苦海浄土

苦海浄土 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

苦海浄土 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

健康も生活も根こそぎ奪われた被害者と、経済を理由に彼らの犠牲に目をつぶりむしろ被害者を白眼視しようとする社会。

いったい日本は進歩しているのだろうか。

NICUにデジタルビデオカメラを買った

 日産式「改善」の講演を拝聴して「動画を使った文字のないマニュアル」というコンセプトが頭に残っていたのか、翌日、新宿から品川に移動する電車の中で、パナソニックのデジタルビデオカメラのポスターが目についた。よい製品だと思った。これほど見栄えのいい嫁さんや娘がいたら俺も血迷って買うかもしれんねと思った。京都に帰ってメーカーサイトを見たら森高千里だった。森高千里モリタカに釣り合う子役だ。やれやれ。敵うわけがないじゃないか。自分だって江口洋介な訳じゃ無し。

 それにしても、森高千里は年を取らないのかね。V型変異体質じゃなかろうね。

 買おうかと思ってNICUでメーカーサイトを見て、そばにいた一年目の看護師に、4色あるうちどれがいいと聞いてみたら、ベリーピンクがいいと答えられて頭を抱えた。この4色から寄りによってそれを選ぶか。彼我の美意識の断絶は思っていた以上のようだ。購入申請には色は指定しなかった。購買課長は無難に白を選んできた。

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 三脚をつけてみた。SLIK 三脚 コンパクト II 旅行用三脚 214824をアマゾンでカタログ買い。バーサーカーみたいなフォルムがなかなか良い。これを良いという私とベリーピンクが良いという看護師にはたぶん相互理解は不可能なんだろう。まあよい。相互の尊敬さえあれば仕事はできる。

 それにしても、手頃な小型三脚を選んだつもりなのだが、微妙に保育器の高さに届かなかった。後ろにある白いビグ・ザムみたいなのが保育器。これでは保育器のなかが撮影できない。またカタログ買いの銭失いの悪癖が出たかと思った。

 三脚の買い直し。サンワサプライ マルチクランプポッド DG-CAM16を性懲りもなくアマゾンに発注。つけてみたらこうなった。バーサーカー2号。いっそうかわいらしい。

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 こういうことができる。しがみついているのは保育器に輸液ポンプを取り付けるためのポールである。
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 保育器内外で行われる作業をほぼ完璧に撮影できる。なかなかよい。

それじゃ今回のプロジェクトから降りるのかというと

人が変わる、組織が変わる! 日産式「改善」という戦略 (講談社+α新書)

人が変わる、組織が変わる! 日産式「改善」という戦略 (講談社+α新書)

 この改善という考え方そのものはまあよろしいと思うんだ。200年300年たって、日産というメーカーが潰れるなり発展解消するなりして後ろ盾がなくなっても*1古典としてこの考え方自体が残ってるかどうかは怪しいけれども。多分に15世紀ヨーロッパの”mement mori”とか、16世紀末日本の「わび」「さび」みたいな、当時の社会的背景を前提とした考え方として、20世紀末から21世紀初頭の日本に「改善」という概念がありましたってことになるんだろうけれど。「おたく」とか「萌え」とかと並列で。

 でも日産という背景があると、その背景の影響を直接受ける人には、この考え方は生臭いだろうなとも思う。「限りないお客様との同期」って親会社に言われた子会社はどうすればいいんだ。おたがい、お客様っていったら自動車の購入者ってのが建前だろうけれど、本音のところ、子会社にとってのお客様ってのは親会社だろうに。その暗黙の了解の元で「限りないお客様との同期」っていうご指導が親会社のコンサル部局から入ってきたらだ、子会社の経営陣としては、親会社として君ら子会社に際限なく要求するよって宣言されたに等しいんじゃないかと思うが。ゴーンの辞書に満足という言葉はないってなもんで。

 まあ俺らNICUには日産の親会社がどうあろうと子会社ほどには影響を受けない。それどころかいまうちの病院で使ってる救急車は日産の製品なので、俺らのほうがお客様だ。日産の支配からはわりと自由な立場にある。ありがたく本書など拝読して、改善の参考とさせていただけば良い。*2

 参考にするにも知恵は要るだろうと思う。引き写しではまずい。ラインの上手からまずいものが流れてきたらラインを止めます、って、クルマの工場ならそれもいいが、NICUなんてそもそも問題がある赤ちゃんしか引き受けないわけで。

 そこに何らかの改善式検討を加えるとしたら、その赤ちゃんの抱えた問題が想定の範囲内でなければならない。所定の類型におさまってくれてないといけない。

 なんだかずいぶん粗雑な話のようにも思える。診療ってのはもうちょっと個別化されたものではないのか。とは言いながら、現状の診療だって、いわゆる臨床経験の実際のところは、いかに手元のその「類型」を細やかに準備してるかってことに過ぎないんじゃないかとも思える。このさいその類型の手の内を公開してみようというのも、試みられていいことではある。自分自身にすら明瞭ではなかったりするし。

