カテゴリー: 医療関係あれこれ

  • 「医者のホンネ」は医療系ブログの内容として許されるか

    ここで考えているのは、種々の文章の中でも「ホンネ」と分類される一群である。世間の良識に逆らう内容を綿密な論証抜きに語り、読者に論の正邪の判断を保留させたまま、筆者はそう考えているとの理解と許容を得ようとする文章。まじめな反論があったとしてもそんなもの野暮で詰まらない「正論」扱いにしますよという魂胆の透ける文章。あわよくば無条件支持をと期待するかのようなニュアンスをさえ感じることもある。そういうもの。
    そういうものがブログのコンテンツとして、特に医師の書くブログのコンテンツとして成り立ち得るのか。成り立ち得るも何も医師がそういうものを書いているサイトは既に存在してきたのだから、可能か不可能かと問われれば可能なんだろう。とすれば、ここで問うべき問いとは、「『医者のホンネ』ブログを許容できるか」ということになろう。
    私は、現在の「ブログ」という形態の発表形式では、『医者のホンネ』は倫理的に許容できないんじゃないかと考えるようになった。顛末は読者諸賢には周知の如くだが。
    本来、「ホンネ」はその性質上、密やかに語られるものである。信じるままを大っぴらに語って何ら後ろ暗くない内容を述べる論なら、別に「ホンネ」と銘打つことはない。ごく一般的に、主張とか、本懐とか、色々と正々堂々とした呼び方があろう。「ホンネ」というのはその本質上、あくまでも「此処だけの話」であり「君にだから話せる話」なのである。
    そういうもの・・・ですよね。そういうものだと思ってたんですけど。違います?
    それを不特定多数を相手に語るというのは、もう考えるだにナイーブな行為である。世間知を備えた医師が、そういう『医者のホンネ』を語るサイトの筆者に対して「そういうことは話を聞いてくれる先輩にこそっと語れ」と忠告するのは、「ホンネ」というものが本来はそういう語られ方をするものだからだと思う。
    医師が『医者のホンネ』をブログで語ろうとする場合、いったい何を根拠に、不特定多数の読者に対して、内容の正邪に関する判断を控える寛容さを期待するのだろう。「医者も人の子だし」という類の、医師も等身大の生身の人間であるということを根拠にか。「お医者様の言うことだから」という、医療という尊い仕事に携わる自分達を世間は好意的に見てくれて当然という思い込みを根拠にか。
    残念ながら、医者はそれほど好かれるカテゴリーじゃない。構造的に、医者は世間に嫌われることになっている。
    世間で医者に好意を持って下さっている方々は、決して「医者全般」に好意をお持ちなわけではない。得てしてその好意は「普段お世話になっている主治医の○○先生」や「身内が入院したときに身を粉にして働くのを間近に拝見した○○病院の研修医たち」に向いているのであって、決して「医者全般」が均並みに好きになっておられる訳じゃない。
    逆に世間で医者に悪意をお持ちの方々はだいたい医者全般に悪意をお持ちである。むろん直接にご迷惑をお掛けした医者に悪意のピークがあるのだろうが、しかし、悪意は好意よりも容易に医師全般に拡大して行くものである。
    しかも拡大したからって一人あたまの悪意の量が減るわけじゃない。分けるごとに総量は増える。それはあたかもイエスがパンくずと魚を分配して5000人を満腹させたかの如く・・・ああそうか・・あの逸話はそういう意味か。いま分かりましたよ。彼が配ったのは悪意ではないですけどね。
