PCR抑制論のこと

COVID-19が始まったころには、SNSではPCR抑制論が猖獗を極めた。PCRを行っても偽陽性で真の診断には結びつかない、希望者が押し寄せて医療崩壊する、云々。

私はその論調に乗らなかったが、べつに手柄だというわけではなく、単に幸運だっただけだ。患者数が極めて少ないときの検査は陽性的中率が低い云々の、ベイズ推定の知識を披露して喝采をあびたいという誘惑を、当時感じた記憶はある。それをやらなかったのは、白状してしまえば、単に大勢に先を越されておっくうになったからだけであった。

ベイズ推定について熟知していたわけではない。ベイズ推定については医学部の講義は1コマ、卒後には基礎的な総説でときどき復習した程度の、臨床医の知識としてはありきたりな程度だ。それらの知識においては、検討する臨床検査の内容はブラックボックスだった。感度と特異度は全ての臨床検査においてトレードオフの関係にあり、感度と特異度がトレードオフならベイズの適応のうちだと認識していた。PCRも、その感度と特異度を語り得る以上はベイズの俎上にあるものと考えていた。そのばけもののような特異度のゆえに例外的なものとして扱うという認識は、発想の内にはなかった。

私の専門範囲は新生児医療なのだが、仕事の中でベイズ推定と縁の深いのは先天性代謝異常等検査である。実際の罹患率が高くても数千分の1,低ければ数十万分の1などという、医者人生の数十年に新患1人遭遇すれば多い方みたいな疾患を、古典的なガスリー法であれ最新のタンデムマス法であれ、検査一発で確定診断するのは不可能だ。その感覚を敷衍すれば、PCR一発で診断確定というのはほとんど不可能なことのような印象があった。

PCRについては、正直まったく知らなかった。qPCRという基本的概念さえ知らず、いまだにゲル電気泳動で判定していると思っていたほどだ。蛍光の度合いを肉眼で判定しているのだろうから偽陽性・偽陰性も一定程度はあるだろうなという、根拠を欠いた思い込みをしていた。NICUから発注するPCRといえば髄液の単純ヘルペスウイルスDNA検出程度だったが、新生児ヘルペスという疾患がどれだけ稀なものかは知っているので、念のためと出した検査が全て陰性で返ってきても怪しみはせず、検査の内容を具体的に調べることはなかった。このへんはお恥ずかしい限りだが、忘却して都合のいい記憶を捏造し始めないように、自戒として書き残しておく。

ただ、週1回だけ当院NICUにアルバイトにきていた大学院生に、PCRというのは喧伝されているほど難しい技術なのかと、流行初期に聞いてみたことはあった。全然簡単なものですよというのが回答だった。プライマーの配列さえわかれば、プライマー作るのに24時間、あとはどしどし検査できますと。京大医学部の大学院で簡単だというものが世間一般でも簡単なものなのかという推定の限界はあれ、世に言われるほど熟練を要する困難な技術というわけではないのだろうとは思っていた。

臨床医として行うべきと思った検査を外部から制約されるのは癪に障るという、狭量な人格に由来する心情もあった。そうは言っても地方の公衆衛生担当者がてんてこ舞いしているとも報じられており、何らかPCRの施行数を増やせない資源上の理由があるのだろうとは思っていた。いっぽうで、まったく前例のない状況において、まずデータを集めないでどうするのかという疑問もまたあった。そこに費やす資源がないのなら拡充すればよかろう、人手にしても機材にしても金銭を出してかき集めることはできようとも考えていた。

私が部長をつとめるNICUは京都府初の認可NICUである。京都府の周産期死亡率が全国でも最下位を争っていた時代に、総病床数167床の小規模私立病院が、大学病院や赤十字病院にさきがけて認可NICUを設立し、自院救急車による新生児搬送を開始して現在に至る。むろん京都府からも相当の補助を頂いている。国からだって、特異的に当院へというわけではないにせよ、全国の周産期医療拡充の過程で相当の予算が投じられ資源が拡充されてきたのを、同時代で見てきた。駆け出し時代からそのような職場そのような業界に勤めていると、資源がないからと問題への対処を最初から諦めること、少なくともそれを当然として恥じないような論調は、不甲斐なさを通り越して、奇異なものにも感じられた。

こうして書き留めたのは、あくまでも現時点においての記録の意図である。第5波が奇跡的に落ち着き、病棟も落ち着いて受け持ち患者もなく休日出勤も必要のない、終日自宅で過ごせる日となった。こういうことは時間が経てばたつほどに自分を正当化する方向へ記憶が傾くものである。書き残しておくに如くは無し。

