カテゴリー: よのなか

  • 80年後の長崎原爆忌を前に

    明日は2025年8月9日。80年目の長崎原爆忌である。

    私が長崎の出身なものだから、病院のチャプレンが長崎原爆忌の前後にときどき病院朝礼のスピーチの機会を当ててくれる。今年もその機会を得たので、以下の話をした。以下引用である。

     おはようございます。

     今日は8月8日です。長崎に原子爆弾が投下されて80年となる日を明日に控え、この場をお借りして少しお話しさせていただきます。

     私は長崎市の北に隣接する農村で育ちました。毎年8月9日の原爆忌は、夏休み中の登校日で、被爆者のかたの話を聞きました。農村の小規模の小中学校であっても、わざわざ外部から招かなくとも、教職員の誰かに被爆体験を語ることのできる人が必ずありました。8月9日は、私にとって、故郷に深く刻まれた日であり、平和の尊さ、人の命の重さを強く思い起こす日でもあります。

     今年、私たちのNICUが、この9月末をもって閉鎖されることになりました。少子化の影響による入院数の減少や、医療をとりまく状況の変化によって、この場所の役目が終わろうとしています。このNICUは、京都の周産期死亡率が全国最悪であった時代に、行く当ての無かった新生児救急症例を引き受けるべく、京都府下初の認可NICUとして設立されました。いまや救いを待つ赤ちゃんがいなくなったということは、このNICUの歴史的役割が終了したとして、言祝ぐべきことなのであろうと思います。しかし医師としての時間の大半をこのNICUに費やしてきた私にとって、この出来事は喪失であり、祈りを必要とする試練でもあります。

     この決定に際して、私一人だけでなく、多くの職員たちにも大きな葛藤がありました。NICUでの日々に深く関わってきた職員の一人ひとりが、それぞれの立場で悩み、考え、受け止めようとしていることと思います。

     その葛藤の中で、私は、爆心地にあり、被爆によって崩れ落ちた浦上天主堂のことを思い出しています。浦上天主堂は幕末の1865年(奇しくも原爆忌からちょうど80年前なのですが)、信仰をおおやけにした浦上村のキリスト教徒の人々が、その後の明治政府による迫害も耐え抜き、1925年に完成した教会です。二つの塔をそなえた教会建築の美しさは東洋一と称されました。しかし1945年の8月9日、まるでこの教会を狙ったかのように原爆が投下されました。

     その時点でまだ完成後20年の浦上天主堂は、さぞや荘厳で美しい姿であったと思われますが、戦後十数年のあいだ、崩れた姿で残されていました。長崎の人々は、この崩れた天主堂をそのまま被爆遺構として残すべきか、それとも祈りの場として修復すべきか、深く悩み、話し合いました。米ソの核開発競争が激化し、ビキニ環礁の第五福竜丸事件など新たな被曝も生じていた時勢に、原爆の記憶を伝える被爆遺構として保存しようという声は長崎市議会などにも強くあったそうです。一方で長崎は中国大陸との貿易港という立場を失い、経済的には造船業に依存する状況となって、海外とくに米国からの発注や投資のことも考慮せざるを得ない状況にありました。浦上の信徒は教会の再建を強く望みました。浦上天主堂は、信徒たちが踏み絵を強いられていた庄屋屋敷跡に建てられましたので、他の場所ではなく是非にもこの同じ場所に再建したいという強い意思がありました。当時の長崎市長であった田川務氏が、天主堂遺構の撤去という方針を決断し、天主堂は再建されることとなりました。昨年、長崎の原爆忌の式典にはイスラエル大使が招待されなかったことで注目を集めましたが、この決断をした鈴木史朗長崎現市長はこの田川氏の孫にあたります。被爆の記憶を伝える天主堂遺構は保存されませんでしたが、平和に対する強い意思と祈りは続いているのだと思います。

     NICUを見送る葛藤の中、それでもその後に続けていく小児科医療のありかたを模索する中で、長崎の人々が直面した天主堂遺構をめぐる葛藤と、その後にも絶えることなく続いた平和への強い意思に、道を示される思いがします。

     戦争と平和、誕生と死。どちらも極限の状況でありながら、人の尊厳や命の尊さについて、両極端から照らし出しているように思います。NICUで出会った多くの赤ちゃんたちは、誰ひとりとして“当然に”生きられた命ではありませんでした。奇跡のように生まれ、周産期の状況を耐え抜いて、そして育っていく姿を、私たちは祈るような気持ちで見守ってきました。

