カテゴリー: 自閉症

  • 自閉症児の心電図をとる

     中学校の健康診断で怖がってパニックしたらしくて、心電図がとれませんでしたと連絡があった。NICUに名指しで電話してくるもんだからてっきり痙攣でもおこしたかと身構えた。そういう業務連絡は連絡帳にでも書いておいてくれよと思った。
     勤務先の機械を借りて取ることにした。紙に
    「心電図
    1.上着を脱ぎます
    2.ベッドに寝ます
    3.手足に4本つけます
    4.胸に6本つけます
    5.2分待ちます
    6.はずしてもらいます 」
    とプリントアウトした。ネットで拾ってきた心電図のイラストもつけた。「いつにする?」と聞いたら「土曜日」と言うので、「5月24日14時」と手書きで書き加えて、食卓の息子の目の前に貼り付けた。息子は見たくはないが外して捨てる度胸も無しというふうで、ちらちらと横目に見ていた。
    それから数日間、ぶつぶつとこの手順を唱えていた様子だった。「I模型店に寄る」とか自分で付け加えていたらしい。当日は時間どおりにやってきて、処置室のストレッチャーに上着を脱いで寝た。電極は「自分で付ける」と言うので手足は付けさせた。胸部電極は決まった場所があるので私がつけた。記録中は妻の時計を目の前にもって秒読みをしていた。ぶるぶる震えるから筋電図が入る入る。それでもいちおう読めるだけの記録ができたので成功とした。
    帰りにはI模型店に寄ったらしい。

  • 自己診断はあんまりよくないんでしょうね

    息子が自閉症だということで、自閉症についてあれこれ勉強するにつけ、自分にも当てはまることがいろいろあるような気がしているわけですが。とくにコミュニケーションについては、周りのみんなが共有しているコミュニケーションに関わる感覚が自分には決定的に欠如しているような気が、以前からしていましたので。化学者のドルトンは全色盲だったと言いますが、化学者なりの分析力で、世の中の人には色彩感覚という自分には分からない知覚があるらしいと述べています。同様に、自分にもまた何らか欠落した感覚があるらしいと思っています。
    なんだかんだで自分を自閉症スペクトラムのどこかにある人なんだろうなと思っているわけですが、自己診断ばかりで児童精神科の予約はとらずにおります。そもそも予約が一杯で割り込む余地がないのですが、もし仮に精神科受診の機会があるとしてもあんまり気が進みません。今さら正式な診断を得てなにか嬉しいかというと、ただの変人がお墨付きの変人になる程度でしかなさそうなので。正式な診断は頂かなくとも、NICUの看護師さんは継続処方するべき薬の一覧をメモに書いてくれるし、私の仕事に割り込むときは無闇に気を遣ってくれるし。
    それに、まあ、医学生は新しい病気について学ぶたびに自分もその病気じゃないかと一度は疑うわけでして。夕方にくたびれたら重症筋無力症ではないかと思い、手が震えると思えばまた・・・。そういう愚かしい水準のお話なのかも知れません。
    まあ、自分に当てはまるところがあるからと言って、息子が置かれた苦境を容易く理解できるなどと考えるような油断はしないようにしようと思ってます。
    でも私みたいな人は多いんだろうなと思います。でなけりゃGTDがあんなに売れるわけがないと。あれは全くTEACCHで言う構造化の手法そのものではないかと思いますので。「しかし現在、私たちの多くにとって、自分のプロジェクトのほとんどには仕切りがありません。」(@デビッド・アレン「仕事を成し遂げる技術」はまの出版)ええと、これはショプラー先生の御言葉でしょうかそれともメジボフ先生でしょうか。仕事の終わりを明瞭にするってのは構造化の基本のきですよね。たしか。

  • 君らが自身のコミュニケーション嗜癖に自覚が無いだけじゃ?

