カテゴリー: 読書

  • 「発達心理学がよ~くわかる本」橋本浩著・秀和システム 人生攻略本

    「発達心理学がよ~くわかる本」橋本浩著・秀和システムを読了した。
    何故に秀和システムが発達心理学を?との疑問はある。装幀や版組はまったくコンピューター関連のノウハウ本のそれである。著者もこのオファーには面食らったという。
    本書については、たしかに、よ~くわかった、というのが一読しての感想である。とてもよく分かる。私が著者と同じく小児科医であって、ものの考え方に共通する要素が大きいせいかもしれないが、たしかに、よく分かった。断片的な知識を系統的に見直す、良い機会を与えられたと思う。皮肉抜きに本書は良書であると思う。
    しかし読んでいて快い本ではなかった。見開き2ページ単位で人生の各ステージを語った本書には、人生をテレビゲームに見立てての攻略本といった趣がある。「人生:アルティマニアオメガ」みたいな。テレビゲームならそれでも良いんだろうけれど、人生ってもう少し奥深いもんではないかと私は思う。本書の見開き2ページ単位で語られる各々のテーマに、古来の哲学者や文学者は生涯をかけて答えようとしてきたのだ。秀和システムの2色刷の見開き2ページで例えば恋愛とは云々と語られても、それがたとえ正鵠を射ていたとしても、実も蓋もないという印象が拭いがたい。
    発達心理学という学問が人生攻略本を書く分野だというのではなく、初学者向けに分野の全貌を語ろうとすればどうしてもそういう本になってしまうのだろうとは、理解しているつもりである。

  • 「脳内汚染」岡田尊司 文藝春秋 いささかセカイ系すぎるのでは?

    岡田尊司著「脳内汚染」文藝春秋を一読した。
    著者は京都医療少年院に勤務する精神科医である。本書によれば、昨今凶悪な少年犯罪が世界的に増加しているのは、刺激の強いメディア、特にテレビゲームが、世界の青少年の心理や認知に悪影響を与えている結果なのだそうだ。著者はとくにテレビゲームの危険性に警鐘を鳴らし、法的規制の必要を訴えている。
    著者のいうゲーム嗜癖のような概念が1疾患単位として成り立つ可能性は否定しない。平たく言えば、そういう病気の人もあるかも知れないねってことです。それは否定できないと思う。アルコールやタバコあるいはギャンブルは言うに及ばず、実に多くの事物に、嗜癖は報告されている。テレビゲームに嗜癖が決して生じないとしたらかえって珍しいことだと思う。実際に本書で著者はゲーム嗜癖の例を何件か紹介しているが、内容を拝読すると、患者さんたちは確かに憂慮するべき状況に陥っていると思えた。状況の深刻さに比して著者の紹介はいささか短すあっさりしすぎではないかとすら思えた。ゲーム嗜癖という疾患について学ぶには本書は物足りないと感じる。医師として学ぶには無論のこと、一般教養として学ぶにしてもである。
    本書では、そうした著者ご自身の貴重な臨床経験に基づく報告をあっさりと端折ってまで、ゲームの魔の手から世界を救おうとすることに重点を置かれている。この著者の執筆姿勢が、一臨床医をもって自認される著者にはいささか大仰でセカイ系すぎるかと私には思われ、残念でならない。
    著者が一臨床医の視座を離れセカイ系に飛翔すると、とたんに文体から独特の香りが立ち上る。相対性理論の誤りとか、地球内部の空洞から北極の穴を通じて地表の侵略を図る地底人の存在とか、特定の民族あるいは職能団体による非公然な世界支配の計画とか、そういった話題を扱う書物に多く嗅ぎとれる類のものである。むしろパスティーシュとして意図的に狙ったスタイルなのかとすら思えるほどに、その手の書物の基本をきっちり押さえた文体である。著者ご自身の臨床経験を語られる部分にはそういう香りがしないだけに、なおさら意図されたものではないかと思えてしまう。
    その文体で著者は、彼しか気付いていない問題について語るが、彼がいかに警告しても世間一般にはなかなかその主張が通らないということも既に見通しておられる。それは問題そのものが持つ構造により世間の人々の目が眩まされているからだとお考えのように、私には読めた。具体的には、嗜癖の対象について悪く言われた時には嗜癖症の患者は無闇に反発する:それこそが嗜癖の病態そのものだという構造である。あるいは、例によってテレビゲームその他のメディア業界が持つ大きな経済力や、あるいは同分野の研究者の臆病さという構造もまた、世間の人の目眩ましに一役買うものとして言及しておられる。自説を再帰的に議論のメタレベルな水準まで踏み込ませてしまうこと、自説に反対するものとしてセカイ的な陰謀とか愚昧な既存学会とかが登場すること、そういう点でも、その手の書物の基本をふまえている。
    そのような飛翔は一臨床医がなすべきことではない。おかげで、ゲーム嗜癖という重要な臨床概念までもが胡散臭い印象を持たれ(本書に対するアマゾンのレビュー諸氏の酷評ぶりを参照)、著者の貴重な臨床経験が生かされないことになっている。確かに、著者は一臨床医ではない。小笠原慧のペンネームで小説を執筆され、「DZ」で第20回横溝正史賞を受賞された人だ。なぜか本書の著者紹介ではこの事がすぽっと抜けているが。文藝春秋からも最近「サバイバー・ミッション」という作品を上梓されているというのに、なぜ無視されたのだろう。