     被爆地長崎で失われた命と、NICUで出会った命。そのどちらにも共通して私が覚えるのは、「どんな命にも等しい尊厳がある」という信仰にも似た思いです。ひとつひとつの命のために尽くすことはNICUを見送った後も変わらないと、あらためて思います。

     聖書にこのような一節があります。イエスが弟子たちに神殿の崩壊を予告した場面です。弟子たちは神殿の荘厳さに目を奪われていましたが、イエスは言われました。
    「あなたがたがこれらのものに見とれているのか。この石ひとつも崩されずに、他の石の上に残ることはないであろう」(ルカ21:6)
    どれほど象徴的なものであっても、永遠ではないということ。建物や制度、私たちの働きもまた、いつか終わりを迎えるかもしれません。ならば残るものは何か、何に目をむけるのかと、イエスに問われているように思います。

     私たちのNICUは神殿に例えるにはあまりにささやかなものでしたが、そこに込められた祈りと命へのまなざしは、決して失われることはないと、私は信じています。NICUは閉じられますが、命に向き合う歩みは続いていきます。この病院で、地域の子どもたちのそばで、これからも働いていきたいと思います。

     ご静聴ありがとうございました。

    本来、勤務先の朝礼スピーチなど内輪のものは外に持ち出すものではない。それは心得ているつもりだが、自分のNICUを失うというのは個人的にはかなり応える状況であるから、無作法は承知で吐きだしているところである。読者諸賢のご寛恕を賜りたい。

    ご寛恕と言えば文中に書いたごとく、長崎出身と言っても市内ではなくいわゆる郡部である。それも平成の大合併とやらで近隣の自治体に吸収されてしまう水準の。それは白状してご寛恕をここにも賜りたい。それが被爆者づらをするのかとのお叱りには、まあパウロもイエスの直接の知り合いじゃなかったですよねとか答えてみたりする。口答えはしつつも、原爆にかこつけて自分の事情の話をしているだけじゃないかというお叱りがあるなら、自分でもそう思っているから既に後ろめたい思いであるし、読者諸賢から頂くようならほんとうに返す言葉もないところである。

    亡くなった被爆者の方々のご冥福を心からお祈りいたします。またご存命の被爆者の方々も既にお年を召されていることと存じます。ご健康を心からお祈りいたします。

  • 産科病棟の面会制限について

    1.

    「地域周産期母子医療センター長」と称して、自施設の小児科と産科をあわせた周産期部門の長ということになっているので、産科病室の面会制限にも容喙する立場にある。だいたいは産科部長の決定を追認する方針でいるのだが。

    コロナ禍に厳しく制限した面会をどのていどまで緩めるか、思案している。現状は病室外、詰所の前にある「デイルーム」と称する応接セットを何組か置いた空間で、人数を限って面会していただいている。スペースに限りがあるので時間を限って予約制である。

    制限緩和はもうこの程度でよいのではないかと、自分としては思っている。これ以上の緩和となると、病室内まで面会者を入れるかどうかの問題になる。

    それは実質的には、マスク無しの面会を許容するかどうかという問題であると、私は認識している。面会者も病院入り口から廊下まではマスクをして下さるだろう。マスク無しで病院内を歩いている人を見かけることはない。しかし病室に入ったらどうだろうか。総室ならまだしも、個室である病室に入ったら、ああやれやれ到着したとばかりに、反射的にマスクを外してしまうのが人情ではないかと思う。

    むろん個室内での面会を許容したとしても、面会中もマスク着用をお願いするところではある。しかし人間というもの一般に、どれほど慣習の誘引力に打ち克ってマスクの着用を励行していただけるかというと、正直諦めている。根拠は小児科入院の患児とその付き添い者の行動である。回診に行ってマスクを着けておられる患児家族ともに少数派である。きちんとマスクを着けているのは付き添い無しで入院している中学生程度である。人間そんなものなのだろうなと思う。ルールが存在することと、そのルールが自分にも適用されるか否かということとは、多くの人間にとって別問題であるらしい。怠慢や非道徳の結果では無く、人間の自然な本性の結果として。

    面会をデイルームに限っているのは、ある程度の他人の目、とくに詰所からの視線を意識していただくことで、マスクの着用など感染予防策の励行をはかることを主目的としている。

    しかしいかほどマスク着用にこだわることの意義があるか。たとえば産後3日目からとか、褥婦さんの体調があるていど面会に耐えられるころあいから解禁すれば、たとえCOVID-19を持ち込まれ感染させられたにせよ、潜伏期が過ぎて感染力を持つころには退院なさっておられるのではないか、従って院内で水平感染を起こすリスクは上がらないのではないかという発想もある。

