カテゴリー: 医療関係あれこれ

  • 君らは「びじねすまーん」だから

    優秀なナースがいるとシステムがなかなか改善されないという話
    元記事を拝読して、論文もついでに読んでみた。内容は元記事の如く。
    でもこれってHarvardのBusiness Shoolの人が書いたんだよな。Medical Schoolじゃなくて。現場の人っつうよりは管理者層になる人らの系列が書いた論文なんだよね。あるいは、管理者層の人らに対して「貴院の運営にはこういう問題(注)があります」と進言して金にする「こんさるたんと」稼業に進もうとする人らのね。
    (注)たとえば接客がねずみ王国のやりかたを見習ってないとかね。ちゅうちゅう。
    そういう人らにとっては、現場でなんとかしてしまう面々ってのはどっちかというと敵なんだろうなと思う。将来には病院管理者やなんかの経営者を目ざす面々がこういう思考をして、まわりにイエスマンと尻ぬぐいばっかりを置かないよう自戒するってのは歓迎だけれど、コンサルタントのニッチ拡大を目指した意図があったら嫌らしいなと思う。
    どういう現場でもそうだろうけれど現場ってのは恒久的なもんじゃない。絶えず小さな破綻を生じ続け、誰かがその綻びを繕い続けてなんとか維持していくのが現場ですから。いや、仕事ってそういうもんじゃないんですか?優秀なナースが居るとシステムがなかなか改善されんかもしれんけど、居ないとシステムは崩壊するんじゃないかな。改善されんシステムでも動かないシステムよりは遙かにマシだと思うが。
    それは医療の業界にいると当たり前の認識なんじゃないかと思う。私ら医療の業界がとくべつシステム運営に疎いというわけじゃなくて。人体もたとえば血小板やなんかが絶えず血管の微少な破れを補修し続けてないとたちまち皮下出血だらけになるわけだし。そういう日常のメンテナンスが破れた身体(ときには精神)を世話するのがなりわいだと、「とりあえず目前の綻びを繕っておく」ことに関してはBusiness Schoolの人らより敏感なはず。
    加えて言えば、「下手に手を加えてかえって事態が悪くなる」のも臨床にはよくあるお話で。「カイゼン」に関してはまず身構えることにしている。止めてはいけないシステムなら、とりあえず動いているうちは手をつけないというのも美徳の一種じゃないかと。

  • 用語規定では「尊厳死」とは何をさす語なのだろうか

    厚生労働省は、終末期の治療方法を文書で前もって確認しておくことに診療報酬をつける方針なのだそうだ。そのニュースに接して、我ながらいささか単純直截な読書だよなと思いつつも「イェルサレムのアイヒマン」を再読した。
    イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告
    ハンナ アーレント / / みすず書房
    ISBN : 4622020092
    ホロコーストに関するナチの文書には、「絶滅」とか「殺害」とかいう不穏当な言葉は出てこないそうだ。一切の通信には厳重な「用語規定」が課せられていた。

    殺害を意味するものと規定されていた暗号は<最終的解決>、<移動>Aussiedlung、および<特別処置>Sonderbehandlungだった。移送は<移住>Umsiedlung、および<東部における就労>Arbeitseinssatzとされたが・・・(同書67ページより引用)

    <尊厳死>ってのは、用語規定的に、なにか別のもっと露骨な概念をさす語ではないんだろうねと念をおしておきたい。<終末期の治療方法>ってのも何かをさして言う用語じゃないんだよね。本人が望まなかった延命治療ってのは、本人が望まなかった劣等人種としての生なんぞといった下劣な概念と一線を画すものなんだよね。そこで一笑に付そうとしている君、君の着ているのは本当に白衣かい?確かめてみた方がよい。鍵十字のついた黒シャツじゃないことを。

    この用語規定方式の懸値なしの効果は、それを使う連中に自分らのしていることを自覚させないことにあるのではなく、殺害や虚言について彼らが抱いている古い<正常な>知識によって自分のしていることを判断することを妨げることにあった。(同書p68)

