カテゴリー: 医療関係あれこれ

  • 暇な小児科医ですみません

    こういう働き方をする小児科医が居る一方で、当直だけどNICU落ち着いてるよとか言って午後の回診を4時半に終えたら一眠りして7時から夕飯を食って、テレビを見てスーダンの難民は大変だなと嘆息して、それからブログの文案を錬って、とアホな当直の仕方をしている医者も居ます。これから文献も読みます。
    なんか申し訳ないな。すみませんです。
    まあ、元来、NICU当直で泊まっている人間が救急外来が忙しくて睡眠30分なんて抜かした日には、NICUに専念すべきNICU担当に何やらせてるねんという監査が入って病院が終わるので(一日あたり7~8万円×6人×数年分の一括返還なんて求められたらもうお終いです)、NICUが暇なら大手を振って暇で居るんですけど。

  • べつに1人で喧嘩をしている訳じゃないのですが

    天国の特別な子ども
    些か卑怯かとは思うけど私は小児科医の顔と障害者の親の顔とを使い分けてるのね。
    今回のは自閉症児の親が言うこと。
    この詩を必要とする時期があると言うことと、
    君にはこの詩が必要だよって言われることとは、全く別です。
    この詩のテーマは、
    君たちは特別な親だから特別な子を授かったのでそれは崇高な意義がある、ってことじゃないのです。
    この詩を語る僕らは特別じゃないから僕らには障害児は生まれないはずだよって言うことなのです。
    障害児が生まれるなんて他人事さって、ね。
    君ら大変だけどこんな風に考えたら我慢の一つも出来るでしょ、まあ頑張って現実を受け入れてね、そいじゃ、って。
    この詩を提示されるとねえ、そういわれたような気になるんです。私はね。
    邪推じゃないかそんなもの、って言われて私の評判が落ちるだけかも知れないけどさ、
    善意に溢れる詩は裏を読んじゃいけませんなんて言い草はナイーブに過ぎるわ。
    あいにく私はそんなにスナオな心を持った聖人君子じゃなくてね。
    息子の障害を受け入れるだけで精一杯なんだわ。
    どうして君らの「善意」まで受け入れにゃあならんの。
    障害児が生まれることに形而上的な意義を与えようとする試みには、みな、
    その試みが親の因果を讃えようが蔑もうが、全部に、多かれ少なかれ、
    「何故私自身には障害を持った子が生まれないか」を論考しようとする意思が
    潜んでいるように私には感じられますね。
    そらまあそんな論考が完成すれば君らは安心なんだろうけどね。
    我が子に障害があるということの衝撃から立ち上がれずにいるような、
    ごく初期のころでさえ、
    この胡散臭さは過敏になった鼻を突いてたでしょうね。
    当時は知らずに済んでたから良かったと思うけど。
    この詩を読むよう他人に勧めるのが許されるのは、自分も障害をもった子どもの親である人だけですわ。
    お医者さんに勧められてもね・・・患児の親の受容過程が進まないのはそりゃあご心配でしょうけどこちとら親としては自分の問題で手一杯なんだからご自分の不安は自分で解決してくださいね、ってのが偽らざるところで。

