カテゴリー: 医療関係あれこれ

  • 病院で暴れる人への対応 私論ですが

    あらかじめお断りしておきますが、私は何処で何があったとは一切書いてません。
    読者諸賢が何をご賢察になろうとも、それはあくまで皆様のご想像に留まります。
    あくまで一般的な状況に関して、私は語っています。
    さて。
    病院内で暴れる患者・関係者への対応について。あくまで私論ですが「躊躇無く警察を呼べ」という対応がベストなんじゃないかと。主張ではなくて、そういうことを考えました的なメモとして、この記事を書きました。
    警察を呼ぶのに何を躊躇うのだろうと思います。肩書きはある癖に背後で眺めてただけの人に「病院職員にも実際の危害は及ばなかったし器物損壊もなかったから警察を呼ばなくても良かった」みたいな事を言われると、恐い思いをした身には大変に辛いです。不信感を覚えます。また例えば、被害者が加害者の身内だったなど、実際に暴力を受けた人が加害者を告発する意思に薄いと推定されたとしても、それはあくまで推定に留まるわけで、その被害者の方から、有効な手だてを打たなかったことを手落ちとして非難された場合、病院はどう弁解するんだろうとも思います。
    医者ってそういう暴力的な人への対応に「手慣れている」というタフさを演じて得意がる傾向があるんだなと思います。医者がそういうサラリーマン金太郎的な自演をしても寒いだけなのに。そんなに胆力があるんならあの時云々とは私は決して申しませんが。ええ。そういう状況があったなんて決して申しません。まあ一般論としてね、その時点では何もしなかった人間が、確かに立場上は第一当事者にはならないですむ立場だったとしてもね、後になって「あの相手は弱そうだったしその気になれば制圧できた」なんて言ってもねえ。ええ。繰り返しますが身近にそういう卑怯者が居たなんて決して申してませんよ。そんな奴って居たら不愉快だなあ、という話です。
    「前の病院でも再々ヤクザが暴れることがありましたが、そういう時の対応としては警察を呼ぶんじゃなくて・・・・」としたり顔に仰られても、そういう微温的な対応をしてたから「再々ヤクザが暴れる」病院に成り下がったんじゃないかとしか思えない。あの病院では暴れた方が話が早い、みたいな噂や雰囲気が伝播してね。ええ、「できるだけ大多数の職員を集める」は正解です。人数で圧倒するほうが暴力は少なくなるでしょう。火事だって消防署から来てくれるまでは自分たちで初期消火するものだし。でもそれって消防に電話しない理由になるんだろうか。「相手の言動をカセットテープに残して後の証拠にする」も良い手段ですね。でも「後の証拠にする」って、証拠を保管するだけですか?後でって仰っても、病院で暴れる人が「後で」法廷とかの論争の場を準備してくるとでも?暴れる人ってその場での言い分を通してしまえば、「後」なんて無いことが大概じゃないんですか?いや、私は知りませんよ。私は「ヤクザが再々暴れる」病院になんて勤務したことがないし。
    そういうことを後で言われる一々が、頑張って事態に対処したにも関わらず「胆力」の無さを小馬鹿にされているような気分にさせられます。
    私はおよそ「暴力に訴えて言い分を通す」という態度とは縁のない育ち方をしてきました。至極当然のことだとは思いますが、私の親は子を撲る親ではありませんでした。それに、私の握力は高校の時でも30kg台、背筋力は70kg台。俊敏さにも欠けますので、およそ暴力で他人に言うことを聞かせるなんて、私の人生では選択し得るオプションではありませんでした。
    そのためでしょうか、私は目前で誰かが「切れる」と、たとえそれが自分に向かうものでなくても、その光景に接するだけで大変な圧迫や恐怖を感じます。まして、誰かが誰かに実際に暴力をふるう現場に行き会わせると、膝が本当に震えます。それは出生したての赤ちゃんが仮死状態でも冷静に蘇生できるっていうこととは違うと思います。患者の生死の境目でビビる医者はその胆力を疑われても仕方ないかも知れません。私だって他の医者からアンビューを取り上げたことはありますよ。でも、暴れるヤクザの相手ができるできないの胆力なんて、私にそんなもん期待されても困ります。それ相応の方々の助けを呼んで頂かないと。
    そりゃあ、健さんが演じる「過去のありそうな人」みたいに、そういう暴れる相手に一言「止めませんか」と声を掛けるだけで相手が黙ってしまうような、そういう迫力があったら、いいなと、それは憧れますよ。そのために網走番外地まで行く気はないけれど。
    暴れる相手の言うことを聞くか聞かないか。いや要求を呑むという意味じゃなくて、そもそも耳を貸すか貸さないかというレベルで。相手がふっかけてくる論争に乗って説得を試みるのがよいのか、論争には一切耳を貸さず、ひたすら「静かにしろ」「暴力を止めろ」を繰り返すのがよいのか。むろん「あなたの言動から私は身の危険を感じている」「あなたの言動は正常な医療業務を妨げている」ということはきっちり通告するとして(それでも止めない相手には、こちらへの脅迫とか威力業務妨害の意図があると見なすとして)。そこはまだ私も結論出せません。真摯に相手の言うことに耳を傾けるのが誠意ある対応というものなのかもしれません。でも、論争に乗ってしまうと、こちらの態度が100点満点で一点の瑕疵もないというのでない限りは形勢がどんどん不利になる。だいいち、暴れる本人だって何か言いたいことがあって暴力に及んだわけで、その論争に耳を貸すのは、即ち暴れる利得を認めたことになるんじゃないかと。それはすなわち、次の暴れる人が出現する下地を作ることじゃないかと。ここんところはよく分からない。
    なにやかや、そういう状況への対応のしかたを教示した文書ってなにかないでしょうか。ご紹介願えれば幸甚です。

