週間東洋経済の医療特集

今週号の「週間東洋経済」が日本の医療の危機的状況について特集している。いろいろな角度から医療の状況を報じているのだが、その記事の一つ一つが深い。かつ、くっきりとピントが合っている。澄んだ空気の中で見ているかのように、問題の細部がはっきりと見えるような記事である。ぴしびしと言い当てられている感触とでも言おうか。扇情ではなく報道に徹した特集と言おうか。医者相手の業界誌にありがちな「これ以上書いても読者は理解できんし、そのくせ怒るし」というぼやけた諦観が感じられない。限られた構成員でほんわかと運営していた分野に、はるか世界と戦ってきた「びじねすまーん」達が颯爽と乗り込んできて、次元の違う仕事をしていったという態である。
経済誌って凄いなと思った。井の中の蛙でいままで経済誌って読んだことなかったんだけど、我ながら世界の重要な部分を知らずに過ごしてきたなと思う。痩せても枯れても日本が経済大国だという、その底力の部分をどういう連中が支えているかを今更かいま見た思いがする。ただ、この優れた連中は必ずしも俺たちを救おうという魂胆じゃないかもしれんのよな。彼らの視線の虎視眈々とした色合いには決して油断してはいけないと思う。

アメリカは弱いぞという神話について

映画「硫黄島からの手紙」で、旧日本軍の下士官が兵士に、米軍は確かに物量においては日本軍に勝るかもしれないが、兵士が臆病者ばかりだから恐れるに足りない云々と教育するシーンがあった。
同様の神話はじつは現在のNICUにおいても語られている。曰く米国NICUはレジデントやインターンが臨床の中心だから、診療が全般に粗雑であると。その点、本邦のNICUでは、年期を積んで熟達した専門医が中心になって診ていると。たとえばHFOひとつとっても、向こうの連中は使い方がわからんからトライアルやっても全然よい結果を残せなかったが、日本で使ったらちゃんと良い結果が出ていると。
HFOってのは新生児向けの特殊な人工呼吸の方法です。
それはむろん留学生の見聞とか、発表された臨床成績の良し悪しとか、語る人はある程度の根拠を持って語っているんだろうと思う。しかし不勉強で留学にも縁のない私としては、硫黄島の二等兵同様、そんな神話は素直に聞けない。彼らの孫の世代が現役の新生児科医の大半を占める時代になってもなお、俺らは旧軍の悪癖を克服しきれてないんだなあとさえ思う。
そんな神話を語ることで俺らは何を手に入れようとしてるんだろうとも考えてみる。いや、むしろ、何かに目をつぶりたくて、そんな神話を語っているのかもしれないと考えてみる。むろん目をつぶっているわけだから、そう語る私自身にもそれは見えていないのだが。
他人のことならよく見えるのに。映画の下士官は米軍の圧倒的な戦力に目をつぶりたかったのだと思う。結局は「玉砕」という美名の元に全滅するしかない自分たちの運命に目をつぶりたかったのだとも思う。私らは何に目をつぶっていんだろうか。彼らよりも高尚なものにだろうか。
いやもう、映画にでた海を埋め尽くす米軍の艦艇群の迫力と言ったら。文字で読んだことはあったが、視覚化すると凄いものだね。あれを自分の目で見た人間なら、零戦数機に爆弾抱えさせて突っ込ませるなんていう作戦を立案するはずがない。核魚雷でも持ってこないとあれは潰せない。
真珠湾を襲った当初の日本軍パイロットは強かったと聞く。彼らは中国戦線で豊富な実戦経験を積んでいた。しかしその栄光も長続きしなかった。技術力の無さと無理な作戦計画がたたって、年期を積んだパイロットは次々に失われていった。
ガダルカナル周辺では、ラバウルから1000kmの距離を零戦で4時間飛んで空中戦して4時間飛んで帰っていた。ガダルカナル上空で使えた時間が15分間だったというのがなんとも空しい。地上では万に及ぶ友軍兵が飢えに苦しんでいるのに。行き帰りはむろん自動操縦じゃないので、疲労のため洋上で迷って墜落するパイロットが後を絶たなかったという。当直を挟んで連続(最低)32時間勤務とかやってると、なんだかこの話が人ごとではない。我々の場合は(たまにしか)撃たれないわけだし、まだ甘いってのはよく分ってますけど。でも苦労をしてる割には3分診療で、友軍ならぬ患者の皆様にはあんまり愉快な思いをしていただいてませんよね。