  • そういえば新研修制度が始まったんですね。

    研修医先生
    毎度のことながら長くなりそうだし、ちょうど今の私のブログとの流れに沿うのでトラックバックで。
    Absinth先生のコメント拝読して絶句しました。今はそんなふうなんですね。私のところは研修医を受け入れるほど大きな病院ではないので、成り立ての医者がどんなふうかってのを、そういえば知りませんでした。失礼しました。
    Mari先生の最近のご苦労を拝見してまして、なんとなく、absinth先生のところの若手も予想外に疲弊してるんじゃないかと思ってました。研修医の頃ってフロセミド一発使うのさえ恐いものだし(私は今でもラシックスを怖がるけど研修医の時とは恐さの質が違う)。
    そのうえで・・absinth先生の憤慨も分かるんですが、新研修制度で数ヶ月(数ヶ月居れば長い方ですね)の御滞在なんて、まあ、はっきりお客様ですわ。おもてなしして気持ちよくお帰り頂くってことで良いのでは無いでしょうか。
    どういう技であれ、高度な技の凄さが分かるにはそれなりに見る側も高いレベルに達してなければならんです。その高みに達する前に先生の元へ現れてしまっても、先生の医療の高みを本当に理解するのは不可能だから、それってもう縁がなかったってことです。縁なき衆生は救いがたいですよ。
    それと真面目な話、定時に帰れない勤務実態って、やっぱりシステム的に間違ってます。
    うちのNICUでは時間外に主治医を呼ぶのは子どもが死ぬときだけだ、と、私は今の病院に就職したときに部長に言われました。あとは当直医が全部診るのだそうで・・・当直医が全部診れるくらいに情報を共有して同じレベルの診療が出来るようにしておくべし。病状説明さえ当直医が出来るようにしておくべし。・・・まあ、建前ばかりで現実にはけっこう呼ばれまくってますけど、理屈のうえでは正しいことだと思いますよ。
    何たって超未熟児は出生予定日に到達するのさえ3ヶ月掛かるわけですから、ずうっと泊まって診てるわけにもいかないし。

  • こうして小児科医が潰れていく

    こういうダイヤモンドを石炭の代わりにボイラーで燃やすような消耗戦はいい加減に止めるべきである。
    はっきり申し上げるがこの様子ではMari先生に輝かしい将来などありはしない。精々、時々出てくる嫌味な上司程度の医者になって後進の愚痴のたねになるくらいが関の山である。あるいは疲れ果てたところへ現れる平凡な男が王子様に見えて再来年くらいで出産退職して余生を家庭の主婦で送る程度である。小児科医にとって自分の子どもを育てるというのは貴重な体験である(子どもの夜泣きに泣かされたことのない独身医師に育児相談なんてちゃんちゃら可笑しい)と言えば言えようが。自閉症児ならさらによい。
    けれどね。MARI先生がそれを目指しておられるようには私には思えないのだが。

    (さらに…)

  • 機械使えばいいじゃんってのはお気楽すぎるのか

    重度心身障害学会1日目
    一日目の最初から呼吸管理のセッション。
    一般演題はこれが聞きたくて学会に来たのだ。旭川に昨夜のうちに到着することにこだわったのも呼吸管理のセッションが初日の朝一番に始まるからなのだ。
    しかし始まってみると、ふだんNICUで人工呼吸器を普通に扱っている感覚では、この学会は随分場違いだ。

    (さらに…)

  • 小児科学会の認定医(専門医と読み替えるらしいが)

    若い小児科の先生が京都に小児科学会の専門医試験を受験にお出ででした。
    この大学は専門医も取ってない若い者に大学小児科の看板背負わせて外来に出すのかい?と、大学の度胸の良さには感服しきりですが・・・
    まあ、頑張ってる若い先生には罪はないし。
    日記の端々に荷が重すぎるのが見えかくれしてちょっと痛々しい気分になります。
    私の日記ももっと練達の目にとまればそう見えるんでしょう。
    なぜか小児科学会は京都で専門医試験を行います。
    毎年なのかな。それとも仙台か札幌かと隔年でやってるのでしょうか。
    この先生たちみたいに、ちょっとした息抜きをさせてやろうってところなのでしょう。
    泊まるところも沢山あるし。交通の便も良いし。
    医師免許が「白帯」専門医は「黒帯」みたいなものです。
    専門医って体感的にちょうど「初段」程度です。
    ・・・って私が段位を持ってるのは子供習字だけですけど。
    柔道の黒帯みたいなもので、締めてて当たり前の資格になりつつあります。
    黒帯をつけないのは初心者か、黒帯も取れない下手くそか、講道館柔道を相手にせず独自の道を究める武道家か。