遠い台湾

https://www.keio-up.co.jp/kup/gift/bousei.html

昨年10月、ふと思い立って、パスポートを取得した。

不惑をすぎたこの年齢まで、私は海外旅行をしたことがない。学生時代までは貧しくて、海外旅行など贅沢だと諦めていた。医者になって多少は稼ぐようになったが、新生児学では博士論文は書けまいと大学院にも行かず、海外留学にも縁がなかった。

なにより時間がなかった。医者になって3年目以降、私は常に「最後の一人」であった。ラストワン・スタンバイ。当直や自宅待機番の、埋まらない最後のひとこまを埋める人。次月の当直表が確定する月末まで、個人的な事情は宙に浮かせておかねばならない立場に、私は常にあった。

それが何を思い立ってパスポートを取得しようとしたのか、今となっては思い出せない。ティモシー・スナイダー著の「暴政―20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン」を読んで、一人前の市民たるものパスポートくらいは持っておくものだという教訓に感化されたような記憶はある。しかしそればかりではない。鬱鬱とした当直の夜、アマゾン他の通販で散財することはあった。そのときのような、これが手に入れば今度こそ現状が何か変わるかもしれないという、漠然とした期待によることだったようにも思う。

むろん実際には、これまで買った積ん読本やがらくたと同様、パスポート1冊が劇的な変化をおこしようもなく、たんに物がひとつ増えただけの日常が始まるのみではあった。それはそうなので、入手したパスポートを手にそのまま京都駅から「はるか」に乗って関空へ行ってしまったらそれは即ち身の破滅だ。

しかしパスポートを具体的な物体として手にしてみると、国外の領域がにわかに、現実の存在となったようには感じられた。それ以前は、自分の周囲の世界は遠ざかるにつれて霧の中に霞んでいって、ついに国境のあたりでかき消えていたようなものだった。パスポートを手にすることで、 霞が消えて国境が明瞭な線となり、そのむこうの世界が実体となった。物語の世界ではなく、現実に行ってみることのできる世界。となってみると、行ってみたさが募ってきた。

せめて2泊なり3泊なりだけでも、時間がとれないものか。週末の当直や自宅待機番を外し、金曜午後の予約も入れず、月曜の業務も外して。予定表をにらんでみた。11月も12月も多数の予約が入っていた。1月はどうせインフルエンザの流行が来るから休めまい。強引に休みを入れるにしても2月だと思った。

そこで2月に4日間、この日は何が何でもオフを取るぞと決意して予定表に書きこんだ。どこへ行こうと考えて、初心者向けで暖かいところにしようと思った。なら台北だ。ソウルやプサンもよかろうが(特にプサンなんて長崎の実家からは京都よりも近いんじゃないか?)、2月じゃ寒かろう。大韓民国との友好を軽んじるつもりはないが、ここは南方だ。とすれば手頃なのは台湾だ。

そこでexpediaを使って、台北への航空便とホテルの予約をとった。まず既製事実をつくって自分を追いこむのだ。そうしたのは昨年のうち。武漢ですらまだ平穏なころだった。年が明けて新型コロナウイルスが猖獗を極めるなど思いもよらなかった。1月になってもまだ私は、今年は例年のインフルエンザの流行が一向に来ないなと訝しみつつ、武漢から伝わる流行の過酷さについてはどこか他人事だった。これなら休暇は1月でもよかったじゃないかとも思ったほどだ。

南方だからというだけで選んだ旅行先であるが、行くと思うと台湾が何となく気になる。図書館で「自転車泥棒」呉明益著など読む。すぐれた文学だと思う。また、人情あふれるよい土地じゃないかと思う。近所の台湾料理屋に行ってみる。中華料理といっしょくたにしていたのが、これは全く別のものだなと思う。花の香りのする米飯など、これまでは想像の埒外でさえあったが、食べてみればうまいものだった。飽きるかと思ったが案外そうでもない。 ケーブルテレビの番組で台湾のものがあれば観る。消防署員のドキュメンタリーが今も記憶に残っている。厳しい勤務をする。あいまに皆で飯を喰い、休暇には故郷に帰る。なにかこう、だんだん台湾が世界の中でも特別に縁のある土地であるかに思えてきていた。