  • 旅行もしてみたいものだと思う

    全ての装備を知恵に置き換えること
    石川 直樹 / 晶文社
    ISBN : 4794966814
    スコア選択: ※※※※※
    NICUに閉じこもる生活と対比して読むから、北極点から出発して南極点までの旅とか、南太平洋やユーコン川でのカヌー旅行とか、本書前半に記載されてある旅行記に特に惹かれた。
    南太平洋で昔ながらのエンジンも羅針盤も使わない航海術を著者は古老に学んでいるという。エンジン付きの船が入ってきてから、身体感覚を駆使する知恵に満ちた航海術が忘れられているとのこと。船の揺れ具合からその波が陸からの反射による波なのか海流なのか潮流なのか(恒常的に流れる海流と潮汐による潮流とは異なるものだとのこと)を判断するとか、聞けば聞くだに神業である。
    NICUでも例えば呼吸機能モニター機能付きの高額な人工呼吸器がNICUに導入され始めてから、赤ちゃんの表情と皮膚色を読み胸郭や腹壁の動きを見つつ呼吸音を聞きつつの細やかな人工呼吸の調整ができなくなりつつある、ってことはないだろうか。赤ちゃんの顔じゃなくて人工呼吸器の画面ばかりを見る医者が増えてはいないか?
    しかしそれはこの分野に古き良き時代があったという前提があって成り立つ話である。実際のところはそういう話はあんまり聞かない。古老の昔語りにはむしろ、「未熟児は生き延びられたら儲けもの」とでも言わんばかりの粗雑さを感じることが多々ある。最新の機器によって赤ちゃんの呼吸生理が解明されるにつれ、昔ながらに見える身体所見の取り方もむしろ精緻になりつつあるように思える。

