畜生今日も寝坊しちまったぜと重い足を引きずってNICUに出向いてみたら
当直をしていた若手が
「あの双子は夜間にtaperingしておきましたからいつでも抜管できますぜ」とさらっと言ってくれた。
やってくれるぜ。
世間のあちこちで若い医者が働かないという泣き言めいた噂が出回ってるけど
うちは優秀なのを回して貰ってるようだ。
大事にしないと。
カテゴリー: 医療関係あれこれ
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いつでも抜管できますぜ
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患者放置の医師に禁固1年 薬剤間違え注射で京都地裁
患者放置の医師に禁固1年 薬剤間違え注射で京都地裁
種々の意味で気分が重くなる事件でした。隣の市で発生した事故で、判決の下った地裁は私の自宅から市バス一本でいける場所です。判決は執行猶予なしの実刑です。
本件の被害に遭われたお子さんの状況には、沖縄の人が使われる「ちむぐりさ」という言葉に尽きます。この子の状況を前にしては、被告医師の事など切り捨てて顧みずにおくべきなのかもしれません。でも、そうして医師に責任を着せて判断停止しているからこそ、本件の報道が何ら今後の医療事故防止に寄与する気がしないのかもしれないと、私は思います。そこで、色々、いま考えていることを書きだしてみたいと思います。あくまで、この被害を矮小化する意図はないということだけは、読者諸賢にはご承知いただきたいと思います。
何より、種々の意味で、この被告医師を庇ってくれる人は誰もいないのだろうなと思います。伝え聞くところによれば彼は婦人科医でした。病院上層部をはじめ、周囲の人たちからは、小児科など自分の専門外の診療は止めるようにと再三忠告されていた由でした。事故の後でこういう話がことさらに漏れ伝わってくると言うことからも、元勤務先の病院でも彼を庇おうとする意思はないのだろうなと推察しています。そりゃ酷だと私は思います。病院の管理責任については他の場で検討されているのでしょうか。准看護師が間違えただけで塩化カリウムが静注用に手に入ってしまう管理態勢って何だよと思います。静注しますと言われてはいそうですかと塩化カリウムを看護師に渡した薬剤師って何を考えていたんだろうとも思います。あるいは薬剤師の目の届かぬところに常備薬としてあらかじめ払い出しされていたのでしょうか。でも塩化カリウムを静注用に常備しておく必要って私にはどういう状況なんだか想像もつかないのですが。
被告医師の資質に問題がなかったわけではありません。塩化カルシウムの静脈注射なんて、現代の小児科医で蕁麻疹の治療にそんな処方をする人はいないと思います。報道によれば裁判では「心肺蘇生をせずに放置した」と言うことに主眼が置かれている印象をうけますが、彼の間違いの最大の点は、心肺蘇生をしなかったことではなく、蕁麻疹の治療に塩化カルシウムを処方してしまったことだったと、私は思います。それだけの知識しかなくて小児科に手を出すなど子どもを舐めとりはせんかという腹立ちすら、感じなくもないのです。お前さんがそういう時代遅れの処方をしたのが全ての間違いの始まりじゃないかと、関係者一同(私を含み)みな思ってることでしょう。例え間違ったのは看護師さんであったにしても、間違えなくとも無効な治療・間違えてしまって致命的な治療の、二進も三進もいかない指示を出された準看護師さんにいったいどういう責任を問えることでしょうか。であればこそこの被告医師がこれだけ冷淡に告発され、全ての責任を彼に帰すという結論が先にあって、根拠が後付け的に捻り出されて居るんだろうと思います。でも実際には塩化カルシウムの処方そのものは告訴に至るほどの誤りではなく(塩化カリウムとの間違いさえなければ事件性はなかったでしょう:何となれば彼がこの処方をするのは初めてではなかったはずで、この処方を問題にするならもっともっと数多くの「被害患者」が列挙されてきているはずです)、彼の責任をなんとか刑事事件で問おうとすれば、蘇生に迅速に取りかかれなかった点を責めるしかないのでしょう。無論、私もこの一件の責任が彼にあるという結論に誤りはないと思うのですが、その責任を問うのにこのような論立てしか出来ないようでは、刑事裁判というメカニズムには少々不備があるように思います。