  • カラマーゾフって何ですか

    スーパーローテート研修医に真顔で聞かれた・・・・・・・・
    J J Paris, N Graham, M D Schreiber and M Goodwin.
    Approaches to end-of-life decision-making in the NICU: insights from Dostoevsky’s The Grand Inquisitor. J Perinatol 26: 389-391
    なる文献について話していた時でした。文献の要旨としては、「回復の見込みのない赤ちゃんの人工呼吸を中止するなんていう決定は、とくに親としてそういう決定を求められるってのは人間一般の心情として過酷すぎる要求ではないか」というもので、多いに首肯できるものではありました。といいますか、これまで自己決定できない奴は自分の当然の権利を放棄する腰抜けだみたいな倫理観を世界中に押しつけておいて、この期に及んで今さら何を言い出すんだと苛立ちましたね。こういう議論はとっくに終わってるんじゃなかったのかね。
    いやあ今さらカラマーゾフなんて持ち出してるけど向こうの奴らってカラマーゾフ読んだことがなかったんかねと、研修医に振ってみたんです。勉強が忙しくて古典なんか読めないんでしょうねという感想が当然頂けるモノだと思ってたんですがね。彼女の答えが、「先生、カラマーゾフって何ですか?」でしたね。
    参りました。もう海の向こうの面々の倫理とか教養とかもう二の次です。私はいったいどういう若者たちをこれから相手にしなければならんのだろうかと、目眩がしました。
    ドストエフスキーの小説じゃないかよと言われて、ああ、と思い出されるようならまだ救われたんですがね。いくら生命倫理の話をしてるったって、医局でいきなりロシア文学の話がでるなんていう文脈は読めなくても当然だし。でも「カラマーゾフの兄弟」って読んだことないの?と聞かれても手応えなし、どう見ても、そういう古典文学の存在を知らない様子でした。
    いや読んだことがないのは別に恥じる事じゃないかもしれんですよ。確かに大部な小説ですしね。でも、その題名すら聞いたことがないってのは、およそ医学部を出て医師免許とった人間の一般教養としては、すこし貧しすぎるんじゃないかと思いますがね。知らないという告白も、もう少しおずおずと、恥ずかしげになされるべきものじゃないかと思いましてね。
    2言目に、「いやドストエフスキーって暗いというイメージがありましてね」と続けられて、これで彼女がドストエフスキーを一冊も読んでないってのが明白になったんですが。
    そりゃ貴様こそ大学時代にドストエフスキーなんて読んでたから今になってそんな場末のNICUで燻る羽目になるんだなんて言われたら、たしかに御言葉ごもっともではあります。彼女らが、ドストエフスキーを読む時間を潰して他の何かの教養を身につけておられるのなら、それはそれ、尊重するべきではあります。ひょっとして医学の修練のためにはドストエフスキーよりも為になるものを身につけてこられたのかも知れませんしね。でも、まあ、産科で干されてる間に本の一冊でも(カラマーゾフは新潮文庫で3冊だけど)お読みになってきたらと、嫌味がのどまで出かかったりはしましたね。