    それは人情として当然のことではある。良い医者であれ悪い医者であれ、最初にその医者を選んだのは患者さん自身だからである。かかった医者が良い医者だとのご評価は、その医者を選んだ自分の選択眼が確かだったという事をも含意して、その医者が他の医者に比較してもなお一層良い医者だという評価につながりやすい。逆に、かかってみた医者がスカだったとしよう。医者全般は良い仕事をしているのに自分のかかった医者だけがスカだったとすると、そんな医者をわざわざ選んでしまった自分の選択眼もまたスカだったと言うことになる。そんな推定を積極的に認める人はあるまい。医者なんてみんなスカだよと思って溜飲を下げようとするのが人情であろう。
    私はここで悪医に迷惑を被るのはそんな医者にかかった人が悪いと主張している訳ではない。こういう風に考えてしまうのが人情だろうという、価値判断を入れないシンプルな事実を述べているつもりである。
    構造的に、医者に対する好意は局在化するが悪意は全般化するものなのだ。私らは世間に対しては好意よりも多くの悪意を予想して然るべきなのである。この点には不平不満を言っても仕方がない。そういうものなのだから。
    であれば、『医者のホンネ』が好意的に迎えられる状況は予想しがたい。予想されるのはむしろ、不適切な相手にナイーブに漏らされた『ホンネ』の一般的な末路である。論の正邪を越えた受容が得られることはない。正当に論の正邪を問われ、論証の不備を攻撃されて、論に対する責任を問われることになる。
    もしもそうはならず『医者のホンネ』が奇跡的に受容される場合も、その受容を支えるだけの好意がどこから来るかには敏感でなければならないと思う。過去に書いた自分のブログ記事の恩恵であるとは限らない。何となれば、読者諸賢の価値判断を留保させて然るべきなほど尊い記事を自分が書いてきたと考えるような、そういう偉ぶった態度に出る論者に、読者が好意を持つわけがない。少なくともそういう偉そうな人の『ホンネ』を許容するほど巨大な好意は得ようがない。『医者のホンネ』を許容して下さる読者は、たいていの場合は、筆者の人徳ではなく、読者ご自身の周囲におられる特定の医者に免じて、許容して下さっているはずなのだ。恐らくはブログ等という余録に手を出さず、黙々と日々の診療に従事しておられる医師に免じて。
    要は、ブログで君のホンネを聞いて貰えたからって君自身が好かれているわけではないのだよってことだ。
    しかしおおかたの場合、そういう、特定の医師には好意を持って下さっている読者諸賢も、『医者のホンネ』などお読みになったら、「私の尊敬する○○先生もこんな事を考えておられるのだろうか。幻滅してしまった。」とお考えになるのではないかと思う。『医者のホンネ』ブログなど書いている医者は、そのお楽しみにあたって同業者の信用を食いつぶしているのだということに、自覚を持つべきだと思う。黙々と働く同業者にも「ホンネ」はあろうに、じっと胸に納めて働いているのだ。その大多数の沈黙が積み上げた徳を、限られたブログ書き医師が掠め取って独占消費することが許されるだろうか。私の理解では、医師の同業者仲間の倫理観では許されないことになっているはずだ。
    それはあたかも高山植物を乱獲する登山者にもにた悪徳だ。大勢の人がそっと見守り育ててきた、元来育ちにくく希少な花々を、突然やってきて無遠慮に踏み荒らして根こそぎ摘んでいくような行為。今どき「ホンネが書けなきゃブログの楽しみがない」と言う医者がもしもあるとしたら、彼(彼女)は「高山植物を採れないと登山の楽しみがない」と言う登山者と同様の恥知らずな事を言ってるんだと自覚するべきではないかと思う。じゃあ止めろよってことで。山に登るのにしても、ブログを書くのにしても、別に義務じゃなし。
    『医者のホンネ』はブログの内容としては許されない。今回の結論。