心肺蘇生について言えば、齢70歳にも至ろうとする婦人科医で、そのような処方をする人に、迅速適格な心肺蘇生など求めるだけ無理だろうとは思います。多分に彼は驚愕に立ちつくすのみだったのでしょう。いや、たとえ熟達した救急専門医のチームが直ちに蘇生に当たったとて、塩化カリウム誤投与後の患者さんを後遺症なく救命することが可能であったかどうか。むろん、だから彼に蘇生をする義務はなかったなどと申すつもりはありませんが。そもそも苟も分娩に立ち会うことを生業としてきた立場にあって心肺蘇生にまるで動けないってのは、昔ならともかく今後は問題視するべきことなのでしょう。でもまあ現実問題として、この被告医師には心肺蘇生は能力的に無理だったのでしょう。
何故そんな彼が小児の診療に手を出してしまったのでしょうか。古き良き時代の、患者の求めを拒まぬ赤ひげ先生のような信条で、手広く診療に当たっておられたのでしょうか。今、彼もまた、闘わない奴らに笑われた気分なのでしょうか。彼にしてみれば専門外や時間外を理由に診療を断る若い連中が不甲斐なくて仕方なかったのかも知れません。自分の手は指一本汚そうとしない「評論家」に結果論だけで責め立てられている気分を味わっているのかも知れません。診療報酬はちゃっかり受け取っておきながら今さら引退勧告は出していたのにとは何だと、勤務先の病院に裏切られた心情になっているかもしれません。患者さんに対しても、診療を求めるときには請い願っておきながら結果が悪かったとみるや掌を返したように自分を極悪人呼ばわりしおってという憤慨もあるかもしれません。そういう彼の憤りの一つ一つが正当かどうかはさておいても、孤立無援に追い詰められた心情の帰結として、彼はことさらに頑なになり、頭を下げる機会を逸し、和解や民事で終わるかも知れなかった事件を、徒に刑事にまで発展させ、情状酌量されることもなく実刑判決に至ってしまったのかもしれません。
あるいは理解不可能なほどの誇大妄想の持ち主だった可能性もある。こうした考察も、根も葉もなく何も生まない単なる想像に過ぎないのかもしれない。
しかし彼にとって皮肉かつ過酷な現実として、彼の知識は時代遅れでした。彼は蕁麻疹に塩化カルシウムを投与するような大時代な知識をもって現代の小児救急に手を出すべきではありませんでした。加えて彼の自己認識や周囲への期待はナイーブに過ぎました。彼が診なくともあの市内には小児救急に対応可能な規模の病院はあります(所在地で言うなら同じ町内です)。周囲は彼が期待していたほどには彼に感謝していないようです。病院は彼を切り捨てて延命を図っています。報道などで知り得る限り、病院職員からも患者さんたちからも、彼に関して減刑嘆願が出されたという情報は聞き及びません。
私も医師として、常に彼と同じ立場に立たされる可能性のある人間として、どうしても我が身を彼の立場に置いて考えてしまいます。私が手酷いミスの結果として告訴された場合に周囲がどれだけかばってくれるだろうかと。私が被告人席に着いたら、どれくらいの人が私の減刑を嘆願してくれるだろうかと。病院はやはり私がもともと厄介者だったという情報をまことしやかにリークするのでしょうか。同僚がテレビの匿名インタビューで、あの先生は我が儘で独善的でした等と語るのでしょうか。顔にモザイクをかけて、奇妙にディストーションをかけた平板な声色で。 -
研修医に関して資本制社会のタームで語る
内田先生がフリーターについて論じておられる2002年初出の文章を一部引用する。
社会的身分としては失業者なのだが、必ずしも「失業問題」の原因とはならない集団は他にも存在する。
自分に職がないのは自分が無能であるか、または努力が足りないか(またはその両方)のせいだと思って「反省」している人たちがそうである。彼らは「失業者」ではあるが「失業問題」という社会問題の主人公にはならない。
気の毒だが、公的支援はこのような集団には決して優先的に向かうことがない。なぜなら、私たちの生きている資本制社会は、失業問題を「人道的」な問題としてではなく、純然たる「政治技術」の問題として、つまりこの問題を放置しておく場合と、解決する場合と、どちらが「よりコストがかかるか」という非人情な算術に基づいて考察するからである。
