カテゴリー: 読書

  • 当直中

    平穏。
    ほんとは忙しかったはずなんだけどな。ちょっと寂しい。
    亡くなった子の退院レポートを書いて一区切り。
    発達外来で参照するってこともなし、簡潔に。
    入院カルテが一過性多呼吸の4日間入院の子のカルテ並みに薄い。
    やっぱ超未熟児のカルテは重量が本人の体重を超えてなんぼだね。
    ライフログに挙げてある「赤ちゃんの死を前にして」をこういうときは読む。
    俺ってお定まりで分かりやすい医者だなと少し自嘲する。
    この本は、凄い語弊のある言い方をすれば、「赤ちゃんの死の取り扱いマニュアル」である。
    赤ちゃんの死に対応するマニュアルがある時代。
    良い時代だ。皮肉じゃないよ。
    そりゃマニュアルに縛られてちゃ一流選手にはなれないさ。でもマニュアル読んでなきゃボール投げてくるのが一塁手だか投手だかってのも分からない。撃ったら1塁方向へ走るのかバックネットをよじ登るのかの区別もたぶんわからない。撃つ前から、そもそもバッターボックスが識別できるかどうかも分からない。バット持って構えたら、君そこは3塁コーチボックスだよなんて言われたりして。あるいは、君それは卓球のラケットだよって言われたりして。その場で言ってくれる誰かが居たらまだ良い。あれー何か変だなーなんてとぼけた事を言っているうちに試合が終わって自分1人間抜け扱いになっているってのは願い下げだ。思い切りバットを強振したらそこは観客席で、お客さんの頭蓋骨陥没の責任を負う羽目になるなんてアホなことになったらなお厭だ。
    このマニュアルについて論じれば、必読書である。一読後に、今までこれを読まないままNICUに居たのかと背筋が寒くなるほどの書物である。値段に0が一つ増えてても黙って買って読め。0二つ増えてたら黙ってなくてもよいから、それでも読め。そういう書物。
    分野が分野だけに、これはエビデンス云々というよりも物語医療の範疇に入る書物である。物語医療には、いつ覆されるか分からん危うさは常に付きまとう。「母性本能」という語がいまどういう扱われかたをしているか考えてみると良い。でも現時点ではこの書物は必読。あとでこれを否定するにせよ肯定するにせよ、この分野にはこれしかないのだから、読まないと始まらない。スタートラインの本である。

  • 「影武者徳川家康」 隆慶一郎  新潮文庫

    帰省中に父の書棚に見かけて読みふけってました。世の中にはとんでもないことを思いつく人があるものですな。虚実を越えて面白い本でした。関ヶ原の戦いの時に徳川家康は実は死んでおり、その後の家康はじつは影武者だったというもの。それが全く虚構というわけでもなくて、そう考えたほうが辻褄が合う史実が数多くあるらしいです。
    時代劇に人生の教訓を読むオヤジにはなりたくないなと思うのですがね。でもこの影武者は恰好良いです。

  • 「ブルー・シャンペン」をNICUで読む

    当直と称して何やってるんですかね。
    昨夜は当直でした。先日生まれた超未熟児の双子を二人とも抜管して無呼吸発作の様子を見ています。腹臥位にすると舌根が落ちないのかかなり無呼吸発作も減って、これはうまく早期抜管に成功したかなとほくそ笑んでいます。それでも当直室で寝ている度胸はなくて、うだうだとNICUで暇をつぶしつつ数時間に1回の無呼吸発作を待っていました。
    その間、ジョン・ヴァーリイの「ブルー・シャンペン」を読んでいました。信じ難いほど美しい小説でした。舞台装置も、登場人物も。月の周回軌道に浮かぶシャンペングラス型のプール、そのプールで泳ぐ金の外骨格を着けた脊損のヒロイン。うわ・・・・・美しいストーリーに負けない卓越したガジェットが惜しげもなく繰り出される、アイディアの蕩尽とも言うべき贅沢な小説でした。