2月の旅行をあきらめたのがいつ頃だったか、今はもう思い出せない。2月の当直や業務配分を組む段になって、なんで過去の俺は休暇が可能だなんて思ったのだろうと頭をかかえたのは覚えている。結局、人が増えたわけではないし、自分がラストワン・スタンバイであることにかわりはない。結局、休暇など自分には無理だったということだろうと、自嘲半分に予約をキャンセルした。expediaの人が交渉してくれて、ホテル代は返金してもらえた。Peachの航空券代は無理だったが、その後の航空業界の苦境を思うと、わずかでもカンパになったと納得している。

それからすっかり旅行は無理になった。病院は職員に対する生活規制をどんどん強め、国内旅行さえ不可能になった。俺は勤め先の小児科外来を一般と発熱に分け、着慣れぬPPEを着て診療している。会食もできないと出不精に拍車がかかる。近所の台湾料理屋は早々に店を畳んでしまった。ずいぶん早い時期で、ひょっとしたら、日本の対応の拙さを早々に見切って、台湾に帰られたのかもしれないなと思った。

台湾の今回の流行対策は鮮やかな手腕であった。各論のひとつひとつが輝いて見えた。憧れはいや増すものの、観光に行ける状況ではない。まずは流行が何とかならないといけない。終戦後の大不況も耐えぬかねばならない。私自身も世の中の不況に加え、おそらく極度に悪化するだろう医療不信にも耐えねばなるまい。また台北政府にとっても、すっかり米国が経済も政治も失速し、大陸中国に一極化していくであろう壮況は、とりわけ苦境となるかもわからない。しかし管見の及ぶ範囲においてさえ大陸と明らかに異なる彼の島が、大陸に飲み込まれるのを見るのはしのびない。なんとか渡航できる日が来たときの台湾は、いま同様の華麗な姿であってほしい。

この流行に、終わりが来るのかさえまだわからない。終結への道は、はるけく遠く、台湾はさらに遠い。その日の物語が、私の人生のうちにあることを願う。

文章を書かなかったことについて

しばらく書かなかった。俺はまだ書けるのかと疑う。最近はずっとTwitterばかりだった。すっかり140字くらいの呟きになれてしまった。もっと長い文章はまだ書けるのだろうか。

多くのブログが数年もすれば更新しなくなる。飽きたとか、生活が変化したとか、多くの人に様々な理由があるのだろうと推測する。下部構造が上部構造を規定する。生活が変化して書かなくなるのは、それは怠慢の結果とは考えない。生活とはそういうものだ。

生活と言えば、実生活では俺は出世した。勤め先ではすっかり小児科の立役者扱いだ。今の病院があるのは小児科の稼ぎのお陰で、その小児科の稼ぎを支えているのは俺の働きのお陰で、と言わんばかりの厚遇を受けている。役職だって単なる診療科部長というにとどまらず、さらに上級の修飾語がついている。これで給料がもっと上がればさらに嬉しいのだが、何と言ってもそこは貧乏病院だ。

むろん俺の幼児性を盾に取った煽てという一面はあるだろう。案山子の役割を負わせるのに、しっかりもので煽てても案山子にならないような人間では非効率だ。俺は煽てれば案山子になる人間だ。所詮は学校秀才だものほめられて悪い気はしない。もう少し悪い気がしたほうがよいのかもしれない。

そのような物語を語ったほうが、語ったほうも気分が良いということもあるだろう。だいいち、どう足掻いたって小児科が儲かるわけがないし、儲からない部門にエースが存在し得るわけがない。それをあえて地域医療に貢献する小児科の物語を語り、小児科の部長をエースとして語るのは、まあ大学病院とかに対してうちのような零細な小規模病院が向こうを張るためのナラティブとしては使いやすい構造ではあろう。

俺をエース扱いしてくれるお陰で、俺の言うことはみんな聞いてくれる。備品を買ってくれと言えばたいがい買ってくれる。金がないときは事務長が誠に申し訳ないが来年度にと丁重に謝ってくれる。こればかりの金もないのかと驚くこともあるが、しかし無いものは無いので仕方ないとは貧乏な家で育った俺は分かっているつもりだ。不平を言えば院長も聞いてくれる。言っていて俺の方が恥ずかしくなる。そりゃあ他人の言葉を何でも素直に耳に入れられるほどの聖人君子じゃあないにせよ、自分が何を言っているかくらいは耳に入る。耳に入りゃあその幼児性は自分で分かる。むかし俺の母は俺の言うことは何でも聞いてくれた。全てをかなえるほど愚かな母ではないにせよ、とりあえず聞くぶんには何でも聞いてくれた。あれは偉い母だと思うが、であればこそ自分が愚かな我が儘を言ったことは自分で分かったし恥じたものだ。齢は不惑を過ぎて知命と言われる頃合いでなお昔の母に我が儘を言ったときのような感覚が蘇るのは、あのころよりもさらに恥ずかしい気分がする。