 本当にそのこだわった類型は、区別するだけの効能があるのか?とか考えてみるのもまた良いことではある。別に治療方針に違いがあるわけでなしと言えるような些細な違いでしかないこともあろう。

 しかしながら、そういう違いもまた、いずれ新たな病態生理の切り口とか治療法とか見つかってきたら、大きな違いになるかもしれない。そう思うと、実用上の差を生まない違いを無視してしまうのは、将来の進歩の芽を摘むことになるのかもしれない。

*1:伊那谷の「かんてんぱぱ」は残るだろうと思ってるけど

*2:むろん我々とて理念的なお客様と事実上のお客様とが乖離しているという構造的問題は抱えているけれども。我々の事実上のお客様は医療保険の保険者であり支払基金なんだから。

結局のところ、ランスは復活するべきだったのだろうか

ツール・ド・ランス

ツール・ド・ランス

ランス・アームストロングの2度目の復活の顛末である。著者はランスやブリュイネールの旧知のジャーナリストとのこと。著者自身は2度目の復活について(一度目の復活の価値を問うものはないだろう)意見を述べるのを慎重に避けている。ランスの復活から、あの2009年のツール終了までに、彼がランスやブリュイネールのごく身近にあって見聞したことを、淡々と事実に即して述べるという体裁である。

私がツールの中継を見始めたのが2009年からなので、ちょうど本書に書かれた時期のことになる。はじめてランスの走りを見て、すごい選手だと思った。しかしこの夏、Jスポーツが再放送した、かつてのランスの7連覇中の走りを見てしまった。その姿はまさに「ランス」と呼ぶしかない、他のどのような言葉をもって表現してもその範疇を超え出てしまうものであった。その姿を見てしまうと、記憶の中の2009年のランスがずいぶん貧相なものと感じられてならなかった。7連覇中との違いは、強弱の問題とすら言えなかった。それは真贋の問題であった。

本書を読み、Jスポーツの再放送を観た今となっては、ランスは2度目の復活はするべきではなかったと思う。晩節を汚してしまった感がある。むろん2009年のツールでは総合3位だったのだから、2度目の復活後のランスもすごい選手ではある。しかしツール総合3位は他の選手には業績であっても、「ランス」が誇るべき成績であるとはどうしても思えない。他人の人生を美醜で評価するのは間違ったことだと、頭では分かっているつもりなのだが。

科学者の喧嘩

宇宙船ビーグル号 (ハヤカワ文庫 SF 291)

宇宙船ビーグル号 (ハヤカワ文庫 SF 291)

哲学的にすごく深そうな気もするし、単に絢爛豪華な張りぼてのような気もする。

いろいろな作品の元ネタになってるんだろう。クアールはダーティペアのペットになってるし、エイリアンはたぶんイクストル。最後に出てくるガス状の生物に惑星がひっくり返されるってのが、たぶん、ジョン・ヴァーリィの八世界シリーズにも影響していると思う。

初めて読んだときは小学生か中学生か、たぶん少年少女向けのリライトで読んだんだけど、たんに怪物をやっつける筋書きが面白かっただけだった。大学でまた読んだときは総合情報学とかいう学問のあり方が面白いと思った。まだまだ自分の学問的な未来を信じていた。中年になって読んで目を引いたのは、学者同士の権力争いのありかた。結末のつけかたは、学者の喧嘩の決着としてこれ以上はないと思った。

それはそうと当時は脳波を操ることで人の精神を操れるという信憑があったのかな。アジモフの小説でもそんな設定を読んだ記憶があるが。

ベトナム戦争はあまり自分に関係ない気がする

ロング・グッドバイ」では自分より10歳程度年上の主人公が、自身に個人的に関わりのあることとして、ベトナム戦争を語っている。ベトナム戦争ってそんなに生々しいことだったか?と意外に思って、指折り勘定してみる。たしかに、ちょうど私が小学校に入るころあいに終わった戦争である。私より約10歳年長の二村なら、自分より多少年長のビリー・ルウあたりの世代が参戦していてもおかしくないわけだ。

振り返れば私にはあんまりベトナム戦争って「我がこと」じゃないなあと思った。長崎近郊で生まれ育った私の歴史観って、直近の戦争は原爆で終わってるんだよな。おなじ県内でも佐世保で育ってれば違ったかもしれんが。たとえば村上龍みたいな。でも私の長崎県での生活圏は大村・諫早・長崎の三角形に収まってたしな。米兵なんて見たことない。おそらくは幸いなことなんだろう。