  • 我々に与えられるのは「彩雲」なのか

    未熟児:死亡率に差…専門病院間で0~30% 厚労省調査
    の記事にある、「死亡率の低い病院の治療を普及させて、全国的な死亡率低下を目指す。」という下りが気になる。どういう治療法が出来上がるんだろう。そりゃあまあ、さぞや優秀なマニュアルが出来上がるんだろうけれども。
    呼吸管理は慢性肺疾患の少ないこの施設の管理法を、急性期の循環管理は脳室内出血の少ないこの施設の管理法を、と、各施設の継ぎ接ぎになるんだろうか。それとも、際だって優秀な特定施設の方法論をまるごと各施設へ移植するものなんだろうか。
    そういう、天から降ってくる絵には、胡散臭さを感じる。この絵を飾ればうまく行くはずだと言われそうで、うまく行かない時は功徳とかヤマトダマシイとかが足りないとも言われそうで、その絵って「彩雲」じゃないでしょうねと突っ込んでみる。国力の無さを秘密兵器で逆転しようと画策した敗戦前の軍部と、同じ発想にはまりつつあるような危うさを感じる。
    「彩雲」は旧海軍が設計した偵察機である。設計上は極めて優秀な飛行機なはずだった。南方の飛行場も航空母艦もつぎつぎに失って、本土から長距離の偵察機を飛ばさざるを得なくなった日本海軍にとっては救世主なはずだった。しかし実際に現場に降ろしてみると、生産しにくく故障はしやすく、戦場で信じて飛ばせる飛行機ではなかった。事情は以下のサイトに紹介されている。若干過激なところのあるサイトだから、よい子の目のある場所では開かない方がよいかもしれない。
    反米嫌日戦線「狼」(美ハ乱調ニ在リ): 日本海軍の傑作偵察機「彩雲」は飛べない飛行機だった!
    孫引きになるが結論部分を引用する。

    『性能第一主義は機体、発動機、プロペラなどの組み合わせを、それらに実用性があるとないとに拘らず、性能上最も優秀なものを選んでしまい、とにかく安全に飛べる飛行機を早く大量に作ることを忘れていた。その結果、競争用の飛行機や展覧会への出品機ならともかく、戦争に役に立たない飛行機が出来てしまった』(日本航空学術史1910-1945より)

    戦争のアナロジーで医療を語るのは些か下品かも知れないが、僕らだってNICUで競争や展覧会をやってるんじゃないんで・・・そりゃあ医療をやってるんだけど、臨床は展覧会よりもどちらかといえば戦争なんで。