聞いて貰えるあてがなければこそ、世間に向かってブログやなんかで愚痴を放流したりしておったわけだが、聞いて貰えるとなればかえって迂闊に愚痴も言えない。聞き流して貰えない愚痴は、真に受けられるとかえって危ないこともある。じつは数回、こりゃあ誇張した愚痴がどっかで読まれて真に受けられたなと冷や汗をかいたことがある。そりゃあもう言説には責任を伴うものだとはいまさら言われんでも分かっている。分かっちゃいる。分かっちゃいるけどそれでも書かざるをえないことをこそ書くべきものだろうと思う。昔の(今もか?)ロシア文学者が、全ての論文の形式を封じられた挙げ句に政治的主張もすべて小説に書かざるを得なかったような、やむにやまれぬことこそが書かれるべきものなのだろう。

俺にとってやむにやまれぬ事も、他人にとってはよしなしごとに過ぎない。それはそうしたものだ。多くの人にとってやむにやまれぬ事なら、俺以上の文才のある人が誰か書いているだろう。誰かが書いたものを読んでそれで腑に落ちるなら、俺が書き連ねることもなかろう。

しかし書き連ねられないことは読まれることもない。具体的に読まれないことは刺さりもしない。なんとなくぼんやりした、形のない空虚があるだけだ。そんな空虚は明瞭に存在することすら感じ取れないだろう。あるべきものの形が分かっていてこそ、そこに欠損があれば欠損と認識しうる。あるべき形の分からないものに、欠損があっても欠損とわかるだろうか。

俺にとってやむにやまれぬ事も、書かずに済ませば止んだまま終わるのかもしれない。そうして多くの大事なことを見過ごしてきたのかもしれない。ちょっとしたことを呟いてちょっとした反応を得て、実質的な解決はなにもないまま小出しにやりすごしてきてしまったのかもしれない。それはよろしくない。

NICUのカーテン

昼過ぎNICUに入ってみると、カーテンレールの工事をしていた。個々の保育器とその周辺の小範囲を囲んでカーテンを引くことができるようになった。普段は空調や監視のつごうがあるから開放しておくけれど、カンガルーケアや直接授乳などを保育器周りで行いたいときのプライバシーの確保が容易になった。

カーテンは看護師たちのかねてからの念願であった。今回の工事は彼女らが自分たちで看護部上層や経営とかけあって予算を取るところから始めたことだ。俺の手柄といえばケチをつけなかったことくらいだ。

うちのNICUの看護師たちの積極性というか行動力というか、たいしたものだと思う。彼女らの肝が据わっていないと重症入院が受けられない攻めきれないということになるんで、看護師の勇敢さというのはNICUの宝だ。このカーテンは直接に赤ちゃんの命を救うというものではないが、たぶんこのカーテンをつけたことでうちの看護師たちはいちまい勇敢になったと思う。

神殿つうもんは人の心の中に作るもんやで、とかのナザレの大工も言ってなかったか。

京都府立こども病院の不在について

「京都府立こども病院」が存在しないことについて、ときおり考える。

旧帝大医学部があるほどの土地で、小児専門病院が存在しないのは京都だけである。東京には国立成育医療センターや都立小児総合医療センターがあり、大阪には府立母子があり。べつに旧帝大医学部がなくとも兵庫県立こども病院や滋賀県立小児保健医療センターという病院も近県には存在する。友達の玩具をうらやましがる子供のような言い分だが、京都にはそのような病院がない。

京都では両大学とも病院の小児科病棟を拡充する方針である。しかしそれでこども病院の代替となるかというと疑問である。大学はあくまで教育機関であり研究機関である。小児内科各分野あるいは外科系各科小児部門、児童精神科あるは小児歯科障害児者歯科とまんべんなく小児臨床の各領域を揃えるというものではない。むしろ何らか最先端の医療をやろうと思えば、いま流行の「選択と集中」が求められてしかるべき組織であろう。行政と連携して小児保健衛生あるいは虐待対策などの一翼を担うという性質の組織でもない。法学部や教育学部が関与するなら別次元の実践もできるかもしれんが、現状では絵に描いた餅というにもその絵すらない。病棟看護だって完全看護にはほど遠かろう。