    老人の多い病棟なら、潜伏期のうちにさっさと帰してしまうという選択肢はおそらく取りようがない。面会者からの感染が院内で広がる可能性は大きい。しかし退院してしまわれるのなら、あるいはどうか。私見としてはこれは悪魔のささやきである。耳を貸すには躊躇する。実際問題、発症が退院後としても、退院の直後に褥婦が発熱しついで新生児も発熱すれば、どこで移されたかは一目瞭然であるし、それで病院を恨む恨まないとは別に、うちは大学病院でもなければ産科診療所でもないのだら、感染症は他所へ行けとは言えない。自院で診なければならないし、新生児発熱は原則入院という旧来の常識に従うなら再入院ともなるし、そのさいには陰圧個室を準備しなければならない。そこまでを一貫して考えた場合に、退院後発症ならべつに構わないという理屈は、母子にはもちろん自分たち自身に対してさえ無責任であるように思われる。

    2.

    分娩なさる女性にとってはどうなのかと思う。

    医師として、とくに男性医師として回診していると、小児科患者に親御さんの付き添いで入院している個室と、褥婦さんが新生児とともに入院している個室では、雰囲気が全く異なる。小児科患者の個室は子供部屋だが、褥婦さんの個室は成人女性の寝室である。それもベッドメイキングが整った、チェックイン直後のホテルの一室ではなく、寝乱れた寝具が生々しく残る、使用中の寝室である。

    基本的にそのような部屋では、自分が闖入者であることを強く意識されられる。小児科医であるからむろん新生児の要件で訪室しているのであるし、褥婦さんも礼儀正しく応対してくださるのであるが、しかしどうしようもなく取り払えない、基本的に自分はそこに居るべきではないという雰囲気がある。強力なプライバシーの感覚。そこに居て良い人物というのは、家庭でもこの婦人の寝室に入ってよい人物なのだろう。私見であるがせいぜい夫くらいではないか。実母や実姉実妹はわからんがそれまでの関係性にもよるだろう。兄弟や父など男性陣は血縁者であっても無理だろう。義母や義父はどうか。新生児の祖父母ではあり、表向きは笑顔で応対していたとしても、褥婦さんの心中はなかなか穏やかではないのではないか。

    デイルームなら基本寝室ではなく、おそらく居間でもなく客室なので、褥婦さんにとっても許容範囲は広がるだろうと思う。大きなお世話だろうか。自宅でも寝室には入れたくないが客間でなら応接できるという程度の心理的関係の人ならば、デイルーム面会はそれほどの負荷ではないだろうと思うがどうだろうか。

    そりゃあ褥婦さん自身に聞けば早いのだろうけれども、自宅の寝室あるいは産後の病室に入ってこようとする人ほど、入ってくれるなとは直接には言いにくいのではないかと懸念する。それを明言しても後の人間関係が悪化しないなら、そりゃあわが国の女性の幸福のためには幸いなことだけれども、現実問題として日本にフェミニズムや個人主義がそれほど浸透しているだろうか。あるていど病院が杓子定規な存在という汚名を着てでも、褥婦さんのプライバシーを守るほうがよいのではないか。それはインフォームド・コンセントが普及したことになっている現代日本において、パターナリスティックに過ぎる考え方であろうか。その程度にはまだわが国の社会全体がパターナリスティックだと思うのだが。

    3.

    プライバシーの保護に配慮する一方で、産後早期を孤独に過ごさせることが産後うつの増悪因子になるならそれも心配なことである。出産直後の時間を、たしかそういう存在をドーラと呼ぶはずだが、特別な存在であるところの女性(たぶん男性は無理)と共に、あえて病室で濃密に過ごすことで産後うつなど種々の問題の解決につながるのかどうか。面会を制限することでその有用な可能性を絶っているとしたら、まったくパターナリスティックな弊害であると認めざるを得ない。

    たとえば妊婦健診中にも、そのようにして共に過ごしたい特別な関係の人物はあるかと聞いておいて、共に過ごしていただくことが選択肢となるか。なるようならその配慮を個別に行うことに、センター長として反対する意図はない。

    しかしいっぽうで、妊婦さんの周囲の人物がそういう質問をしていると知った場合に、何故それを自分に頼まないのかと自薦してくる人物こそ、たいていプライバシーの観点からは真っ先に排除するべき人物であるようにも懸念される。そういう人物に対して妊婦さんは自分では断りにくかろうし、何なら何故そのようなお節介な質問をするのかと病院に恨みのひと言も言いたくなるだろう。

    これはそのドーラの有用性の定量的な考察となるだろうので、今後の検討課題ではある。研究はおそらくされているのだろうと思う。このドーラに関する項目は本稿の執筆時点で思いついたことなので私自身の勉強はこれからである。「お姑さんは止めておけ」とかいったTIPSが学問的に成立していればありがたいと思う。

