「遠すぎた家路」を読む

「遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち」ベン・シェファード著、忠平美幸訳、河出書房新社刊2015年(出版社リンク)を読んだ。原題はBen Shephard, THE LONG ROAD HOME: The Aftermath of the Second World War. 2010。

第二次正解大戦後の欧州での、独ナチス政権により強制労働あるいは絶滅の目的で移動させられていた人々に関する戦後処理の話。

フランスやベルギーなど西欧から労働力として強制的にドイツ国内へ移動させられていた人々については本国に帰る世話をすればよかった。東部戦線でドイツに投降しドイツ軍に荷担していた旧ソ連軍の面々は、情け容赦なく本国へ送還され、むろん処刑された。東プロイセンやズデーデン地方などから追放されドイツ国内で難民となっていたドイツ人たちは、まあ自業自得っつうことでとあまりケアされなかった模様。

そういう、ある意味で単純な状況の人々ばかりではなく、ソ連に侵略され併合された旧バルト三国からの避難者とか、労働力として強制連行されているうちに本国で共産主義の傀儡政権が成立してしまって帰国する希望をなくしたポーランド人とか、ドイツの占領下でこの際にと反ソ連活動もおこなったウクライナ人とか、それにもちろん強制収容所から解放されたユダヤ人とか、そのような帰国先のない人々への対処が難題で、本書の本題となっている。

対処といっても魔法の杖などなく、不満にかかわらず帰国するよう説得する、説得に応じない場合にはキャンプをぐるぐる移動させて居着かせないようにする、新たな受け入れ国を探す、など地道な対策がとられた。現状を維持するあいだにも食糧や衣類、居住施設などの調達が必要になる。軍政ではそういう支援はどうにも無理のようで、民政の面々が軍と渡り合って苦労している。ユダヤ人に関してはパレスチナ移住イスラエル建国という手段もとられたが、そこで生じたパレスチナ難民については本書で扱う範囲を離れているらしく語られていない。

対処の現場では彼らは必ずしも十分な同情をもって扱われたわけではなかったとのこと。特にユダヤ人については、当時まだホロコーストの実情が周知されておらず、生存者たちは気力なく働こうとせず不平ばかり言う連中と蔑まれた由。とはいえユダヤ人はもと住んでいたところに帰国したところで、共同体は壊滅し生活基盤もすっかり略奪されつくして文字通り「帰る家もない」状態であった。蔑まれつつも彼らの行き先は確保されなければならなかった。

新たな受け入れ国で従来の職業につけるかというと、やはり単純労働の受け入れ条件ばかりで、ポーランドで医師をしていた人がオーストラリアに肉体労働者として移住したりもしたとのこと。理不尽なのは出身国による格差で、教養ある中産階級出身者が多く大半が英語を使えるバルト三国出身者は受け入れ側も比較的歓迎するものの、低所得の階層が多かったポーランド人などは受け入れ先も乏しかった。

イギリスという国はたいしたもので、1943年まだ戦中のうちに、このような戦後処理の難問が発生すると予測して対策を打ち始めていた。そんなもんドイツ人が悪いんで俺たちの責任じゃねえと放置しそうなものだがと思ったが、それは私のさもしい島国根性の発想なのだろう。

しかし戦中はホロコーストもまだぼんやりした噂としてしか伝わっておらず、蓋を開けてみれば準備していた対策の規模はまったく不足だった。イギリスの国自体が戦費の負担で破産しかかっており、イギリス政府はどうにかして米国に金を出させようと四苦八苦した。戦中の経過でイギリスの発言権はまったく地に落ちており、ソ連はイギリスの言うことなど歯牙にもかけず東側諸国への帰国を執拗に迫るばかりだった。イギリスは米国政府に対し、人道的視点のみならず対ソ関係の視点で煽って支援を得ようとした。我が事のように責任をもって始末をつけようとするイギリス政府の態度はたいしたものだと思う。経済的な破局や疫病などの社会問題が本国まで波及したらたまらんという問題意識もあったようだけれど、たとえば現在の日本政府が北朝鮮破局後の混沌にどれだけ当事者意識を持って準備しとるかっつうと怪しいもんだと思うし、これはたいしたものでしょう。