太平洋戦争なら祖父が二人とも兵隊に行ってたんで、ベトナム戦争よりもよほど自分に近い感じがする。原爆とか、わりと実家に近いところに酸素魚雷の試験をしていた施設があったりとか、いろいろネタもあるしで、戦争にまつわる歴史にはセンシティブだと自負していたんだが、でも横須賀や佐世保には進駐軍とかベトナム戦争とかの記憶をより濃厚に残している人々がおられるんだろう。小泉純一郎氏のバックボーンは横須賀の米軍に対するルサンチマンだという内田樹先生のご高見にも、本書を読んで頷けるところがあった。

さらに言えば、むろん当然のことに、沖縄の人たちのご苦労は現在もなお進行中である。

ロング・グッドバイ 

THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ

THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ

仮名書きすれば同名になるチャンドラーの名作へのオマージュである。

「私が初めてビリー・ルウに会ったのは夏至の三、四日前、夜より朝に近い時刻だった。」と書き出され、「アメリカ人にさようならを言う方法を、人類はいまだに発明していない。」と終わる小説が他の何だというのか。ラスト近く、チャンドラー作品でも「少しずつ死ぬ」場面で、「葬式なら、自分のだ」と主人公が言う。

作品のプロットもチャンドラーの作品を忠実になぞっている。チャンドラーの作品を読んでいれば何がどうなったかの予測はつく。しかし二番煎じで質が落ちたわけではない。むしろ細部を全く変えてそれでも同じプロットをきっちり保てているところに作者の力量を感じる。

ハードボイルドは周囲の人物が傷ついたり何かを失ったりしていくなかで、主人公だけが何一つ失わないんで、ご都合主義もいいところだよなと思っていた。医者の目から見ればこれほど毎日飲み放題にしていて脳も肝臓も精神も壊さないってことはあり得ないし、これほど何回も意識障害を来すほどに殴られていて脳がどうにかならないってこともなおあり得ない。「ハードボイルドだど」と茶化して読むのが正しい読書態度だと思っていた。

しかし本書を読んで、なるほど一人称で語るってのは、すべてが終わって、得失の決済がひとわたり終了した時点から振り返って語るから、一見して失うものがなかったように見えるんだなと思った。何も失わなかった訳じゃなくて、主人公はすでに冒頭の時点で失うものをあらかじめ失いきっているのだ。

決済をすませた立場からだと、喪失のその場での痛みも過去のものになる。過去の痛みには超然としていられるように思える。すんだことなのだし。それが目指すべき態度なのかどうかはわからない。そういう生き方をしていると、けっきょく状況を何も変えられないまま独善的に落ちぶれていくしかないようにも思える。

ムスリムの人工乳

イスラム教徒のかたの赤ちゃんをお預かりすると、原材料に豚を含まない人工乳を調達しなければならない。幸いにそういう銘柄があるんでなんとかなるんだが。

人工乳って牛乳からつくるもんだと思っていたのだが、ナイーブな思い込みだったかもしれない。

鎮魂について

けれども、フッサールハイデガーの死者たちはある意味で「静かに死んでいる」。
ひどい言い方をすれば、「現事実的に有用」なしかたで死んでいる。
それはたとえばハイデガーが帝国のために死んだドイツの若者を顕彰する誇らしげなくちぶりからもうかがえる。

ときおり、自分の疑問に対して内田樹先生がタイムリーに回答をくださることがあって、ひょっとしてお読み頂いているのかな?と夜郎自大的な妄想を持たないでもないのだが、先生にはそれは共時性というものだと一蹴されることだろう。

なにさま、このあいだ読んだ平間洋一著「戦艦大和」における戦死者への鎮魂の作法について言及した矢先に、内田先生のブログで上記の指摘があった。そうそう、まさにそれを言いたかったのだよ、と私は思った。

戦艦大和」における戦死者への言及のあり方は、まさに「現実的に有用」な死者に対する言及のあり方である。いやしくも自衛隊の幹部であった人が、旧軍の戦死者を「現実的に有用」なものとするのは宜しくないと思う。同胞としてのみならず同じ軍人として(あ、自衛隊は軍隊ではないんでしたね、はいはい)あまり美しくない態度だと思う。

戦艦大和

クイズです。右寄りにあって普段は役に立たないけど、ときに暴れ出すとはた迷惑でつまみ出されるものってなんでしょう。

戦艦大和 (講談社選書メチエ)

戦艦大和 (講談社選書メチエ)