    最初のガス室は一九三九年に、「不治の病人には慈悲による死が与えられるべきである」というこの年に出されたヒットラーの布令を実施するために作られた。・・・中略・・・人目を偽り偽装するために注意深く考え出されたさまざまの<用語規定>のうち、<殺害>という言葉のかわりに<慈悲によって死なせる>という言葉が用いられているこのヒットラーの最初の戦時命令以上に、決定的な効果を殺し屋どものメンタリティに及ぼしたものは一つもない。(p86-87)

    引用ばかりの記事になってしまった。何だかうまくまとまらない。場末のNICUに勤務する身では「尊厳死」なんていう大層なお言葉を拝聴することはめったにない。そもそも、医師としてご縁を頂いた方々(赤ちゃんも、むろん含む)の死に関して、私は尊厳があったのなかったのと申し上げる立場にはない。
    以下の情報源に深謝。
    終末期の治療法、意思確認に診療報酬 – What’s ALS for me ?
    これが人間か──終末期の治療法、意思確認に診療報酬 – モジモジ君の日記。みたいな。

  • 週間東洋経済の医療特集

    今週号の「週間東洋経済」が日本の医療の危機的状況について特集している。いろいろな角度から医療の状況を報じているのだが、その記事の一つ一つが深い。かつ、くっきりとピントが合っている。澄んだ空気の中で見ているかのように、問題の細部がはっきりと見えるような記事である。ぴしびしと言い当てられている感触とでも言おうか。扇情ではなく報道に徹した特集と言おうか。医者相手の業界誌にありがちな「これ以上書いても読者は理解できんし、そのくせ怒るし」というぼやけた諦観が感じられない。限られた構成員でほんわかと運営していた分野に、はるか世界と戦ってきた「びじねすまーん」達が颯爽と乗り込んできて、次元の違う仕事をしていったという態である。
    経済誌って凄いなと思った。井の中の蛙でいままで経済誌って読んだことなかったんだけど、我ながら世界の重要な部分を知らずに過ごしてきたなと思う。痩せても枯れても日本が経済大国だという、その底力の部分をどういう連中が支えているかを今更かいま見た思いがする。ただ、この優れた連中は必ずしも俺たちを救おうという魂胆じゃないかもしれんのよな。彼らの視線の虎視眈々とした色合いには決して油断してはいけないと思う。