  • 頑張っている医学生が居ますよ

    歯医者の医学生日記(趣味含む)
    凄く頑張っておられます。歯科医として訪問診療しつつ医学部で学んで居られます。
    今は麻酔科の臨床実習中。
    僕が学部生の時はここまで充実した臨床実習はしてなかった。
    この人が優秀だと言うだけではなさそう。提供される実習の濃さが違う。
    システムがどんどん進化しているんだ。
    うかうかしていると、後進の若い医者たちはとんでもない完成度で世に出てくるぞ。

  • それでも私は患者を治すのだ 自分が生きるために

    不幸になれる権利 あるいは病気になる権利 死ぬ権利
    一昨日に突然母体搬送されてきてその日に出生した22週の超早産の赤ちゃんに、2日間付き添っていました。昨日の午後に大量の肺出血をおこし、この未明に亡くなりました。
    この子の誕生から死まで約37時間のうち、33時間ほどをNICUで共に過ごしました。人の一生を通しで最初から最後まで見届けました。つくづく因業な商売です。
    この子の一生は何だったのだろう。私は問わねばなりません。私は傍観者ではないから。私がこの子を生かすと決めたのですから。分娩に立ち会い、分娩の衝撃で止まりかけたこの子の心臓を動かしたのは私ですから。自分が神だとか人だとか言ってられません。私にはこの子の生に責任があります。
    自分は何のためにこの子を生かしたのだろうと、私は問わねばなりません。集中治療というのは決して痛くも痒くもないものではありません。耐え抜けば良い結果が待っているという前提があってこその母子分離であり気管内挿管であり動脈静脈ラインであり経管栄養です。孤独な保育器の中での集中治療しか経験しない生というのが、果たしてこの子にとって最善の生であったのかどうか、私は問わねばなりません。
    代替案としてどのような生があったか。蘇生を最初から試みないという選択肢があったかもしれません。分娩後、そのままお母様に抱いて頂き、お父様やお兄さんお姉さん(1人ずついらっしゃいました)の見守る中で、ひっそりと数時間、ご家族で静かに過ごして頂くという選択肢があったかもしれません。私もそれなりに悪党ですから、それが刑事事件に発展するようなヘマはしません。それなりの経験を積んだ新生児科医としての私には、蘇生は不可能と判断しましたと証言する権威があるはずです。そもそも、22週というのはそれくらい厳しい週数なのです。
    この子に挿管したとき、長期生存し退院してご両親の元で楽しく暮らせるようになると言う見込みを私はどれくらい持っていたのでしょう。正直申し上げれば、うちのNICUで生き延びた子のうち最も早産の子でさえも24週です。22週はおろか、23週でも生存退院した子はありません。傍観者の立場で冷徹に(幾分かシニカルに)考えるなら私如きが手を出すべき週数ではありませんでした。でも京都のNICUに人工呼吸管理可能な空床を持っていたのは私らだけでした。京都府外へこの母体搬送を送り出すのは無理でした。途中で墜落分娩してそのまま亡くなるのが目に見えていましたから。
    立場上、分娩に立ち会う小児科医は赤ちゃんを生かしに来るのです。母体搬送の紹介元の産科開業医の先生も、赤ちゃんのご両親も、搬送を受けた当院の産科勤務医も、みんな、私が赤ちゃんを生かしに来るものと思っています。それが当然であると思っています。このシステムの流れに乗ってしまうなら、私にとって一番楽なのは、蘇生して全力を挙げて集中治療を施し、結果は赤ちゃんと天に任せるという、まさに今回私らがとった方針でした。
    私に何ができたでしょう?
    ひょっとしたら、分娩前に産科医に断ってちょっとご両親とお話させて頂けたかも知れません。うちの病院のNICUでの在胎週数別での生存率をお話ししたうえで、蘇生を控えるという選択肢があると提案させて頂けたかも知れません。おそらくご両親はそのような選択肢があるとは思いつきさえしておられなかったことでしょう。その選択肢を提示してこそのインフォームド・コンセントというものでしょう。
    しかしそれで私の責任が軽減されるのか?
    それは虫の良すぎる話です。
    ちょうどクリスマスの頃に生まれる予定であったこの子が、いきなりこの夏の暑い盛りに超早産児として生まれてくると、ご両親が予期していたはずがありません。母体搬送の当日まで、今日中に分娩することになるとは思いもつかなかったはずです。
    それに、親として、我が子を蘇生するかしないかの選択を迫られるという状況を、そんな過酷な選択がこの世にあり得るという可能性すら、医療関係者でもない若いご夫婦が今日の今日まで想像すらしたことがあったかどうか。
    あるわけがありません。
    この状況のご両親に、後々までそれが最善だったと納得できるような選択ができるほどに、冷静な判断力や余裕が残っていたわけがありません。そのご両親に、この、いずれを選んでも辛い選択を強いるのが、そして子の生死に責任を取らせるのが、先進的な医療倫理と称する代物なのでしょうか。それは単に私が何も知らないご両親に責任を投げているだけではないでしょうか。
    どのみち、この責任を私が肩から降ろすことはあり得ないのです。私は傲岸に虚勢を張って、自分達は(親御さんも含めて)最善の選択をし最善の医療をこの子に施したとの、物語を語ったつもりです。せめてその物語がご両親を癒やしてほしいと思います。
    研修医時代の師匠が、ワシは大嘘つきやからなあ、と笑っておられた意味が、最近分かってきたように思います。