かつて新生児専門医の資格をとるための研修で大学NICUにしばらく通ったのだが、そのさいに2件、新生児患者を他県へ搬送した。1人は兵庫県立こども病院へ、もう1人は埼玉県立小児医療センターへだったが、両病院とも、受入を快諾してくださった管理職医師が、まさに異口同音に、「兵庫の(あるいは埼玉の)子供がお世話になりました」と仰った。新生児医療において各々著明な先生であるからお互い面識はあられるのだろうが、本件まさか申し合わせておられた訳ではなかろう。職責に関する認識が各々にその高い水準に至られたということだろう。先達のこの言葉に接しただけでも研修の意義があったと言うのは俺の個人的な事項としても、子供たちにとってみても、兵庫や埼玉の子供たちはこのような先生がいるというだけで幸せだろうし、この言葉を大言壮語にしないだけの充実した小児専門病院があるというのはなお幸せだろう。

果たして「京都の子供がお世話になりました」と他県に向かって礼を言う立場の小児科医がいまの京都にいるかどうか。俺自身が言うても礼儀には適うだろうが実力が伴わない。両大学の小児科教授だってそのための職位じゃない。行政はその立場は誰だと想定しているのだろうか。想定があればとうぜん、その医師のもとに体系的な診療力をもった小児病院組織を整備する政策があるはずなのだが。

それを考えるひまもなかったほど、歴史の浅い土地だったろうか。ここは。

知命

認めたくなくてしばらく考えずにいたけれど、知命といわれる歳になって一月ほど経った。

たとえて言えば日曜日の午後3時ころのような気分だ。それなりによい天気の日曜日だったが、すでに日は陰って、今さら新たに行楽にいく時間でもない。日が暮れるまでに何か小さい散歩くらいはできるかもしれないし、宵の口には夜ならではのお楽しみもあるかもしれない。でも昼の盛りははっきり過ぎてしまった。まだ朝日が昇ってまもないうちは、よい天気になりそうな陽光をあびて、どんなすばらしい一日になるだろうと思ったものだった。しかしふりかえってみれば、昼の盛りをとくに何に使ったわけでもないような気がする。その場その場のことを忙しく消化していくうち、とくに何のあったわけでもない平凡な日曜になってしまって、ああもうはっきり日が陰ったなと思う、今はそんな日曜の午後3時頃。

困ったことには、日曜日の夜が明けたら月曜日の朝がくるようには、人生には朝はこない。何時頃になるか、いまはとりあえず大病もなしそう早くはないにしてもいずれ寝てしまうし、寝てしまえば次の朝はこない。

知命というからには、この歳になればよほど天命をさとって覚悟が決まるものなのだろうと思っていた。しかし実際にその年になってみれば、どうやらそういうものでもなさそうだ。単に、自分の人生にはもう大きいことは起こらないという諦めだ。いまそこに自分がいる、この自分の位置こそが自分の天命なのだというお話のようだ。なんのことはない、童話の青い鳥みたいなもんだ。

さて。

耳順という年齢まであと10年だ。この、もう日曜が残り少ないという怒りや焦りを鎮めて、腹が立たなくなって6時半のサザエさんを観るまでにあと10年かかるもののようだ。おのれの欲するところに従っても矩を超えなくなるまでさらに10年。もう桃太郎侍を観て寝る時間じゃねえか。

こういう手厳しい指摘を2600年も前にしていた孔子というひとは偉いもんだよなと思う。

衰退するNICUで

NICUの入院患者が2人にまで減った。二人しかいないと静かなものだ。人工呼吸器の作動音も絶えて久しい。覆いを掛けた保育器や人工呼吸器が立ち並ぶ、倉庫のような暗がりの片隅で、赤ちゃんと看護師がひっそり過ごしている。この子らももうすぐ帰る。私は事務仕事も面白くなくてVolpeの新版を読み続けている。

例年は冬になると極低出生体重児の入院が続くものだが、この冬はその増加がまったくなかった。悪い比喩だが、昭和29年、北海道の海にニシンがぱたっと来なくなったときはこういう感じだったんだろうかとすら思う。この数年、減った減ったと書きながら細々続けてきたが、今度こそ本物という感触がある。

