「瀬島龍三 参謀の昭和史」

「瀬島龍三 参謀の昭和史」保阪正康・文春文庫を読む。一人の人間についてたった一冊の評伝からものを言ってはならんのだろうけれども、私はこの瀬島という人に自分を重ねてしまった。
この瀬島という人は生涯を通じて生粋の参謀であったのだと思う。彼の性根は心底から参謀であった。それも極めて優れた参謀であった。そのことが彼にとって幸福だったのかどうかは疑わしい。心底からの参謀である彼は、上司からの問いには真面目に取り組み正しい解答を出そうと奮闘するのだが、しかし上司の出す問いが状況に照らして正しく立てられた問いかどうかは彼の関心の埒外にある。大本営でも、シベリアの流刑地でも、伊藤忠商事でも、第二臨調でも。
彼は自ら問いを立てることはない。問われたことに答えるのみである。答えた内容が実行に移された結果がどのようであろうとも、彼にとっては、結果は実行者の責任である。事態が歴史にどのように位置づけられようとも、それは彼の答申を得て歴史に自ら参画した上司の問題である。本書の著者である保阪正康氏は瀬島氏がその体験を語らないことについて批判しているが、瀬島氏自身は、おそらくは、自分には責任のないことを詰問されてもと、保阪氏の批判を理不尽に感じていただろうと思う。
私は瀬島氏を批判している訳ではない。私には彼のこのような精神性が理解できる。というのも、これは私自身の性根に他ならないからだ。私自身、彼の生涯のどの時点に我が身をおいたとしても、そこで私が取ったであろう行動は彼が実際に取った行動に他ならないからだ。東京裁判で彼がソ連側証人として証言したときですらまだ34歳だったことを考えると、彼の生涯のどの時点でも同年齢の私に替わり得るほどの胆力があるかどうかは些か疑問ではあるが。本書を読むとまるで前世の自分を批判されているかのような気分になる。