  • 偉い偉い研修医大先生へ苦言

    陽だまり日記
    こういう小言めいたトラックバック記事は、書いてて、幼稚園の砂場で玩具を取られて涙ぐんでいる子どもを慰めているような気分になるが、こういう幼い詠嘆は早めに卒業しておかれる方がなにかと為になる。ちと酷だがあれこれ申し上げることにする。
    まず私はこの記事が非常に不愉快である。それは申し上げておく。私が筆致を抑えているように思われたら、それは彼女への気遣いではなく自分の品位への気遣いだと思われたい。
    Mari先生の時とはずいぶんと態度がちがうじゃねえかというご指摘はたぶんあるでしょうがこの人とMari先生との差はけっこう大きいと思うので。同じ診療科の身びいきかもしれませんが。でも、うまく言語化できないけれど、なにか違います。やっぱり。

    (さらに…)

  • アメリカの個人破産の半数は高額な医療費が原因なのだそうだ

    暗いニュースリンク: アメリカ:個人破産の半数は高額な医療費が原因

    米国内で破産した人のおよそ半数が、医療費の高騰が原因で破産しており、病気のために自己破産に陥った人々の大半は中産階級で医療保険加入者であることが調査で判明した。

    とてもよくまとまった記事で読みふけってしまって、ついでにアマゾンで推薦図書まで買い込んでしまった。
    日本の医者はダメだねえと米国の医療が引き合いに出されるたびに、仰るような医療にかかる高額な費用はどうやって捻出されるんだろうと不思議に思っていた。李啓充先生の「アメリカ医療の光と影」はむろん既読で、向こうには向こうの色々な事情があるのだろうと思っていたが、こういう悲惨な実情があるとまでは思ってなかった。
    これじゃあ医療が本当に人を幸せにしてるのだかどうだか分かったものじゃあない。病気は治って無一文、か。治らなくて無一文っていう可能性もありか。それじゃあ医者を訴えたくもなるよな。

  • 徒弟奉公に憧れるんじゃねえよ

    読売新聞の8月5日の「編集手帳」より引用。

    料理人の修業は鍋洗いから始まり、厨房(ちゅうぼう)では「鍋屋」と呼ばれた。底にソースが残っている。味見できれば先輩の技を盗める。盗ませてなるかと、渡される鍋には石鹸(せっけん)水が混ぜてあった。18歳の鍋屋は肩を落とした◆オムレツを焼いた。火の通り具合がむずかしい。「こんなものをお客様に出せるか、責任を取れ」。お前が食べろ、という。焼いても、焼いても失敗した。先輩の前で20個のオムレツを食べたことがある◆帝国ホテルの総料理長を務めた村上信夫さんは本紙に連載された聞き書き集「時代の証言者」(読売ぶっくれっと)の中で、せつなくも懐かしい修業の昔を回想している

    けっ。
    という一言で終わっては記事にならないから注釈的に書き足すことにする。読売新聞の編集手帳君には些か八つ当たり気味で酷かもしれないがご容赦賜りたい。
    無批判にこういう記事が世に問われるたびに、「徒弟奉公ってワイルドで格好いいじゃないか」と勘違いするバカな年寄りがいて、「医者の修行も徒弟奉公だから」云々と言い出す。講義で、医局で、ブログで。
    おそらく彼らは理不尽さを容認する自分が世間に通じていると思っている。世間知らずの尼ちゃん揃いの医者の世界にあって自分は世間を知ったタフな例外だと言いたいらしい。徒弟や丁稚奉公の8年なりというのは小学校を卒業してから徴兵までの年月なのだということすらご存じ無いくせに。単にその年代の若年労働力をタダ同然で収奪しようとするのが戦前まであった徒弟制度の真相である。
    徒弟奉公を否定しては徒弟奉公をしてきた自分たちが尊敬されなくなるとでもご心配なのだろうか。別にご心配になるまでもなく、医者の修行が徒弟制度だと肯定的に書く論説は最初からいっさい信用しない。俺たちに後進を潰せるような余裕はない。後進が未熟なままもたついて時間を潰すことすら容認できない。知識も技術もこちらから口をこじ開けて突っ込んで無理矢理太らせるものである。
    先生方がお手本にしたがってる職人さんの世界の一流どころでは今じゃあ新入りが一人前のキサゲをかけるようになるまで2年で到達するらしいですよ。
    村上信夫氏の名誉のために下記の言葉を引用したい。http://www.french.ne.jp/mst/24/24-2.htmより。

    怒鳴りつけるよりも良いところを褒めて悪いところを教えてあげればいい。私たちも昔はスパルタ式ですから、バカヤローって殴られる。いじけて仕事をしていたら決して良い仕事はできません。やはり楽しく料理を作るとおいしい料理ができます。