  • アメリカは弱いぞという神話について

    映画「硫黄島からの手紙」で、旧日本軍の下士官が兵士に、米軍は確かに物量においては日本軍に勝るかもしれないが、兵士が臆病者ばかりだから恐れるに足りない云々と教育するシーンがあった。
    同様の神話はじつは現在のNICUにおいても語られている。曰く米国NICUはレジデントやインターンが臨床の中心だから、診療が全般に粗雑であると。その点、本邦のNICUでは、年期を積んで熟達した専門医が中心になって診ていると。たとえばHFOひとつとっても、向こうの連中は使い方がわからんからトライアルやっても全然よい結果を残せなかったが、日本で使ったらちゃんと良い結果が出ていると。
    HFOってのは新生児向けの特殊な人工呼吸の方法です。
    それはむろん留学生の見聞とか、発表された臨床成績の良し悪しとか、語る人はある程度の根拠を持って語っているんだろうと思う。しかし不勉強で留学にも縁のない私としては、硫黄島の二等兵同様、そんな神話は素直に聞けない。彼らの孫の世代が現役の新生児科医の大半を占める時代になってもなお、俺らは旧軍の悪癖を克服しきれてないんだなあとさえ思う。
    そんな神話を語ることで俺らは何を手に入れようとしてるんだろうとも考えてみる。いや、むしろ、何かに目をつぶりたくて、そんな神話を語っているのかもしれないと考えてみる。むろん目をつぶっているわけだから、そう語る私自身にもそれは見えていないのだが。
    他人のことならよく見えるのに。映画の下士官は米軍の圧倒的な戦力に目をつぶりたかったのだと思う。結局は「玉砕」という美名の元に全滅するしかない自分たちの運命に目をつぶりたかったのだとも思う。私らは何に目をつぶっていんだろうか。彼らよりも高尚なものにだろうか。
    いやもう、映画にでた海を埋め尽くす米軍の艦艇群の迫力と言ったら。文字で読んだことはあったが、視覚化すると凄いものだね。あれを自分の目で見た人間なら、零戦数機に爆弾抱えさせて突っ込ませるなんていう作戦を立案するはずがない。核魚雷でも持ってこないとあれは潰せない。
    真珠湾を襲った当初の日本軍パイロットは強かったと聞く。彼らは中国戦線で豊富な実戦経験を積んでいた。しかしその栄光も長続きしなかった。技術力の無さと無理な作戦計画がたたって、年期を積んだパイロットは次々に失われていった。
    ガダルカナル周辺では、ラバウルから1000kmの距離を零戦で4時間飛んで空中戦して4時間飛んで帰っていた。ガダルカナル上空で使えた時間が15分間だったというのがなんとも空しい。地上では万に及ぶ友軍兵が飢えに苦しんでいるのに。行き帰りはむろん自動操縦じゃないので、疲労のため洋上で迷って墜落するパイロットが後を絶たなかったという。当直を挟んで連続(最低)32時間勤務とかやってると、なんだかこの話が人ごとではない。我々の場合は(たまにしか)撃たれないわけだし、まだ甘いってのはよく分ってますけど。でも苦労をしてる割には3分診療で、友軍ならぬ患者の皆様にはあんまり愉快な思いをしていただいてませんよね。
    俺らはベテラン揃いだから下手くそ揃いの敵には負けないぞという神話は、緒戦で戦意を鼓舞するにはよろしいかもしれないが、消耗戦になってくるとじわじわとその毒が我が身に回ってくる。熟練に頼りすぎると、いかに非熟練者でも戦えるようにするかという工夫がおろそかになる。速力があって防弾も利いた戦闘機の開発やら墜落者の捜索システムの構築やらといった実のある対策をしなくなる。あげくに最寄りの基地から1000kmも離れた位置にいきなり戦略拠点を築こうなんて無茶なことを考えたりする。旧軍の場合は、物資も技術力も(おそらく知恵も)無かったんだから、「実」って言われても無い袖は振れなかったのが実情なのだが。しかし俺らも袖無しを着てるんだろうか。
    ガダルカナルの米軍は、襲撃してくる零戦がまさか1000kmも洋上飛行してきているとは思いもせず、どこか近海に航空母艦が隠れているのだろうと考えてそうとう探したと聞く。現代日本のNICUや救急の当直勤務はむこうの人に言わせれば全くクレイジーなのだそうだが、たぶん、傍目に見れば、我々は、ラバウルからガダルカナルまで零戦で飛んでいた頃からあんまり進歩してないんだろうと思う。
    俺はいまNICUに居るつもりでいて、実は太平洋の上空を零戦で飛んでいたんだな。そういえばスーパーローテート研修医なんて学徒動員みたいな連中が臨床に出てきてるし。そのうちフィリピンまで押し戻されたあたりで、俺らも特攻を命じられたりするんだろうな。とくに彼らスーパーローテート研修医なんか狙われると思う。やっと離着陸ができるようになったと思ったら、僻地の診療所なんかに義務的に駆り出されるわけだ。いやいや義務なんてとんでもない、もちろん本人希望ですよ。嫌だなんて言う奴は大和魂とか医のココロとかが足りない非国民に限られるわけだから、当然みんな希望して行くに決まっているじゃないですか。機銃と無線機を取り外した零戦も同然の貧困な装備しか与えられないというのに。敵艦に到達する前に大半が撃墜されてしまうのに。その出発に際しては偉い人たちが出てきて「諸君に続いて自分たちも必ず後から行く」とか言うわけだ。
    さて、俺らは何に目をつぶっているのだろう。それを直視しなければ、そのうち特攻機に乗せられる羽目になると言うのに。数十年後にはカズシゲの孫あたりが映画に出て、「俺たちは新しい日本の医療を作る捨て石になるんだ。それでいいじゃないか」とか医局で語る君や俺の役を演じることになるのだよ。

