伝統が消え去るということ

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上

低出生体重児の予後を研究するデータベース事業の運営会議で、土曜の午前中に東京に集まって会議できるような殿様たちが、最近「地域」*1が入ってきてるんでデータベースの性質が変わってるんじゃねえかとか仰ってたと知った。畜生。てめえら何万石の大名気取りなんだ江戸城のどこの座敷で喋ってやがるんだと、貧乏旗本か御家人の気分である。

とは言いながら昨今の閑散とした時期には、もう私らの存在意義はないのかもしれんなとは思った。一時の気の迷いってことにしておこう。たしかに当地のNICUは乱立しすぎだ。だからといって私らが認可病床を返上して、スタッフをどっか他所の大病院に転職させたところでだ。私らの仕事がそのまま受け継がれるとは限らないんだ。

私らの仕事の伝統。23週の双胎が緊急帝王切開だと言われて、看護師がパニック起こさず輸液の内容はどうしましょうか人工呼吸器は何を使いますかと指示を仰ぐ病棟だ。このチームを地域医療の経済的最適化とか称して解体することのどこに正義がある。鴨鍋喰いたいからって金の卵を産むガチョウを屠殺するバカがどこにある。

とは言いつつもと逡巡するわけだ。うちのNICUで一番へたれなのは部長の私だからね。仕事がヒマだと定時に帰って、医学書読めば為になるものをこういう文系書読んだりする。で、伝統って虚勢張ってもあっという間に失われるんだよねとも思った。コールデストウインター。最高にお寒い冬の物語。

上巻の主要テーマは開戦時点での米軍の弱さである。ドイツに勝ち日本に勝ってようやく4年しか経たないというのに。1949年の時点でもう一度戦えば勝てたんじゃないかと思うほど*2。たった4年で第二次世界大戦の勉強の成果すら忘れられるんだ。私らも暇をかこって昔の栄光にひたっとるうちに、伝統の賞味期限が切れてしまうかもしれない。

まあとりあえず今は入院数が持ち直している。どうも隣県がオーバーフローしているらしい。とりあえず当地でせき止めるつもりではある。

*1:地域周産期母子医療センターのこと

*2:むろん1年もしないうちに押し返されてもう一度無条件降伏することになるんだろうが。

やっぱり喧嘩見物は下品だったと反省

主体性は教えられるか (筑摩選書)

主体性は教えられるか (筑摩選書)

 山形浩生さんが酷評して著者が反論していたので読んでみた。

岩田健太郎『主体性は教えられるか』:主張はわかるが無内容。 – 山形浩生 の「経済のトリセツ」  Formerly supported by WindowsLiveJournal

山形浩生という方から僕の「主体性は教えられるか」に対する書評(?)に対するしぶしぶのコメント – 楽園はこちら側

 読後感は、山形さんの評にあるとおり、

うるせえ。

 この一言に尽きた。何か言いかけては半分否定し、また何か言いかけては言い訳しで、どんどん水ぶくれしていく。位相をずらして重ね合わせたら消滅するんじゃないか。読んでて内容を云々する以前に語り口にまず苛立つ。

 著者が信奉する内田樹先生も、ラカンについて言及された折、語り口が重要であると仰っておられるが、著者は読んでないんだろうか。

 あるいは芸として韜晦したり逡巡したりして見せてるんだろうか。内田もときにやるからね。でも著者のは芸としてはしつこすぎる。「シムラー!後ろ!後ろ!」ははじめだけでいい。

 それでも内容に関して言及すると、著者はまず、優秀ではあるが主体性のない研修医の指導に苦慮した経験を述べる。それを枕に、本書の大半を費やして、現状の教育では主体性は育てられないと述べる。本邦の教育は一般的に主体性を育てるものではない、医学部学生や研修医の教育も、指導医講習も例外ではないと、縷々問題を指摘する。そしてなでしこジャパンを主体性の手本と賞賛する。佐々木監督が選手に理不尽でつらい練習を課したこと、選手達に自分の頭で考えるよう要求し答えを教えなかったことがよかったのだそうだ。

 凡庸な結論だ。

 例によって凡庸、とあえて言おう。たぶん凡庸なんだろうなと思って自腹を切るのは控えてたんだが、うっかり山形さんとの喧嘩を見物に出てしまって罰が当たった。やっぱり他人の喧嘩を見物するのは下品なことだよなと思い知った。著者の感染症に関する論考は文句なく面白いと思う。でも、教育や哲学思想を語るととたんに浅くなる。いいかげん、「医学教育会の内田樹」になろうとするのは止めたらいいと思う。そう成り仰せたところであんまり苦労するほどの甲斐もないように思うし、だいいち、このままでは「感染症科の香山リカ」への道をまっしぐらに墜ちていっているだけだし。
 

 

「神と科学は共存できるか」

神と科学は共存できるか?

