救急車の事故をおもしろがる朝日新聞

まずは全文引用する。2007年12月24日朝日新聞13判△20面より。字の大きさもなるだけ再現してみる。ただし逮捕された運転手さんの個人名は伏せます。年齢も伏せた方が良いかなと思いますが、年配の方です。医師の名前はもともと書いてありません。

救急車なのにけが人作る
多重事故4人軽傷
 22日午後11時45分ごろ、南区九条油小路交差点で、京都第一赤十字病院(東山区)の救急車が乗用車と出会い頭に衝突、はずみで別の事故処理中だった警察車両や信号待ちしていた3台の車に相次いでぶつかり、計4人が軽傷を負った。南署は救急車を運転していた同病院の契約運転手・・・容疑者(・・)を自動車運転過失致傷容疑で現行犯逮捕した。
 同署の調べでは、救急車は男性医師(・・)が同乗し、長岡京市内の病院に向かう途中で、患者は乗っていなかった。・・容疑者は救急車の赤色灯をつけ、サイレンを鳴らしていたが、交差点の信号は赤で、安全確認を怠ったという。

他紙の淡々と事情を伝える記事のなかで、朝日新聞のこの見出しが際だっている。
下衆な見出しに、気の利いた記事を書いてやったという下卑た嗤いが透けて見える。
年末の番組再編期に午後7時半から9時までの特番で「仰天!世界の珍ニュース」とか銘打って流す類の扱い方である。
朝日新聞の記者にしてみれば、救急車などという人命を救うべき立場のものが他人にけがをさせるとは何事かという糾弾の意図を込めての記事というのが、表向きの意図なんだろうと思う。私も表向きには、そのご意見全くその通りと思います。他人様に怪我をさせるなんて言語道断でございます。ええ。私も、救急車で事故を起こしても仕方がないなんて一切申しませんよ。表向きには。
しかし、この書きように、珍ニュースで笑いをとろうという意図が見て取れて悔しい。彼らの認識では、第一日赤の面々は救急車を運転していて他人様に怪我をさせるなんて言語道断なんだから反論する権利も資格もありはしないというところなんだろう。何を書いて嗤ってやっても朝日新聞側にリスクはなしという判断なんだろう。ノーリスクで他人を叩いて嗤おうという卑怯な魂胆がたいへん醜い。この記者は中学高校時代には何人かいじめて自殺に追い込んだりしていないのかな。
マスコミの問題意識が、他人様に怪我をさせてけしからんという程度の認識で終わってるのも、何とも歯痒い。
いったい救急車に医師が同乗して患者を迎えに行くという状況がどういう状況であるか、朝日新聞のみなさまは(たぶん賢い人ばっかりなんだろうけど)、想像したことがおありなんだろうか。通常の患者転送なら送り元が仕立てた救急車で動くのだよ。医師同乗もないことのほうが多いのだよ。今回、患者を迎えに医師同乗で走ってたってことは、迎えの高次医療機関側が医師を派遣して、搬送前に必要な処置を済ませてから監視しつつ搬送するような状況なのだよ。
ゆっくり走っていられる状況ですか?
ゆっくり安全走行して間に合わなかったら、どういう記事をお書きになりますか?
「医療ミス!たらい回しも間に合わず!」「交差点での事故が怖かった?それでも医者か!」くらい、この記者さんなら書くかもしれんなと思う。怖い怖い。
緊急走行中なら赤信号でもモーターサイレンを鳴らして徐行しつつ進行する。余儀なくされない限り停止はしない。むろん確認はするものの、通常の走行に比べて安全と言うことはありえない。しかも、搬送元で患者さんを拝見して状況を落ち着かせてならまだしも、収容前である。一刻も早く搬送元に到着して診療に取りかかりたいのが、搬送側の心情である。朝日新聞にはそれがわからんのだろうか。
内情を明かせば京都第一赤十字病院は総合周産期母子医療センターなのだから、この救急車は新生児搬送にも使う救急車なのである。それが大破したのである。京都市内に新生児搬送を医師同乗で行っている救急車はこことうちとの2台しかないのに、その1台が、「乗用車と出会い頭に衝突・・・3台の車に相次いでぶつか」ったような事故にあってしまったわけである。どうするんだよと思う。年末年始が思いやられる。

アフィリエイトについて

見栄えのいいレイアウトは好きだし、書誌情報をいちいち手書きするのも面倒ですから、exciteのライフログ機能を使って、本の感想など書くことはあります。でもアフィリエイトには参加してません。読者諸賢がどこからお出でになり、あるいはどこへお出でになろうとも、それは読者諸賢の自由であって、私の関知するべきところではないと思っております。
それに、私は紹介する本を必ずしも誉めているとはかぎりませんので。
けなした本の上がりを頂くわけにはいきませんからね。
なお、これは決して、アフィリエイトプログラムに参加しておられる他のブログ主の方々を批判する意図で書いたものではありません。