  • 病棟では関数電卓を使う

    カシオ計算機 関数電卓 FX-82ES-N
    / カシオ
    NICUではこの関数電卓を使っている。ディスプレイが2行になっていて、1行目に入力した計算式が表示され、2行目に計算結果が出る。入力した計算式と計算結果とが一目で見えるので、数値の誤入力によるミスが防げる。計算式と結果の表示された電卓を他のスタッフに見せることで、「こんな計算式でこんな答えを出したんだけど、これでいいよね」といったダブルチェックも可能になる。
    計算自体も楽である。括弧を使った計算が簡単にできる。超未熟児の総カロリー投与量とか、心エコーを使った小難しげな心機能評価とか。普通の電卓だとM+とかM-とかMRとかいったキーを活用しなければならない分野である。でも、あのキーを活用できてるヒトって、いままで出会ったこと無いんですけど。
    べつに三角関数などを仕事につかう人でなくても、これは買いだと思う。こういう便利なものを上手く導入することが、計算ミスったスタッフにインシデントレポート書かせて懲らしめるよりも、医療事故防止に役立つんじゃないかと思う。

  • NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」に紹介されたスーパー助産師さんについて

    NHKで放送された「プロフェッショナル・仕事の流儀」で、開業助産師さんの紹介があった。自宅で録画してあった番組を拝見した。
    良くも悪しくも、かつての「勇敢な者たちの時代」の人だよなと思った。駄目でもともとの中から僅かでも救えれば賞賛された時代、英雄的な自己犠牲のみが求められた時代の人だ。サーファクテン以前、1500g未満は助からなくて当たり前だった時代の。
    番組のクライマックスで、東京と横浜で同時に陣痛が始まり、タクシーで往復しながら同時進行で分娩介助しておられた。NHKは仕事を同時進行で片付ける超優秀な助産師さんというスタンスでの紹介だったが、陣発中の妊婦さんのそばを離れて早朝の横浜でタクシーを拾う姿は、私には安心して観ていられるシーンではなかった。NICU仕事を終えて帰って観るテレビとしてはもう少し気楽に観られる番組を観たいと思った。複数の助産師が協力して介助に当っていたので、全く誰もいない空白の時間ができているわけではなさそうだったから、赤ちゃんが突然生まれてきたときに介助者が誰もいないという最低の事態は避けられる様子なのが救いではあった。
    しかしそんな長距離を行ったり来たりすることに何の意味があるのだろう。いずれも彼女が妊娠中から熱心にフォローしておられた妊婦さんではあるのだが、それならなおのこと、本番で一緒にいられないようでは手を広げすぎなんじゃないだろうか。どこでもドアを持っているのでなければ、東京横浜間というのは一人で気軽にカバーできる範囲ではないのではないかと思う。私は琵琶湖の西岸より東には土地勘がないのでよくわからないが、たぶんタクシーやタケコプターじゃ無理な程度には広いんじゃないかと思うが。
    それとも東京や横浜の産科医療崩壊は、こんなふうに開業助産師が東京と横浜で掛け持ち介助をしないとお産が回らないというところまで来ているのだろうか。