 

 

 

ちいさなちいさなわが子を看取る

ちいさなちいさなわが子を看取る NICU「命のベッド」の現場から

ちいさなちいさなわが子を看取る NICU「命のベッド」の現場から

 けっきょく本書は小児緩和ケアの不在に関する報告なんだよな。行われた新生児集中治療のお話と言っては、たしょう焦点がずれる感がある。本書を読んでて、新生児科医がいろいろ考えたり苦労したりしているのは分かるんだが(それはまあ同業者だし)、しかし同じスタッフ・同じチームが治癒を目指す治療と緩和ケアとを同時にやるってのは、そもそも構造的に無理なんじゃないかという気がしてならない。新生児科はとことん治癒を目指す、緩和ケアチームが初期から介入して種々の緩和を行う、この担当者を別立てにするのにかなり大きな意味があると思う。

 父が経理の仕事をしていて、子どもの頃から予算とか監査とかといった話を聞かされて育ったんで余計にそう思うのかも知らんけど、集中治療屋が緩和ケアもってのは、予算の執行と監査を同じ人間がやってるようなお話ではないかと思えてならない。端的に言って治った大多数は新生児科の勝ち、治らなかった少数例もじゅうぶん緩和ケアをした新生児科の勝ち、なんて心得でこのままやっていくのでは、僕らに「君ら間違ってるよ」と誰か言ってくれる仕掛けは僕らの仕事の仕組みのなかに用意されてあるのだろうかと、ちょっと危機感を覚えたりする。

 たぶんそれはブレーキのついてないピストバイクをかっとばしながら、俺はペダルを勢いよく踏みすぎてるんじゃないかとか、止めたいときにペダルを止めたら本当に止まれるんだろうかとか、危惧するようなお話で、いやそれって深刻そうに考え込んで見せてもあんまり賢くは見えんよと仰られたらまことに返す言葉もない。じゃあブレーキをつけろよフリーホイールつけろよって話にすぎなくて。

 
 

普通の人々

普通の人びと―ホロコーストと第101警察予備大隊

普通の人びと―ホロコーストと第101警察予備大隊

  • 作者: クリストファー・R.ブラウニング,Christopher R. Browning,谷喬夫
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1997/12
  • メディア: 単行本
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 ナチが政権を取る前の時代を知っている、ということはナチのもの以外の価値観を知っている面々が、ポーランドの占領地でのユダヤ人虐殺を命じられる。最初こそ心理的におおきな抵抗を感じるが、そのうち積極的に作戦に参加するようになる。ユダヤ人が住む街や村へとつぜん押しかけ、非常線を引き、ユダヤ人を市場などにかり集め、近くの森などへ連行し、射殺する。歩けない者はその場で射殺する。ユダヤ人の隠れ家を掃討し、発見次第射殺する。諸々。

 当初は指揮官自らが動揺を隠せず、部下にも、耐えられない者は申し出れば参加しなくて良いと告げたりする。じっさい、虐殺の命令を拒否したからといって厳罰にってことはなかったらしい。単に他の仕事を割り当てられただけだったんだと。あるいいはできませんと申し出るほどの思い切りがなくても、なんか適当にごまかしたり、もうダメだと離脱したりする者もあったけど黙認されてたとのこと。でもそういう忌避を貫くのはしだいに少数派になっていく。

 虐殺は親衛隊だけの仕事だろうと漠然と思っていたのだが、抹殺するべき人数が多すぎて、親衛隊だけでは手が足りなかったとのこと。もう若くなくて最前線に送るには老兵に過ぎる世代を徴収して、占領地でのユダヤ人虐殺に充ててるんだけど、その世代はナチ以前のドイツも知ってる世代である。ナチ以前の世間知もあって、招集以前には職業にも就いてて、その職業もべつにナチの支持層でもなくて、そんな中年世代。

 なんだかなあ。ちょうど俺世代じゃないかと思う。俺は拒否できるかな。招集されて行った先で、実はずいぶん辛い仕事でこれから民間人を女子供含めて皆殺しにするんだが、それがどうにも嫌でダメだという人は申し出れば良いよと指揮官に言われる。指揮官自身もずいぶん辛そうにしている。そこで一歩踏み出して、俺抜けますと言えるかどうか。