  • 京都市内各区の出生数の減少を比較する

    産科の主張によれば、京都市内での分娩数は京都市南部の各区で増えており、当地など北部は減少しているとのこと。京都市北部は土地代ほか高騰し、もはや若い夫婦が居を構えて赤ちゃんを産むことのできる土地ではないという。そのとおりなのかどうか、京都市の統計サイトから住民基本台帳ベースのデータをひろってみた。

    各区の比較のために2015年の出生数を1として、その後の推移をプロットした。2015年から2022年までの7年間で、京都市全体での出生数は75%ほどまで低下している。当地である左京区は70%までと、たしかに京都市全域を上回る減少率である。しかし南部である伏見区や南区とて決して増えている訳ではなく、80%まで減少している。当地と較べればまだましなのかもしれないが、それにしても7年間で80%まで減るのは絶対値としてはたいがいな減少ぶりではないか。

    東山区がどうしてこれほど独走状態で減少しているのかはわからないが、その他の区はそれほどの差だろうか。2割減るか3割減るかは大きな差だと考えるべきか。悪い状態において五十歩百歩というべきか。まあ南部とて、産科の言うほど「増えて」はいないのは確かである。

  • PCR抑制論のこと

    COVID-19が始まったころには、SNSではPCR抑制論が猖獗を極めた。PCRを行っても偽陽性で真の診断には結びつかない、希望者が押し寄せて医療崩壊する、云々。

    私はその論調に乗らなかったが、べつに手柄だというわけではなく、単に幸運だっただけだ。患者数が極めて少ないときの検査は陽性的中率が低い云々の、ベイズ推定の知識を披露して喝采をあびたいという誘惑を、当時感じた記憶はある。それをやらなかったのは、白状してしまえば、単に大勢に先を越されておっくうになったからだけであった。

    ベイズ推定について熟知していたわけではない。ベイズ推定については医学部の講義は1コマ、卒後には基礎的な総説でときどき復習した程度の、臨床医の知識としてはありきたりな程度だ。それらの知識においては、検討する臨床検査の内容はブラックボックスだった。感度と特異度は全ての臨床検査においてトレードオフの関係にあり、感度と特異度がトレードオフならベイズの適応のうちだと認識していた。PCRも、その感度と特異度を語り得る以上はベイズの俎上にあるものと考えていた。そのばけもののような特異度のゆえに例外的なものとして扱うという認識は、発想の内にはなかった。

    私の専門範囲は新生児医療なのだが、仕事の中でベイズ推定と縁の深いのは先天性代謝異常等検査である。実際の罹患率が高くても数千分の1,低ければ数十万分の1などという、医者人生の数十年に新患1人遭遇すれば多い方みたいな疾患を、古典的なガスリー法であれ最新のタンデムマス法であれ、検査一発で確定診断するのは不可能だ。その感覚を敷衍すれば、PCR一発で診断確定というのはほとんど不可能なことのような印象があった。

    PCRについては、正直まったく知らなかった。qPCRという基本的概念さえ知らず、いまだにゲル電気泳動で判定していると思っていたほどだ。蛍光の度合いを肉眼で判定しているのだろうから偽陽性・偽陰性も一定程度はあるだろうなという、根拠を欠いた思い込みをしていた。NICUから発注するPCRといえば髄液の単純ヘルペスウイルスDNA検出程度だったが、新生児ヘルペスという疾患がどれだけ稀なものかは知っているので、念のためと出した検査が全て陰性で返ってきても怪しみはせず、検査の内容を具体的に調べることはなかった。このへんはお恥ずかしい限りだが、忘却して都合のいい記憶を捏造し始めないように、自戒として書き残しておく。

    ただ、週1回だけ当院NICUにアルバイトにきていた大学院生に、PCRというのは喧伝されているほど難しい技術なのかと、流行初期に聞いてみたことはあった。全然簡単なものですよというのが回答だった。プライマーの配列さえわかれば、プライマー作るのに24時間、あとはどしどし検査できますと。京大医学部の大学院で簡単だというものが世間一般でも簡単なものなのかという推定の限界はあれ、世に言われるほど熟練を要する困難な技術というわけではないのだろうとは思っていた。

    臨床医として行うべきと思った検査を外部から制約されるのは癪に障るという、狭量な人格に由来する心情もあった。そうは言っても地方の公衆衛生担当者がてんてこ舞いしているとも報じられており、何らかPCRの施行数を増やせない資源上の理由があるのだろうとは思っていた。いっぽうで、まったく前例のない状況において、まずデータを集めないでどうするのかという疑問もまたあった。そこに費やす資源がないのなら拡充すればよかろう、人手にしても機材にしても金銭を出してかき集めることはできようとも考えていた。