俺らはベテラン揃いだから下手くそ揃いの敵には負けないぞという神話は、緒戦で戦意を鼓舞するにはよろしいかもしれないが、消耗戦になってくるとじわじわとその毒が我が身に回ってくる。熟練に頼りすぎると、いかに非熟練者でも戦えるようにするかという工夫がおろそかになる。速力があって防弾も利いた戦闘機の開発やら墜落者の捜索システムの構築やらといった実のある対策をしなくなる。あげくに最寄りの基地から1000kmも離れた位置にいきなり戦略拠点を築こうなんて無茶なことを考えたりする。旧軍の場合は、物資も技術力も(おそらく知恵も)無かったんだから、「実」って言われても無い袖は振れなかったのが実情なのだが。しかし俺らも袖無しを着てるんだろうか。
ガダルカナルの米軍は、襲撃してくる零戦がまさか1000kmも洋上飛行してきているとは思いもせず、どこか近海に航空母艦が隠れているのだろうと考えてそうとう探したと聞く。現代日本のNICUや救急の当直勤務はむこうの人に言わせれば全くクレイジーなのだそうだが、たぶん、傍目に見れば、我々は、ラバウルからガダルカナルまで零戦で飛んでいた頃からあんまり進歩してないんだろうと思う。
俺はいまNICUに居るつもりでいて、実は太平洋の上空を零戦で飛んでいたんだな。そういえばスーパーローテート研修医なんて学徒動員みたいな連中が臨床に出てきてるし。そのうちフィリピンまで押し戻されたあたりで、俺らも特攻を命じられたりするんだろうな。とくに彼らスーパーローテート研修医なんか狙われると思う。やっと離着陸ができるようになったと思ったら、僻地の診療所なんかに義務的に駆り出されるわけだ。いやいや義務なんてとんでもない、もちろん本人希望ですよ。嫌だなんて言う奴は大和魂とか医のココロとかが足りない非国民に限られるわけだから、当然みんな希望して行くに決まっているじゃないですか。機銃と無線機を取り外した零戦も同然の貧困な装備しか与えられないというのに。敵艦に到達する前に大半が撃墜されてしまうのに。その出発に際しては偉い人たちが出てきて「諸君に続いて自分たちも必ず後から行く」とか言うわけだ。
さて、俺らは何に目をつぶっているのだろう。それを直視しなければ、そのうち特攻機に乗せられる羽目になると言うのに。数十年後にはカズシゲの孫あたりが映画に出て、「俺たちは新しい日本の医療を作る捨て石になるんだ。それでいいじゃないか」とか医局で語る君や俺の役を演じることになるのだよ。

自閉症児の教育実践 TEACCHをめぐって

自閉症児の教育実践―TEACCHをめぐって
奥住 秀之 / / 大月書店
ISBN : 4272411616
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TEACCHに関する「論争」だそうだ。類書と一線を画するのは第3章「論争・TEACCH」の部分であろう。京都で個別化・構造化を実践しておられる澤先生がTEACCHについて概略を述べ、続いて東京の先生方がTEACCHに対する疑問を並べ、それに対して澤先生が回答を寄せると言う形式。
その澤先生の回答に対する東京の先生方の直接の答えはないが、しかし第4章「私たちが目ざす自閉症児教育」が実質的な回答なんだろう。その目ざすところと言うのは、自閉症児を学級集団の人間関係の中で揉んで適度に葛藤させて成長させるというもののようだが、一般にはそういうのを「無策」と言うんじゃないかとも思う。そんなんで発達が最適化されるようなら定型発達じゃないですか。
澤先生が紹介した、小便の仕方を絵カードを用いてスモールステップで提示するという指導例に対しての、東京の先生方の疑問(あるいは拒絶のメッセージ)。

