いや、うちのNICUの看護師に岡本太郎を知らない娘が居ましてね。
副主任が驚き呆れているので何かと思って首を突っ込んでみたら、この子は岡本太郎をしらないらしいと言います。実際、本人はきょとんとしています。
驚きました。
太陽の塔って見たことないの?
「芸術は爆発だ」って言葉を聞いたことないの?
そりゃまあ経験は浅いけど最近はずいぶんしっかりした仕事をするようになった子だし、新生児の看護にはとりあえず岡本太郎に関する知識は必要ないけれども。でも基礎的教養に関してこういう予想外のところにぽかっと穴が空いてるのを見つけたりすると、それが世代の差だと割り切っていいものか、あるいはひょっとしてもっと大事な事項に関して、共有してるはずの知識が抜けてやしないかと警戒を怠らないようにするべきなのか、ちょっと考えてしまいました。
別に岡本綺堂が半七捕物帖の作者だなんて知ってろと要求してる訳じゃないんだけどねと思いましたが、考えてみれば岡本太郎の没後20年近くたってるし、看護学校の卒後間もない年代の彼女には、もう過去の人なんでしょうね。彼女にとっては太陽の塔だって東寺の五重塔とどっちが古いのって感じなんだろうし。
まあ、かくいう私にとっても、岡本太郎はまずギャグのタネとして意識されましたし。その作品に触れて実は凄い芸術家だったんだなと知ったのは、実はずいぶん後になってからでした。あんまり若者のことを笑ってはよくないかもしれない。
日: 2006年2月20日
「私の嫌いな10の人びと」中島義道著・新潮社刊 真っ当で狭量な主張
「私の嫌いな10の人びと」中島義道著・新潮社刊を読了した。
中島先生の仰ることは本作でも至極真っ当である。方向性としては決して間違ってない。単に了見が極端に狭いだけだ。その狭い了見の依って立つところを至極明瞭に言語化できるのが先生の異能なのだ。
本作で先生は嫌いな人間のタイプを列挙しておられるが、総括すれば、考えるということに関して怠惰な人ということなのだそうだ。これは内田樹先生が常々仰る、「身体で考える」ということにも通底するのかと思った。この2人の考えていることはかなり近いように思う。
この中島先生の極端な狭量さには、一種の嗅ぎ慣れた臭いがある。息子に、あるいは多少なりとも自覚もしている、独特の臭いである。妻もまた同意見のようで、中島先生の著書は新刊が出るたびに夫婦のどちらかが買い求めてくる。読みながら、息子が満足にものを言えたらこういう事を言いたいんだろうなと妻は言う。ことに、どの著書でであったか、先生が灰谷健次郎さんの著書を評して、灰谷さんの言うこの「やさしさ」が理解できない人間はどうすればよいのか云々と書かれているのを読んで、私もその感を強くした。先生これが分かりませんと仰るなんてそれだけでウイングの三つ組みの一画が埋まりますぜと思った。
蛇足ではあろうが、本書に中島先生と小谷野敦さんとが論争された顛末が記されてあり、濃い組み合わせの論争であるなと思った。中島先生は小谷野さんに人格を攻撃され、カント研究者とも思えぬと評された。中島先生は、いやカントもまた人格的には低劣な人間であったと私は常々主張してきたのだから、私の人格を腐すのは勝手だがカント同様に低劣な人格であると言って貰いたいと答えられた由。