 

そこに僕らは居合わせた

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶

  迫害というのは、やりたくない行為を嫌々やらされるうちにだんだん抵抗がなくなるものだと思っていたが、どうやらそれは違うらしい。普段は良識に阻まれて実行しようとしないこと、実行を考えることさえ下劣な行為とはばかられるようなことが、欲望のままにできるようになることらしい。ユダヤ人の経営する商店で無理矢理につけで買って踏み倒すとか、連行されたユダヤ人一家の住居に上がり込んで略奪したりとか、連行される直前に一家が摂ろうとしていた昼食を子どもたちと揃って食べたりとか。気高さがみじんも感じられない。

 本書を読んで、ユダヤ人を迫害した記憶が語られないのは、民族差別に荷担したことを恥じる等といった形而上的な理由ばかりではなく、こういう、行為自体の具体的な下劣さ自体が、あまりに語るに落ちるからではないかとも思った。迫害とか差別とかを実行するってのは、自分の本性からかけ離れた行為を強制されることではないんだ。心の底ではやりたいと思ってることに対する歯止めが外されて、自分の本性をむき出しにされるってことなんだ。制約を外されていそいそと欲望に従う、そこで露わになる姿こそが本性なんだ。

 お前たちはユダヤ人が逮捕され連行されるのを黙ってみていただろうと糾弾されても、仕方がないじゃないか俺たちだって弱い一般市民だったし何ができたって言うんだと、反論もできよう。その反論には一定の説得力があると私は思う。でもそれなら、俺たちには見ているしかなかったという悔恨の念をもって、記憶を語ることもできるんだろう。しかし、お前達は逮捕されたユダヤ人の家に上がり込んで、食卓のまだ熱いシチューを自分の子供たちに喰わせて機嫌良くなるような奴らだと言われたら、言われた方は恥じ入るしかないし、そういうことをしたという記憶はとうてい語り得ないだろうと思う。救いようがないと私も思う。悪人正機といって法然親鸞が念仏を広めたのはこういう種類の悪を念頭に置いてのことかもしれんとも思う。

 著者の意図するところを汲んだ感想ではないだろうが。

 

学校へ行く意味・休む意味

 不登校をめぐって、教育制度の変革や就学進学の率の変化など歴史的経過を主に論じている。いろんな歴史を知らないまっさらな頭の子供が不登校について考えるにはよい本だろうと思う。「なんだってこんなことになってしまったのか」系の本。「それでけっきょくどうなってるのか」の話はあまり書いてない。まあ、それはまだ本当のところ分からないんだからしかたない。

The Silver Sword

Oxford Bookworms Library 4 Silver Sword 3rd

Oxford Bookworms Library 4 Silver Sword 3rd

 じっくりYL3台でとどめて英語多読を重ねてそろそろ90万語ほどになる。だいぶ英語と意識せず文意が頭に流れ込んでくるようになった。

 本書は割と重い内容だった。第二次世界大戦中のワルシャワに住んでいた姉弟3人が、ドイツ軍に連行され生き別れになった両親と再会するべくスイスへ旅するというもの。彼らの両親がスイスで待っているかもしれないという情報をもたらした孤児とともに、4人で旅の苦労を重ねる。日々の食料の苦労はもちろん、姉弟の男の子は呼吸器疾患(たぶん結核)持ってて最後にはほとんど歩けなくなってるし。ポーランド難民は本国へ送還するのが連合軍の方針らしく、捕まらないようにしなければならないし。パスポートも査証もない子供たちがスイスに入国できるのかどうかもわからんし。

 もともと児童書なんだろうと思う。困難な状況なんだけど基本的にハッピーエンド。だけれども、旅程で農作業を手伝ってしばらく食わしてもらったドイツ人農家の老夫婦の、二人の息子が二人ともドイツ軍の兵士として戦死してたりする。双方の重い事情と和解。それでも老夫婦は子供たちの行程を手助けするし、役人も彼らがポーランド難民だと知ってるんだけど「いいか、ポーランド難民は本国に送還しなければならん。ついては明日の昼ごろ連行に来る。明日来るからな。明日だからな。逃げるんじゃないぞ。ぜったい逃げんじゃねえぞ」みたいに、要するに今夜のうちに逃げろと言外に言い置いて去ったりする。