左京図書館の書棚にあったので、予約本を受け取るついでに借りて読んでみた。

政治的に中立で客観性を重んじて記載すると宣言する書物の常で、めいっぱい政治的立場が入っていた。大和の建造にあたった人々の機密保持や優れた工程管理を褒め称え、乗組員の「愛国心」をも褒め称えている。特にこの愛国心が戦後軽んじられる傾向にたいして悲憤慷慨の念に堪えない模様である。

しかしその「愛国心」と行っても、それは生存者の戦後の証言や遺書が主な根拠なのだが、いかにも資料収集の段階でバイアスがかかる状況だと思う。大和沈没に際して亡くなった人たちの声なき声を聞かないとなかなか全体像はつかめないんじゃないか。乗組員3000人のうち、自分の死の意義を国家に結びつけて考えるような、海兵卒のエリートがどれだけ居たというのだろう。徴兵されて大和に乗せられ、大和とともに沈んでいった兵士たちの心境はどうだったのだろうか。殺された人の心境について、いや彼らは進んで殺されたのだと述べて称揚することが、鎮魂につながる態度なのだろうか。

むしろ吉田満氏が著書「戦艦大和ノ最期」で述べるところの、高齢や病気のため艦を降ろされる兵士に対する艦内からの無言の羨望こそ、彼らの心境を雄弁に物語っているのではないか。

私が思うに、大和に関する逸話でもっとも美しい台詞とは、沈没寸前の大和艦橋で吉田少尉(当時)が大和とともに沈もうとしたさい、ある高級士官(森下信衛参謀長だそうだが)に叱咤された「馬鹿、若イ者ハ泳ゲ」という台詞だと思う。今の若い者に愛国心が足りないと嘆くご老人は、国の沈没に際して「若イ者ハ泳ゲ」と、つまりは殉死など考えずとことん生き延びろと、言ってやれる気概はあるんだろうか。むしろ逆に、若い者こそ沈む艦に体を縛り付けて一緒に死ねと言いつつ、これで救命艇の自分の席が確保できるぜへへへとほくそ笑むような、現代を嘆く声にはそういう醜い印象がどうしてもぬぐえない。

救命艇しかり、年金しかり。

以下は蛇足かも知れないが。

  • 大和の巨大な主砲は、生産力の追いつかない貧乏国の海軍が、より長距離からアウトレンジで攻撃するための秘策だそうだ。テポドンかよ。
  • 機密保持に関しては、茶化すようだが、それほど厳重に機密を守られた大和や武蔵が、どうして日本人の心の支えになり得たのかが私には分からない。戦後の(一部の)日本人にとっては大和もゼロ戦も心の支えかもしれない。しかしゼロ戦は終戦間際まで「海軍新型戦闘機」でしかなかったし、大和は存在自体が最期まで軍機だった。「史上最大の46センチ砲を搭載した大和を作ったんだから日本は強いぜ」とおおっぴらに口にしようものならたちまち特高憲兵にとっつかまってたはずだ。
  • 吉田満氏の「戦艦大和ノ最期」にある記載のうち、左舷に集中攻撃を受けて傾いた艦を立て直すために右舷側の機関室に注水するという記載と、満載の救命艇になおもすがりつく兵の手を日本刀で切り落としたという伝聞の記載について、本書では、実在しない話だと断言している。機関室に注水の件に関しては、大和にはそんな機能はないとのこと、日本刀については、救命艇に日本刀を持って行くことはないとのことから、あるはずがないことなのだそうだ。私もこの2点は、本当にあったことだとしたらあまりに辛い話なので、なかったことであって欲しいとは思う。無人の区画に注水するという命令を勘違いしたとか、「日本刀があれば切り落としていた」という仮定の話に尾ひれが付いて実際の話に化けてしまったとか、そういう話であればよいと思う。しかし、「あるはずがないからあったはずがない」という論理の型は、臨床ではまれならずひっくり返される。信じたいこととを信じるという態度は、少なくとも本書では、序文で宣言された態度には矛盾する。
  • そのいっぽうで、本書では米国は世論として日本人を全滅させるとの意思を強く持っており、大和沈没後に漂流している日本兵に対して執拗に機銃掃射を加えたと主張している。なんだか沖縄県民を集団自決に追い込んだ論理が21世紀になっても生き延びているようで、意外な主張だと思った。防大卒(1期だそうだ)で自衛隊でもそこそこ出世した著者が、米国の日本人に対するホロコーストの意図を示唆しているのだ。けっこう重大な主張だと思う。もうちょっと慎重にしたほうがよろしいのではないか。
  • この点について、吉田氏は漂流中、不思議な米軍機が1機上空を旋回しており、この機が邪魔で機銃掃射が控えられたと証言しているのだが、本書ではこの証言に対する言及がない。なんだか都合の良いところばかりつまみ食いしている印象を受ける。

ちなみに冒頭のクイズの答えは「虫垂」ですよ。