  • ミッドナイト最終話

    ブラックジャックの日
    前の記事の修正。手塚治虫氏は脳死臨調ではなく、厚生省(当時)の「生命と倫理に関する懇談会」のメンバーでした。失礼しました。
    先日取り上げた最終話は、秋田文庫の「ミッドナイト」第4巻に出てました。ミッドナイト (4)
    手塚 治虫 / 秋田書店
    ISBN : 4253173802
    スコア選択:
    ブラックジャックは、従来は脳死ではないと判定していた患者を、再び検査することもなく「死んでいる」と宣言して移植のドナーにしていました。記憶にあった内容と細部では異なり、「たった今死んだんだ」ではなく、本書では「この患者はもうとっくに死んでいる」という台詞になっていましたが。
    作品世界でブラックジャックがこのような行動を取るのは決して矛盾していません。無免許医ブラックジャックを縛るものは彼自身の内面にある倫理しかないのですから。無免許医であればこそ彼は保険診療にも医師法にも拘束されません。応召義務すら彼にはありません。
    ブラックジャックを無免許医として設定したのは天才手塚の面目躍如たるところです。ブラックジャックが面白いのは、単に彼が天才外科医だからとか金にうるさいからとかではなくて、究極的な技量を持つ医者が社会的な束縛を受けなかったら何ができるかを極北まで追求できるからだと思います。あるいは、そのブラックジャックをさえも束縛するようなものがあるとすれば何か、を考えることが、かなり深遠で根源的な思想につながっていくからだと思います。
    ただブラックジャックが社会的な束縛を一切受けない無免許医である故に、脳死と臓器移植を巡る議論で彼に登場されては困る向きもあるはずです。当時の脳死と臓器移植を巡る議論の文脈では、厚生省に公式に招かれた漫画家にこういう作品を発表されては、推進派はこういうことをやりたいのだなという憶測をまねき、まさにこういう事態が生じるのを避けねばならんのだという意見が勢いを増すでしょう。脳死移植を推進したい立場の人々にとっては、この作品はあまり人目に触れて欲しくないものであったはずです。
    前の記事で私は手塚のミスと書きましたが、彼が一介の漫画家として完結している限りは、この最終話はミスではありません。些か尻切れトンボに連載が終わった感はありましたが。むしろ彼にミスを言うなら、脳死に関する当時の議論の如き、あらかじめ結末が決められた議論に巻き込まれてしまったことこそがミスだったと思います。

  • 「瀬島龍三 参謀の昭和史」

    「瀬島龍三 参謀の昭和史」保阪正康・文春文庫を読む。一人の人間についてたった一冊の評伝からものを言ってはならんのだろうけれども、私はこの瀬島という人に自分を重ねてしまった。
    この瀬島という人は生涯を通じて生粋の参謀であったのだと思う。彼の性根は心底から参謀であった。それも極めて優れた参謀であった。そのことが彼にとって幸福だったのかどうかは疑わしい。心底からの参謀である彼は、上司からの問いには真面目に取り組み正しい解答を出そうと奮闘するのだが、しかし上司の出す問いが状況に照らして正しく立てられた問いかどうかは彼の関心の埒外にある。大本営でも、シベリアの流刑地でも、伊藤忠商事でも、第二臨調でも。
    彼は自ら問いを立てることはない。問われたことに答えるのみである。答えた内容が実行に移された結果がどのようであろうとも、彼にとっては、結果は実行者の責任である。事態が歴史にどのように位置づけられようとも、それは彼の答申を得て歴史に自ら参画した上司の問題である。本書の著者である保阪正康氏は瀬島氏がその体験を語らないことについて批判しているが、瀬島氏自身は、おそらくは、自分には責任のないことを詰問されてもと、保阪氏の批判を理不尽に感じていただろうと思う。
    私は瀬島氏を批判している訳ではない。私には彼のこのような精神性が理解できる。というのも、これは私自身の性根に他ならないからだ。私自身、彼の生涯のどの時点に我が身をおいたとしても、そこで私が取ったであろう行動は彼が実際に取った行動に他ならないからだ。東京裁判で彼がソ連側証人として証言したときですらまだ34歳だったことを考えると、彼の生涯のどの時点でも同年齢の私に替わり得るほどの胆力があるかどうかは些か疑問ではあるが。本書を読むとまるで前世の自分を批判されているかのような気分になる。