鰊も獲られたくないだろうし赤ちゃんだって入院したくはないだろう。ニシンは獲りすぎで資源が絶えたんだろうが、そりゃあ赤ちゃんは生まれるのを片端攫えてくる訳もなし、NICUの入院数が減ったのは産科医療の進歩が効いている。ひと頃は維持不可能だった妊娠が維持できるようになり、今日明日にも早産で分娩だと腹をくくって待機した胎児も、けっきょく危機を乗りきって正期産で元気に産まれ退院していく。赤ちゃんの元気は何より言祝がれることであるし、漁師さんたちを見習って俺たちも他の仕事を探すところなのだろう。そうして時代は過ぎる。当事者には色々の感傷はあれ、時代が過ぎるってのはそういうものなのだろう。

NICUががらがらなのは当院ばかりではなさそうで、京都府の周産期情報ネットワーク情報を参照すると、大半の施設が受け入れ可能の意思を示している。それも複数の空床を提示している。時代は変わるものだ。今夜もし入院紹介があれば府外搬送だと重い気持ちで過ごす当直はもう過去のものになった。生まれる赤ちゃんの1人1人にとっては、これは良いことだ。憂う必要はなにもない。

この状況を懸念するとすれば少子化の面からだろう。少子化が進行し、子供を産む年齢層の女性の数すら減り始めて久しい。世の中の人には、まだそれほど子供が減った印象は持たれていないかもしれないが、この入院数の減少には少子化もむろん影響している。NICUに入院する子供の総数が減ると、少ない入院は総合周産期母子医療センター他の大施設に集約されていく。我々のような末端の施設はまっさきに変化の波をかぶることになる。少子化をもっとも鋭敏に観測できる場所である。

小松左京の短編に、サラリーマンの主人公が営業でたまたま訪れた産科医院で、ふと気がついてみれば赤ちゃんが1人もおらず新生児室が静まりかえっているというものがあったと記憶する。赤ちゃんが生まれなくなったのですと助産師が言う。その帰路、うららかな春の日にも、子供の声が街からほとんど聞こえない。御大の作品としては淡々とした、これといって起伏のない小品であったが、いまの様子は御大の想像どおりだ。

「日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想」を読む

任文桓著「日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想」ちくま文庫を読んだ。出版社リンク

著者の実家は日韓併合後没落し、併合時3歳であった著者は貧困の中で育った。16歳で単身日本に渡り、人力車夫や牛乳配達、家庭教師、岩波書店店員と様々な仕事で費用を稼ぎながら同志社中学・第六高等学校・東京帝国大学法学部と進み、高等文官試験に合格して朝鮮総督府の官吏となる。日本敗戦後は韓国で親日派の排斥あるいは朝鮮戦争といった危機を切り抜け、李承晩政権で国務大臣職を勤め、野に退いてからは実業で活躍する。タフな人生である。この人に「タフでなければ生きていけない」と言われたら黙って平伏するしかなさそうだ。

タフさに加え強運さが尋常じゃない。著者が日本に渡って数日後に関東大震災が起こる。道中心細くなって京都の知人宅に立ち寄っていなかったら来日早々地震と朝鮮人虐殺に遭っていただろうという。素の運の強さだけでもたいがいだが、周囲の人にも異様に恵まれている。著者自身も言うように、砂漠で水をくれる人が繰り返し現れる。学費に困ってこれでは退学だと思っていたら黙って工面してくれる人、高級警察官僚宅の家庭教師や府立医大教授宅の書生仕事といった得がたい仕事を世話してくれる人、岩波茂雄のように自社に即決で雇ってくれる人。圧巻なのは朝鮮戦争時に北朝鮮軍から身を隠していた際に、自分はなくしたと言えば再発行できるからと自分の身分証明書をくれた人まである。

それだけ魅力的な人物だったのだろう。この人のタフさの秘訣はけっして自暴自棄にならないところだ。どんな窮地にあっても諦めず生存の道を探す、しかし正道を逸れず、無駄な悪あがきはしない。誰のせいと人を恨むこともない。こういう胆力があって粘り強い人物なら、周囲もその窮地には一肌脱いでやろうという気にもなるものなのだろう。とかくこの人には投資して無駄金になりそうな気がしない。必ず生きた使い方をするという信頼がおける。