 こういう、状況は苦境だけど基本的に世間は善意で動くから諦めるなという物語をたくさん聞かされて育った子供はタフに育つだろうなと思う。魔法で救われたり秘められた希少な才能が突然開花したりするような物語よりは、よほど。

「ソ連史」を読んだ

ソ連史 (ちくま新書)

ソ連史 (ちくま新書)

 逸話的なことはいろいろ知ってるんだけれど、通史として読んだことはなかった。読んでみて面白かった。

 私が物心ついて新聞など読み出した頃、ソ連はブレジネフの時代だった。盤石の独裁体制という外観だった。人類が文字を発明した頃からソ連には共産党書記がいたんじゃないかと思えるほどに、盤石で変化のない国だった。

 フルシチョフやその周辺はけっこう本気で、国民の生活条件の向上に取り組んでいたと、本書にはある。いかに本気だからって現場の生産力が伴わない以上は、中間管理職による辻褄合わせとか無理強いとか横行したんだろうけれども、でもトップにそういう意思がぜんぜんないよりはマシなのだろう。そのお陰もあってブレジネフの時代には社会保障もけっこう充実していて、国民はそれなりの暮らしができるようになっていた。

 実際、ブレジネフ時代のソ連とか、東欧諸国とかでは、政治的に高望みして先鋭な言動をとりさえしなければ経済的にはそれなりの暮らしができていたと、佐藤優氏の著作にも証言がある。

 ・・・ソヴェト政権と共産党は、国民の生活水準を高めること、人々の要望に応えることに関心があったし、民意に敏感でさえあった。共産党が政権を独占し、国家が経済を管理し運営していた以上、およそあらゆる分野における人々の不満が政府や党に対する不満となったからであり、このことは党も政権も正しく認識していた。共産党が掲げていた「党の目的は、人民の幸せ唯一つである」との訴えが建前に過ぎなかったとしても、支配を正当化し安定化するためには人々が実感できる成果が必要であり、党と政権はそうした成果を得るために努力した。この意味で、ソ連の指導者たちが国民の生活水準の向上を訴えたのは、決して建前や偽りではなかった。(178頁)

 むろん自家用車とか良いアパートとかいった、どう稼いでも手に入らないものはあったし、そういうものを諦めて、そこそこの暮らしに甘んじていれば、貧困層として限りなく底辺へ落ちていくこともないような、そういうセーフティネットは現在の日本よりもしっかりしていたんじゃないか。少なくとも、セーフティネットをしっかり整備しなければならんという責任感、あるいは、政策に関する説明責任の意識、説明責任を果たさなければ統治がうまく行かないという切迫感、そうした意識をソ連指導者はひょっとして最近の日本の政治家よりも強く持っていたのではないかと、本書を読んで思った。

 政治的自由についても、私がこれまで持っていた予断よりも、ソ連の人民は享受していたようだ。共産党中央の指導部に対する批判などタブーはあるものの(まあ、タブーがあってはそもそも自由とは言わんけれどもね)、そのタブーの範囲が意外に狭かったこと、そもそもスターリン以後は恐怖政治による統制という選択肢が放棄されていたこと、それに加え、そもそも取り締まり自体がソ連なりの緩さ不徹底さで、隅々まで行き渡らなかったこと、いろいろあって、政策に関する主張とかけっこうなされていたという。

 じっさい、今の日本に、政策に関する意見を述べる手紙を政府宛に書いたことのある日本人が、万単位で数えるほどにいるかどうか。言論の自由は権利としてあるけれど公共の何とやらのために自粛している人が大多数ではないかと。我々は政治的にも経済的にも自由を謳歌しているはずが、なんとはなく自縄自縛で息苦しい思いをしていて、それでも旧共産圏の人民よりはマシなはずだと決め込んではいるけれど、案外と旧共産圏の人らは、その時代にその中にいる感想としては、意外に悪くないと思っていたのかもしれない。