  • 戦後60年の「特攻と日本人」

    「『特攻』と日本人」保阪正康著・講談社現代新書は予想外の好著であった。著者は保守系の評論家だし(違うかな)、てっきり、特攻隊員を褒め称え、返す刀で今の日本人を腐すような書物なんだろうなと思っていた。詰まらぬ本だと笑ってやろうと読んでみて、良い意味で裏切られた感があった。
    特攻隊員を愚劣な作戦の犠牲者と位置づけた書を初めて読んだ。というかメジャーな保守系の評論家がそういう位置づけを公然と唱えるのを初めて見た。管見の及ぶ限り、特攻に関するこれまでの言説では、立場の違いはあれ、作戦の主体は隊員たち自身であると見なす点では一致していたように思う。それがどうにもやりきれなくて特攻に関する書物は敬遠していたのだが。
    当時の軍でさえ「特攻作戦は統率の外道」という諒解を持っていたとは初めて知った。美濃部正少佐のことも私は知らなかった。彼は海軍の航空部隊である芙蓉部隊の指揮官であったが、特攻作戦に公然と反対した。芙蓉部隊は沖縄での特攻編成から外れ、彼の部下には通常の戦闘での戦死者はあれ、特攻での犠牲者は出なかったという。こういう軍人の存在を私は知らなかった。あるいは日本で初めての特攻攻撃を行ったのは当時49歳で第26航空司令官であった有馬正文氏であったということも、私は知らなかった。彼は、戦争では年齢の高い者から順に死ぬべきであると言い、自らの機で体当たり攻撃を行ったのだという。何故に私はそういう人々のことを知らなかったのだろう。
    私が不勉強なのみか?陰謀説って浅はかな考え方だとは重々承知しているが敢えて問う。隊員たちが主体的に特攻したことにすることで、あるいは特攻に公然と反対した軍人の存在を隠すことで、あるいは指揮官自らが率先して特攻したのが第1号であるという事実から世間の目を逸らすことで、得する面々があったのではないか?戦後の日本で特攻に関する認識を形成してきた人々の中には、そういう個人的事情を抱えて言論を誘導せざるを得なかった人もあるのではないか?いや、別に私はそういう人を糾弾しようとまでは思わないけれども。保坂氏ははっきりとその人々を一部名指しで批判している。私としては、なるほど今までの私の特攻に関する認識はこういう人々の影響で歪められていたのかもしれないと、保坂氏のおかげで知り得た次第である。糾弾するしないは別として、そういう人々があったと言うことは、知っておくべきだと思った。

  • 今度はパラサイト・ミドルなのだそうだ

    「パラサイト・ミドルの衝撃」三神万里子著・NTT出版には、45歳以上の奴らって働きもせず若手の稼ぎに寄生してるじゃないかと論じてある。昨今は、色々と新種の寄生生物が生物学以外の研究者によって発見されているらしい。しかし本書はパラサイトミドルの惨状に心を痛める人々を相手にした書ではなく(そういう本ならごまんと出てますけどね)、多分、そうなのか俺の周りの45歳以上があんな風なのはそういう訳だったのかと、実体験に照らして頷く人を読者に書かれた本である。例えば私みたいなね。飛びついて買って読みましたよ。自分の周りの年長者見てても、自分の将来の理想像ってのが全然描けませんもんね。ひょっとして私は間違った場所に居るってだけかな。NICUの局所的な居心地の良さに騙されて。本書によればどこに行っても同じなようだけど。どこの45歳以上もうちと同じだとしたらね。
    本書の効能は、単に溜飲を下げるのみならず、何だって今の世知辛いご時世にこの世代がこんな風になってしまったのかという分析を詳細に行ってある点である。その分析が当たってるのかどうかは私にはわからない。でもああいう風にならないためにはどうすればいいと考える一助にはなるかも知れない。全助にしようと思うようなマニュアル発想ではパラサイトミドルまっしぐらなんだろうなとも思う。

  • 街場のアメリカ論 その一

    「街場のアメリカ論」内田樹著・NTT出版がBK1から届いたので読み始める。
    ちなみに書籍のネット通販は可能な限りアマゾンからBK1に乗り換える予定である。アマゾンは梱包が嵩張り過ぎる。
    読み出したところで早速にも書き込むのは、偏に、昨日の記事は本書を読む前に書いたのだよとオリジナリティを主張する目論見なのであるが、しかし内田先生のブログを常日頃読んでいてはあの記事にはどのみちオリジナリティなど私は主張すべくもないのである。あれあれ。私は何を言いたいのか。
    本書に、何故にアメリカンコミックは面白くないのかの論考がある。それは出版社がコピーライツを持って、シナリオライターや画家を雇って描かせているからだそうだ。それじゃあ画家には芸術的想像は無理だ。アメコミの発行部数は年間600万部、日本の漫画の発行部数は年間15億冊だとのこと。