    先日の自閉症勉強会の質疑応答で聞いた、「自閉症の子どもはコミュニケーションしたくてたまらないんです。脳性麻痺の子が歩きたくてたまらないように、視覚障害の子が見たくてたまらないように、聴覚障害の子は聞きたくてたまらないように」という言葉にこだわり続けている。発言者は自施設で親御さんにそう言い聞かせては抱っこ指導をしてると自慢げに仰ったのだが。
    定型発達の人らにはコミュニケーションそのものが強化子になる。コミュニケーションから何かが得られるからではなしに、コミュニケーション自体に、自己目的化するほどの喜びが得られるわけである。わけである、って訳知り顔に言っちゃうけど、多分そうなんだろうなと、高校時代に群れ集って弁当を食べる級友達を見て思ってたわけだ。私とてブログを書いてたりするわけだし、コミュニケーションに全く喜びが感じられない訳じゃないんだけれども、それは恐らく後天的に覚えた喜びだ。たぶん定型発達の彼らが感じているコミュニケーションの喜びってのは私が感じてるより深い、いわば次元の違うものなんだろうなと思う。多少の疎外感まじりに。20年経っても私は昼飯は1人で食っている。
    定型発達の人らこそコミュニケーション嗜癖という特殊状態なんだよなと思う。まるで蛾が光に集まるように彼らはコミュニケーションに集まってくる。悪いことにはその嗜癖に自覚が無さ過ぎる。まるで酒飲みが下戸に酒を無理強いするように、コミュニケーションを無理強いしてくることがある。酒飲みはまだ自分が迷惑な存在だという自覚がどこかにあるかもしれないが、コミュニケーション嗜癖の人らは世間の大多数だから昂然としている。しかも、これが最大に困ったことなのだが、コミュニケーション嗜癖こそが人類の社会を今のように作り上げてきた基盤であり、その恩恵に与らずには私も生きていけないのである。

  • ええと、私はいま抱っこ法の宣伝を聞いてるんでしょうか?

    児童福祉センターで小児科医を集めて自閉症スペクトラムについて講義を聴いた。講師は児童福祉センター児童精神科の先生で、聴衆は小児科医有志。
    かつて息子に自閉症の診断を受けたおりに、自閉症について親向けの講義を聴いた部屋だった。あれから10年近くたったのだなあと遠い目になったりするわけだが、講義の内容はあんまり変わってないような気もした。三つ組みとか構造化とか。いちばん最初の概論だしね。そうそうコロコロと変転されても困るし、この段階で知らないことが出てくるようではこの10年なにを勉強してたんだという話になりかねないし(いや新生児科をやってたんですよと言えば言えるんですけどもね)。
    今度は小児科医として話を聞く。既に12年付き合ってる自閉症児が居るとはいえ、それは経験症例数としてはあくまで1例に過ぎないわけで、医師としての経験と言うには微々たるものだ。専門として自閉症の診療に当たるなどと身の程知らずなことは到底言えない。とはいえ、保育器の中から診ている子のフォロー過程で自閉症を疑わねばならなくなることも少なからずあるわけで、あるいは保育器の中から診ていた子が他所で自閉症だと言われたといって泣きながら私の外来にやってくるお母さんの相手も多々してきたわけで、勉強はしておかなければならない。
    質疑応答では色々と考えさせられた。自分たちの仕事が京都でどの程度の位階にあると思っているか、その自覚的立ち位置が質問の言葉使いに明瞭に現れる。話者は無意識なんだろうけどもね。特定の有名施設の先生方がそろって、講義の内容をまるで無視して自説を述べ立てるのを聞いててそう思った。まるで自施設は児童福祉センターよりも位階が上だから指導してやろうとでも言うかのような言葉遣い。「うちで作業療法をやるとよくなるんですけど、どうしてでしょうかね」って、開口一番そんなこと聞かれても知るかよと私が講師ならいきなりぶち切れますが。ウイングの三つ組みとか認知心理学の知見とかについての講義の直後に「自閉症の子どもはコミュニケーションしたくてたまらないんです。脳性麻痺の子が歩きたくてたまらないように、視覚障害の子が見たくてたまらないように、聴覚障害の子は聞きたくてたまらないように」とか言われてもね、なに聞いてたんだよ今まで1時間以上、とか問いつめてやりたかったですね。小一時間くらい。果ては自施設で行っている抱っこ指導についてとうとうと述べられる。2週間かかる子もあるけどやりとげるんだそうだ。さすがに講師もたまりかねて、それは本人にとってみれば嫌で嫌でたまらん刺激をなんとか我慢できるようになったってだけだろうし、下手すると30歳になっても抱っこしないと落ち着かない自閉症者になるかもしれんよとやんわりと釘を刺す。ええと、私はいま有名な「抱っこ法」の宣伝を聞いてたんでしょうか。後学のためにそう聞いておけばよかったなと、すこし残念ではあった。