 私はこの実践例を聞いたとき、「いつも失敗してしまう子どもに対して、きめ細かなステップで教えようとした結果たどり着いた指導方法だろう」とは思いつつも、何か釈然としない違和感を感じた。心の中で「この実践は、どこがとははっきり言えないが・・・・・・しかし何かが違うのでは?」としばらく考え込んでしまったのである。(中略)
 排泄は毎日のことだ。本人はもちろんだが、毎日つきあう保護者や教師にとっても、排泄の自立は大きな願いである。しかし、そうしたトイレットトレーニングでのみ、子どもは排泄を自立させてゆくのかと言えば、決してそうではない。技法的に習得してゆく以上に、他者との関係やつながりの強さが、その子どもの背中を後押ししているはずなのである。

反論ったって一事が万事的にこのレベルだ。目眩がする。まだ今の時代にこんなこと言う人らがいるのかと驚きさえ感じる。あまりに詰まらない言いがかり的な疑問を並べられて、『「疑問」に答えて」という節で澤先生が回答される第一声は以下の如く。「疑問」とくくったカギ括弧に澤先生の気持ちが表れている。

「疑問」に対する私の「疑問」は、「自閉症という障害の背景にある『認知障害』が、まったくと言って良いほど考慮されていないのではないか」ということに尽きます。

さらに一喝。

「疑問」では、「『年長のお兄さんみたいに、自分だってトイレでおしっこしてみたい』と見よう見まねでやってみる子どもの内面世界」と自閉症の子どもたちを描いていますが、これは、本当に自閉症の子どもの姿でしょうか?

ほとんどこれで経絡秘孔を突かれたも同然なのだが、突かれたほうが「あべし」とも「ひでぶ」とも言ってないところを見ると、たぶん「お前はもう死んでいる」と誰かにはっきり言ってもらわないと、自分たちが終わっているのに気づかないんだろうな。もっと論争が必要だ、だなんて朝日新聞の社説のくくりみたいな総括で本書は終わっているが、いや必要なのは諸君の勉強ですから。
本書の存在意義は、今の時代にもまだ現場ではこのレベルの「論争」が存在するのだと言うことを衆目に知らしめたことだろう。TEACCHに関して「ありがち」な論点であるには違いないから、本書が忘れ去られた頃に、また日本のどこかから同じような「論争」が持ち上がってくることが十分予想される。それにいちいち反応するのも関係者の皆さんには骨が折れるだろうし、解決済みのFAQとして本書が記憶されれば、将来ほかの人が同じ轍を踏まないためには役に立つだろうと思う。
澤先生には本当にお疲れ様でしたと申し上げたい。