失業という身分を自己責任において受け入れている人は「住宅を供給せよ」とか「職業訓練をせよ」などという要求をしない。彼らは、公的支援を頼らず、自力で窮状を脱出する方法を考える。失業は彼らにとってあくまで「個人的な問題」であって、誰か他の人が尻拭いをすべき「社会問題」としてはとらえられていないからだ。この人たちは「社会的コストのかからない失業者」である。だから、政府はそういう人たちのためには何もしない。理不尽だと思うだろうが、そういうものなのである。
「期間限定の思想 『おじさん』的思考2」 内田樹著 晶文社刊 p82より引用誤解のないよう最初に申し上げるが内田先生がここで仰っているのは「そういうものなのである」という事実認識であって、「本来そうあるべきなのだ」という主張ではない。時に意図的にそういう誤読をして内田先生を攻撃して鼻高々になる人があるが同類とは思われたくない。
内田先生のこのご指摘には本件にも通底するものがあると思う。結局のところ研修医の待遇改善は、現状を放置しておく方が「よりコストがかかる」という「非人情な算術」に基づくのであって、研修医をいたわる暖かな配慮によるものではない。だから研修医諸君は救済が永遠に続くとは思わない方がいい。今回の改革ではやっぱり上手く育たないねという結論になったら、今の研修医世代はまるごと捨てられることになる。『そう言えば平成17年卒ってあんまり見ないよね。君のところ誰か居る?』『いや採用段階であの年度前後は人事が断ってるらしいよ』とか語られることになる。
また研修医よりも上の院生や医員の諸先生が、待遇が改善されないまま苦労ばかり増えておられるのも、同じ理屈によるものだろうと思う。院生や医員の皆様は現状で放置しておく方がコストがかからないということだろう。畢竟、院生や医員ともなり自力で一人前の医師の仕事ができる方々は、「自力で窮状を脱出する方法を」お考えになるので、薄給も身分保障の欠如も無保険状態もあくまで「個人的な問題」と考えて、ぶつくさは言うかもしれないがそれなりに働いてくれる。ならば放置しておいたほうが、膨大なこの人数に一気に正当な報酬を払うよりも、はるかに低コストである。
医療を資本制社会のタームで語るならこれが赤裸々な事実である。「理不尽だと思うだろうが、そういうものなのである。」
誤解のないよう再び申し上げるが、私がここで申し上げているのは「そういうものなのである」という事実認識であって、「本来そうあるべきなのだ」という主張ではない。意図的にそういう誤読をして私を攻撃して鼻高々になる人があるかもしれないが、あんまりお近づきになりたくない。そもそも内田先生と違って私など攻撃しても貴方のブログの購読者数は上がりませんよ。
そういう邪悪なコスト計算をしてほくそ笑んでいる奴らのせいでこんなに理不尽な状況になってるんだと、厚生労働省の誰かとか大学病院上層部の誰かとかを、つい攻撃したくもなるけれど、内田先生はそういう精神のあり方をも戒めておられる。「私」は無垢であり、邪悪で強力なものが「外部」にあって、「私」の自己実現や自己認識を妨害している。そういう話型で「自分についての物語」を編み上げようとする人間は、老若男女を問わず、みんな「子ども」だ。
やれやれ。「子ども」からの脱却を目指す「こどものおいしゃさん日記」にはこの話型は禁忌だ。
それで結局のところ本論は結論が出ない。なら書くなよとのお叱りは甘んじて受けますがスルーさせて頂きます(偉愚庵亭憮禄で読んだ言い回しです。達人の真似っこでちょっと上達した気分。へっへ。) -
医療資源の分配において切り捨てられるのは誰なのか
「ある内科医の独り言」内の記事「医療資源はどう使うべきか」へトラックバック。私はおそらくここで言及されている「切り捨て」に関する議論の発端にかなり近い位置にいると思うので。
私が切り捨てと言う場合、患者さんを切り捨てる意図は毛頭無いつもりである。また有為の人材を医療の現場から徒に放逐する意図もない。
