私は国旗国歌を排せよとは思わない。国旗国歌を排斥することで日本国の歴史や政治に関する負の面に対して責任を免れるとは思いたくない。国旗を揚げると言われたら起立するし国歌を歌えと言われたら歌う。前記事に書いた理由で決して愉快なことではないけれども、日の丸君が代を攻撃したら日の丸君が代につながる歴史的責任から免罪されるなんて思ってるようなナイーブな奴だという自覚や誹謗の方がよほど辛い。
端的に言えば国立大学の医学部で学んで医師免許と国民皆保険制度のお陰で飯を喰ってるんだから国家から受けた恩恵の方がマイナスより遙かに大きいわけだし(私自身の実人生で国家から何かマイナスを被った具体例があっただろうか)。日本国のなかでもわりと陽の当たる人生を歩ませて頂いた立場としては、国旗国歌に抵抗を感じる人の抵抗感の由縁である歴史的な因縁を拒絶するわけにも行くまい。
ただ、国旗国歌が教育の現場で最高度の優先順位を要する懸案事項だとも思えない。せいぜい、数ある重要事項の一つという程度の位置づけが妥当なところではないかと思う。
月: 2004年10月
国歌斉唱と含羞
含羞という言葉を、前回のコメントに対する返答に用いた。
内田先生のブログにあった、自国の国歌を歌うという行為に関連する含羞という表現が、いままで自分の中にわだかまっていたものをぴたりと表現して下さったような気がして、物事が腑に落ちるときの爽快感とともに記憶していた。
それは自尊心に膨れ上がり、自信にあふれ、自慢話をしまくるだけでは足りず、「自分をたたえる歌」を歌い、「自分の旗」をつくって振り回す人間を見たとき、あまり尊敬する気にならないのと同じ感情の働きです。
自分の日記に「さわやか日記」という表題を選ぶ行為。たとえ自分の棋風が「さわやか流」と呼ばれるものであったとしても。他人に誉められる言葉をそのまま自分の日記に使える感覚が、なにかNHKのど自慢をみているような(間違えて日曜の昼下がりに床屋に行ったら地獄を見るんだ)、むずがゆい思いをさせる。一種お気の毒な、痛々しいような、とうてい見ていられないナイーブさ。
まあ、私が特に攻撃せずにいられない悪徳って全て「ナイーブ」で総括できるような気もするのだが・・・私が最も恐れるナイーブさは自分自身のナイーブさなんだろうなとも思ってたりして・・・まあそれは自戒するとして。もとより「こどものおいしゃさん」という自称は内田先生の仰る「子供」を相当意識した自戒のタイトルです。
そのナイーブな心理と、国旗国歌が最大の懸案と思いこんでしまう心理と、それを事もあろうに国旗国歌に一番傷つけられたであろうお方の前で口走ってしまう無神経さと、なにか根が通じるものがあるように思います。一人の人間がやったことに全く根の共通しないことはないだろうと言われたら論が終わってしまいますけどね。
さわやか日記
愚かものの迷惑さ
問題の米長邦雄という人のウエブサイトを見てきました。
サイトにある日記のタイトルが「さわやか日記」でした。
さわやか日記
さわやか日記
さわやか日記
さわやか日記
「おまえはもう死んでいる」以来のヒットです。あべし!と叫んで倒れるしかないですね。頭の中にこの素晴らしいネーミングがぐるぐる回ってます。頭蓋骨がぐしゃっと潰れつつ縦に裂けるかも知れません。
いや、参った。
初めて天皇陛下を尊敬する気持ちになった
愚かものの迷惑さ
不遜な話だが初めて今上陛下を心から陛下とお呼びしたい気持ちになった。天皇と聞けば砂を掛けるのが正しいリベラルのあり方だと思っていたが、この人が君主なら天皇制という立憲君主制も悪くない。
不遜はまあこの日記をお読み頂ければ、私を慎み深い人間だと思う読者はまずあるまいと思うし、押し通させて以下の発言をお許し頂きたい。
愚かものの迷惑さ
強制でないことが望ましい 陛下、園遊会で異例の発言
たぶんこの教育委員は今後「自主的に国旗を掲げ国家を斉唱するよう」ますます奮起して各学校に圧力を掛けるのだろうなと思った。コミュニケーション能力なさそうだし、たぶんそれが御意に適うことだとナイーブに思いこんじゃってるのだろうな。そして陛下のお墨付きを得たとばかりに強制に走るんだろうなと思った。
普通、このようなお言葉を頂いたら、「ほどほどに止めておきなさいよ」という警告だと受け止めるものだと思うが。
暗澹とする。
この話題続けます。
感染防止の勉強会(3)
感染対策のみ、と称したが、感染対策は単体でも十分に大きなテーマである。
スライドに、ディスポ手袋の箱が各辺1mはあろうかという巨大な立方体に積み上げられ、その上に注射薬が一瓶ちょこんと載った写真が映し出された。
曰く、この薬(品名は出されなかったが塩酸バンコマイシンだろうと推測される)とディスポ手袋7800枚とが同じ値段、とのこと。