神と科学は共存できるか?

宗教と科学は互いに異なる問いに答える体系であるから、宗教では言及できない問題があるのと同様に、科学では言及できない問題もある。著者の認識はそういうことだと思う。私もまたまったく妥当な認識だと思う。

医学が純粋に科学であった場合、NICUでときになされる「どうしてうちの子がこんなことにならなければならないのですか」という問いには、医学では答えられない。「それはB群溶連菌という細菌の感染症で・・・」云々とか言っても、たぶん、親御さんはそういうことを聞きたいんじゃない。この手の質問をしたときに親御さんが本当に聞きたい種類の答えを、現代の医学は準備していないし、将来もおそらく、この質問に答えるような発展の仕方はしない。もしこの質問にダイレクトに答えるようになったとき、医学はたぶん科学ではなくなる。

その互いの領分があるということについて大多数の宗教者は分かっているし、大多数かどうかはともかく科学者も分かっている。分かろうとしない宗教者が公立学校で進化論を教えるのを禁じようなどという愚行をはたらく。それは愚行なのだが、科学が答えられないことに答えようとする科学者の越権もまた愚行であると、著者はやんわりと批判しているように見える。

そもそも宗教と科学の対立という構図そのものすら、近代になって作られた歴史だと著者は言う。中世にも大多数のキリスト教神学者は地球が丸いとは分かっていた。コロンブスがきつく質問されたのは、地球が丸いと彼が言ったためではない。そんなことは当時から共通認識だった。彼への質問は、コロンブスの見積もりでは地球のサイズは小さすぎるのではないかという点に集中していた。そしてその指摘は当たっていた。

著者自身のそういう論はまったく妥当なものだと思うのだが、本書には訳者が妙に長い自説をくっつけていて、その説は「それ見ろ俺も言ったろう、科学が万能なんだよ宗教なんて引っ込んでりゃあいいんだよ」という論であって、自己顕示と誤読が二重に痛々しく、途中で読むのを切り上げて京都市図書館の返却ポストに放り込んできた。これだけの本を理解せずに翻訳するなんてある意味すごい芸当だとは思った。

苦海浄土

苦海浄土 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

苦海浄土 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

健康も生活も根こそぎ奪われた被害者と、経済を理由に彼らの犠牲に目をつぶりむしろ被害者を白眼視しようとする社会。

いったい日本は進歩しているのだろうか。

NICUにデジタルビデオカメラを買った

 日産式「改善」の講演を拝聴して「動画を使った文字のないマニュアル」というコンセプトが頭に残っていたのか、翌日、新宿から品川に移動する電車の中で、パナソニックのデジタルビデオカメラのポスターが目についた。よい製品だと思った。これほど見栄えのいい嫁さんや娘がいたら俺も血迷って買うかもしれんねと思った。京都に帰ってメーカーサイトを見たら森高千里だった。森高千里モリタカに釣り合う子役だ。やれやれ。敵うわけがないじゃないか。自分だって江口洋介な訳じゃ無し。

 それにしても、森高千里は年を取らないのかね。V型変異体質じゃなかろうね。

 買おうかと思ってNICUでメーカーサイトを見て、そばにいた一年目の看護師に、4色あるうちどれがいいと聞いてみたら、ベリーピンクがいいと答えられて頭を抱えた。この4色から寄りによってそれを選ぶか。彼我の美意識の断絶は思っていた以上のようだ。購入申請には色は指定しなかった。購買課長は無難に白を選んできた。

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 三脚をつけてみた。SLIK 三脚 コンパクト II 旅行用三脚 214824をアマゾンでカタログ買い。バーサーカーみたいなフォルムがなかなか良い。これを良いという私とベリーピンクが良いという看護師にはたぶん相互理解は不可能なんだろう。まあよい。相互の尊敬さえあれば仕事はできる。

 それにしても、手頃な小型三脚を選んだつもりなのだが、微妙に保育器の高さに届かなかった。後ろにある白いビグ・ザムみたいなのが保育器。これでは保育器のなかが撮影できない。またカタログ買いの銭失いの悪癖が出たかと思った。

 三脚の買い直し。サンワサプライ マルチクランプポッド DG-CAM16を性懲りもなくアマゾンに発注。つけてみたらこうなった。バーサーカー2号。いっそうかわいらしい。

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 こういうことができる。しがみついているのは保育器に輸液ポンプを取り付けるためのポールである。
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 保育器内外で行われる作業をほぼ完璧に撮影できる。なかなかよい。

それじゃ今回のプロジェクトから降りるのかというと

人が変わる、組織が変わる! 日産式「改善」という戦略 (講談社+α新書)

人が変わる、組織が変わる! 日産式「改善」という戦略 (講談社+α新書)