  • 極低出生体重児の死亡率に格差があるそうな

    ふだん拝読しているブログ「新小児科医のつぶやき」経由で以下の新聞記事を読んだ。

     出生体重が1500グラム以下の未熟児「極低出生体重児」の死亡率に、専門病院の間で、0~30%まで差があることが、厚生労働省研究班(分担研究者・楠田聡東京女子医大教授)の調査で分かった。平均死亡率は11%で欧米より低かったが、脳の出血や肺障害を起こす率も差が大きく、病院による治療法の違いで差が出た可能性がある。班は死亡率の低い病院の治療を普及させて、全国的な死亡率低下を目指す。


    次の段落を読むと、これは「総合周産期母子医療センター」の調査だそうだ。だものでちょっと他人事気分である。うちは総合じゃないし。だもんで、Yosyan先生よりはセンターに対してちょっと辛口。貧乏病院の僻みでね、年間何千万円から補助もらってるんだから成績評価の一発もやったっていいんじゃない?みたいな。
    でも「死亡率が低い」と「優れた新生児医療をやってる」とはイコールじゃないんですよね。
    例えば23週なんて超早産の子は消化管穿孔を起こすことがあるから、哺乳開始の時は腸管血流にかなり気を遣うんだけど、たとえ消化管穿孔をおこした極低出生体重児でも、当院では他施設に比べて死亡率が低いはずです。なぜって当院は小児外科がないから、そういう開腹して手術しないと救えないような子は他施設に転送ということになるので。不幸にしてその子が亡くなったとしても、「当院での死亡症例数」にはカウントされないことになります。
    でも、当然ですが、転院を引き受けて下さった施設のことを「君ら消化管穿孔の死亡率が高いじゃないか」などと笑うようなマネは絶対できません。まして、「消化管穿孔でも赤ちゃんが亡くならない管理法を教えて」なんて言われても困ります。「消化管穿孔を起こさない管理」なら、ちょっと掴めてきたような気はしてますが、他人様に誇れるほどではないですし。
    今回の記事で報じられたセンター間の格差についても、同様の事情があるんじゃないかと思います。頼りにできる先のあるセンターなら、全てを引き受けなければならない状況におかれた孤立無援のセンターとは、成績がちょっとは違ってくるかも知れません。たとえ総合周産期でも、小児外科に限れば近在の「地域周産期」扱いの大学病院のほうが強いとか、心臓外科なら循環器病センターだとか、いろいろ地域の事情による搬送先があったりするものです。実際、先のリンク先で総合周産期云々施設の内訳をごらんいただいたら、意外に大学病院が入っていません。少人数だけど管理が猛烈に難しい(従って死亡率も高い)一群の赤ちゃんを大学が引き受けて(ほんらい大学病院ってそういう病院ですよね)、総合周産期施設は大多数の平均的難度の赤ちゃんをスケールメリットに物を言わせてお世話している、みたいな状況が現実にあり得ます。京都なんてそんな要素が強いんじゃないかな。
    先に述べたように私は貧乏な中規模私立病院の人間ですから、8桁規模の補助金を貰ってると伝え聞く総合周産期施設には僻みがあるんで、「総合名乗って銭もらうんなら言い訳めいたこと言わんと実績をだしてみろよ」みたいなことも思ったりしてるわけですが。しかし逆に、蟷螂の斧めいた矜持ではあれ、赤ちゃんを救ってるのは我々草の根の地域周産期だとも思ってるわけで、そういう僻みは潔くないし賢くもないと思ってます。
    端的に新生児医療のレベルを比較しようと思ったら、施設間の成績比較よりも、むしろ、地域ごとの成績比較を参考にするべきかと思います。要は、俺たちも数に入れろよって言ってるんですけどね。当該の都道府県で何人の極低出生体重児が生まれてて、どれくらい生き延びてて、そのどれくらいが障害なしなのか。上手くいってる地域では各々の医療施設がどのような配置になっててどのような連携をしているのか。全国を相手にしての医療政策的なお話をするなら、そういうマクロの視点が欲しいと思います。
    って、どの口が誰に説教してるんだか。楠田先生の前任は大阪の府立母子だし。大阪と言えば新生児医療の地域化がむちゃくちゃ進歩した土地ですし。医療施設の網の目が、まるでGoogleのサーバ群みたいなネットワークをつくってますし。そのネットワークの最重要のノードを束ねておられた方ですから、そんなことはお見通しだとも思います。

  • なんでiStatを買わないの?