インフルエンザワクチンは打たないで、なのだそうだ。

インフルエンザ・ワクチンは打たないで!
母里 啓子 / / 双葉社
ISBN : 4575299995
まだこの一派が生き延びていたのかと、まるで「バナナの皮で滑って転ぶ一発芸人」が正月のテレビで埋め草番組に出てきたような驚きをもって拝読した。いや、外来とかで親御さんにこの本について質問されたらどうしようと思って読んでみたんですがね。
確かに私も外来ではインフルエンザワクチンをそれほど熱心には推奨していない。ふだん慢性疾患やらリハビリやらで定期的に拝見している子には、定期受診のおりに接種したりはする。病院職員は全員接種するべきだと思う(むろん自分は毎年接種してますよ)。でも普段元気な子が臨時に受診したような一般外来では、とりたてて薦めることはしていない。打つなとまでは言わないが。だからインフルエンザに関しては、じつはあんまり見解の相違がなかったりするかもしれない。しかし返す刀でワクチン全般について腐してあり、とくに麻疹についていろいろ聞き捨てならないことを言ってるんで、本書について質問されたら、たぶん、そんな本は捨てろと言うと思う。
本書は伝統的な予防接種反対派の啓蒙書である。ワクチンの効果については理論的な穴が少しでもあれば全面的に効かないことにされ、副反応については逆に少しでも理屈の上で関連づけられそうならすべてワクチンの悪い点となる。ワクチンを普及させようとするのはそれで金儲けしようとたくらむ企業の連中か、危機管理の責任を逃れようとするお役人の連中かどっちかだということにされている。著者のような専門の「ウイルス学者」ではない、我々一般臨床に居る面々は、仕事に追われてそういうことも勉強していないから医者に聞いても仕方がない。云々。論立てが、飛来した宇宙人を米国政府が隠蔽していると主張する類の書物によく似ている。本書に関しては、いちど、と学会の山本弘先生にご検討を賜りたいと思う。
効果を信じるのにも副作用を否定するのにも、過ぎるほどに慎重であること。それは医薬品を評価するにあたって当然とするべき慎重な態度と言えるのかもしれない。しかしだ。昨今成人に麻疹が流行したのは麻疹のワクチンを打つようになったからだなどと茶化したあげく、

たしかに、はしかを防ぐには今やワクチンの追加接種が必要なのでしょう。残念ながら、ワクチンによってはしかを撲滅しようという世界の大きな流れの中では、もうしかたのないことのようです。けれど、たとえはしかにかかり、症状が重くなり肺炎になったとしても、今は抗生物質を始めとして、治療する手立ても整っているし、なにより、生活環境も栄養状態も、人々の体力も、昔とは比べ物になりません。この現代で、はしかがそれほど恐ろしい病気でしょうか。

などとうそぶかれると、医薬品を扱う態度以前にもうちょっと基本的な医療関係者の道徳ってものがあるだろうよと思う。たしかに二次感染の肺炎なら抗生物質も使えるかもしれんが、麻疹ウイルスそのものによる肺炎をどうやって抗生物質でなおすんだろう。治療する手立てったって、麻疹肺炎で人工呼吸管理なんていう患者の受け入れが可能な集中治療施設が日本に何床あると思って居るんだろう。いやいや麻疹はじゅうぶん恐ろしい病気ですよ。ウイルス学者の皆様にはどうか分らんけど、臨床の我々にとってはね。
まして、以下の下りに私は激怒したのだが。

欧米諸国では、国内ではすでにはしかはなくなり、国外から持ち込まれるはしかだけになっているといいます。日本ははしかを輸出しているとアメリカに非難されることがありますが、それほどワクチンを徹底しているアメリカで、はしかをちょっと持ち込まれただけで迷惑なほど流行してしまうというのも、変な話です。

この人には道徳とか人倫とかいう概念の一番基本的なところが決定的に欠けている。医学的知識や一般的な想像力はむろんのこと。日本から到着したての、英語もままならない日本人に「はしかだよ」とか言ってERにやってこられたら迷惑なのは当然じゃないかと思う。AIDSや悪性腫瘍の子だっているだろうし、そんな病気でなくても、母体由来の免疫が切れてからワクチンを接種するまでの空白期間にはどこの国の赤ちゃんだって罹患する危険はあるのだよ。それを「ちょっと持ち込まれただけで」ねえ。はあ。
本書の著者は知らないことなのかも知らないけれど(知ってて本書に記載してないんなら不誠実きわまりないことだし、そんな不道徳なことをする人が専門家を名乗るなんて厚かましいのも程があるってものだから、たぶん彼女は知らないんだろう)、麻疹は撲滅できるのである。麻疹ウイルスは亜型がない。ヒト以外の宿主がない。不顕性感染もない。云々。撲滅に必要な条件がそろっている。撲滅の過程で、野生に出回っている麻疹ウイルスが減り、接触の機会が少なくなると、1回のワクチンでは免疫記憶が限界以下に薄れる可能性も出るのは避けられない。2回接種が必要になる。だから昨今の成人麻疹の流行は、本邦における麻疹の撲滅がこれほど迅速に進むとは読めず2回接種の導入が遅れたための、いわば政策の不完全さの結果なのだと私は考えている。それを責めたてるつもりで言ってるわけじゃないが。
それに麻疹が撲滅できたら、著者がお嫌いなワクチンを打つ必要もなくなるのですよ。いまどき種痘を接種してる子どもがいますか?それは人類が天然痘と共存するようになったためですか?