    怒ると味つけが乱れますね。興奮すると舌が乱れます。料理を作るときは冷静に。昔のお坊さんが言ったように”平常心”で作らないといけないし、楽しんで作ったら良い料理ができます。

    それからやっぱり勉強しなければ進歩はないですね。我々の先輩は師匠から習ったことをそのままやって工夫しない。なぜこうするのかと聞いても、昔からやってるからだとしか答えられない。やっぱり勉強してきちんとした説明ができないと若い人も納得できない。上に立つものはいくつになっても勉強しないといけないと思います。

    そして教えることも小出しにしちゃいけない。どんどん公開するべきです。私は料理書も書いていますけれど、良いものは公開します。味の良い料理を作るということは、長い経験から生まれるものですから。

  • 後出しじゃんけん

    真相は訴訟の過程で明らかにされるであろうとか書いておいて何だが。
    もしも今回のこの受験生が不合格になったのが本当に年齢のせいであったとしたら、大学への批判論にはこの場合二通りあると思う。そもそも年齢制限するのがけしからんという論と、年齢制限するのはありかもしれんがそれなら募集段階で前もって明示しておけよと言う論と。
    私はどちらかと言えば前者。年齢制限は小賢しげだけど結局は愚かだと思う。
    でもまあ、大学の理念に基づいて確信的に年齢制限するというのはありだと思う。例えば防衛医科大学校が「うちは軍医の養成学校ですから」と年齢を制限するのは「あり」だ。でもそれなら何歳以下お断りとか、募集段階で、応募の条件として明示されるものだろう。私が受験したときは年齢はおろか体格の基準まで示された。徴兵検査も彷彿として決して快くはなかったが、しかし公正ではあったと思う。
    入試の全過程が終わった後で今さら55歳ではダメだと言い出すような「後出しじゃんけん」は、世間では大抵はルール違反だと見なされる行為だ。公正さに欠ける。
    公正であるということがどういうことか、体感として分かってないと、医学部あるいは病院としては危ういのじゃないか。フェアさという感覚を欠いた頭には医療倫理の諸問題も論点を掴むことすらできないのではないか。群馬大学医学部は事を決めるのに「後出しじゃんけん」をしますよと世間に思われることによる損失も大きい。医学部附属病院の診療において患者との信頼関係をかなり損ねるのではないだろうか。
    ただ、ねえ。東京新聞の記事を参考にしますとね、この受験生の方に全面的に肩入れする気にもなれんのですわ。何か、違うだろ、と思うのです。
    自分の受験能力が奈辺で通学の地理的便利がこうだから受験する大学はこれ、という観点で大学を選ばれたようだが、例えば群馬大学が何を目指しどのような学生を求めているかというような大学側の事情は如何ほど斟酌されていたのだろうか。何だか全国の大学医学部どうしの差異は立地と「偏差値」だけという乱暴な画一視がなされているように思えるが。
    例えば京都大学医学部と京都府立医科大学は鴨川を挟んで向かい合ってますから地理的な差異はほとんど無いんですがね。まあ京都駅から市バスの205系統に乗るか206系統に乗るか程度の違いしか無いですね。でも京大と府医大の違いが入試の難しさだけの違いかっていうと、決してそうじゃないと思うのですが。その差異って、けっこう、大学が「俺たちのここを見てくれ」とこだわっている部分じゃないかなとも思いますし。
    自分は相手を十把一絡げの駅弁大学扱いにするけれど相手には自分の特別な志を評価して欲しい、ってのはどうなんだろう。公正なんだろうか。大学の理念がどうあろうと募集前に明示していなかった以上は選考段階で年齢を理由に不合格にするのは不法であるとの主張は、弁護士の主張としては良い主張だと思う。しかし、医者のする主張としては、何か違和感がある。
    お互いが「出来上がった主張」をぶつけ合って勝敗を決め、勝った方の言い分が通るってのは、法廷での対話はそうなのかもしれないが、臨床で行われる対話のありかたではない。
    患者さんは自分のここにこれこれの不調を感じるとは仰るが、医学的にそれが何という疾患だと仰るわけじゃない。いや、「仰る」とここで書いたが、患者さんがご自分の意向を明瞭に言語化して下さることはむしろ稀だ。医者とて患者さんに出会う前に診断できるわけでも無し。患者さんに相対してからおもむろに、その不調の内容を分析し、患者さんが求めるところを推察し、患者さんに代わって言語化する。それから、自分が提供できることが何かを説明し、患者さんと共有できる結論を作り出す。各々の主張が固まってから対話にはいるのではなく、対話の中から各々の主張が生成され、それを摺り合わせていくのが臨床のコミュニケーションである。臨床のコミュニケーションは、決して、相手構わず論破することを目指すディベートではない。
    およそ医療を目指す人ならば、そのような臨床におけるコミュニケーションの理想の、せめて萌芽でも、態度に表れるものではないかと思う。だったら具体的にどうすればよかったんだと問い返されたら言葉に窮するので申し訳ないのだが、もうすこし、コミュニケーションの態度に肌理細やかさとか柔軟さとか相手に沿う姿勢とかが匂ってこないものだろうか。それともマスコミがいかにも対決色ありありに演出しているだけか?「貴学が過去に公示した情報から公正な契約の考え方に基づいて考察するならば貴学内部の事情に関わらず貴学には私を入学させる義務がある」と言ってしまったとしたら、それは法科大学院の入学希望者に相応しい台詞かと思われるのだが。
    むろん、法律は社会の基礎だし、医療でも公正な契約というものは決して軽んじられるべき存在ではないから、この台詞が医学部入学希望者から発せられたとて、けっして矛盾するというものではない。こう要求する権利が医学部入学希望者には無いというわけでもない。むしろ正当な要求であって、支持か不支持かと言われれば多いに支持したい。
    ただ、何か違うんだよなという呟き程度の違和感はありますよ、というに過ぎない。
    この違和感は決して些細なものじゃないはずなんだけど。