    CBC&CRP測定器を持ってて、エコーも持ってて、それでもなお、自院で血糖測定も電解質も見れないって、それ何? お金のかけ方間違ってない?
    iStat本体80万円ってそんなに高い?
    先生だって自家用車持ってるでしょ?レセコンも持ってるでしょ?
    簡易血糖測定器なんて糖尿病のお年寄りでも持ってるのに・・・せめてそれくらい何で買わない?
    不思議。すごく不思議。
    意図的に忌避してるとしか思えない。
    見れないんじゃなくて見たくないんでしょうとしか思えない。
    それが日本の外来小児科医療の実情だなんて嘯かれたら大迷惑。
    すみません。ひとりごとです。聞こえよがしですが。
    聞こえてくれたらいいな。応えてくれたらいいな。答えなくてもいいから。

  • 京都新聞さん悠長すぎますよ

    昨日(2006年7月1日)京都新聞のコラム「凡語」にて、「産婦人科の減少」が論じられている。曰く、筆者の奥様が妊娠中、分娩予定日まで2ヶ月近くあるのに陣痛が始まってしまった。

    出産予定日まで、まだ二カ月もあったはず。運悪くその日、連れ合いの母親は外に出かけていた。予期しない突然の出来事に、義父はタクシーを呼び娘と乗り込んだまではよかった。ところがどこに産婦人科の病院があるのか分からない▼タクシーの運転手さんの機転で、近くの病院に運んでもらい事なきをえた。義父の困惑ぶりは後で連れ合いから知らされた。もし、あの時、周辺に適当な産婦人科の病院がなかったらと思うと、ぞっとする

    という状況だったそうで、帰省中のこととて、ふだん妊婦健診に通っているかかりつけ産科に駆け込む訳にもいかず、さぞお困りだったろうと拝察する。
    受け入れた「近くの病院」も奇特な病院だと思う。予定日までまだ二ヶ月もあるっていうとだいたい32週前後とすれば、生まれた赤ちゃんのためにNICUが必要になる。お母さんの身体にも普通のお産にはないような合併症が生じている可能性がある。ふだんから健診などで既知の妊婦さんならまだしも、こういうハイリスクな母子を飛び込みの緊急で引き受けるには、それなりの実力と覚悟が要る。
    どれくらいの実力や覚悟が要るかというと、おそらく現在の京都府北部にはこの母子を緊急で引き受けられる施設は残っていないくらいである。

     府北部では医師の退職などで、市立舞鶴市民病院が二〇〇三年六月から、舞鶴医療センターが今年二月から産婦人科を休止。京丹後市立弥栄病院も四月以降、分娩(ぶんべん)受け入れを休止した。
     舞鶴市内の病院では福井県や宮津市からの来院もあり、年間約千件の出産を扱ってきたが、現在、分娩を受け付けているのは舞鶴共済病院と民間開業医の計三病院のみ。「受け皿は満杯。近隣を含め、さらに休止する産婦人科が増えると受け入れが難しくなる状態」(舞鶴医師会)という。
    京都新聞 2006年(平成18年)6月17日掲載「産婦人科の医師不足続く中 高まる助産師の役割 舞鶴医療センター外来、妊婦ケア好評」より

    これも京都新聞の記事なんですけどね。昨日の論説では、どこか遠くの土地で産科医が減っているかのような、他人事じみた論調なのだが、実際はお膝元の京都府下で、産科医療の崩壊が始まっているのである。京都新聞のこのコラムをお書きになった記者の方は自社記事をお読みになっておられるのだろうか。もうちょっと我が身に引きつけて、自分の問題として考えて貰えたらよいのにと思う。「あの冷や汗を味わわせない知恵がいる。」と結んでありますけどね、その知恵は君も出さないといけないのだよ。子供のおねだりじゃないんだからね。