しかしこの人自身の幸福を考えると、はたして日本帝国官吏の道を選ぶべきだったのだろうかとは疑問に思う。故国を支配する帝国の官吏となって帰国し、その地位をもって同国人の福祉のために尽くすという志であったとのことだが、植民地政府で待遇には露骨に差別を受け、挙げ句に敗戦とともに身分を失う。植民地政府の日本人同僚は他人顔して引き揚げてしまう。同国人には白眼視される。独立のためと思えば李承晩や上海亡命政府の面々のように海外で抵抗運動するほうが良かったかなと彼自身も述べる。俺の意見としては彼は東京帝大を出たあと日本の朝鮮のの枠にとどまらずもっと自分本位に雄飛してもよかったんじゃないかと思う。岩波茂雄と会食して蒸気の志を述べた際に、君は思ったよりつまらない奴だなと叱られた逸話、岩波氏も俺と同じようなことを考えたんじゃなかろうか。

とはいえ他の選択肢は俺ごとき貧困な想像力では思いもつかない。当時の世界情勢でどこへ行けばよかったのかもわからない。満州などまさに身の破滅だし(俺の祖父がそうだ)、欧州に渡ってては大戦で命がない。渡米してのし上がるくらいしか思いつかないが、いくら能力があってもアジア人だと差別されて不遇に終わる結末も見えてそれなら故国にいても一緒かもしれないと思う。

著者は韓国政府での自分の仕事にかなり誇りをもって語っている。曰く李承晩らも上海亡命政府の面々も韓日併合前の古い政治意識しか持たず、日本統治下で変化の進んだ韓国社会から遊離していた。とくに行政においては日本統治下で官吏の倫理がそうとう進歩したのに、苦しい亡命生活での裏切りや持ち逃げの記憶を引きずって疑心暗鬼のまま新政府を発足させようとしていた。著者は儒教倫理に雁字搦めになって没落した実家の事情もあり、儒教に支配された旧来の朝鮮社会のありかたにかなり批判的である。朝鮮総督府の内部から見てきた占領下の故国についての現状認識と、官吏時代に鍛えられたという実務能力をもって新政府に貢献したという、一本スジの通った誇りが感じられる。そういう誇りをもって人生を振り返ることができるなら、彼の選択も悪くはなかったと思う。けっきょくこんな凄い人はどんな選択をしてもそれなりに凄く生きていくのかもしれない。俺などのケチな想像力が及ぶ範囲を超えて。

 

 

 

 

 

「遠すぎた家路」を読む

「遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち」ベン・シェファード著、忠平美幸訳、河出書房新社刊2015年(出版社リンク)を読んだ。原題はBen Shephard, THE LONG ROAD HOME: The Aftermath of the Second World War. 2010。

第二次正解大戦後の欧州での、独ナチス政権により強制労働あるいは絶滅の目的で移動させられていた人々に関する戦後処理の話。

フランスやベルギーなど西欧から労働力として強制的にドイツ国内へ移動させられていた人々については本国に帰る世話をすればよかった。東部戦線でドイツに投降しドイツ軍に荷担していた旧ソ連軍の面々は、情け容赦なく本国へ送還され、むろん処刑された。東プロイセンやズデーデン地方などから追放されドイツ国内で難民となっていたドイツ人たちは、まあ自業自得っつうことでとあまりケアされなかった模様。

そういう、ある意味で単純な状況の人々ばかりではなく、ソ連に侵略され併合された旧バルト三国からの避難者とか、労働力として強制連行されているうちに本国で共産主義の傀儡政権が成立してしまって帰国する希望をなくしたポーランド人とか、ドイツの占領下でこの際にと反ソ連活動もおこなったウクライナ人とか、それにもちろん強制収容所から解放されたユダヤ人とか、そのような帰国先のない人々への対処が難題で、本書の本題となっている。

対処といっても魔法の杖などなく、不満にかかわらず帰国するよう説得する、説得に応じない場合にはキャンプをぐるぐる移動させて居着かせないようにする、新たな受け入れ国を探す、など地道な対策がとられた。現状を維持するあいだにも食糧や衣類、居住施設などの調達が必要になる。軍政ではそういう支援はどうにも無理のようで、民政の面々が軍と渡り合って苦労している。ユダヤ人に関してはパレスチナ移住イスラエル建国という手段もとられたが、そこで生じたパレスチナ難民については本書で扱う範囲を離れているらしく語られていない。