    私が部長をつとめるNICUは京都府初の認可NICUである。京都府の周産期死亡率が全国でも最下位を争っていた時代に、総病床数167床の小規模私立病院が、大学病院や赤十字病院にさきがけて認可NICUを設立し、自院救急車による新生児搬送を開始して現在に至る。むろん京都府からも相当の補助を頂いている。国からだって、特異的に当院へというわけではないにせよ、全国の周産期医療拡充の過程で相当の予算が投じられ資源が拡充されてきたのを、同時代で見てきた。駆け出し時代からそのような職場そのような業界に勤めていると、資源がないからと問題への対処を最初から諦めること、少なくともそれを当然として恥じないような論調は、不甲斐なさを通り越して、奇異なものにも感じられた。

    こうして書き留めたのは、あくまでも現時点においての記録の意図である。第5波が奇跡的に落ち着き、病棟も落ち着いて受け持ち患者もなく休日出勤も必要のない、終日自宅で過ごせる日となった。こういうことは時間が経てばたつほどに自分を正当化する方向へ記憶が傾くものである。書き残しておくに如くは無し。

  • 衰退するNICUで

    NICUの入院患者が2人にまで減った。二人しかいないと静かなものだ。人工呼吸器の作動音も絶えて久しい。覆いを掛けた保育器や人工呼吸器が立ち並ぶ、倉庫のような暗がりの片隅で、赤ちゃんと看護師がひっそり過ごしている。この子らももうすぐ帰る。私は事務仕事も面白くなくてVolpeの新版を読み続けている。

    例年は冬になると極低出生体重児の入院が続くものだが、この冬はその増加がまったくなかった。悪い比喩だが、昭和29年、北海道の海にニシンがぱたっと来なくなったときはこういう感じだったんだろうかとすら思う。この数年、減った減ったと書きながら細々続けてきたが、今度こそ本物という感触がある。

    鰊も獲られたくないだろうし赤ちゃんだって入院したくはないだろう。ニシンは獲りすぎで資源が絶えたんだろうが、そりゃあ赤ちゃんは生まれるのを片端攫えてくる訳もなし、NICUの入院数が減ったのは産科医療の進歩が効いている。ひと頃は維持不可能だった妊娠が維持できるようになり、今日明日にも早産で分娩だと腹をくくって待機した胎児も、けっきょく危機を乗りきって正期産で元気に産まれ退院していく。赤ちゃんの元気は何より言祝がれることであるし、漁師さんたちを見習って俺たちも他の仕事を探すところなのだろう。そうして時代は過ぎる。当事者には色々の感傷はあれ、時代が過ぎるってのはそういうものなのだろう。

    NICUががらがらなのは当院ばかりではなさそうで、京都府の周産期情報ネットワーク情報を参照すると、大半の施設が受け入れ可能の意思を示している。それも複数の空床を提示している。時代は変わるものだ。今夜もし入院紹介があれば府外搬送だと重い気持ちで過ごす当直はもう過去のものになった。生まれる赤ちゃんの1人1人にとっては、これは良いことだ。憂う必要はなにもない。

    この状況を懸念するとすれば少子化の面からだろう。少子化が進行し、子供を産む年齢層の女性の数すら減り始めて久しい。世の中の人には、まだそれほど子供が減った印象は持たれていないかもしれないが、この入院数の減少には少子化もむろん影響している。NICUに入院する子供の総数が減ると、少ない入院は総合周産期母子医療センター他の大施設に集約されていく。我々のような末端の施設はまっさきに変化の波をかぶることになる。少子化をもっとも鋭敏に観測できる場所である。

    小松左京の短編に、サラリーマンの主人公が営業でたまたま訪れた産科医院で、ふと気がついてみれば赤ちゃんが1人もおらず新生児室が静まりかえっているというものがあったと記憶する。赤ちゃんが生まれなくなったのですと助産師が言う。その帰路、うららかな春の日にも、子供の声が街からほとんど聞こえない。御大の作品としては淡々とした、これといって起伏のない小品であったが、いまの様子は御大の想像どおりだ。

  • 羽幌炭鉱のきれいな引き際について

    NICUの入院数が減って、もう仕舞い時かなと思ったら、思い出したように超体出生体重児の入院があったりして、まだ最終でもないのかなと思うなど。

    BS朝日の旅番組で、羽幌炭鉱の廃墟探訪をやっていた。鉄道廃線跡の愛好家には有名なホッパーの遺構とか、小学校の円形体育館とか、まだ新しそうに見える集合住宅の遺構とか、興味深く拝見した。