  • 「サイレント・クレヴァーズ」原田武夫 中央公論新社

    朝日新聞の書評で興味を持って「サイレント・クレヴァーズ」なる書を読んだ。著者は外務省に勤務する1970年生まれの男性。ということは私の二つ下か。
    私もこの書に言うところのクレヴァーズの世代である。自分の世代を特別に取り上げて持ち上げた世代論を初めて読んだ。誉められるのはお世辞でも悪くない気分ではある。俺ってそんなに偉かったのか。
    部長の悪口はこの日記の主要な話題である。団塊の世代を敵視するのは我々の世代に共通のことらしいとこの本で知った。興味深かった。了見が狭いのは俺ばかりじゃないんだな。
    ただ、我々の世代が躍進するために何をするかの提言として異業種間の交流会を提唱してあったのは些か腰砕けだった。芸がない。それこそ団塊の世代の得意イベントじゃないか。
    団塊の世代に楯突く振りをして結局は同じ発想をする。反逆する振りをした恭順。ちょっと煙草を吸って本多勝一を読んでみせる生徒会長とか。こんな若い奴は外務省でも団塊の世代の首脳たちに受けが良いんだろうなと思う。骨のある奴とか言って出世するよ。次官になるかどうかはもう入省時点で決まってるんだろうけれど。

  • 「コンピュータが子供たちをダメにする」 クリフォード・ストール 草思社

    今度はこんな本を読みました。
    著者は「カッコウはコンピュータに卵を産む」で自分が管理するシステムに侵入したクラッカーを追いつめた顛末を述べて一躍有名になった人である。2作目の「インターネットはからっぽの洞窟」でネットの空虚さを論じた。本書が3作目。
    コンピュータを熱狂的に教育現場に導入しても教育がよくなるわけではない。売り込む企業が儲かるばかりで、図書館の予算は削られ、子供たちはレポートの中身ではなくフォントに気を遣うようになる。計算練習やスペリングといった学力の基礎が突き崩されていく。云々。確かにそうだよねーと思う内容ばかり。
    僕はチョウについての研究だったら、インターネットからダウンロードした昆虫学の最新の研究を参考に作成されたマルチメディアの展示物より、小学六年生がトウワタの茂る野原でオオカバマダラのさなぎを観察して書いた文章を読みたい。
    でもうちの娘の小学校はコンピュータもそれほど導入しているわけでもないのに計算練習の宿題は自分の小学校時代よりもはるかに少ない。漢字ドリルなんて過去の遺物扱いだ。基礎を反復する地味な教育がおろそかになっているのはコンピュータのせいばかりではないんじゃないか、とも思う。
    「インターネットは・・・」を読んだときは私はまだそれほどのネットジャンキーではなかったし、そんなもんなのかと他人事じみた感想しか持たなかったが、今の生活を思い返せば彼の指摘が正鵠を射ていたのが今更のようにわかる。彼に指摘されたからっぽの洞窟を探検するのに私は随分と時間を費やしてきた。幸いにしてシステム管理者などという恐るべき仕事は引き受けたことはないので「カッコウは・・・」の記述が身に染みることはまだないのが幸いだ。

  • 「天使の代理人」 山田宗樹 幻冬舎

    昨日入手し一気に読了しました。人工妊娠中絶を題材にした小説でした。読み続けるのは怖いけれど中断することもできませんでした。
    小説として緻密に出来上がっています。テーマに夢中になって構成が粗雑になる「問題提起型」小説にありがちな穴が見あたりません。いかにも幻冬舎が出す、プロの小説家が書いた本です。ひょっとしたら、作者はもともと人工妊娠中絶について特別主張したいことがあったわけではなく、プロの小説家の冷徹な目で評価して、このテーマを書いたら凄い小説が書けるとの思惑で取りかかったのかもしれないと思います。藤子不二雄が猫型ロボットにもともと一家言あったわけではないように。
    生命倫理の書物として読んでも満足です。悪者指摘して終わりとしません。問題の切り口を工夫すれば難解さが消失するという安易な姿勢を感じさせません。複雑な問題は複雑なものとして記載してあります。大事なことだと思います。
    生命倫理を語るときに、万人に通じる原理原則を論文で論じるやり方ではなく、こうして名前と顔をもった1人1人を動かしてみせる、物語という方法が、今後は重要になってくるのではないかと思います。探求の方法論のみに止まらず、探求される内容として、世間一般の誰でも代入可能なマクロな生命倫理ではなく、顔を持った個人レベルのミクロな生命倫理というものが重要な考え方として成立しうると思います。
    作者もまた、システム的に半分マクロの視点で動いた面々と、単純に個人と個人の関係で動いた面々を対比させています。読者として私が腑に落ちたのは後者のほう、徹底してミクロの関係であった人たちのあり方でした。
    顔、か。またもレヴィナス先生や内田樹先生が出てきそうな語ですね。
    表向きは自然死産として届け出られる、闇の後期中絶については、私は初耳でした。これまで公立病院とかキリスト教病院とか(米国南部のごりごりの原理主義的な教派が出資して出来た病院です)とか、この手の儲け話は喉から手が出そうでも決して出してはならない立場の病院にしか勤めたことがありません。でもまあ、たぶん、あるんだろうなと思います。需要がないとは思えないし、関係者一同が黙ってれば闇に葬ることは十分可能だし、経済的にも成立するし。
    胎児適応での妊娠中絶すらシラを切り通そうとする産婦人科学会ですから、この小説は無視するか憤るかでしょうけど。あとがきに、取って付けたように「医学関係の描写についても、必ずしも実際の適応に即したものではないことを、お断りしておきます。」とありますが、この緻密な小説の結末にいかにも蛇足にこんな記載がついているのが、まあ、現状の象徴ですわ。
    結末については、まあ、ほんとにこんな状況からのリカバリーを実現しかねない優れたNICUが埼玉には実在します。