  • 起訴が妥当か

    明石歩道橋事故、元署長ら3度目「不起訴」…神戸地検
    当直明けに読売新聞で読んだ。社会面では遺族の皆様の不満の声が大きく取り上げられていた。その取り上げられ方が大きくて、なんだか読売新聞は「不起訴の決定はこの遺族の声を無視しているから不当だ」と主張しているかのように感じられた。
    常に不慮の事故と隣り合わせの商売柄、起訴不起訴の決定を遺族感情で左右するのってどうなのとは、我が身に引きつけて、ちらっと考えた。遺族がお怒りだから起訴と決められては医療紛争は片端から刑事事件になるから。やっぱりそこは是々非々、捜査のうえで得られた証拠などから客観的に判断して、業務上の過失があれば業務上過失致死傷なんだろうが、過失がなければ不起訴にするのが当然だと思った。いや、実際の捜査内容がどうだったかは分かりませんから、今回の不起訴が結論として妥当だったのかどうかは申しませんけれどもね。捜査してみて、どう見てもこりゃあ罪に問えんぜと思ったのなら、でも被害者の声が大きいから起訴しないわけにもいかんし・・・という逡巡はしないもんじゃないかなと。
    検察ってどういう立場に自らを置いておられるのだろう。ある程度は遺族や被害者と距離を置いて、「社会正義」の損なわれたところを修復するべく活動されておられるのか、それともとことん被害者の代弁者として加害者側の弁護士と対立するのか。慣れない法律談義で言葉に苦労してますが、なんと言いますか、彼らのこういう起訴・不起訴の決定とか、起訴した上での求刑とかが、それなりに「こんなところがお天道様に恥じないところじゃないでしょうか」と中庸を得ようとしているのか、あるいは中庸を得るのは裁判官の仕事と割り切って、彼ら自身はとことん加害者を厳罰に処そうとしてるのか。大野病院の事件をみてると、段々と後者のほうへ舵を切ってるんだろうなと思っていたのだが。
    しかしね、よく記事を読んでみたら、この人らの部下は起訴されてるんだった。
    なんだか複雑だ。この人らって、医療事故の現場にいたスタッフではなく、院長やら理事長やらの立場にいた人じゃないか。
    実は県立大野病院事件で報じられた、同院の院長先生の行動にはかなり腹立たしい思いをしている。手術開始の1時間後には院長先生は手術室に入っていた。そして「加藤医師に、ほかの医師の応援を頼んではどうかと提案している。加藤医師の返事はなかったという。」ということなんだが・・・・私の正直な感想としては
    あんた医者だろ?院長だろ?子どもの使いじゃないんだろ?
    応援が必要だと思ったら自分の判断で応援を呼べよ。輸血だって院長の権限で20単位だって30単位だって発注しろよ。手術室からふらふら出て行かんと医者ならその急場で何かすることないのかよ。せめてご家族を放っておかず院長の立場で状況説明しておけよ。「予期せぬ出血から救命しようと主治医は懸命に手を尽くしております」とか、この時点で申し上げてあったら、加藤先生に対するご遺族の感情も違ったものになってたかもしれないのに。
    最近拝読している「医療崩壊」(小松秀樹著・朝日新聞社)に、下記のような一節がある。

