400年ほど昔、4人の日本人少年がヨーロッパを訪れていた。天正遣欧少年使節として知られているイベントである。個人的に縁故を感じることがあるので書く。
私が中学1年のときが、ちょうど400年にあたる記念の年だった。改めて4人送ろうという企画があって、募集の年齢に該当したもので、私も田舎の中学から推薦されて応募した。長崎市の選抜会場に行って、他の市町村から来た同年齢の少年たち(昭和のことで男女を揃えるとは発想すらなく、募集段階で男性限定だった)の集団を初めて見た。たとえば長崎大学教育学部附属中学校なんてところからも来ていたが、英語の文法について彼らがしゃべっている内容を聞いていると間違いが多くて、ひょっとしてこいつらたいしたことないんじゃないかと思った記憶がある。
選考には当然のように落ちた。たしか県内から少年使節ゆかりの土地のローカル枠で3人決まっていた。大分の伊東マンショのぶんは長崎市内から出ていたと記憶している。中学生の目にも露骨な出来レースそのものに見えた。タダでヨーロッパ旅行ができるかもと期待しなくもなかったが、結果があまりに出来合いだったのでかえって残念にも思えなかった。俺が非才で落ちたわけでもなしと。
その後にふと、そういえば当家は波佐見の原家から婿養子をとったことがあるのだったと父が言った。なんだよ俺は原マルチノの血縁だったかと思った。その婿養子氏については、しばらく原の姓を名乗っていて当家の姓を名乗ってくれないので周囲が苦労したとだけ伝承されていた。何のための婿養子だよとちょっと笑えた。つまんないことにこだわると他のことが忘れられてしまうんだなと思った。でもまあそれにこだわらなければ存在自体忘れられていたのかもな。原マルチノ氏自身はマカオに追放されて没しているので、むろん直系ということはない。
それを選考の前に教えておいてくれれば面接で言ってみてよかったのにとも思ったのだが、そういう縁故を数え上げればそれこそ限りなく、御年12歳のみぎりのイエス様の舎利ともいうがごとくに、あちこちから怪しげな話が出てきて収拾がつかなくなるに決まっている。言わなかったのは父の知恵なんだろうとも思う。その上で私も父も性格に妙に頑迷なところはあり、まあ了見が狭いだけとも言うが、その婿養子氏の遺伝かもしれないとは思う。
私が通った中学のある村には、大村市から大村湾を挟んで対岸にあるのだが、主のわからない墓碑があった。わりと大きな墓碑で、そばに従者らしい小さな墓碑も伴っていて、そこそこの武将のものではないかと言われていた。対岸の大村城を睨むかのように建っているとのことで、大村氏に恨みのある人物ではないか、さては合戦でもして敗れてそこで自害したのかとか、私の子供時代には推察されていた。最近になって発掘調査があり、それが千々石ミゲルの墓碑だと判明した。
千々石ミゲルは4人のなかで唯一棄教した人である。もとは大村純忠の甥にあたる人で、4人の中では最も支配層寄りの出自だった。大村純忠公は日本初のキリシタン大名である。領民も全員改宗させてしまって、それまでの仏教施設は寺も仏塔もなにもかも破壊してしまった(だから旧大村領内には鎌倉室町以前の仏教遺跡が一切存在しない)。しかしミゲルらが欧州から帰国してみると、すでに秀吉による弾圧が始まっていた。純忠の息子である大村善前はキリスト教を棄教し、領内の仏教への回帰をかなり強制的に推進した。この人はミゲルの従兄に当たる。
ミゲルの帰国後の行動はあまりぱっとしない。司祭になるための勉強もあまりはかどらなかったらしい。従兄である善前とは交流はあったもののようで、どちらかといえば棄教を勧める方向の意見を述べたともいわれる。ミゲル自身戦災で焼け出されることがなければ小さな城の主になったはずの人だった。ヨーロッパへの往路復路で、キリスト教の教義以外のあれこれも見聞して、他の3人には乏しかったであろう統治者候補としての視点から、なにか思うところがあってのことだったのかもしれない。これはあくまで私の推測ではあるが。
しかし棄教を勧める側からも、それに抵抗する側からも、彼は好かれてはいなかったと伝わる。そりゃあそういう人はどっちからも白眼視されるのが世の常だ。ずいぶん落剥した姿で歩いていたという目撃談も伝わっている。襲撃をうけてかなりの深手を負ったという記録もある。最終的には自身棄教してミゲルの名も捨て、別の名を名乗っている。従兄である善前からは私の郷里もふくめ600石ほどの知行を与えられている。結婚もして子もなして、最後は夫婦相前後して亡くなったとのこと。
特にイエズス会に保管されている記録において、ミゲルは蛇蝎のごとくの扱いである。口を極めて罵ってあるという。仏教徒を罵るときもそれほどには口汚くないというほどの勢いで。信仰というもの自体を持たなくなった人物に見えていたらしい。何も信じていないように見える人間というのは、異教を信じている人間よりも、気味の悪い、唾棄すべき存在であったものらしい。
しかしミゲルは外形的には棄教しているとはいえ、内心はどうだったのか。外形的な棄教をすれば内心も棄教したことになるなら、ペテロだってイエスを知らんと言ったじゃないかとは思う。それも複数回も。発掘されたミゲルの墓からは、ロザリオらしきものが発見されたという。本当にロザリオだったのか、ロザリオだったとしてミゲル本人のものか同じ墓に埋葬された彼の妻のものだったのか、それは判然としない。彼の意思で棺に入れられたのか、それとも埋葬する人が彼を思って入れたのかもわからない。でもまあ棺に入れるくらいには大事にしていたと、自他の少なくともいずれかからは目されていたというのは事実なのだろう。
