたぶん、国民総出で泥を投げるのが、彼らの意図に沿った対応だろうと思う。涙を込めた泥を投げることにするよ。こうして。
 

本当に言いたいことは「俺も頭がいい」ということではないですか?

震災と原発事故からこっち、あちこち読むばかりで自分はだまりがちなんだけれども、よいエントリだなと思った記事につくはてなのブクマとか参照すると貶してあるブクマが多くて、その中には確かにその視点は自分も持たなかったと肯ける貶しもあるけれど、やっぱりどうしてそう言う読みができるかなというまるっぽ誤読としか言えない貶しもあって、それも、それは心底からの反論ですか?とゆるく聞き返してみたい貶しもあって、というのはそういう貶しの画面の裏から「俺頭がいいんだ!」という声が聞こえてきそうな気がして。たった数十字によくもまあこれほどありありと嫉妬とか自己顕示欲とか浮き上がらせることができるものだと、意図的にやってるんならそれはそれで確かに文才だと感心したりもして。俳句とか川柳とか始めてみたらどうですか?とかちょっとお勧めしてみたりしたくもあって。自分のブログにもそういう腐臭はしてるんだろうと思うと、何を書いても私もまた「俺頭がいいって言ってくれよみんな」みたいな願望が浮き上がってしまうんだろうな、と。

まあ、そういうグチグチを書き連ねておいて言うのも何だが、重大なことにものを言うときにはせめて、ほんとうにそれを主張したいのか、それとも本当に主張したいのは「俺も頭がいい」ということなのか、いっぺんふりかえってからにしたほうがいいんじゃないかな?と、ちょっと言ってみたくなったのでした。しょせんそういう自己顕示欲なんて気体分子のブラウン運動みたいなもんで、大きな流れにはなりようもなしってんでほっといていいのかもしれないけれども、何かと不完全な人間社会を考えるのに天上の誰かさんが拵え上げた物理世界をそのまんまアナロジーに持ってくるのはたぶん論理的に瑕疵があるんだろうし。