    基本的に旅番組なのだが、炭鉱の歴史も簡単に紹介された。いわく昭和15年開業の比較的新しい炭鉱で、設備が良いので効率も良く、鉱員1人当たりの出炭量は全国でもトップクラスだったとのこと。煙の少ない良質の石炭で人気も高く、昭和36年には年間100万トンの出炭量に達したが、石油に押されて昭和45年には閉山にいたったのだそうだ。それでも閉山の決断が早かったので従業員にそれなりの手当を渡すことができたのだと紹介していた。旅番組にしては上手に要約された紹介だった。手練れが作った番組だったのだろう。

    この羽幌炭鉱閉山の顛末には、きれいな引き際だと感心した。最盛期を迎えてから10年も経たないうちに閉山とは、つるべ落としの感もある仕舞いかただが、後のエネルギー産業の歴史を考えれば操業を続けていてもいずれジリ貧に終わったに違いないと思った。鉱員の皆さんにはそれなりの手当もできたんだから上々だろう。俺も仕舞いはこうあるべきかとも思った。森のなかの遺構がなにか神々しく見えた。

    しかしこれは歴史を批判する番組じゃ無くってきほん旅番組なんだから、より美しく言葉を選んでつくられた物語なのかもしれない。さきほど、たとえば「大きな街があった羽幌炭砿(羽幌炭鉱)」を拝見したのだが、閉山に至った大きな要因は閉山するという流言飛語だったという。人口の推移も詳細に紹介してあったが、昭和45年の最後の年になって5ヶ月のうちに1万人もが去っている。この炭鉱の年間出炭量の最高を記録した年からたった2年でのことだという。それなりの手当をしたというより、会社としては制度を見なおす暇もなくあれよあれよという間に人が居なくなって立ち往生してしまったというのが真相かも知れない。

    それでも無理をして引き留めているうちに資金繰りがまずくなって給与も退職金も払えなくなってしまうよりは、去った人たちにとっては良かったのだろう。会社にとって従業員をだいじにするというのは最大の美名だと、昨今の時勢を鑑みて思うところではあり、炭鉱としても晩節を汚さずに済んだと言えるのではないかと思う。他人ごとのように勝手を申し上げて恐縮ではあるが。

    私にとって他人ごとでないのはむろんうちのNICUのことで、もうだめだ廃業だとトップの私自身がこうやってブログでこぼしていては流言飛語対策もなにもあったものじゃない。よくみんな一斉に逃げ出さないものだと変な感心をする。いや超低出生体重児が減った減ったとカンファレンスで言い過ぎた挙げ句に医者の数が減って困ってるんじゃないのと言われたら確かにその通りではある。とはいえ石炭が売れないとなれば他に道はない炭鉱とは違って、この土地に子供たちがいるかぎり、私らには何らかの形で小児科医療のやるべき仕事が残る。新生児医療には小児科で大事なすべてのことが詰まっているんだから(多くの人はそれに気づかないだけで)、NICUに通れない道はなく、どんな方面にだって展開してゆける。まだ晩節を考えるには早い。あれこれの愚痴は、いままで超体出生体重児にかまけて怠ってきた仕事があるのではないかと足もとを見なおしているところなのだと、関係諸氏にはご理解を賜りたい。

    私たちが何をしたいかじゃない、赤ちゃんが何をして欲しがってるかを考えるんだ、というのがDevelopmental careの真髄でもある。よりにもよってこの方面でちょっと顔を売った過去のある私が、その真髄を忘れるわけにも行かない。

     

     

  • 君にそんなことは言われたくない。

    大人への道 (内田樹の研究室)
    おっしゃることはいちいちごもっともであるが、ごもっともな内容でも語る人の属性によってはごもっともと首肯できないこともある。狭量だとか属人思考だとかとのお叱りはあるだろうが。