  • 「この森で、天使はバスを降りた」

    レンタルDVDで観た映画ですけどね。
    悲劇ですねこれは。DVDレンタルサイトのレビューにあるような心温まる話なんかじゃないです。
    主人公は懲役刑からの釈放の後、人生をやり直そうとして舞台となる田舎町へやってきて、食堂に住み込みで働きはじめます。その食堂を売りたがっている経営者の老女に、高額の対価を得る妙案を提案し、大成功します。経営者も店を手伝う近所の主婦もそれぞれに人生の問題を抱えているのですが、主人公のお陰で解決の糸口が見えます。闖入者の主人公を最初はうさんくさく見ていた町の面々が主人公を受けいれ始めます。好青年の求婚者も現れて、ようやく幸せになりかけた矢先に、嫉妬と猜疑の強い莫迦男に陥れられ盗みの嫌疑をかけられて死ぬ羽目になります。
    最終的には、主人公以外のほぼ全員が幸せになります。みんな喜色満面でパーティをする場面で映画が終わります。主人公を陥れた男でさえそのパーティにお相伴しているのに、主人公は既に過去の人、教訓話の主人公です。闖入者のお陰でみんな幸せになったのに、闖入者は闖入者たる故に用が済んだら排除されたのです。最後の未解決事項は闖入者の存在であったと言わんばかりです。
    それでは主人公は成仏できないでしょう。
    主人公の女性が懲役になったのは、9歳の時から自分を強姦し続けた義父を殺したからです。母親は義父に捨てられるのを恐れて娘に我慢を強いていました。挙げ句に主人公は妊娠し、義父の暴力で流産してしまいます。
    主人公の人生は、他のみんなが幸せに暮らせるという理由で、彼女が犠牲になることを周りのみんなが許容してしまうような、そういう人生でした。主人公だけが幸せになれなかった。みんな彼女に感謝するけれど、それは彼女が姿を消した後、自分の幸せが確保されて後のことです。間に合ううちに彼女のためにリスクを背負い犠牲を払うような、いわば彼女自身の幸せに責任を持つような存在が誰もいなかった。
    まさに本来の意味での犠牲、いけにえ、ってやつですな。児童虐待の被害者の典型的な役どころです。特にこの映画の主人公のような性的虐待の被害者の。あなたさえ我慢してくれたら上手く行くのだからって言い含められる立場。性的虐待事例のほとんどで、母親は父親が娘を強姦するのを黙認しています。
    こんな犠牲を許す社会は、たとえば、病人が何人か出るごとに誰か一人解体して臓器移植の材料に使うことを許容しかねない社会でしょう。しかし決してこの町は特殊な町ではない。映画を観る限りこの田舎町の人間も田舎者だと言うだけでけっして悪人揃いではないのです。ごく普通の人々の心情に、他者が犠牲になることを許してしまう心情が潜んでいるのです。その心情が根こそぎにされない限り、児童虐待はなくなりません。