  • ゴミ出し有料化の余録

    京都市のゴミ収集が有料化され、ゴミ回収は京都市指定の袋(有料)でないと持って行ってくれなくなった。
    ゴミ回収が有料化されるのとほぼ期を一にして、息子が進んでゴミ出しをするようになった。ゴミの日には台所や居間のゴミ箱から中身をゴミ袋にあけて、押し込んで括って、ゴミ出し場へ持って行く。大変に役に立つ。
    ゴミ袋が黄色に統一され、しかも京都市指定のゴミ袋である旨が表面に大書されているので、彼の視覚に何らか訴えたのだとは思う。また袋の口も括りやすい構造になっているので、従来の安売りゴミ袋にくらべて作業がはかどるのだろう。さらには、ゴミ集積所に持って行くと、近所から出されたゴミがみんな同じ規格の袋に入って整然と置いてあるので、ますます視覚化・構造化されたのではないかと思う。
    ゴミ収集有料化の思わぬ余録ではあった。

  • 修学旅行

    息子が広島に一泊二日の修学旅行に行ってきた。
    全学年が一教室にいる障害児学級のありがたさで、6年生の先輩たちが毎年修学旅行に行くものだから、6年生になったら広島へ新幹線で一泊旅行に行くものなのだと、数年前から納得していたらしい。
    スケジュールを見たら、広島まで新幹線で移動し、広島では広島電鉄で宮島口の旅館へ移動だそうで。ふつう観光バスをつかうもんじゃないかとは思ったけれど、テツな息子は楽しんだことだろう。まあバスでもそれなりに楽しむけれどもさ。
    問題は原爆関連の学習である。被爆者のかたのお話しを伺うなど、自閉症児にはかなりの難関だろうなと思った。せめて他の子たちの邪魔をさせないようにと、妻が大量に折り紙を持たせた。静かに没頭できる趣味をもってると役に立つ。
    お約束通りに「もみじ饅頭」を土産に買ってきた。妹には宮島のしゃもじ人形携帯ストラップを買ってきた。たぶんに校長先生か誰かの入れ知恵なんだろうけれども、こういうときにお約束どおりの土産を買うというのは大事な勉強だと思う。

  • 命令形のほうが快いらしい

    自閉症の人に一般化できるかどうかは分かりません。うちの息子に限ることかもしれませんが、「依頼」されるのが苦手のようです。「命令」の形で語られる方がよいらしい。
    「テレビを消して」と言われると「消せ」と言い直してから消す。「鉄道データファイル」の今週号を見せてよと言われると「見せろ」と言い直してから自室へ取りに行く。試しに命令形を使ってみると、言い直しはしません。言うことを聞くかどうかは言われる内容によりますが、依頼の言葉で頼まれたときに予想される程度の素直さで実行に移ります。その様子を見ていると、彼は命令形を使われたこと自体に立腹するということはなさそうです。むしろこちらのほうが、ふだん命令形の言葉で人に接するなんて軍隊的なことはしてないので、慣れなくて戸惑います。
    親など目上の人からの依頼というのは実質的には命令ですから、実質的な命令を依頼の形で語られるのは彼の世界観では欺瞞的で許すべからざることなのかもしれません。あるいは、「依頼」されると自分の責任や判断で動くということになりますから、面倒くさい問いには悉く「選べない」という返答で済まそうとする彼には、その責任がたとえ形式的なものであったとしても、ストレスであるのかもしれません。
    定型発達の11歳の男の子に下手に命令形で言いつけた日には臍を曲げること必定ですが、息子は違うようです。その点、横山浩之先生の「軽度発達障害の臨床」で述べられている、「自閉症で無い子どもに、自閉症の扱いをしてはならない。なぜなら、自閉症としての扱いは、自閉症でない子どもには、非常な苦痛になるからである。」という至言が当てはまるようにも思います。
    そういえば、と此処まで書いて思い出しましたが、陸上自衛隊の幹部に登用された若い女性が、自分の父親ほどの年齢の部下(男性)に対して遠慮がちに依頼型で仕事の指示を出していたところ、部下から「命令形で語って下さい。そのほうがやりやすい」と要請されたという話です。この部下の人もまた息子と同じような心情だったのでしょうか。