切り捨てたいのは半端な医療機関自体である。診療所よりは規模が大きくてリソースも診療所より多く喰らうが、しかし時代に求められるレベルの医療を提供するには規模が小さくて満足な成果が上がらない、しかも昨日の成果の少なさが今日の経験不足を呼び明日の成果の不満足さにつながる、そういう半端な医療機関である。これを整理統合して、それなりのレベルの医療が提供できるような規模の医療機関を作るべきなのである。
こと小児救急に話を引き寄せて語るなら、夜間に半径10km以内に小児科医が居るか居ないか分からないような病院が5軒あるのと、50kmあるいは100km走ることになってもそこへ行けば24時間診てくれる病院が1軒あるのと、患者さんにとってはどちらが善いだろうということである。遠距離でも診てくれる病院のほうが、近距離にあって診てくれない病院よりも、患者さんのためになる病院だと、私は思うが、間違っているだろうか。常勤の小児科医が2名しか居ないような医療機関には時間外診療は準夜帯すら無理だが、10名居れば単科当直はおろか夜勤シフトでの診療すら可能なのである(徳島赤十字病院は常勤7名でシフト制を実現している)。
再編で医療機関の数は減ることになる。その分の、日常的なプライマリ・ケアは開業の診療所が担うことになる。プライマリケア医には現在よりも守備範囲を広げた高度な診療が要求されることになる。でも開業のプライマリ・ケア医にとっても、24時間救急対応の可能な高度な医療センターがバックアップについている状態で存分に腕を振るう診療のほうが、規模が半端な故に無床の診療所並みの仕事しかできない病院とパイを奪い合う診療よりも、よほど魅力的ではないだろうか。
加えて、私には、どくちるさんが語り足りないこと、あるいは敢えて明記なさらなかったことがあるように思える。意図的なのか否かは定かではないし問題にするつもりもないが。
医療資源の配分と言うとき、直接に資源を配分されるのは医療機関だということである。分配の恩恵に与ったり、食いっぱぐれてひもじい思いをしたりするのは、直接には医療機関である。患者さんではない。医療資源の再分配が即刻直接に患者さんの切り捨てにつながるかのような言説は、切り捨てられかかった医療機関が自らの保身のためにする議論であるかのように聞こえる。決して、どくちるさんの記事がそんな言説に読めると言うわけではないのですけど。
医療機関も現代の資本主義社会の中で、自らが稼いだ診療報酬によって存続している。医療経済を国策的に縮小しようという時代に現時点まで生き延びてきた医療機関なら、相当強固に自己保存の意思を保っている。規模の半端さ故に時代の逆風をもろに受けている医療機関では尚のこと、自己保存の意思は軒昂なはずである。今のご時世、やる気を失った時点で潰されることになるのだから。
資本主義社会の中では医療機関もまずは自らが収益を上げて潤うことを目指す。自分達が地域社会の求める本質的な医療を供給していればこそここまで収益が上がるのだという論法で、収益を正当化し、マンパワーに始まる医療資源の優先的な配分をも要求し実際に手に入れるようになる。むろんこの論法は全体が方便である。診療報酬は自由競争で決定されているわけではない。診療報酬の体系の中で冷遇された分野の医療を地道に提供し続ける「儲からない」医療機関もあるし、宣伝を煽って要りもしないような内容の医療で大もうけする医療機関もある。しかし現代の資本主義社会は歴史的にこの方便を採用し医療にも適用してきた。歴史的な事実は文句を言っても変えようがない。そして儲けたいという人間の欲望そのものでドライブされる制度は、確かにそれなりに有効だったのも事実である。他の、もっと御上品な仮想的制度が採用されていれば為し得たであろうよりも、よほど効率的に医療資源を分配してきたと、私は思う。
この体系の中にあって医療従事者の良心を支えるのは、自分達の利益が自分達の患者さんの利益と一致しているという信念である。信念というか、語弊を恐れずに言えば、「物語」である。自分達に、他ではなくて自分達に、自分の所属する医療機関や医局や診療科に、有限の医療資源の中から相当分を配分することが、即ち患者さんの利益であり社会の利益であるという「物語」である。この物語を疑いはじめたら、自らの医療の正当性の根幹が揺らぐことになる。だからみんな、この物語を信じている。あるいは、疑いを挟まないという「お約束」にして、みんな律儀にその約束を守っている。我が儘者や変わり者が多いこの業界では、例外的なほどの律儀さで。
