カテゴリー: 医療関係あれこれ

  • うちの看護学生とて馬鹿ではないんですよ

    昨日は看護学校で小児科の追試が行われた。今朝出勤してみたら答案用紙が医局に届いていた。封筒がずいぶん厚い。これを採点するのは手間だな。やれやれ。
    23人のクラスで追試の対象者が13人というのは多すぎるんじゃないかと思う。23人中2人が不合格ならその2人が反省すべきである。6人が不合格ならクラス全体で反省すべきである。でも13人も不合格とあっては、反省するべきは教える側ではないかと思う。ちゃんと入学試験を課して、それなりのレベルの学生をお引き受けしたはずだ。教育できると思って引き受けた学生の過半数が、最低限とされるレベルにさえ達していないのである。
    看護学校の小児科の講義は、まず小児科常勤医が4人で「症候と治療」を分担して行う。その知識をふまえて「小児看護」を看護師である講師が別に語る。今回は「症候と治療」のテストの100点を25点ずつ4人で分担して試験を行ったのだが、うち一人の採点が極めて辛かったらしい。過半数に零点がついたと聞く。
    ちなみに私は不合格者を一人も出しませんでしたからね。
    それってあんたの講義をクラスの過半数がひとっことも聞いてなかったってことかい?確かにうちの看護学校は「偏差値の高い学校」ではない。どっちかと言えば滑り止め学校かもしれない。しかし、講義をしたり卒業生とNICUで働いたりしての感想であるが、学生は決して向学心に欠けるわけでもないし怠惰でもない。多少純朴すぎて打たれ弱い嫌いはあるにせよ。
    自分が教えた内容のうち、このくらいは分かってるだろうと推定される内容を問うて、理解度を確認するのが試験だと思う。合否の境界はなんぼ何でもこの位は分かっててくれないとという最低ラインにおくものだと思う。それで試験してみたら大半が不合格だったというのは、それは学生の理解度を見誤っていたということである。自分が想定したほどには学生が分かっていなかったと言うことである。
    自分が語った内容を相手がどれほど理解しているかの推定をこれほど甚だしく誤るというのは、臨床医としての基礎的なコミュニケーション能力に問題があるのではないかと思う。
    看護学校の小児科の講義など、内容においては病児のご家族に語る病状説明と大差ない。看護学生にすら理解させ得ないのでは説明の力が足りないし、相手が分かってないにも関わらず理解されたつもりになっているのはコミュニケーションの力が足りない。そういう人が日々臨床の場でどうやって病状説明を行っているのかと思う。前途を憂えるべきは看護学生ではなくて当院小児科である。

  • 殺人者という語は

    我が子を殺人者にしない
    麻疹による死亡者、大多数は0~4歳、中でも0~1歳に集中するのだが、この死亡者の数だけ、その子たちに麻疹を伝染させた人が居るということだ。麻疹は伝染病である。決して穏便な事実ではない。直視したくないことかもしれない。しかし、事実ではある。
    ただ、派手な言葉を使ってぶち挙げておいて今さらこんな事を言うのは逃げている印象を与えるかも知れないが、その伝染させた人たちを責めるのは私の主意ではない。殺人者という言葉自体にその責める響きがこもるという点で、この表現は確かに拙いと思う。我が心の善くて殺さぬにはあらず。既に自分を責めているか、自分から伝染した人が亡くなったことを今は知らずにいるけれど知れば自分を責めることになるか、どちらかであるに違いない人を、得意顔して指弾するようなことはしたくない。だから今後私はオンラインでもオフラインでもこの件に関してこの言葉はつかわないつもりである。
    麻疹ワクチンを接種することが社会に対する責任だとの考えは変わらない。
    家族は社会の端緒である。もしも麻疹脳炎で障害を遺した弟に日々接する兄が、この麻疹を弟にうつしたのが自分だと知ったら、どれほど苦悩するか。この兄を責める人は誰も居るまい。しかし誰に責められなくともこの兄は生涯この事実を背負って生きていく。人間の心には生来その程度には気高い倫理性が備わっていると私は思う。(ついでながら、うつした相手が肉親ではなくとも、肉親ではないからと知らぬふりができるほど子どもは非倫理的にはできていないと、私は思う。)いたずらにそういう重荷を子どもに負わせまいという配慮もまた、社会責任の範疇に含まれることではないだろうか。
    人間の心はその荷を降ろしたくても降ろせないように出来ているというのが性善説の根拠である。降ろせない荷物だったらせめてその一端を共に担おうと言うのが、ナザレのイエスの言葉である。

  • 小児内科の記事から

    「小児内科」という、我々の業界筋のけっこうハイグレードな月刊誌に、子どもの事故予防情報センターの山中龍宏先生が「子どもたちを事故から守る」という連載をされておられる。今月号が最終回であったのだが、先生曰く「今回の連載を書くにあたり、取り上げる材料には一つも困らなかった」というのがなんともやりきれない本邦の現実である。さらに一節を引用する。

    ・・・事故予防で問題なのは医学の領域で事故予防そのものへの取り組みがないことにある。
    たとえ話にしてみると、主に医学が関わるべき事故予防という1000mの氷壁がそそり立っている。その垂直の氷壁を一歩一歩よじ登って、頂上をめざさねばならない。しかし、現在の小児の事故予防として行われていることは、暖かいふもとの青い芝生の上で、「事故予防」という歌に合わせて皆でフォークダンスをしているように思える。その歌の歌詞には「注意しましょう」、「気をつけましょう」、「目を離さないようにしましょう」という言葉がちりばめられ、皆で踊っているそばには「事故予防センター」という名前の展示ケースが設置されている。この状態を続けていては事故を予防することはできない。