  • 日曜参観へ行って来た

    子どもたちの小学校で授業参観があった。日曜日なので行ってみた。
    特殊学級で息子が作文を書いていた。作文の題材は先だって行った宿泊授業であった。宿泊の日程表を参照して時系列で書き進めていた。脇で監督している先生が要所要所でデジカメ写真のプリントアウトを出して下さって、それを参考にディテールを埋めていた。参考にしたデジカメ写真を原稿用紙に貼り込んでいたので作品としても読みやすい(まさにブログの書き方である)。
    ちょうど息子の能力に程良い課題かと思えた。家で宿題をやるときはうだうだと文句を言いつつ時にはパニックも起こしつつで進行するが、今回の授業では全くパニック無しに進んでいた。NICUで言えば必要十分の呼吸管理とディベロップメンタルケアでストレスサイン最小限の体重増加良好というところであろう。満足である。
    最近の彼のコミュニケーション能力は「過去にあったことを想起して提示する」という段階が出来始めたところ。しかし「その情報を相手に既に提示したことがあるかどうか・相手が既に知っているかどうか」の考察がまるで抜けているので、周囲としては「同じことを何遍も何遍も聞かされてうんざりする」という段階である。この作文教育が発展して「日記をつける」ところまで行ったら、日記を参照することで、話す内容にバリエーションが増えてくれるのではないかと思った。

  • わかってねえじゃん。全然。

    1.この文脈で「発達障害をもちながら支援の足りなかった人」と言われて、既に施設で日常生活やら就労やらの支援が入っている人のことを持ち出されても、ご回答としてはまるで外してます。それで自分は分かってるって主張なさること自体、外れぶりが痛々しいくらいです。全然納得できません。
    高機能自閉症やアスペルガー症候群といった概念はご存じじゃないのですか?広汎性発達障害を持ちながら知的障害が無いために従来の福祉の枠から外されてきた人たちのことをお聞きになったことはありませんか?
    先天性障害はない、って何を根拠にそのような断定を?今までそういう診断がされてなかったから?現代まで放置されてきたも同然の障害概念ですから、もう50歳近くにもなる方なら診断されてないほうが、むしろ、よくある話ですよ。その生得的な社会性の障害から、二次障害としてアルコール依存症やら来してくることだってあり得ると思います(参考までに、私も、親の会の先輩から「酒は覚えさせない方が良いよ」と忠告されてます)。アルコール依存症に限らず、不適応のままで50歳にも至れば病状はそうとう修飾されてるでしょうね。この方に今からの診断は難しいと思いますよ。午前4時の救急外来でそれを否定診断できるとはとうてい思えません。その後の経過にも、それが問題になったという御言及はありませんでしたね。
    ちなみに、私には、この患者さんの情報が与えられれば与えられるだけ、やっぱり基礎に社会性の障害があるんじゃねえの?って印象を強めてますがね。
    必ずその診断が下るはずだと主張している訳ではありません。例えばそういう医学的考察もあり得るだろうと申し上げているのです。たまたま私は自閉症と新生児に興味を持ってるからこういう切り方をしたけれど、他にもこの方の背景を医学的に考える筋道は幾らでもあるはずですよ。そして、自分の知識や想像力の及ばないところにそういう幾ばくか深遠な事情があるのかもしれんと考えるような、そういう自分の限界のもう少し彼方へ足掻き出ようとする思慮深さをお持ちなら、「こういう人のために」云々の詰まらぬ詠嘆に足を引っ張られることも無いでしょうよ。他に考えることが沢山あるはずです。2年目の研修医にはむしろその方が普通ですよ。
    2.守秘義務は、患者さんから個性を剥ぎ取ることの正当な理由になるのでしょうか。
    医者が診るのは一度に一人。並列に何人か診ていても、その瞬間に診ているのは常に一人。そのはずです。そして、診ている相手は「生活習慣病のホームレス」でも「偽せ生保」でも「コンビニ受診生保」でもないのです。あくまで、一人の顔と名前を持った方。医者が診るのは「プロ野球選手」ではなくて桑田真澄氏であり、「IT長者」ではなくて堀江貴文氏ではないかと思います。
    患者さんの顔と名前が見えておられましたか?
    無我夢中で仕事を覚える最中の研修医さんには過大な要求でしょうか?
    患者さんから種々の事情を剥ぎ取って「生活習慣病のホームレス」に仕立て、個人ではなく半ば象徴化した概念に変貌させ、そこへ便乗して普段「偽せ生保」とか「コンビニ受診生保」とかに感じておられる憤りを重ねておられる。彼自身が「偽せ生保」だったのですか?常習的なコンビニ受診者ですか?どうして彼が他の方々の品行まで責任持たなきゃならない?彼を個人名で語ればそんな連帯責任生じないけど、概念化してしまえば文章の上では連想ゲームみたいに滑らかにつながるんですよね。でもそれをやるのは医者として以前にレトリックとして卑怯だと思いますよ。
    しかもそれを守秘義務と仰る。やれやれ。
    まあ、何だかんだ言って、守秘義務云々の言い訳にたいするお返事はかなり簡潔に要約できますね。「そんなら最初から書くなよ」と。
    3.「最近の研修医」云々についてはご指導賜り厚く御礼申し上げますが、あなた一人に当てこすってるのは読めば分かることですし、他の研修医は誰も応えてないと思いますよ。