海を自由に旅したい

海を自由に旅したい―単独シーカヤッキング(カヌー)日本半周旅漕記
東条 和夫 / / 文芸社
ISBN : 4835571851
一読して後悔している。というか前書きを(数ページにわたって「シーカヤックに出会うまでの著者の自伝」が書いてある)読んだ時点で気持ちが萎えた。買う前によくよくamazonに掲載された本書の表紙を見ておくべきだったと思う。『「夢への挑戦」少年の夢が中年男を海へといざなう』という赤い字の惹句にもうすこし警戒感をもつべきだったと思う。俺が俺がが強すぎる。海やカヤックではなく「カヤックを漕ぐ自分」のことを語りすぎる。語ってはいけないというわけではないが、バランスというものがある。
中国四国九州の海岸線をほとんど周回するような単独長距離シーカヤッキングが、珍しい体験であるのはよろこんで認めよう。月並みさなどかけらもない、実に興味深い体験である。それに惹かれて私も本書を購入したのである。しかし、まだ俺は若いと主張する「中年男」など珍しくも何ともない。自分を少年になぞらえるなど月並みすぎて痛々しい。自虐だと分かってやってるなら芸風かもしれないが。
食材も道具も一流のものを揃えた「男の料理」を、作った本人の自慢話を延々聞かされながら喰わされたような読後感である。食材が良いから不味いとは言わない。しかし料理番組の紹介には「素材の良さを生かした」と評される類の味ではある。プロの料理ではない。
本書は自費出版なのだろうか。まともな編集者は付いてなかったのだろうか。著者が文筆業を専門としていないのは経歴からも明らかだし、素材じゃなくて自分が語りすぎるってのは素人にありがちな陥穽だと思う。それが著者をおとしめる理由には決してならないが(貶める資格が自分にあるとも思えないが)、しかし編集者の職業意識を疑うには足ると思う。

約束の地で

約束の地で
馳 星周 / / 集英社
ISBN : 4087748782
暗い短編小説集だった。半端に暗いと読んでいて暗澹とするばかりなのだが、本作のレベルまで暗いと読後に不思議な余韻が残った。不快感は残らなかった。当直明けの、どこか頭の芯に澱みが残ったような午後に読んだのだが(週休で運良く帰れたのですよ)、むしろ浄化されたような読後感であった。
誰も幸せにならない。将来に幸せが待っている見込みもない。誰の未来もことごとく閉塞している。みんな懸命ではあるのだが、しかしその懸命さが有効で実践的な方向に働くことがない。ご都合主義的な奇跡も起きない。やるせないと言えばまことにやるせない。
物語の脇役のひとりが次の短編の主人公として登場するのだが、最後の短編に最初の主人公が脇役として登場するものだから、短編小説集そのものが円環状に閉じている。

著者の作品を読んだのは実は初めてである。暗黒小説の書き手であるという。その能書きからして不道徳な作風なのかと思ったが、本作は意外にストイックな感じがした。暴力礼賛は気配すらない。暴力が目的を達成する話はこの短編小説集にはひとつも出ない。
この著者は、暴力に晒された内臓や神経が精神をどれだけ裏切るかを正確に知っている。殴られる痛みが感覚的な痛みにとどまらず殴られた者をどれだけ奥深くまで浸食するかを知っている。知っていて正確に描写するが、それが告発調を帯びるほど饒舌でもない。その一歩を踏み外さぬ節度が感じられた。
私ごときが身の程知らずな言い方かもしれないが、この著者の描写力は群を抜くものがある。舞台となる北海道の深山も、寂れた町や造成地も、読んでいてそこに吹く風にこちらの体温まで奪われるような感じがした。過酷で陰鬱で、そこに住んでいるだけで気持ちがすり減りかじかんでいくような土地。