しかしそろそろ、私たちはこの物語が物語に過ぎないということを自覚した方がいいんじゃないかと思う。そうそうみんなが全面的に的はずれな医療をしてるわけではないんだから、全体的な傾向としてはこの物語はおおむね正しいんだろうけれども、決して検証無しのアプリオリな正しさとは言えないと思う。自分らの利益と患者さんの利益とは一旦は切り離して考えるべきだと思う。自らが現在の形態と方法で行っている医療活動に医療資源を振り分けることが本当に患者さんのための最適解であると言うことを、常に立証し続けねばならぬと思う。それを立証し得ないうちは、自らの利益に関しては自らの利益として語るべきである。患者さんの利益としてではなく。 -
大人と子ども
内田先生の書より引用。
「誰かが、自分には解けない問いの答えを知っている」と考えること、実はこれが「子ども」の定義なのだ。そして、「子ども」が「答えを知っていると想定している人」のこと、これを「大人」と呼ぶのだ。「子ども」と「大人」の定義は尽きるところこれだけだ。
医療を語るときに、その発信者が提供側であれ利用側であれ、また自分であれ他人であれ、自分らがこんなに大変なのは誰かが責任を果たしていないからだ云々の言説を目にするたび、その言説を発した人間に幼さを感じずにはいられないわけだが、内田先生のこの言葉がその感じの依って立つところを明確に語ってくれているように思う。
利用側あるいは供給側でも経験の浅い人ならともかく、私のように臨床に10年の上から居て、まだ分かってないとしたらナイーブに過ぎる。現在私らが小児救急や新生児やで必要以上に汲々とさせられている原因の解決策を知ってる「偉い人」など居はしないのだ。いったい誰のことを、この窮状の解決策を「知っていると想定」できるというのか?君の教授や、院長や小児科部長や、そういった偉いさんたちが本当にこの窮状を解決できると本気で思えるか?京都府庁や府議会に京都府下の小児医療に責任を取る立場の人間が居るか?厚生労働省まであるいは財務省や国会内閣まで話を広げたところで、この窮状を解決できなければ職務上の責任を問われるという立場の人間が誰か居るのか?
いい加減に身に染みて分からなければならない。この窮状を解決してくれる誰かがどこかに居ると思っている限り、俺も君も「子ども」だということを。誰か他の人間が解決してくれると語ることは、自分が子どもであると公言しているに他ならないということを。他責的な言説を弄して当然という顔をすればするほどに、同時に自分の「子ども」ぶりをより強く世間に曝しているのだということを。 -
分かってくれとは言わないがそんなに俺が悪いのか?
前回で引用した記事から、さらに引用。
年間の死亡率を10万人当たりで見ると、日本の1〜4歳児は33.0人で、ほかの13カ国平均より3割多く、米国(34.7人)の次に高い。米国は他殺(2.44人)の占める割合が大きく、この分を除くと、日本が最悪になる。最も低いスウェーデンは14.3人。
病気別には、先天奇形や肺炎、心疾患、インフルエンザ、敗血症などが13カ国平均に比べ高い。不慮の事故は、平均とほとんど変わらなかった。
ほかの年齢層の死亡率は、すべての層で13カ国平均より低く、全体では10万人当たり783人で、13カ国平均より15%低い。0歳児については340人で、13カ国平均の約3分の2で、スウェーデン(337人)に次いで低い。新生児医療の整備が大きいとされる。むろん詳細はこの研究班の研究結果が出ないと分からない。田中哲郎先生は小児医療体制の構築について以前から詳細な研究をなさっておられる方で、そうそう無責任だったり杜撰だったりする研究成果を発表なさることはない。私のスタンスは、こういう速報ではなくて正式発表を持して待つというもの。
そうとは言えこの報道で動揺したのは事実だし、他にも動揺なさった皆様が周辺の小児科医を軽蔑し始めたりなさると辛い。無い知恵をしぼってみた。