  • かつては自閉症も自業自得だった

    あちこち読んで、「自業自得」について思うことの断章を。応える人は応えてください(答えなくてもいいけど)。大半の読者諸賢は応えないだろうから、自分宛の記事じゃないんだなと思って無視して下さい。今日は万人宛の記事じゃないです。すみません。
    ・成人相手の諸先生は「自業自得」の生活習慣病について治療すべきかどうか迷うらしい。少なくとも治療するのに自分を納得させる理由を欲しがるくらいには。現代では道徳的に正しく暮らす人間でないと生存権が認められないらしい。自らの生活に清く正しく美しくない点を自覚なさっている人は、患者さんとして診察室にはいるときは直立不動、右手を斜め上方に真っ直ぐ挙げて「はいる!」と叫んだほうがよいかもしれません。そうすれば多少は真面目な診療をして「頂ける」かもしれませんぜ。
    ・今の仕事に迷うのなら標榜を変えて新生児医療に来ればいいのに。NICUは「自業自得」などと言う偉そうな言葉からかなり遠い。同じ悩むにしてももう少し血の通ったことで悩めますぜ。
    ・かつては自閉症も育て方の問題、親の「自業自得」の問題だった。恐らく当時の医者たちは、肺ガンの原因を喫煙に求めるのと同じくらいに、自閉症は親の責任でなるものだと思っていた。思うだけではなく、実際に親を責めた。当時の医師が自閉症を治療するべきかと迷ったかどうかは知らない。当時の医者は今みたいに世間に自分の迷いを手軽に表明する手段は持たなかったし。まあ、子自身の「自業自得」とは思ってなかっただろうし、診療拒否はしなかったかもしれないね。でも、あんまり目立った成果が(当時のこととて)あがらなくても、それを親御さんに指摘されたら当時の医者はかなり怒っただろうね。お前のせいで子がこうなったのを治療してやってるのに文句を言うとは何事だ!とか。想像だけでそう言っちゃうのはアンフェアかな。けっこう真実味のある空想だと思うけど。まあともかく、今では自閉症の原因を育て方に求める考え方が(少なくとも児童精神科の主流では)廃れてしまってるけど、もしもの話、それが廃れてなくて『こんな育て方を間違った親子のために貴重な医療資源を割くなんて』と医者に逡巡されたら、私は納得できないな。
    ・たばこ40本とか酒1升とか初診で白状してしまう生真面目な正直さに、嗅ぎ慣れた匂いを感じたりするんですけど。それとも、実は80本と2升なのを過少申告したのだろうか。
    ・そりゃあ我々とて聖人君子じゃあないし内心いろいろ思うことはあるんでしょうけどね。聖人君子だけで業界を構成しようったってただでさえ人手が足りないのに拍車がかかるだけだし、聖人君子も希少資源だから医療業界に優先配分というのも難しかろうし。でも内心思うことの中には決して人前に出してはいけない事もあるし、人前に出すならもう少し恥ずかしげに出さねばならない事ってのもあるでしょうよ。悩みを乗り越えて前進するぞっていう決意表明は嬉しいことなのかもしれんですがね、たとえばの話、「今日は午前4時に韓国人が受診してきた。こんな時間にあんないやな国の奴らの診療にあたるのかと思うと仕事が厭になりかけたが、それでも頑張るぞ」と言われて「よしよし頑張ってくれて嬉しいよ」と答えられますかね。私には無理だな。