がんばれ朝青龍

大相撲の醜聞が続き、週刊朝日の前号で内舘牧子がここぞとばかりに朝青龍を攻撃していた。
朝青龍がモンゴルでサッカーをしたのが問題視された折、彼女は朝青龍を即座にクビにしろと主張したと自慢げに書いてあった。それはもう朝青龍を横綱にする時点で彼女は反対だったのだから、それ見たことかと言いたいのは分からんでもない。コドモか?とこどものおいしゃさんである私は突っ込んでみたいところだが、こどもですと称して外来に来られても困るからそれは言うまい。
しかしモンゴルの温泉に短期間浸かっただけでうつ病寸前が治るのかと揶揄してあったのは彼女の見識を疑う。短い休暇の帰省を心の支えにしている私には、モンゴルの草原に立ったドルゴルスレン・ダグワドルジ青年の心中が思いやられるばかりなのだが。彼女には故郷というものが無いのだろうか。ふるさとの山に向かひて言ふことなし、という感慨を知らないのだろうか。
おそらく朝青龍という人も、風聞から察するに友達付き合いはしにくい人なんだろうとは思う。あれだけ日本語を流暢に喋るのだから決して頭の悪い青年ではないのだろうとは思うが、基本的な乗りは体育会系なのだろうし、私は体育会系の人はどうも苦手だ。しかし身近に付き合うのは願い下げだが尊敬はするというのはありだと思う。敬して遠ざけるというのは昔からよく行われてきたことだ。
横綱は強いために横綱なのだという単純な事実が軽視されすぎてはいないだろうか。その強さがあまりに強すぎて理不尽の域に達し、あの強さは稽古で到達できるような人知の及ぶところを越えて神から授かったとしか考えられないと、畏敬の念を抱かざるをえないほどに強いのが横綱なのではないか。
その意味において朝青龍ほど横綱の本質を突いた横綱は居るまいと思う。彼ほどに、その人気の根拠をただ純粋に強いという点に負っている横綱が今まであっただろうか。なぜこんな憎々しい奴がこれほど強いのだという慨嘆を日本人にこれほど味わわせた横綱がいままであっただろうか。彼が体現する強さこそ、ほんらい強さとは理不尽なものであるということを凡俗に思い知らせ、否応なく畏敬の念を抱かせる、横綱の強さなのではないかと思う。
自分のコントロールが及ばないものに対して畏敬の念を抱くというのは、日本の伝統的な道徳において、悪徳とされるものであっただろうか。あるいは、自分のコントロールがおよばないものを偏執的に攻撃し潰そうとするのは、はたして日本の伝統に照らして美徳とされる態度であっただろうか。
その畏敬の念を大事にしたからこそ、日本人は相撲を国技と認めてきたのではないか。言い方を変えれば、その畏敬の念を根拠にしてこそ、相撲は日本の国技を自称してこれたのではないか。その強さを体現する横綱が、商業主義に協力しないとかお年寄りの女性脚本家の趣味に合わないとかの理由で排斥されてよいのか。それこそまさに国技を侮辱するということではないのか。
横綱が辞めさせられるのは弱くなったときのみなのだ。弱くなった横綱はもはや神に嘉されなくなったものとして、定義的に横綱たり得ないのだ。それは身体を壊したとか年齢が行ったとか、いかに同情すべき理由であれ。横綱に与えられる強さが理不尽な神の与える強さであるとするなら、その強さを奪うのもまた神の理不尽さであろう。人間の小賢しい選り好みは、横綱を辞めさせる理由にはならない。
弱くなってなお横綱にしがみつく力士の行く末は哀れなものだ。朝青龍も弱くなったらとたんに引退するべきである。それは私が朝青龍の身方であるゆえにそう言うのである。あるいは朝青龍の強さを畏敬するゆえにそう言うのである。横綱としての朝青龍を尊敬するからそう言うのである。逆にまだ強いうちは、朝青龍が横綱であり続けることを断固支持する。

ポケットにソイジョイを入れておく

白衣のポケットにソイジョイを一本入れている。空腹時に急に搬送や緊急帝王切開のお呼びがかかったときの非常食である。1本130kcalそこそこ。とりあえず空腹でふらふらせず一仕事する程度には腹が持つ。満腹で眠くなることもない。
ソイジョイにはチョコレートやビスケットにない利点がいろいろある。NICUの熱気に負けて溶けたりしない。そこそこ丈夫で、崩れて粉を出すことも少ない。手や口まわりが汚れない。適度に不味いからおやつ代わりに喰ってしまうこともない。
みのもんたの口車に乗せられているような気分になるのが難点である。