ディスポ手袋を活用して医療従事者が患者さんの皮膚に直接触れることを極力減らし、医療従事者の手指を介する院内感染を防ごうと主張するスライドである。
でっけえ・・・・
北欧から女声合唱団が病院の慰問に来た。
キリスト教病院だといろいろ伝手があるらしい。
すれ違って唖然。でっけえ・・・身長175cmの私より低い人は一人もいない。
かの地域では成長ホルモン補充療法が流行るわけである。世間がみんなあの身長の国で成長ホルモンが出てなかったりしたらもう一寸法師状態である。納得した。
プリンタが
調子が悪い。
NICUで処方や検査項目を入力すると処方箋や検査伝票(バーコード付き)のシールが印刷されるのだが、とくに検査伝票がしょっちゅう紙詰まりを起こす。端末でエンターキーを押したら、すかさずプリンタの前に移動して、印刷用紙トレイから一枚ずつ優しく取り込み口にラベル用紙を押し込んでやらなければならない。
手間のかかるプリンタであるが、検査項目に応じたバーコードを定規とボールペンで描けと言われるよりはまだマシだろう。うちの病院は真面目にそれを言い出しかねない恐さがある。
筐体には青い字でIBMと書いてあるが、まさか天下のIBMがこんな碌々印刷できないプリンタを作るわけがない。これは恐らくは「インターナショナル・ボリシェビキ・マシーンズ」の製品なのだろうと思う。ソビエトの崩壊に伴って横流しされ、ウラジオストックあたりから舞鶴へ船積みされたものだろう。
院内感染防止(2)
土曜午後は病院職員一同が集まっての、エビデンスに基づく院内感染予防の勉強会。
CDCのガイドラインに沿って、エビデンス基づく院内感染予防対策が詳細に解説される。
どちらかと言えば、新しいものを始めるよりも、無駄なものを削る話が多い。効果のある対策へ費用を振り向けて費用対効果を上げることを力説される。
院長が最前列で食い入るように聞き入っていた。
経営者にとっては、こういう感染対策の専門家に、新たに経済的負担を増加させるような話をされると頭が痛いだろう。逆に、今回のように、費用は節減できしかも効果は高くなるというお話は素晴らしく魅力的に違いない。
効果のない対策に使える金はない。幾ら私が世間知らずの「こどものおいしゃさん」でも、それくらいは分かる。
効果のない対策を廃止して簡素化すると経済的利点以外にも種々の利点があるらしい。
なにより、業務の通りがよくなる。
たとえば、手術室へも着替え不要履き替え不要とすれば、病棟の看護師が手術室まで患者さんに付き添って入れるのである。要らん手間を省いた上に患者さんの取り違えも予防できるのだ。
感染対策に理屈を通すのは感染対策のみに止まらぬメリットをもつことらしい。
院内感染防止
23日土曜日午前中、感染対策の専門家にNICUにお出でいただき、感染防止の観点から種々のご指摘を頂いた。
費用対効果を重視する姿勢が斬新な印象であった。有効性が立証されていない「無駄な」対策を廃し、エビデンス付きの真に有効な対策に費用を集中させよとの方針であった。
例えば、入室時にガウンを着たり帽子をかぶったりイソジンでうがいしたり履き物を換えたりといった手順は、一切無駄であるとのこと。
入室時の手順からしてこの有様だ。入室後の指摘事項が如何に多かったかは読者諸賢のご想像の通りである。
総じて、かけなくても良いところに無駄金を投じている割には赤ちゃんのために本当に必要な費用を掛けていないという、辛い評価であった。
しかし言われることは一々正当なことばかりであった。例えば沐浴槽を消毒剤で掃除するなんて全く無駄でバスマジックリン使った方がよほど綺麗になるなんて言われたら全くその通りである。洗った後をきれいな(医学的に「清潔な」ではなくあくまで洗濯済みできれいな)布で拭きあげてから次の湯を張れとのこと。
自分達の慣れ親しんだ状況に潜む問題点を理詰めに細かく具体的に指摘されると、万全とは言わないまでもそこそこ上手く行っているとばかり思っていた自分達の感染対策が、ひどくお粗末であったと思えてくる。
その一方で、指摘された内容は、「そうだよね僕も(私も)変だと思ってたんだ」ということばかりのようにも思える。実際、先生が他の部署を視察するためにNICUを出られた後は、スタッフの間でひとしきり、いま指摘されたことは内心自分も疑問に思ってたのだという話が続く。
誰かに言われないと変だという声が纏まらないのもお恥ずかしい話ではある。でも、こうして外部からの指摘があって、普段から心の底に蟠っていた疑問や不満が表に出ると、そこから状況が一気に変わり得る。まるで過冷却の水に氷を放り込んで一気に氷結させるかのような、相転移が起こるのである。