  • ご出産おめでとうございます。

    「萌える」ナース とは?
    超未熟児の分娩は緊急のことが多いです。ちょっと出血したかな?と思って産科を受診したらその足でNICUのある病院へ送り込まれ当日中に緊急帝王切開になるというのが、よくあるコース。お母さんも予定外ならお父さんもなお予定外。仕事先にいきなり連絡があって「奥さんが産科に入院していまから緊急帝王切開です。」なんて言われた日には驚愕でしょうね。おいおい今日産科に行くって言ってたか?ってなものでしょうね。
    数年前うちのNICUで緊急帝王切開で26週898gの超未熟児が出生した折、まだ驚きから覚めやらぬままにNICUに入室されたお父さんに、開口一番、「ご出産おめでとうございます」と挨拶したナースがおりました。超未熟児の入室直後の常で、人工呼吸器を調整してサーファクタント使って静脈ライン2本(末梢と中心と)と動脈ラインを確保して、と、準夜の大忙しの時間帯に私と彼女で奮闘して、彼女もへろへろに疲れていました。
    後々まで、お父さんはそのときの感動を語っておられました。お父さんにとって、この赤ちゃんがこの瞬間に我が子になり、降って湧いた災難の源ではなくなったということでした。この子の病状はこの後も難渋を極め、今も歩くときにはすこし足を引きずりますが、元気に育っています。

  • 医療関係者は今日の内田先生の記事をすぐに読みに行こう

    急変に際して頭が真っ白になった経験のある医療関係者は内田先生の記事を早速読みに行くべきです。今日の「旅行代理店哀話」と、過去の「ゼミが始まったのだが・・・」の二つを。一部引用しますよ。

    こういうときに、どうふるまうかで人間の「器」というものはよくわかる。
    私が知る限り、ほとんどの人はこういう状況に追い込まれたときに、「誰の責任だ?」という他罰的な文型で問題を「処理」しようとする。
    でも、こういう局面で「責任者」を探しても、そんなのまるで時間の無駄である。
    「はい、私が責任者です。今回の件は私が悪うございました。すべて私が責任をもって後始末をぜんぶしますから、ごめんなさいね」
    というような人間が「責任者出てこい!」と言ったらすぐに出てくるようなきっちりしたシステムであれば、そもそもこういうトラブルが起こるはずがない。
    だから、海外でトラブルに巻き込まれたときは、「誰のせいだ?」というような後ろ向きな問いをいくら繰り返してもまるで時間の無駄なのである。
    それより「この窮状からどう脱出するか?」という前向きの問いにシフトしないといけない。
    この「他罰的問い」から「遂行的問い」へのシフトができるかできないかにリスクマネジメントの要諦はある。
    人間の生存能力の高さは、このような局面において、どれほどすばやくかつ快活にこのシフトを果たせるかによって計測できる。