    お互いに協力を頼みあえる助産師仲間がいるんなら、最初から地理的に無理のない範囲でお互いに分担すればいいんじゃないかと思う。結局この人も「自分じゃなければ駄目だ」という状況を、意識的にか無意識的にか作り上げているのではないか。妊婦さんや周囲の助産師たちが自分に依存せざるを得ない状況を維持するのが、この東京横浜間往復の隠された目的なのではないか。ご本人も意識してはおられないのだろうが。
    自分が替えの利かないスペシャルな助産師であるというビリーフに支えられ、このビリーフを自他共に信じるところから生み出されるカリスマに駆動されて、彼女は24時間365日待機の過酷な生活を続けているのだと思う。「私はこちらのお産を看る。あなた済まないけれどそちらを任せた。なにぶんよろしく」と口に出したとしたら、その時点で、彼女の中の何かがカチッと変化するのだと思う。その変化の際に、たぶん不可逆的に失われるなにものかが、彼女が英雄でありつづけるために必要な何かなのだと思う。
    残念ながら、この「なにものか」は現代の医療が求める完全性と相容れることが困難である。今は救えて当たり前、取りこぼせば糾弾される時代だ。危うい綱渡りを辞さない英雄性は過去のものである。現代の医療には綱渡りをしなくてもよいような段取りが求められる。英雄の時代ではなく、能吏の時代だ。意識して、この「なにものか」に依存しない医療システムを作り上げる必要がある。持続可能な医療を目指すのならだ。
    一部の報道機関の論調には、いまだにこの「なにものか」を崇拝する向きがあるようだが、いい加減彼らには、自分たちが神話時代をノスタルジックに回顧しているだけだということを自覚してもらいたいものだと思う。
    それにしても、激務をこらえる産科医を誹謗中傷する行為は許されない。理由は「思慮が浅い」「思いこみが激しい」といろいろあるだろうが、真実を書くのが記者や新聞の義務である。それを忘れてはならない。

  • こういうケースを引き受けるのは辛いなというお話

    奈良の搬送中事故のような症例の、緊急入院を要請されたら、NICUを預かる身としてはじっさい辛いなと思う。
    妊婦健診を受けておられない妊婦さんで、在胎週数すらわからない。当然他のリスク因子も不明。急激な腹痛というとどうしても胎盤早期剥離の可能性が頭をよぎるわけだが、早剥合併だと生命予後も発達予後もがくんと悪くなる。早産児であればなおのこと。考えれば考えるだに、受け側のNICUにとって気分が楽になる要素がない。
    これまで産前訪問して直接の御面識をいただくなり、自施設の産科スタッフが存じ上げるなりして、お相手の人柄を幾分かでも把握できていればまだしも、このような危機的な状況にあって、どのようなお方か全く分からないでは、おたがいに危機に対処する同志意識が立ち上がりにくいようにも思う。ものすごく身も蓋もない言い方で読者諸賢には恐縮だが、「重篤な赤ちゃんを突然にお引き受けせざるを得なくなり、情報の乏しさから十分な治療もままならず、結果としての予後の悪さを良好な人間関係の得られていないご家族から一方的に責められる」という悲痛な状況がどうしても脳裏をよぎる。
    改めてこんなことをお断りするのはかえって読者諸賢をバカにしているようで、なお恐縮ながら、私は今回の奈良県の妊婦さんがそんな人だと中傷しているわけではない。現場にいるとどうしてもこんな情けないことを考えてしまうということだ。世間の人たちは日本の医療を信用しておられないように思えるが、おそらくそれ以上に、日本の医療関係者は日本の世間を信用していない。医療関係者の一人として、こういうことがあると、それを如実に自覚する。