    出版社がコピーライツを占有して、完全な分業制作体制で漫画を流れ作業で作っていること。これは「テーラー・システム」以来のアメリカ産業の標準的システムであり、ひさしくアメリカ社会の強みとされてきたものですが、こういうところでは期せずして致命的な脆弱生を露呈してしまう。作業工程を分割して、各工程では単純な繰り返し作業をさせて、だから担当者をいくらでも取り替え可能にしてあるシステムだと、誰かがいなくなっても、違う人を連れてきて、その工程に押し込めば、システムは破綻しない。そういった機能的分化というものは、すでにできあがったシステムを効率的に運転するうえでは有効です。でも、そこからイノベーションは生まれません。各単位が取り替え可能に構築された分業システムには創造はできないんです。残念ながら。

    新生児医療もそうだよねと思う。
    Journal of Perinatologyの本年9月号で米国発の「腸穿孔を起こした極低出生体重児の神経学的予後」なる論文を読んでいた。論文そのものは私らの業界筋の内容なのだが、その中に「4年間通算で腸穿孔を起こした62人の極低出生体重児では・・・」と論じてあった。4年で62人ってどういう人数だよと思った。私らの施設で過去10年通算でも腸穿孔を起こした赤ちゃんって10人居ないんじゃないか?どういう全身管理してるんだよヘボいなと思ったが、母集団の人数を見たら、そのNICUには過去4年で極低出生体重児が1357人入院してるんだそうだ。平均で300人以上。毎日一人の極低出生体重児。

  • 祭について 「岸和田だんじり祭 だんじり若頭日記」江弘毅著・晶文社

    「岸和田だんじり祭 だんじり若頭日記」江弘毅著・晶文社を読んでいる。耽読すると言うに近い。二度、三度と読む。どこを開いても内容が濃い。

    だんじり祭についての話は、それこそ「なんぼでも」あり、話し出すと止まらないのだが、それをよく分かるにはとにかく、何ごとに関しても「よく生きる」ことが精神において中心命題である、というオーソドックスな「生とは何か」を確認していくようなひたむきさが必要だ。
    「オレが行かんとだんじりは動けへん」「自分一人でだんじりを走らせ曲がらせてる」と思っている個性的な男たちが、けれども決して一人だけででしゃばらずに、諸先輩方から伝承された祭のさまざまな約束事の上で、祭礼組織や祭礼団体の中で、個としてやっていく。
     それは「自分のなしうるものの果てまで進んでいく力」(ドゥルーズ)みたいなもので、だからこそたくさんの男の力が一つの大きな動きとなる、だんじりの姿は何よりも美しい。