上記引用で、1〜4才の死亡率が十万人あたり33人、これが諸外国より3割多いとするとだいたい諸外国と言うのは25人という検討なのだろう。25人の3割増だとだいたい7.5人増で33人程度になるよね。で、この増加分7〜8人が0歳のときに亡くなったとしてみよう。そしたら日本の0歳での死亡率は347人だ。いや、1から4歳までの4年間だから4倍増で340プラス(7かける4)で368人か。年齢別の人口にそれほど大きな変動が無いとしてだけどね。なんぼ少子化の御時世でも0歳1歳2歳っていう小刻みなレベルでは人口はそうそう変わらないだろう。実際の10万あたり340人という数字が比較対象国の3分の2ってことは諸外国は十万人あたり500人あまりは亡くなってる計算かな。0才児では368対500以上。人口の変動そのほかの要素をみこんだとしても、まだまだ日本の方が優位に見えるが。
むろんこういう報道をきっかけに小児医療の拡充に拍車がかかるのは喜ばしいことだ。ついでにスウェーデン並みの福祉国家になれたらとも思う。でもまあ情報操作すれすれのことをして目標を達成しようとしても、ばれた時点で前より悪い位置に逆戻りすることになるから、あざといことはあまりしないほうがよいとも思っている。で、こういう試算もしてみましたということで、ご一興までに。 -
日本の1〜4歳児の死亡率 先進国の3割増で「最悪」
2005年05月31日11時41分
長寿命を誇る日本だが、1〜4歳児の死亡率は先進国の平均より3割高く、実質的に「最悪」なことが厚生労働省の研究班の調査でわかった。原因ははっきりしないが、主任研究者の田中哲郎・国立保健医療科学院生涯保健部長は「小児救急体制が十分に機能していないのかもしれない。医師の教育研修なども含め、幼児を救う医療を強化する必要がある」と指摘する。うあああああああああああああああ
ブログなんて書いてる場合か?とひっぱたかれたような気分だ。1〜4歳というとNICUのマイナスとかゼロ歳とかの面々は対象外で、この年代はけっこう良い成績を上げてるはずなんだが、ってのは言い訳かいな。でも他国では0歳で亡くなってるような生来重篤な子どもたちが日本では0歳を生き延びるけれど幼児期に亡くなる子が多いってことはないのかな。この研究班の成果はどこで発表になるんだろう。今後注目するつもり。 -
正しく弔うこと
yamakaw さまへの返書
丁寧なご回答をありがとうございました。貴地での具体的な状況は私の想像を絶するものでした。心臓血管外科医が他院の応援に行くときは心臓血管外科手術の術者をやるものだと、無根拠に決め込んでいました。帝王切開の加勢までなさって頂いていましたか。なんと我々の分野がそこまでお世話になっていたとはと驚きました。お礼の申しようもないです。
新生児科医としてはその帝切に新生児の蘇生ができる小児科スタッフは立ち会ってるのかなと、新たな危惧を感じてもいるのですが、これはabsinth先生に応答責任を求める事柄ではありませんね。失敬。 -
傍目八目とは言いますが
ちょっと怒ってみるを拝読して、口を出させて頂きたくなりました。
小児救急や新生児の問題はまだ世間に認知されてるだけマシなんだなというのが率直な感想ではありました。この人知れぬ激務には敬意を表します。日夜こうして世の中の幸福の総量を嵩上げしつつあるお仕事に感謝したいと思います。あとはお体に気をつけてと続くのが一般的なご挨拶なのでしょうが、それで済むなら他人事です。医師免許持ってる人間が一日3時間も寝てない人たちに「身体に気をつけて」と申し上げるのはあたかも映画「火垂るの墓」で兄妹に「滋養をとれ」と指導した医者にも似て些か職業的誠意を欠くように思います。それに、absinth先生の大学病院にもNICUはあるんだろうし、NICUではたとえば超低出生体重児の動脈管がインダシンでは閉じず心臓血管外科に頼んで結紮術を行うってのはそう稀な話でもなし、大学病院なら完全大血管転位とか三尖弁閉鎖とかの赤ちゃんも入院して来られるのでしょうし、心臓血管外科がこの為体ではどうするんだよと考えたら、新生児科としても隣科の内部事情だと澄ましては居られません。
私の目にはabsinth先生の置かれた状況の問題点はかなり明白なように思います。なにをどう改善したらいいかも、はっきり、分かり切ったことだと断言させて頂きたいところです。傍目八目もしょせん八目に過ぎないのですが、その八目の読みを述べ立てさせて頂きたいと思います。その通りに打てるかどうか、その現実的な可能性云々はさておいても。