    自治体病院長の任命権は首長にある。自治体病院長はしばしば首長に近づき、友人となる。一部の自治体では、院長になるための追加条件がある。たとえ無茶なものであっても、患者の要求をそのまま医師に要求できる能力を持つことである。病院長が一方的に患者の立場に立つことは論理的にあり得ない。それは、病院の立場を放棄することで無責任と言わざるをえない。患者の言い分を十分に聞いて理解し、病院の立場から責任を持って誠実に答えるのが院長の役割である。しかし、自治体病院で、首長がきもいりで政治任命した病院長は本当に患者側に立ってしまうことがある。患者の立場に立つ態度を院長があらわにすることを首長は喜ぶ。票になるからである。ところが、院長は自分で診療することが不可能になる。自分の要求することは自分の能力ではできないからである。あるいはリスクを伴うという医療の本来の性質と矛盾するからである。患者の立場に立つ院長はクレームの責任を現場の医師に押し付けようとする。現場の医師は、支えてくれるはずの院長が患者と一緒に無茶な要求をすることに驚愕する。かくして医師は士気を失い、病院を去る。(p168より)。

  • 自分がトラブルシューターであるということを常に意識する

    うまくいったお産には私たちは呼ばれない。
    それを忘れてはいけないと、肝に銘じる。
    私たちが呼ばれるのは、「うまくいかない可能性が他より高いお産」「現実にうまくいってないお産」「お産そのものはうまくいったけど赤ちゃんの様子が何かおかしいお産」、いずれにしても、トラブルの要素が何もない限りは新生児科の出る幕はない。
    街に私の知らない子がどれだけ歩いていることか。いや、偉そうに言いますけど、京都市北部でお産にトラブルがあったときに私の顔を見る確率ってけっこう高いんですよ。でも、例えば新聞の「お誕生日おめでとう」みたいな赤ちゃんの顔写真記事を拝見するたび、毎日こんなに俺の知らんところで赤ちゃんが無事に生まれてるんだなあと、変な感慨にふけることもありまして。
    お産のトラブルで産科の先生に呼んで頂くと、つい、「非道いお産しやがって」と産科の先生を責めたくなることがある。呼ばれるたびにひどいトラブル起こしてる云々。でも、と考えてみる。トラブルがないと私たちは呼ばれない。呼ばれるたびにトラブルがあるのは理の当然なのだ。
    それに、死産でも私たちは呼ばれないはずだ。彼らはあくまでも、私たちの到着まで赤ちゃんたちの生命を維持した「功労者」なのだという視点も、また、必要だと思う。その視点が足りないと、産科と小児科が仲が悪い云々という情けない事態を巻き起こす。
    私たちが呼ばれたトラブルありの分娩1件の陰に、私たちの手に触れないトラブルなしの分娩が100件も200件もあるいは1000件もあり、その全ての分娩を拝見して居れば、おそらくは、私がいま産科に対して抱いている感情よりも、はるかに、私は産科に対して好印象を抱くことになるだろうと思う。そりゃあね、三宅廉先生を追い出すなど京都の周産期はことさら暗黒の歴史が長いんですけどね。でも、たぶん、産科の連中は私が思うよりもよい仕事をしているはずだ。

  • 身銭を切る

    これに対して、出産医療の継続を要望する同婦人会のメンバーらはこの日、市役所を訪れて、市民や市外に住む同病院利用者から集めた署名簿を提出。板井会長は「出産は緊急性が高く、時には母子の生命にかかわる事態もある。市内唯一の産婦人科の存続は全市民の願いです」と訴えた。