    だからといって逃げ出すわけにもいくまい。他の大人がこの子に対して責任を負っていないというのは、我々がこの子に対する責任を回避できる理由にはならない。誰かがこの子に責任をとらねばならない。奈良県がどうとか医療費削減が何とか医療崩壊がどうとか、この子こそ、知ったことではない。いや、他の誰がそんなこと言っても私は許しませんけどね、この子に「そんなこと僕の(私の?)知ったことじゃないや」と言われても私は頭を垂れるしかない。誰か言い返せる人居ます?私にじゃなくて、この子に。
    おそらく京都でこういう症例があったら私らにも声がかかる。というか、高槻で止まらなかったら次は京都に来てたんだよね。そしてその夜に京都で最多の空床を公開していたのはうちなんだ。たぶん、現実にうちに声がかかったんだろうなと思う。こういう症例で無視されるようでは、うちはもう社会的な役目を終えたということになるし。我々のNICUはそういう成り立ちかたのNICUではあるのだ。難儀なことに。
    これからも我々は受けると思う。むろん空床があればですけどね。それが崇高な理念なのか商売を続けるための必然なのか分からないけれども。矜持というのか痩せ我慢というのか私には判然としないけれども。
    でも、辛いには、違いない。

  • 1年という時間は十分な時間なのか

    奈良の搬送中事故は残念な結末であった。赤ちゃんの冥福を祈るものである。
    報道に大きく取り上げられたのはこれが奈良県であったからだろう。「また奈良だ!」といった論調で叩かれている。1年間何をしていたのかと、怠慢を責める声が大きい。しかし、これが奈良でなければニュースにもならなかったんじゃないかな。奈良県だけの特殊状況ならむしろ安心なんだけれどもねと私は思う。京都府庁には心胆寒からしめられるべき方々がおられるようにも思う。
    しかしたった1年なのである。むしろ、本腰入れてみたら1年で立派なシステムができました等ということになったら、それこそ、気張ればたった1年でできることを今まで何故に放置していたのかと、怠慢を問われるべきであろう。
    それにしても1年あればこのくらいの作業は進んでいるはずだよという声には、真摯に耳を傾けていただくにしても。

    1年でなにができよう。医学部志望の高校3年生が浪人生なり教養課程1回生なりになる。臨床実習中の6回生が1年目のスーパーローテート研修医になる。2年目のスーパーローテート研修医が1年目の産科医員になる。うん、結構な進歩だよね。でもそれで奈良県の産科医は何人増える?
    こういう症例を遅滞なく受け入れられる救急態勢を作り上げる時間としては、あまりに短い。
    たくましいシステムは微々たるものの積み重ねでできあがっていくものだ。崩壊させるのは一瞬かもしれないけれど。今回の一件で救急隊員から「大淀病院の○○先生さえ居ていただけたら」とかいう声が、もしあがったとしたら空しいだろうなと思った。ベテランの先生に診ていただいて状況把握がもっと迅速に行われてさえいれば行く先がもうちょっと早く決まったのにとか。

  • ロセフィンをハルトマンに入れてはいけないって知ってた?

    いや私は知らなかったものでね。混ぜるのは死に至る重大なミスなんだそうだけど。私が知らなかっただけなら寡聞を恥じるとしても、手持ちの参考資料のどこにもそんな記載がないってのは困ったね。UpToDateにすらvariable stability (consult detailed reference) in LR としか書いてないんだけれどもね。
    特に意識せず生理食塩液に溶いて使ってましたが。そもそもこんな強烈な皆殺し系の抗生剤は滅多に使うもんじゃないんだけどね。新生児には高ビリルビン血症の関連で使いにくいし。
    先の火曜日だったか当直の夜に観たニュース番組で、中国で北京公使が急死したというニュースを扱って、キャスターが、ロセフィンを乳酸加リンゲルに入れるなんてのは絶対してはいけないことだと韓国の医師も言ってると言うと、医療ミスだとコメンテーター勝谷誠彦氏があっさり断じた。彼もたまには韓国人の言うことを聞くんだなと思った。他に何の根拠もなく医療ミスだと断言するとはね。それとも、彼の言動にはもともとこの程度の薄弱な根拠しかないということだろうか。
    来院後いきなり静脈ライン2本確保して生理食塩液と乳酸加リンゲルを投与するような重篤な病態なんだから、急死したらまずは原疾患は何だろうと考えるのが普通だと思うのだが。解剖の結果にしても、原疾患によるものとの区別はどうつけたんだろう。痛いと訴えておられた腹部には何の所見もなかったんだろうか。それが分からないと何とも納得できないのだが。それとも、北京の街角で売ってるサンドイッチは食べると普通に死ぬんだろうか。それはそれで中国当局としては問題にしなければならんのじゃないか。
    しかも患者はただの人じゃなくて、外交のあまり人目につかせたくない部分にどっぷり浸かった経歴の人だし。そのサンドイッチは特別に砒素とか混ぜてあったりしなかったのかとか、考えてしまうのはさいとうたかをの漫画の読み過ぎなんでしょうか。