    「他者と共生する能力の低い人間」は「必要なものを自分の金で買う以外に調達しようのない人間」だからである。

    こういうことを、必要なものを若い世代からただで搾取することで調達してきた世代の人に言われると非常に腹が立つんだが、それは私が狭量だからだろうか。

  • 上品さという美徳

    「上品さ」を私は美徳のなかでもかなり上位にランク付けしている。
    上品な人は、自分が受けている待遇はつねに標準以上のものだという前提で動く。だからことさらに要求する必要を感じておられない。自分の必要とすることをさらっと伝えてこられる。そして必要が満たされたら、標準以上の待遇がされたさいになされるような、丁寧な御礼を常にくださる。
    そういう人に対しては、こちらも奮起せざるを得ない。というか、どんなに疲れていても、そういう人に相対してその疲れが増幅されることはないように思う。心理的にも体力的にもなんらの負担の上乗せなく、気がついてみると自分でも驚くほどの機嫌の良さ気前の良さで、めいっぱいなサービスをしている。
    上品な人の態度をみていると、この人らは、我々が提供したサービスがどのようなものであろうと、自分に提供されたのならそれは標準以上のサービスなのだとお考えのようにさえ見受けられる。そのようにお考えであればこそ、彼らが受けるサービスがそのお考えの結果として標準以上になるという機転があるように思える。
    読者諸賢には当然にご賢察賜れることと思うのだが、ここでいう丁寧な御礼とは金銭など物質的なものを伴うという意味ではなく、あくまで物腰や言葉使いに現れる態度としての御礼である。丁寧なお言葉をいただくほうが、床に投げられた小銭を拾わされるよりも遙かに嬉しいものではなかろうか。
    上品でない人、当院ではめったにお目にかからないのであるが、土地によってはそういう人が主流を占めている場所もあるらしい。そういう人は、常に自分が標準以下の待遇しかなされないという前提で行動しているように見受けられる。だから何を提供されても、とりあえずそれ以上を要求してみる。「だめもと」と彼らは考えているようだ。そしてその「だめもと」が通らなかったときにはむろんのこと、通ったとしてさえも、自分がうけた待遇はそれでもあくまで標準以下のものであって、多少の改善は自助努力の結果だと思っておられるようで、標準以下の待遇を受けた人がその待遇に対してなさる程度の返礼をなさる。それ以上の礼は損だと思っておられるかのように。頭を下げるときに僧帽筋が使うグリコーゲンの分子がもったいないとでも言うかのように。
    そういう人に接すると、どわーっと疲れる。最初の一言から自動的に防衛に入ってしまう。機嫌良さとか気前よさとかがまるで発動しない。とにかく瑕疵が無いように話をまとめてさっさと切り抜けようというマインドセットに入ってしまう。そうなってしまう自分側の心理の是非は是非でまた問題だが。
    多分に上品でない人は、自覚的には、自分は目端が利くから人生の各場面でいろいろ得をしてるとお思いなのだろうと拝察する。しかし彼らは、上品な人が上品な故に受けている余録とはまったく縁がない。縁がないので気づきもしないから、知らぬが仏っつうことでいいのかもしれないが。逆に上品な人は、上品でない人が意識し努力して得ている以上の余録を、意図せず労せずにその上品さへの対価として受けている。上品な人が周囲に振りまく上品な幸福感の故に、それはまったく正当な対価だと私は思う。
    そういう上品さは先天的なものなのか、後天的に身につけるものなのか、私にはわからない。でも診療していて、親御さんが常にそういう態度で人に接するところを見て育った子どもは幸福な一生を送るんだろうなと思わされるような、上品な親御さんが確かにある。そういう親御さんの子は幸福側に有意に偏った人生を送ることになるんだと思う。世の中って善意にあふれているよねとか思いながら、感謝する機会が多く、なおかつ機会ごとに感謝を忘れないような幸福な人生を送るんだろうなと思う。
    逆な親御さんの子は、残念だが、残念な人生を送ることになるんじゃないかと思う。幸いなことに当地では滅多にお目にかからないけれども。かつて駆け出しの頃に救急外来にいて拝見した子の親御さんで、開口一番、おまえらじゃ頼りにならんから上級医を呼べと要求した父親があった。まず我々が診ることが決まりになっていますと答えたら、舌打ちして「ほな診いや」と顎をしゃくった。後にも先にも、文字通りに他人に顎で使われたのはそれきり経験がない。いまごろあの子も成人している頃合いだが、父親を見習って生きていたら、たぶんに今の世の中における「勝ち組」に入っているだろう。得る機会のある利得はすべて得るよう努力し、その大半を実現するような生き方をしているだろう。それで幸せならそれはそれでよかろう。しかし、ひょっとしてあの子が、どうして俺はこんなに順風満帆のはずなのに満たされないんだろうとか思っているとしたら、これは社会的格差のありかたの一つかもしれんと思う。昔の人は親の因果と言ったかもしれん。格差嫌いの内田樹先生なら、それを親による呪いと言うんだろうと思う。