  • 群馬大学医学部が55歳女性を不合格にした一件

    群馬大学での、55歳女性を不合格にした事件。
    願書には履歴も書かせるくせに、受け付けておきながら後になって年齢を理由に不合格ってのは不法だよなと、私も思っていた。群馬大学はなにやってるんだよ酷い大学だなと。でもネットで知った東京新聞の記事によれば、この年齢が理由ってのはこの女性に直接応対した職員の「個人的見解」だったとのこと。まだ、年齢だけが理由で不合格ってのは客観的な事実とは言えないようだ。まあ、かなり蓋然性の高いことではあろう、っていう程度か。
    他所で読んだ戒めで私も成る程と思ったのだが、医療「過誤」云々の報道に関しては何を生半可な記事をと厳しい目で読むくせに、ちょっと医学を外れた報道には飛びついて信じ込んでしまってたってのは我ながらどうにも賢くない。自戒自戒。
    大学にしてみれば、年齢が理由でしたと今さら認めるのにも抵抗があろうけれども、かといって実はこの女性には年齢以外にこんな問題があって云々と反論するわけにも行くまい。それは名誉毀損という別の不法行為だ。大学は今のところ何を言われても沈黙を守る以外になさそうだ。ちょっと気の毒ではある。訴訟になったらしいから、法廷で事実が解明されることになろう。必要十分の公開度で。この場合、それが正しいやり方のように思う。
    ただ、その結果としてやはり年齢が理由だったとしたら、それは大学として賢い選択ではないように思う。
    昨今は、医師の人格が社会に問題視され、医学部教育にも知識の詰め込みを越えた全人性が求められている時代である。
    そのような時代であればこそ、このような方は三顧の礼をもって迎えてもよいのではないかと思う。級友全体の向学心が高まる。世間を知った立場でのメンター的な役割も大きい。周囲の若造たちの成熟に与える影響の総和を考えれば、この人を医学部に受け入れることの費用対効果は極めて大きいと思う。
    私の医学部時代の同じクラスには60代の男性が居た。熱心に勉強されていた。本当に学びたくて学ぶ人の態度とはこういうものなのかと思わされた。解剖学の授業で彼の質問に教授が敬語で答えていたのが印象に残っている。むろん、みな一目置いていた。彼が将来医者になるかどうかなど、彼の評価にはあまり重要な項目ではなかった。一般企業を定年退職して医学部で6年間過ごして就職先があるとは思えなかったし。だけれど彼が私ら青二才たちに与えた好影響だけでも、大学は彼を受け入れて正解だったと思う。
    一人あたま数千万円かけて医者は養成されるんだからとネットのあちこちに書いてある。だから将来医者として働いて社会に還元できる年齢でないと無駄だから医学部に入れてはいけないと。しかし、本音のところで、私が医学部で受けた教育にそれだけの物量を要していた実感はない。座学と見学ばっかりだったじゃないか。この数千万円ってどこから来た数字なのだろう。ひょっとして医学部と附属病院の予算(あるいはその予算のうち国庫から補助した金額)を学生の人数で割った数字だったりしやしないか?だとしたら随分とお粗末なレベルまで単純化されたお話だと思う。医学部や附属病院の予算全額が医学生の教育目的に支出されているわけじゃなかろう。たとえばのお話だが、初期の生体肝移植にかかった医療費(私が学生のころがちょうど黎明期でした)を研究費から捻出したとして、この数千万円なり数億円なりを医学部学生数百人で割って君らには一人当たり数百万円がところ余計にかかったんだからねと言われたら、そりゃあ無いぜと言わざるを得なかったと思う。
    ひねた見方をすれば、医学部教育は文部科学省、医師国家試験から後は厚生労働省の管轄で、文部科学省にしてみれば卒後の進路はおろか国家試験すら関心の埒外だろうよと思う。いいじゃねえかよこんな時ばかり他省庁の管轄のことを心配しなくても。そもそも医師国家試験の合格率すら昨今は9割程度なんだし。どうせ1割は医者になれないんだから1人や2人純粋に医学を学びたくて入学してくる人を受け入れたところで効率はそう変わらないだろうよ。