  • それでは俺が過労死するのは俺のせいなのか

    若者はなぜうまく働けないのか? (内田樹の研究室)
    内田先生の説諭で、かつての俺か過労死しかかってたのは「自己責任」だったということがよくわかった。俺は自分でも知らないうちにイラクに行っててムジャヒディンな諸君にとっつかまってたらしい。やれやれ。
    正確に言おう。若い人が過労死しても団塊の世代の奴らは自己責任だとしか言わないってのが、よおおおおおおく分かった。実によく分かった。自己責任だと言えばいい理論武装が着々と進んでいるんだ。戦慄の事態だね。もう一つ、倫理的な正しさと論理的な明快さというのが全く別物だと言うことも、内田先生に教えていただいた。全くこの先生には学ぶところが多い。いろいろな面で。
    内田先生の論理が通用するのは、職場のみんながみんな一人前以上に働くという前提があってのことじゃないかな。無人島に流れ着いた一家なら家族の皆が皆それなりに働くだろうが。各々の良心を各々が信頼できるだろうがね。スイスのロビンソンが全くの赤の他人ならあそこまでまとまれたかね。赤の他人なら各々が必死になって貝殻を探してきたんじゃないかね。食器がないから巧く食えませんなんてお行儀のいいこと言ってなくて、さ。家族全員分の貝殻を拾ってくるくらいの智慧が自分に働かなかったことを恥じろよ親父!(とか言いながらその親父の職業が医者だったことを思うと私は穴があったら入りたい)。
    そんなぬるい小説だからクルーソー氏の漂流記ほど売れなかったんじゃないかね。
    無人島に流れ着いて自分らで働かないと食い物すらないって時に、のほほんと寝てる奴が居るような状況ならどうよ。寝ていた奴らに、必死に働いた人間が、寝ていた奴らの分まで働かなかったからとなじられたらどうよ。必死に働いてようやく一人喰っていけるかどうかの食料をかき集めたときに、「努力の成果は占有してはならず、つねに他者と分かち合わなければならない」とかなんとか言ってそのかき集めた食料を寝てた奴らに強奪されるのが、それが「社会のルール」なのか?

    「お前は当直中に回診しておくと明けには効率よく休めることに気づいたのだね?」
    当直医は誇らしげに「そうです」と答える。
    すると診療科長は厳しい顔をしてこう言う。
    「では、なぜお前は患者を全員回診しようとせずに、自分の分だけ回診したのだ。お前には当直明けに休む資格がない」

    私は39歳くらいの現在でもこんなエピソードにでくわしたら、「がーん」とするだろうね。たぶんほかの業界の人でも、内田先生とか雑誌社の人に「うまく働けない」責任が自己責任だよと言われた人には、がーん、とするひと多いんじゃないかな。
    とか何とか書いておいて読者諸賢には拍子抜けされるかも知らんけど、私自身はこれまでけっこう戦ってきたから、いまじゃそれほど臍をかむ思いはしなくて済むようになってはいる。NICU入院患者全員を一人で受け持たされてた時分にはつらかったですよ。むしろ今後はパラサイトミドルにならんように自戒せにゃならん年代なんだけれども。いやいや内田先生の説諭は実に勉強になる。でも内田先生の今回の記事が、若い人らの生き血を吸う奴らに力を与えることのないように、切に願う。それが「一般ルール」だと言うのなら、変えるべきはルールのほうである。