  • 世界の終わりに

    「たとえ明日世界が終わるとしても今日りんごの木を植える」という言葉について。
    明日世界が終わる場合に、今日なにをするべきか。むろん、よほど胆力の優れないかぎり、たいていは右往左往して時間を無駄にするうちに終末が来るんだろう。あるいは過去そのような予言が当った例しはないと否定して今日をいつも通りにすごすというやり方もあるんだろう。ときとしてそれは右往左往の一形態であることもあろうが。
    この予言が確実に当るものとして、たとえば迫り来るメテオが肉眼で見えているのにホーリーを発動できる人がいそうにないとかして、それでもりんごの木を植えることが、称揚される態度なのだろうかと、ちょっと考えてみたりした。いや、一般的に言えばそういう派手な予言ってのはたいてい出所がいかがわしくて、実現する確率は極めて低いものだから、耳を貸さずにふだんの生活をするというのが最も賢い対策なのだと思うが、今回は予言の蓋然性は問わないこととして。
    何故にリンゴの造園が称揚されるのか。たしかに、それは称揚されるべき態度だと、一見して思うのだが、根拠もと求められるとよく分からなくなる。絶体絶命の状況下にも平常心を失わない胆力の故にか。あるいは終末の絶対的予言をそれでも否定しきる意思力の故にか。しかしたとえば「たとえ明日世界が終わるとしても今日のぶんの筋トレをする」と言われると、なんか違うだろうそれ、と思ったりする。いやそういうことをしてる場合じゃないだろ、とか思う。会いたい人とかいないのかよ、とか。リンゴの木を植えるのはリンゴを収穫したり食べたりする人らのためになるが、筋トレはけっきょく自分のためにすることだからね。明日で終わる世界にそれでいいのか?
    でも世界の終わる前日にも淡々と筋トレをするような人生ってのも、あながち否定されるべきものでもないかもしれない。明日世界が終わるからってとりたてて誰に会うとかなにをするとかいった懸案事項を抱えているわけでもなく、日々の鍛錬を続けていくのが最善であるという人生。それはそれで、シンプルで幸せなのかも。
    でもまあ大抵の人生では、明日が世界の終わりとなれば、明日に世界が終わるからこそ敢えてやっておくべきことというのが段々に蓄積されているものじゃないかと思う。会っておきたい人があるだろうし、明日が終わりだからこそ話しておかなければならない事項もあるだろう。逆に言えば世界の終わりにでもないと会えないし話せないということだが、だれしもそういうことの一つ二つは心の底に抱えているものじゃないかと思う。
    明日が世界の終わりであればこそ、そういう人に会い、そういう話をするという選択肢もあるだろう。そのために時間を使うなら、リンゴの木を植えたり筋トレをしたりするような回収できない投資に時間をつかう余地はないかもしれない。あるいは、あえてそう言うことは最後まで伏せておいて、淡々とリンゴの木を植えて終わるというのも選択肢かもしれない。それはそれで潔いと思う。どっちもありだよなと思う。
    自分ならどうするかと言えば、因果な商売をしている立場としては、病状が難しくて在宅医療も困難で長期入院となっていた子らのうち、明日までなら何とかなりそうな子なら家に帰すべきなんじゃないかと思う。その準備で今日は暮れるかも知れない。うっかり退院させたら明日どころか今日さっそく危なくなりそうな子たちには退院は無理としても、両親に限っていた面会を兄弟その他にも許可して家族で過ごせるようにしなければなるまい。感染の持ち込みなど知ったことかと。
    いや、たしかに医者ならそうしなければならないんだろうけど、明日で終わるのに今さら医者仕事に明け暮れるってのもどうかと思ったりする。今までなんだかんだとないがしろにしてきた家族と過ごすために、医者仕事など今日でおしまいにしても良いんじゃないかと思う。とは言っても今までないがしろにしてきたあいだに、たとえば娘など父と過ごすよりも優先したい友達とかできてないんだろうか。私ばかりその気になっても相手の都合というものもあろうし、その都合もこれまでの来し方で決まるのであって、自分の魂胆一つで自在にできるというものでもあるまい。けっきょくは自分の自由意思で決められる範囲は、たとえ世界の終わりの直前であっても従来どおりに狭いままで、意のままにならんなと医者仕事を淡々と続けることになるのだろう。傍から見たらそれはリンゴの木を植えているようにも見えるかも知れない。
    とかなんとかだらだら書き付けた文章をハードディスクの中から発見したので公開。もう投稿してたかも。でもエキサイトの自ブログ内検索では見当たらなかった。

  • 背広のシングル二つボタンは上だけかけるものです

    背広 – Wikipedia
    シングル二つボタンの上着なら、下のボタンは飾りですから、かけてはいけません。服全体がそのようにデザインされているので、下ボタンをかけると全体のバランスが崩れます。