 この改善という考え方そのものはまあよろしいと思うんだ。200年300年たって、日産というメーカーが潰れるなり発展解消するなりして後ろ盾がなくなっても*1古典としてこの考え方自体が残ってるかどうかは怪しいけれども。多分に15世紀ヨーロッパの”mement mori”とか、16世紀末日本の「わび」「さび」みたいな、当時の社会的背景を前提とした考え方として、20世紀末から21世紀初頭の日本に「改善」という概念がありましたってことになるんだろうけれど。「おたく」とか「萌え」とかと並列で。

 でも日産という背景があると、その背景の影響を直接受ける人には、この考え方は生臭いだろうなとも思う。「限りないお客様との同期」って親会社に言われた子会社はどうすればいいんだ。おたがい、お客様っていったら自動車の購入者ってのが建前だろうけれど、本音のところ、子会社にとってのお客様ってのは親会社だろうに。その暗黙の了解の元で「限りないお客様との同期」っていうご指導が親会社のコンサル部局から入ってきたらだ、子会社の経営陣としては、親会社として君ら子会社に際限なく要求するよって宣言されたに等しいんじゃないかと思うが。ゴーンの辞書に満足という言葉はないってなもんで。

 まあ俺らNICUには日産の親会社がどうあろうと子会社ほどには影響を受けない。それどころかいまうちの病院で使ってる救急車は日産の製品なので、俺らのほうがお客様だ。日産の支配からはわりと自由な立場にある。ありがたく本書など拝読して、改善の参考とさせていただけば良い。*2

 参考にするにも知恵は要るだろうと思う。引き写しではまずい。ラインの上手からまずいものが流れてきたらラインを止めます、って、クルマの工場ならそれもいいが、NICUなんてそもそも問題がある赤ちゃんしか引き受けないわけで。

 そこに何らかの改善式検討を加えるとしたら、その赤ちゃんの抱えた問題が想定の範囲内でなければならない。所定の類型におさまってくれてないといけない。

 なんだかずいぶん粗雑な話のようにも思える。診療ってのはもうちょっと個別化されたものではないのか。とは言いながら、現状の診療だって、いわゆる臨床経験の実際のところは、いかに手元のその「類型」を細やかに準備してるかってことに過ぎないんじゃないかとも思える。このさいその類型の手の内を公開してみようというのも、試みられていいことではある。自分自身にすら明瞭ではなかったりするし。

 本当にそのこだわった類型は、区別するだけの効能があるのか?とか考えてみるのもまた良いことではある。別に治療方針に違いがあるわけでなしと言えるような些細な違いでしかないこともあろう。

 しかしながら、そういう違いもまた、いずれ新たな病態生理の切り口とか治療法とか見つかってきたら、大きな違いになるかもしれない。そう思うと、実用上の差を生まない違いを無視してしまうのは、将来の進歩の芽を摘むことになるのかもしれない。

*1:伊那谷の「かんてんぱぱ」は残るだろうと思ってるけど

*2:むろん我々とて理念的なお客様と事実上のお客様とが乖離しているという構造的問題は抱えているけれども。我々の事実上のお客様は医療保険の保険者であり支払基金なんだから。

結局のところ、ランスは復活するべきだったのだろうか

ツール・ド・ランス

ツール・ド・ランス

ランス・アームストロングの2度目の復活の顛末である。著者はランスやブリュイネールの旧知のジャーナリストとのこと。著者自身は2度目の復活について(一度目の復活の価値を問うものはないだろう)意見を述べるのを慎重に避けている。ランスの復活から、あの2009年のツール終了までに、彼がランスやブリュイネールのごく身近にあって見聞したことを、淡々と事実に即して述べるという体裁である。

私がツールの中継を見始めたのが2009年からなので、ちょうど本書に書かれた時期のことになる。はじめてランスの走りを見て、すごい選手だと思った。しかしこの夏、Jスポーツが再放送した、かつてのランスの7連覇中の走りを見てしまった。その姿はまさに「ランス」と呼ぶしかない、他のどのような言葉をもって表現してもその範疇を超え出てしまうものであった。その姿を見てしまうと、記憶の中の2009年のランスがずいぶん貧相なものと感じられてならなかった。7連覇中との違いは、強弱の問題とすら言えなかった。それは真贋の問題であった。

本書を読み、Jスポーツの再放送を観た今となっては、ランスは2度目の復活はするべきではなかったと思う。晩節を汚してしまった感がある。むろん2009年のツールでは総合3位だったのだから、2度目の復活後のランスもすごい選手ではある。しかしツール総合3位は他の選手には業績であっても、「ランス」が誇るべき成績であるとはどうしても思えない。他人の人生を美醜で評価するのは間違ったことだと、頭では分かっているつもりなのだが。