対処の現場では彼らは必ずしも十分な同情をもって扱われたわけではなかったとのこと。特にユダヤ人については、当時まだホロコーストの実情が周知されておらず、生存者たちは気力なく働こうとせず不平ばかり言う連中と蔑まれた由。とはいえユダヤ人はもと住んでいたところに帰国したところで、共同体は壊滅し生活基盤もすっかり略奪されつくして文字通り「帰る家もない」状態であった。蔑まれつつも彼らの行き先は確保されなければならなかった。

新たな受け入れ国で従来の職業につけるかというと、やはり単純労働の受け入れ条件ばかりで、ポーランドで医師をしていた人がオーストラリアに肉体労働者として移住したりもしたとのこと。理不尽なのは出身国による格差で、教養ある中産階級出身者が多く大半が英語を使えるバルト三国出身者は受け入れ側も比較的歓迎するものの、低所得の階層が多かったポーランド人などは受け入れ先も乏しかった。

イギリスという国はたいしたもので、1943年まだ戦中のうちに、このような戦後処理の難問が発生すると予測して対策を打ち始めていた。そんなもんドイツ人が悪いんで俺たちの責任じゃねえと放置しそうなものだがと思ったが、それは私のさもしい島国根性の発想なのだろう。

しかし戦中はホロコーストもまだぼんやりした噂としてしか伝わっておらず、蓋を開けてみれば準備していた対策の規模はまったく不足だった。イギリスの国自体が戦費の負担で破産しかかっており、イギリス政府はどうにかして米国に金を出させようと四苦八苦した。戦中の経過でイギリスの発言権はまったく地に落ちており、ソ連はイギリスの言うことなど歯牙にもかけず東側諸国への帰国を執拗に迫るばかりだった。イギリスは米国政府に対し、人道的視点のみならず対ソ関係の視点で煽って支援を得ようとした。我が事のように責任をもって始末をつけようとするイギリス政府の態度はたいしたものだと思う。経済的な破局や疫病などの社会問題が本国まで波及したらたまらんという問題意識もあったようだけれど、たとえば現在の日本政府が北朝鮮破局後の混沌にどれだけ当事者意識を持って準備しとるかっつうと怪しいもんだと思うし、これはたいしたものでしょう。

 

 

 

退官する小児科教授を送る

母校の小児科教授が退官されたので先の日曜に祝賀会に行ってきた。翌日、病院に留守居で休日救急をお願いしていた同門の医師に、会はどうでしたと尋ねられ、以下のようなことを喋った。

教授の退官祝賀会の常で、次々に挨拶が立ち、研究のみならず附属病院運営についても業績が縷々讃えられた。とかく優秀な人であったと逸話が並べられた。今後の再就職先も重要な地位で大いに活躍を期待すると。さすがに教授となると送辞も話の規模が大きいなと思った。応えて教授も、優秀な先輩の名をあげて感謝を述べられ、盛況のうちに閉会となった。

教授が退官するときに彼を評する尺度が「優秀さ」であるような、俺たちはそういうところにいるのだなということに、一抹の寂しさは感じた。それは入学したての学生たちが互いを値踏みするときの尺度ではないか。教授まで務めた人の大学生活の終わりに語ることは他にないのか。この期に及んで俺たちは自他の優秀さをまだ問題にせねばならんのか。

他にはと言って、附属病院の発展とかそういうカエサルに返却する部類の些事はこのさい置いておこう。そんな話は経済学部の連中が経団連の集まりにでも語っておればよいのだ。神に返す話、神に預かったタラントにつける利息の話をしたい。

問題にせねばならんのかと自分に問えば、不惑を過ぎ知命が迫る年になってなお、優秀と評されたいという子供じみた焼け付くような欲望を自覚する。大人になったらがき大将になりたいと言ったのび太を彷彿とさせる。じゃあ優秀さ意外になにかこういうときに退く人の半生を語りうる言葉が自分の中にあるかと探してみて、実はなかったと気づいて愕然とする。そんな大学の新入生みたいな価値観を脱却できないまま、より成熟した大人なら持ちうるはずの眼差しや言葉をいまだ持たないままなのかと、月並みな表現だが忸怩たる思いに駆られる。

大学で何を学んできたのか。医者やってて何か思うところはなかったのか。もうすこし豊穣な言葉で半生を語りうるような成熟は得られなかったのか。そういう俺が明日も発達フォロー外来をする。NICUを退院した子供たちのその後を診察すると言いながら、この子らにこんな人生を歩んで欲しいと思うところはないのか。「優秀になって欲しい」ではNICUでした苦労に比べて貧弱にすぎないか。

俺自身が引退する頃にはそれもわかるようになるのだろうか。