    先日からどうもこの署名に関する記事が心に引っかかっている。
    眠い時に不用意に読んで刷り込まれただけかも知れないけれども。
    その由縁をあれこれ考えてみる。婦人会の方々に対して他意はないつもりである。というか、こういう時の他意というものが卑しいものだとは重々心得ているつもりである。
    この署名活動に籠められた熱意は無論尊いものだ。けっして粗末にしてはならないと思う。無関心に放置されるよりは遙かに良い。関心を形にして頂いただけでも、この署名活動は有り難いと思う。
    ただ、その要求は実現不可能だということだけが、この署名活動の問題点である。
    この署名活動の価値を毀損する欠点は、実にその一点だけである。その欠点故に、2万人分もの熱意も、誰かの「前向きに検討致します」という台詞に突き当たって雲散霧消することになる。
    実際に記事はそういう結末で終わっている。市長はやがて「最大限努力は致しましたが」と言い、院長は「医師の確保には努めましたが」と言い、産科はこのまま閉鎖されることになる。実現不可能な要求であるから、市長も院長も、放置したまま事実上の却下扱いにするのに、それほど後ろめたくも感じないだろうと思う。
    そう読めるのは私が捻くれてるだけですか?
    年間分娩数120の施設に産科常勤医2人というのは、現状では維持不可能な態勢である。この施設規模は何とも半端なのだ。平均すれば3日に一人の分娩である。産後5~6日で退院とすれば、病棟には2~3人の赤ちゃんしかいない。閑散としている。この施設を維持できるマンパワーは、さすがの神大も擁してはいないだろう。産科医師を常勤で2人派遣というのは、どんなに大きな医局であっても、「たった2人」と言えるほど些細なことではない。この2人の医者を喉から手が出るほど欲しがっている施設が山ほどあるだろうし、そういう施設の産科医が置かれている状況の過酷さは想像するだに余りある。
    安全かつ便利なお産という要求は正当な要求である。如何に過疎地であれ、お産は身近な施設で安全に行われて当然であると、周産期関連の仕事をしている私も、そう思います。でも正当な要求でも、実現されるべき要求でも、必ずしも容易に実現できるとは限らないわけで。必要なのは声高な要求ではなくて、有能でタフな交渉ではないかと思います。
    婦人会の皆様は要求ではなくて交渉をなさるお覚悟が必要でした。何かを、意図的に、捨てるお覚悟を示されるべきでした。便利さを捨てて安全を希求するか、安全を捨てて便利さを希求するか。いや、そんな二者択一のお目出度い単純さではいけませんね。どれくらい便利さを捨て安全を求めるか、あるいはその裏でどれくらい安全に限度をつけて便利さを求めるか、その落としどころを探ろうとなさるべきでした。
    あるいは、安全も便利さも最大限にと求めるならば、経済的な安価さを捨てなければならない。直接には多大な費用負担の覚悟を。さらには、金の力に物を言わせて近隣の地域から産科医を強引に引き抜くという汚れ仕事への批難を、覚悟しなければなりませんでした。
    現状維持が不可能になった時に、可能にするために何を捨てるか、それを具体的に表明されるべきでした。いや、「何を」はこのさい重要ではないかも知れません。何かを捨てる覚悟があるという決意そのものの表明のほうが、重要なのかもしれません。
    それが当事者としての責任というものだと私は思います。恐らくは、捨てることにしたものによる直接の痛みに加えて、何を捨てるかによって婦人会内部でも大きく対立されるであろう、その対立の痛みもまた、当事者の責任としてお引き受けになるべきでした。
    むろん、婦人会の方々とて周産期医療の経済を分析する専門家でもあるまいし、婦人会の方々がそういう具体的な議論をなさっても、必ずしも正確なものにはならないだろうと思います。大事なのは、医療の利用者である皆様もまた、何をいかほど捨て何をいかほど守るかという交渉の席につくお覚悟があるということを、示されることだろうと思います。

  • 同情するなら金をくれ、だったっけ。

    ある産婦人科医のひとりごと: 加西病院:産婦人科医、来月からゼロに
    2万人署名。その2万人が一人千円だしてくださって、2000万円のお金を作って、招聘した産科医の給与に上乗せしてくれとか、仰って下さらないものかと。あるいは一人5千円出して1億円つくってくださって、産科に訴訟があったらこれを使ってくれとか仰って下さるとか。
    せめて、せめて、招聘した産科医が行った診療の結果を問われて逮捕された時には、減刑嘆願に2万人以上の署名が集まるんだろうねとか。
    疲れてますね私。まとまらない。