  • 先天性風疹症候群に対する適切な診療ってどういうの?

    「医療事故がとまらない」 毎日新聞医療問題取材班・集英社新書の85ページより引用

    東京都足立区のある産婦人科医院の医師も同じリピーターだった。1987年、母親が妊娠初期に風しんにかかったのに適切な診療を怠ったため、生まれた女児に重度の障害が残り、東京地裁から1992年に約1000万円の賠償を命じられた。この医師は1988年にも出産時の監視を怠り、新生児に重度障害を与え、6500万円で和解が成立している。

    「第2章 リピーターと呼ばれる医師たち」の冒頭で、リピーター医師ってこういう医師だよと紹介する部分にある記載だが、この一節が妙に引っかかっている。先天性風疹症候群に対する「適切な診療」ってどういうものだろう。毎日新聞の取材班によれば、それを「怠ったため」に「生まれた女児に重度の障害が残」るようなものらしいが。しかし私の手元にある文献にはそのような治療法は記載されていない。私の知識の中にもそういう治療法はない。この文章を読む限り、毎日新聞の記者さんはそういう治療法をご存じのように見受けられるが、それなら凄いニュースである。何故そちらのほうを記事にしないのだろう。「先天性風疹症候群に画期的な治療法が開発された」って、1面トップの価値があると思います。
    裁判でもそのような存在も定かではない治療をしなかったことを責めているのではないと思う。医師が「適切な診療」をしていれば「重度の障害」が生じなかったというのなら、約1000万円という金額は、たとえばこの医師が他の事件で支払った6500万円に比べても低額に過ぎる。重度の障害の責任を問うには1000万円など見舞金に過ぎない額だ。原告勝訴と言うのも躊躇われるような涙金だ。半分以上を弁護士に持って行かれたんじゃないかな。
    それでもタダではなかったというのは、恐らくは診断と説明の過程に、患者さん側の訴えを無下に退ける訳にもいかないような不備が指摘されたのだろうと思う。
    でもそういうのって「リピーター医師」にカウントされる話なのだろうか。確かに医療として不適切だったのかも知れないけれど、本書でこの引用部分に続く1章ぶんの記載を参考に考えても、リピーター医師ってもっと「誰が見ても」の低レベルなミスを多々繰り返す医師をさす言葉なんじゃないかと思う。この事件で1000万円に値した医師側の不備って具体的にはどんな不備だったのだろう。誰が見てもそりゃあ低レベルミスだよと言えるような不備だったのだろうか。
    治療ではないが障害は残さないという方法ならある。人工妊娠中絶である。ただし日本では、こういう胎児の疾病を理由とした(「胎児適応」と呼ばれるが)人工妊娠中絶は法的に許されていない。実際には出生前診断の普及の裏で胎児適応の人工妊娠中絶が行われていないはずがないのだが、表向きはすべて経済的理由で届け出られているはずだ。
    もしも毎日新聞取材班が、「診断を早期に行えば人工妊娠中絶が出来た」と御主張なさっておられるとしたら、それは不法行為をしなかったことをもってこの産科医を責めていることになる。法治国家の大新聞の主張としては妥当でないように思われる。
    何やかや、もやもやした疑問が残る。ぜひ、この記載での「適切な診療」という言葉は具体的にはどのような診療だったとお考えなのか、毎日新聞取材班の皆様にお伺いしたいところである。