病棟では関数電卓を使う

カシオ計算機 関数電卓 FX-82ES-N
/ カシオ
NICUではこの関数電卓を使っている。ディスプレイが2行になっていて、1行目に入力した計算式が表示され、2行目に計算結果が出る。入力した計算式と計算結果とが一目で見えるので、数値の誤入力によるミスが防げる。計算式と結果の表示された電卓を他のスタッフに見せることで、「こんな計算式でこんな答えを出したんだけど、これでいいよね」といったダブルチェックも可能になる。
計算自体も楽である。括弧を使った計算が簡単にできる。超未熟児の総カロリー投与量とか、心エコーを使った小難しげな心機能評価とか。普通の電卓だとM+とかM-とかMRとかいったキーを活用しなければならない分野である。でも、あのキーを活用できてるヒトって、いままで出会ったこと無いんですけど。
べつに三角関数などを仕事につかう人でなくても、これは買いだと思う。こういう便利なものを上手く導入することが、計算ミスったスタッフにインシデントレポート書かせて懲らしめるよりも、医療事故防止に役立つんじゃないかと思う。

傘を持っていく

火曜日のゴミの日に、息子は例によって家中のゴミを出して登校した。彼が家を出てしばらくすると雨が降り出した。傘を持っていかなかっただろうと心配して、妻が自転車で追いかけたのだが、しっかり傘をさして歩いていたとのことだった。
天気予報を見ていたのか、玄関先で空を見て傘を持っていくことに決めたのか、それはよく分からないが、外出時に天気を判断するというのは自立に必須のスキルである。いつの間にか身につけていた。成長したものだ。よしよしと思って自分も出勤しようと玄関に出てみたら、息子はしっかり私の紳士用の傘を持って行っていた。深緑色で縁に縫い取りのあるもの。横目で狙っていたと見えた。
おかげで私は紺の無地をさして出勤することになった。まるで磯野カツヲとネームが入っていそうな、小中学生用のデザインである。さして歩きながら、息子が嫌がったのは自閉症でこだわりがあるためではなくて、私服で通学する男子中学生としてはこんな野暮な小物は持ち歩きたくないということなんだろうと思った。
傘は譲ることにした。

京都の平熱

京都の平熱 哲学者の都市案内
鷲田 清一 / / 講談社
ISBN : 4062138123
今日は一日病院に出なくて済む日だとなると、なぜか朝早くから目が覚めてしまって午前中に一読した。京都の市バス206系統沿いに京都市を一巡して、コース沿いの風物を色々と論じる書物である。
京都には様々な奇人があるが、彼らはここまでなら社会は受け入れてくれる(逆にこの一線を越えたらアウト)という実例を示してくれるのでよろしいという記述にはなるほどと思った。人格のみならず、服装だって京都には舞妓の豪華絢爛な衣装と托鉢僧の墨染めという両極端があるから、あの間のどこかに入る服装なら京都では受け入れられるということなのだそうだ。
田舎の息苦しさは、そういう実例がなくて、自分の立ち位置が許容される立ち位置なのかどうか分からないところからくるのかもしれないなと思った。確かに変人は田舎にも居るけれども、しょせん人数が限られるから変わりかたの度合いも幅が狭い。まして幼い頃はそういう人の変人ぶりと、彼らへの悪口ばかりが目に触り耳につき、そういう人らでもそれなりに受け入れられているんだなということはなかなか見えにくい。こどもの頃は、故郷の田舎に大人になった自分の居場所があるとは、感覚的に、シンプルに信じられなかった。それがなぜなのかという疑問が本書で少しは解けたような気がした。
そんなこんなでなるほどとは思ったが、しかし本書に紹介される奇人は本当に奇人ばかりで、読んでて幾ばくか不愉快ではあった。話に聞いて興味深がる程度のおつきあいにとどめておきたいものだと思った。いくら田舎をもがき出ても、しょせん私は京都の人ほどには懐が深くなれないのだろう。こういう感覚的な許容範囲は死ぬまでそうそう変わらない。