    小児の事故予防に尽力してこられた先達の言葉だけに、胸に響く。小児の事故死を報道する記事を目にして私は随分と嘆息してきたが、しかし小児科医の私が小児の事故死に嘆息することは、山中先生に言わせればフォークダンスの品評会をしているに過ぎないのかも知れない。それを恥じて事故防止云々と声を上げても、それは観る阿呆から踊る阿呆に変わっただけのことなのだろう。
    なにせ、0歳を過ぎたら本邦の小児の死因のトップは「不慮の事故」なのである。白血病よりも心臓病よりも、何よりも子どもは事故で死んでいるのである。しかしいったい、小児の事故予防を小児の脳死移植よりも喫緊の問題だと認識している大人がどれくらい居るだろう。小児科医のなかにすら少数派かも知れない。

  • 地道で強靱な耐久力

    ホームレスについて考える
     適度に微視的であることって大事だと思う。
     待合室の患者さんの数に圧倒されつつも淡々と一人一人拝見する。重態の患者さんの込み入った病状にも、一つ一つの問題点を地道に解きほぐして解決してゆく。一振りで全ての問題が消えて無くなるような魔法の杖は、臨床では期待しない。誰かがその杖や呪文を隠し持っているとは考えない。魔法を使えなくても地道な問題解決への参加を放棄しない。
     その地道さに耐える強靱な知的耐久力が、臨床には必須のはずだと、私は思う。焦らず、ゴールの見えない先の長さにへこたれず、明確な結論が出なくても、誰かのせいにすることで結論代わりとは考えず。
     ホームレスやなんかの社会問題も、病棟の窓から見える社会の風景は何となく一括りにしがちだけれど、でも医者なら臨床でものを考える態度で問題に当たるべきだと思う。どれだけ迂遠に見えようと私たちは患者さんを一人ずつしか治せない。福祉の分野でも、結局は現場で一軒一軒のケースを地道に対応していくことが、迂遠に見えて実は最も費用対効果の高いことなのではないかと思う。医者の私が、誰か魔法の杖を振って世間からホームレスを一掃してくれと願うのは、ダブルスタンダードってやつだ。魔法の杖を振らないことをもって行政の誰かの怠慢だとも言わない。私が言えないことを言えば、行政も魔法の杖もどきの施策を重ねて、その無効さを指弾されることになる。不毛である。

  • 遅ればせながら、患者さんを中傷した医師ブログについて

    医師がブログで患者さんを中傷したので処罰されるというニュースがありたくさんの医療系ブログで言及されている。大方の意見は、公開の場での書き方としては浅慮に過ぎるというものであったと理解している。

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  • 看護師さんの仕事は途切れない

    この子はいよいよ救命不可能だと、診断をつけてしまった後、気がついてみるとその子の保育器のそばに自分は足を運ばなくなっている。かつては徹夜で張り付いていた事もあった子の、保育器のそばに行かなくなっている。
    これはどうしたことか。我ながら不甲斐ない。

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  • 評価する者は誰か

    「尊厳死」の法制化で「この死に逝く人の死には尊厳があった」とか「なかった」とか言う立場に想定されている人って、なんとなくですが、「数年来連絡とってなかったけど危篤の知らせを聞いて駆けつけてみました」みたいな縁の方々であるように思えます。
    あくまで何となくな感想なので別稿にしました。

  • 電話相談事業の危険さ 2

    電話相談には必然的に、無診察で治療してないかという疑問が付きまとう。一般診療では診察室に入ってくる足取りや顔色を見ることから既に診察は始まっている。言語で受け渡される情報は案外に少ないものである。

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  • 電話相談事業の危険さ 1

    まさにご指摘の通りで、こんな事業は危なくて仕方がない。後述するがシステム自体が怪しいし、「説明会」の日程の決め方からしてその怪しいシステムを運用しようとしている京都府の担当者の力量もずいぶん怪しい。

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  • 俺も同じこと言われるんだろうな。

    東京医科大学の特定の心臓外科医が執刀した患者さんが相次いで亡くなっていると報道された。
    同じことを言われかねないと思って切ない。私とて、奴はうちのNICUで死亡した超低出生体重児の大半を担当していたといわれたらまさにその通りなのである。何たって超低出生体重児はほぼ全員、私が主治医をしているのだから。その通りとは申しつつ、私はNICUには向きませんと称してNICU患者の担当一切しない医者が、私に「君、また赤ちゃんを死なせたの?問題あるんじゃない?」なんて言ったりしたら、私はたぶん逆上してその医者を張り倒し、その足で院長室に退職を願い出に行くことだろうと思う。
    百何十人執刀したうちの何人が死亡して率が何%だから平均より高いとか報道する新聞もある。こういう報道をするようでは、たぶん統計学的な有意差なんていう概念は聞いたこともないのだろうし、標準偏差なんて持ち出されたら反射的に偏差値主義の進学教育が頭に浮かぶのだろうなと思う。そんな大雑把な記事でものを言われてはよろしくない。
    こういう場合にこの人自身が拙劣で患者さんを亡くしたのか、それとも集中的に難しい患者さんを担当した故のことなのか、それなりの専門的観点からの総括が欲しいものだと思う。