墓石には「妙法」とだけ刻まれていた。あと日付と。土地の寺は真宗大谷派だが、大村氏の菩提寺は日蓮宗である。であれば妙法と刻むのも道理には見える。しかしこの法はほんとうに法華経を指しているのだろうかとは思う。ひょっとして妙法と言った内心は「初めに言があった」というつもりであったとしたら。これは私が勝手に思っていることで根拠はない。しかしそのとおりであれば一種痛快ではある。
ミゲルはヨーロッパへの往還自体については、棄教後も懐かしげに語っていたと伝承されている。旅自体は、彼にとって捨て去るべき過去ではなかったのだろう。当時の帆船で喜望峰周りのヨーロッパ往復なんてたいへんな苦労は、軟弱ものの私などにはとうてい願い下げだし、その苦労が帰国後の栄達につながったわけでもなく、ミゲルには気の毒だがあまり報われたようには思えない。しかし彼の帰国後の不遇な人生において、ヨーロッパ往還は彼を支える重要な柱だったのだろう。そのような確固とした経験に支えられた、信仰にも特にこだわらなくなった人物となると、現代的な視点で語りあってみれば案外と深くて面白い自由人だったのかもしれない。そのうえでまあ、旧大村領の貧乏な資産から600石も貰っててほんとうに不満だったんですかとは聞いてみたい。私の家の禄高の10倍以上じゃないですか。それにその領地は大村城から大村湾を渡って長崎港に至る経路の重要なポイント、しかも隣国佐賀領(その配下の諫早領)との境界、欧州に言うところの辺境伯とかいう立場じゃないですか。それってけっこう厚遇されておられるのではないでしょうか、と。
昨年の2月に帰省したおり、京都へ戻る途中にその墓石に立ち寄ってみた。行ってみて、むかし中学校のバレーボール部のマラソンコースのすぐ近傍だったのに驚いた。なんだこんなところにいたのかと。明治になって敷かれた線路の盛り土に阻まれて、その墓石から大村城址は望みにくくなっていた。私は中学の頃はそのマラソンコースをたまーに走って弱小バレーボール部の補欠をしており、高校になったらその鉄道にのって隣町の高校へ通った。その後に上洛して医学部に通って、そのまま京都でキリスト教病院に職を得た。発足したばかりのNICUで働いて、帆船で喜望峰を廻って欧州往復とまでではないにしても、それなりに波瀾万丈だった。彼に縁を感じると言えば確かにすごく感じるのだが、その縁という概念自体は仏教のものである。
ここにいらっしゃったんですかと、墓石の前でしばらく手を合わせた。こういうときカトリックでは父と子と精霊の御名においてアーメンと唱えるんだったよなとか、仏教徒が南無阿弥陀仏と言うべきか南無妙法蓮華経と言うべきかと考えるみたいなことをちょっと考えた。それから京都へ戻ってしばらくしたら、自施設のNICUの閉鎖が決まった。こう述べると祟られたような経過に見えるかもしれないが、まああまり無理はしないものだよと引導を渡されたという印象はあった。入院患児数の極端な減少で収益的に行き詰まっていたのは明瞭だったなか、お陰で多少なりともじたばた悪あがきしないで済んだとは思えた。
墓石に刻まれた千々石ミゲル夫妻の没年から4年ほどして、島原の乱が始まった。島原半島は大村領の近隣である。強制的に棄教させていなければ大村領内からも参加者が多く出たのかもしれない。島原の乱は苛斂誅求を極めた悪政に対する反乱という要因も大きかったので、宗教的義心によって他国領から参加する人数がどれほどに及んだかは分からないし、島原半島のように大村領内までが無人化するに至ったとはさすがに考え難いかもしれない。しかし政治的あるいは経済的余波は史実よりも大きくはなっていただろう。それをもって上からの強制的棄教を正当化できるかはまた別の話かもしれないけれど、大村家の目線で言えば確かに良かったのだろう。下手すれば改易や転封もありえたのだから。下々の目ではどうだったろうか。殉教しないですんだのは幸せなのか。無論それは一人一人のことだ。私が言うことではない。当時の人に、一人一人のことだという発想はおそらくなかっただろうけど、もしあったとしたら、それは千々石ミゲル氏にこそありえた視点かもしれない。
病院にとって大きな経営的負担となっていた私のNICUも、大村家にとってのキリスト教のように、統治あるいは経営する視点で見ればパージするべき重荷であった。私は周産期部門のトップあるいはNICUの管理者の立場で、そのパージに加担したことになる。普通はNICU閉鎖の時点で責任を取って辞表を出すものだったのかもしれない。老父にNICU閉鎖を報告したとき、クビなのかと問われて、やっぱりそれが常識だったかなと思ったことだった。
そのパージに加担した私がいまの病院を見ている目で、晩年のミゲル氏は大村家と領国を見ていたのかもしれない。あるいはミゲル氏が周囲から見られていたのと同様の視線で、私も周囲から見られているのかもわからない。私や病院に愛想をつかした人は他へ去って行くことが可能だったのは、当時の棄教を強いられた人々がさればとて何処へも行くことも叶わなかったのと、大きく違うところではあろうけれども。その点はミゲル氏のほうが辛かったろうと思う。
こう考えるといっそう、当時千々石ミゲルが何を考えていたか知りたいと思う。信仰を貫いてマカオへ去り同地で没した原マルチノよりも、今の自分は千々石ミゲルに近い位置にある。
千々石ミゲルの家は息子の代で絶えた。彼の領地であった土地は、傾斜地ばかりで水田には不向きで、当時は雑穀ばかりだったかもしれないが、その後に温州みかんの栽培が導入され、糖度の高い甘いみかんの産地として豊かになった。福山雅治さんが「みかん色の夏休み」という歌にうたった土地の隣村である。