反プロフェッショナリズム

決して止めてはならない基幹業務を運営する上では、そこに携わるスタッフに「プロフェッショナルさ」が必要条件となってはならない。ごく普通に淡々と業務をこなせばそれで業務が回るようなシステムが構築されていなければならない。
ゆるゆるに余裕をもたせたシステムでも、それでも実際に運営してみれば細々した破綻が次々に生じるもので、システムを動かし続けるためにはそれを絶えず復旧しつづける作業が必要である。まして、個々人が超人的な努力をすることを前提として構築されたシステムなど、生じうる破綻の規模も大きくなり、結果として業務に支障の出る確率が飛躍的に高くなる。そんなものシステムと呼ぶにも値しない。
自分の仕事に誇りをもつことはあっていい。中にはプロフェッショナルと呼ばれる超人も出現するだろう。それを否定することはない。しかしそれを必然と期待するのは馬鹿げている。現実のほころびやすさ、あるいは「日々平穏」を実現する困難さとでもいうものを舐めすぎている。自分で仕事をしたことがない人がはまりやすい陥穽である。
非現実的な英雄意識ではなく、せめて「隣人愛」程度の穏やかな倫理で、現場が運営できたらいいと思う。思いつつ、年末年始の当直編成に頭を痛めている。今年はインフルエンザの流行開始も早そうだし、救急外来が大混雑しそうな予想である。ウルトラマンに3分戦ってカラータイマーが切れて後もセブンの救援を得て10分ほど戦闘時間を延長してもらって、セブンもまた3分以降も戦闘を続けて新マンの到着を待ち、新マンもまたエネルギーを補給して戻ってきたウルトラマンが交代するまで10分戦って・・・の繰り返し。むろん3分過ぎたからスペシウム光線なんか撃てませんなんて言うようなウルトラマンは、法廷や報道ではプロ意識に欠けた一族の面汚しと呼ばれるのである。

プロフェッショナルというのは誉め言葉なのか?

文献まで含め、私の知る限り、自分の職業倫理を「プロフェッショナル」と最初に称したのはデューク・東郷氏である。一般的にはゴルゴ13という通称で知られている人物である。初出は1960年代の末頃か。
「ゴルゴ13」の、特に初期の作品でこの語がよく使われる。ゴルゴ13の作品世界においては、あくまでも、裏稼業の人間が自分たちの非合法な稼業をさして言う語である。たとえば、敵役と自己紹介しあっても握手をしなかったことを振り返って、「俺たちは初対面で互いにプロだと名乗りあったようなものだ、プロなら自分の利き手を相手に預けるようなマネは絶対にしない」とかなんとか、まだ若くて生意気そうな時期のデューク・東郷氏が述懐する場面がある。(正確な台詞は第1巻を参照してください)。
この用法での「プロフェッショナル」と言う語をあえて日本語に訳すなら「極道」という語がちょうどぴったりするのではないかと思う。元来、陽の当るところでは自称しにくい語である。世間様に逆らって自分の価値観を突き詰める代償として、世間様の表街道を歩くことを自粛するべき立場を呼称する語である。あまり、他者からそう呼ばれて無邪気によろこぶべき語ではないように思える。

頑張れ長崎新幹線

例年、来年度予算が云々言われ出すと、整備新幹線がどうこうの話が出てくる。
故郷には長崎新幹線というものの計画があるという。路線図を見るとあんまり速くは走れそうにない。鳥栖から武雄温泉と諫早長崎間は在来線を活用、しかもフリーゲージトレイン使いますって、それはすなわち狭軌の在来線をそのまんま使うってことですかい?今のL特急と比べてどれほど速くなるのやら。
今なら新幹線を博多で降りてL特急かもめに乗り換えて長崎へ行くというのが標準コースである。博多駅は機能的に出来ているからそれほど歩く必要もない。今のままで十分便利である。列車のスピードが多少速くなったって、今は駆け抜けているも同然の鳥栖駅付近で車輪幅の変更のためにしばらく足止めとなると、これは面倒くさい。鳥栖駅の駅弁屋は喜ぶかもしれんが。長崎がまた遠くなりそうだ。
しかし遠くなると言うのが狙いなのなら、地域経済の浮揚のためには妙案である。なんせ帰省のたびに街金とパチンコ屋ばかり増えているような気がして、なんだかなあと心配ではあるのだ。

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