    江氏を始め岸和田の人々は毎年の祭を極めて丁寧に扱っている。ご当地なりの荒々しさではあるが。生活は祭を中心に回っている。祭は決して当日だけで完結するものではない。一年掛けて寄り合いを重ね準備をする。準備と言ってしまっては軽々しいような気もする。年間通して生業と祭とを二重に暮らして居られる。だんじり祭の当日はあくまでもそのクライマックスである。まったき平々凡々とした地方都市の冴えない日々がその日だけ相転移するというような軽率な話ではない。その日が来たら観に行って日頃の憂さを晴らしてこようというような使い捨てのイベントではない。
    年齢を重ねるにつれ祭において自分が果たす役割が変わっていく。同じ年齢での祭は二度と無く、従って祭は毎年行われるが一期一会でもある。この祭は二度とない。その掛け替えの無さを全員が知り尽くしているから、白けた人間が居ない。余力を残して事に当たるような怠惰で不誠実な人間が居ない。責任をとるなどという半端な言説を弄ぶ者も居ない。責任は全うするものだ。
    ライフサイクルの中でその時々の位置云々と、書こうとしたがどうにもしっくり来ない。ライフサイクルなどという小規模な個人的視点を中心とした概念ではなく、彼らはもうちょっと高いところから俯瞰した大きな構造の中の一部として自分の立ち位置を考えている。しかし決してそれが自分を矮小化することにはつながらない。その大構造を自分が支えていると思っている。そういう強烈な矜持をもつ人々である。一方でその矜持も出過ぎた姿勢にはつながらない。各人の責任を強烈に全うしておられる。
    祭りの後の物憂げさなど、祭の当日だけやってきて祭を消費しようとしただけの通りすがりが、この大きな構造に当然にも参加できなかったことで感じる身の置き所の無さではないのかと思う。そんな部外者の感傷は詩にはなるかも知れないが祭りの本質を語るものではない。部外者が感傷に浸っている時分には、祭の主人公たちは早速に次の祭へ進み出しているものなのだ。祭が一期一会であるということと、終わった祭を自分一人が終わらせ得ないで居ることとは、決して同じ事ではない。祭は一期一会である故に、終わるときには潔く終わるものなのだ。

  • 「靖国問題の精神分析」岸田秀×三浦雅士 新書館

    東京からの帰りの新幹線で読み始めて本日読了。
    精神分析の人が「自閉」という語を使うと反射的に腹が立つので、私は岸田という人にはあまり好感が持てなかった。しかし三浦雅士さんの語り口が面白くて読み終えてしまった。どうも、この人は基本的に岸田さんを尊敬しているというスタンスで、岸田さんの「岸田理論」を用いて岸田さんの最近の言動(小泉首相の靖国参拝に賛成して居られる)を批判しているらしい。三浦さんの「岸田理論」の読みが岸田さん本人にも否定できないくらい正確で、しかしその読みと応用が正しいと言ってしまうと最近の言動を自ら否定することになるので、岸田さんはかなり困って居られる。岸田さんが「いやそんなことはないでしょう」と言いかけると、三浦さんが「いや岸田さんの「○○」を読んでそう思ったんですと切り返すことが繰り返される。相手を尊敬するスタンスを崩さず相手の言説を用いて相手を論破してしまう。そういう議論の仕方が読んでいて勉強になった。
    国家もまた個人と同じように精神分析で語ってしまえるってのが岸田理論らしいんだけれども、

    岸田 三浦さんの比喩はちょっと過激すぎますよ。そのような譬え話が日中関係に当てはまるとは思えません。まるで日本兵全員が罪もない中国娘を強姦殺人したみたいじゃないですか。
    三浦 国家を個人として描こうとするとそうなってしまうんですよ。

    こんな一節を読むと三浦さんはご本人のお言葉ほどに「岸田理論」を尊敬して居られるんだろうかとも思えてくる。
    岸田さんは繰り返し、人間は本能が壊れているが動物は無用の殺しをしないと仰る。そりゃあ勝手な思いこみだ。例えば竹田津実先生が書かれた「子ぎつねヘレンがのこしたもの」一冊読んでみるとよい。親ギツネに虐待されて重度の障害を負った子ギツネの話である。児童虐待はキツネにもポピュラーなことなのだと竹田津先生は仰る。キツネもまた本能が壊れてるんだろうか。あるいは人格形成に関してブランクスレート的な考え方をして居られるようにも読めたけど、スティーブン・ビンカーなんて人らの説やらプレヒテル先生らの発達神経学やらをどうご評価になってるのだろう。でもこれは私の誤読だろうか・・・だって人間は本能が壊れてるという言説と人格は生後の体験で作られるという言説は矛盾するようにも思えるし。
    一神教云々と語って居られるところも、それって「アンチ一神教」としてそれ自体が一神教と化した言説じゃあないですかと突っ込んで見たくなるんだけれども、岸田さんには「一神教vs多神教」という著書もあるらしいのでそちらをまず読んでから。