  • 真相を解明することこそ

    医療過誤にまつわる訴訟で、原告の方々には、訴えたのは真相を知りたいからだと仰る人がいらっしゃる。いらっしゃるどころかかなりの割合に上ったはずだ。
    何が起きたかすら分からない。それを解明しようにも今の日本には責任の所在を問い損害賠償を求めるという文脈でしか真相解明に至る道筋がない。従って訴訟を起こす以外に道がない。そういう声を聞いたことがある。
    真相解明こそ関係者の皆が希求していることなのではないだろうか。責任を追及される立場にある医師や関係者にとっても、いったい此奴は麻疹と蕁麻疹の区別が付くんだろうかと訝しくさえ思えるような素人すじからあることないこと言い立てられ書き立てられるのよりは、相応の知識を持った権威が中立の立場で調査に当たってくれるほうが善いに決まっている。この権威を否定するのは自らの権威を否定することになるような、斯界のメインストリームによる調査が、もっとも望ましい。
    そして心ある医師にとっては、医学的に否定のできない形で、今回の一件は君の行動がこうであったら患者さんの予後はこうなっていたという指摘を受けること、これ以上に「応える」処罰はないようにも思う。いや、そういう医師でありたいと思う、と申すべきだろうか。

  • 望まれているのは迅速な処分なのか

    医療事故を強制調査、医師を迅速処分…厚労省、法改正へ

    国交省の事故調が原因究明と再発防止を目的とするのに対し、厚労省の調査権は行政処分を前提とした事実確認が目的となる。

    厭な方向に話が流れていく。厚生労働省は「原因究明と再発防止」には興味がないのだろうか。

  • 書類送検って

    ちりんのblog
    警察って、たしか、いったん捜査を始めた「事件」については捜査が終結(あるいは一段落?)した時点で必ず「送検」はするもんじゃなかったかな。警察の判断が入るのは「事件性があるかどうか」つまりは「捜査に取りかかるかどうか」であって、警察はいったん捜査を始めた件は必ず送検しなければならない。検察は送検されてきたら必ず受理するけれど、内容によって起訴したり不起訴にしたりもう少し捜査を加えたりする。法律的な手筈はそうなってなかったかな。
    マスコミの報道を眺めていると「書類送検されるからには警察はこの件を悪質と考えているに違いない:捜査して悪いところがなかったら書類送検はされないに違いない」という考え方で書いてるんかなと思うこともあるけれど、書類送検しましたってのは要は警察の捜査は一段落しましたよってことに過ぎないんだよね。たしか。
    だからマスコミも書類送検の段階ではあんまり鬼の首を取ったような断罪的な記事は書かない方が上品だと思う。ついでに正論を申し上げるなら検察が起訴した段階でもまだ被告人は有罪じゃない。裁判を経て有罪との判決が出るまでは無罪を推定されるんだから、無罪と推定される相手に書くような報道記事の書き方をしたほうがいいんじゃないだろうか。