足りないんじゃない。多すぎるのです。些事が。切り捨てるべき事柄が。
まず何故に外の病院へ応援に行くんだと不思議です。応援に行くって事は、つまりは、行ける範囲に心臓血管外科の手術ができる病院があるってことですか?ここにまず矛盾を感じます。
それはつまり中途半端な規模の心臓血管外科が近所に乱立しすぎてるってことじゃないでしょうか。片端から潰して医者を引き揚げてくるべきです。たとえばの話、absinth先生の施設から車で日帰りの距離に、病床10床常勤1名で隔週1回だけの手術には非常勤の応援が要る心臓血管外科なんかがあったとしたら、はっきりと無駄です。定食屋と称しつつ飯とみそ汁以外の料理が出せない食堂みたいに無駄です。その常勤一人が大学にいれば並列の手術をもう一列増やせるってことはないのでしょうか。誰かがもう1時間余計に休めるってことはないのでしょうか。
半端な心臓血管外科を潰せというのは、地域医療を切り捨てよという主張ではありません。地域に広く浅く展開するのが地域医療だという御意見の方は、極端な例として、医局みんなで一人一軒ずつ診療所を開業した状態を考えてみられたらよいのです。手術の一つもそれではままならないでしょう。現実にはスケールメリットというものがどうしようもなく存在していて、たとえばの話、病床20床に常勤4人の施設が2つあるよりは40床8人の施設が1つのほうがこなせる仕事の量は遙かに多いのです(教育のレベルも高くなるというのは本学心臓血管外科米田教授の主張でありabsinth先生もご存じの如くです)。現在の医療経済においては、地域医療の充実が急務であるが故にこそ、半端な施設に存続を許す余地はありません。医者一人の診療所と無限に巨大な病院との間のどこかに、その地域での規模の適正値があるはずなのですが、おそらくabsinth先生がご活躍の地域に適正な規模はabsinth先生ご勤務の大学病院よりも大きく、施設の適性数は地域に現存する数よりも少ないのではないでしょうか。
スケールメリットに関して言えば、それは病院に限らず、例えば障害者の共同作業所や重度心身障害児者の入所施設など収入が利用者数に比例する施設にはほぼ普遍的に存在する。卑近なところでは僕らのNICUもまた、ちっこいNICUが林立するよりは大きいセンターが一つのほうが、その地域の周産期医療の成績も新生児科医の「経験値」も格段によくなるものなのだ。
外来も止めるべきです。3時間の睡眠も確保できない心臓外科医が外来で何をしてるんですか。そもそも循環器の患者さんの外来フォローは循環器内科がやる仕事じゃないでしょうかと、内科系の端くれとしては思えてなりません。病棟仕事も同じです。手術室で集中治療科に引き渡すか、術後管理が終わりしだい循環器内科に差し戻すか、どちらかなんじゃないでしょうか。心臓血管外科医が術後管理を過ぎて退院までの慢性期管理や外来フォローまでやるってのは、産科医が超低出生体重児の発達健診に手を出してくる様な(そんな産科医は居ないですけどさ)状況に一種通じるものがないでしょうか。足りない手はその手でしかできない仕事に集中するべきだと思います。
そもそもね、なんでabsinth先生が胃カメラなんてやってるんですか?こればっかりはabsinth先生にもちょっと呆れたなあ。緊急手術か胃カメラか、どっちかを止める手配から、まずは取りかかられるべきかと愚考致します。それと、雇いたくても枠がないという問題に限っては「社会と繋がる」問題じゃないような気もします。もはや独立行政法人の時代です。雇用の問題は院内で完結するべき問題じゃないかと思うのですが。人件費ぶんを稼げば枠なんか幾らでも追加できるじゃないかと思うのは、私が余計なしがらみの介在する余地もないほどちっぽけな私立病院の医師だからですか? -
そういうものか
妻が「これどうするの?捨てるの?」と出してきてくれた「週刊医学界新聞」を、気まぐれに開封してみたら、春日武彦先生がこういう事をお書きであった。
カスガ先生の答えのない悩み相談室
そういうものかもしれないな、と思う。世間の通念への、かなり強烈なアンチテーゼ。