  • 昭和史1926−1945 半藤一利 平凡社 東大一直線と関連して

    ぜひ一読するべき書物だと思います。
    なんだって無謀な戦争をしたのだろうと思ってはいましたが、そこにはそれなりに深謀遠慮とか駆け引きとか分析とか止むに止まれぬ事情とかがあったのだろうと思っていました。キャプテン・ハーロックに松本零士が語らせるような美学的なことも若干はあったのだろうと思っていました。
    でも、この書を読んでかなり認識が変わりました。
    先の戦争に至った経緯を描く適任者は松本零士ではありません。
    松本も戦場でのエピソードを個別に描きこそすれ、戦争に至った政治レベルの話は書いてませんしね。その歴史を描く適任者は小林よしのりです。彼が右傾化したのはかなり事情の本質を突いています。
    日本を先の戦争に至らしめた事情に通底するのは、単純一途な思いこみとか、自分の能力が分からない浅はかさとか、周囲の状況がまるで見えない愚かさとか、自分の思いどおりに事が運ぶと信じ切ってしまう幼児性とか。
    まあ、「東大通」が日本の中枢によってたかってやりたい放題やったのですな。
    戦前の日本の歴史は「東大一直線」の世界だったのですな。山本五十六はあの「ちょんまげ先生」の立場にあったのですわ。ははは・・・・笑いが乾いていきます。
    「東大一直線」では、学力など欠片もない劣等生の東大通が何故か自分は東大一直線の優等生だと信じ込み、がり便に励んだ挙げ句、節目節目の模擬試験や本試験では常人を越えた奇跡を起こして良い成績を上げていきました。最後はどうなったかな。見開き2ページが墨で真っ黒に塗られていた記憶がありますが・・・たしか東京大学そのものが崩壊してなかったかな。
    そういう、圧倒的な彼我の実力の違いがまるで目に入らず思いこんだ方針を一途に追求していくのは、東大通も戦前の軍部や政府も変わらないのですが、ただ旧軍は東大通とは違って節目節目のここ一番に奇跡的な勝利を得つづけることはできませんでしたし、一国の歴史は週間少年ジャンプの連載漫画じゃないんだから終末が派手に美しければよいってものでもないです。でも小林はそういう旧軍の精神のあり方にかなり親近感をもってるんじゃないかな。自分の出世作の主人公に通じるものを感じているのではないかな。小林の右傾化の度合いって、なんだかよほど深い事情がないと説明つき難いような気がするのですが。
    なんか東大一直線の話になってしまいました。「昭和史」本筋の話はまた二読三読した後で。でもまあ、買って読むべきですよ。価格と時間のコストは十分に取れます。

  • バカの壁 養老孟司 新潮社

    構造主義の言い古された言説の焼き直しに過ぎないのではないかと思いました。
    そう切り捨てるのもバカの壁にさえぎられてこの書物の本質が見えてないと著者は仰るのでしょうか。
    口述した内容を新潮社の誰かがまとめ書きして養老先生の裁可を得たっていう本でしょ?
    その新潮社の誰かが主著者なのでは?養老先生は監修をしただけでは?

  • 「レヴィナス序説」コリン・デイヴィス著 内田樹訳 国文社

    読了しました。難しかった。やっと最後のページにたどり着いたという心境でして、最初の所に何が書いてあったかかなり朧気です。原著者の論の立て方は平明だし訳者の内田先生の力量も周知のことですが、なにせレヴィナスという人の難解さはただ事ではないらしい。明快な論調を平易な日本語に訳してあるのに内容はついて行くのがやっとです。著者も「レヴィナスは何故このように難解なのか」を再々問題にしています。あんまり難解なので読者はみんな自分の分かったところだけを継ぎ接ぎして読むものだからレヴィナスの思想は読者のスタンスによっていかようにも読めるとのこと。いかようって漢字で書くと如何様ですがこの語をイカサマとも読みますね。普通そんないい加減なやつ相手にしないもんじゃないかなと思うのですが、それでも無視できないというのは確かにレヴィナスという人は凄い人なんでしょうね。
    レヴィナスという人は「他者は他者なんだからあんまり他者のことを分かったような気になってはいかんのよ」ということを説いた人らしいと、私は理解しました。この「他者」という概念を出発点にして奥深い倫理的考察を積み重ねた人らしいです。って筆が滑って簡単に書いてしまったんだけど、「他者という概念を扱う」のは「他者は分からない」という彼のテーゼに矛盾しますわな。他者は分かりようが無いと言いながらその他者に関する論を軸にものを考えるんだから、考えるものも難解になるはずです。ちょっとクリアカットになろうとすると、すぐ、分からないはずの他者の内部に踏み込んでしまって自己矛盾に陥る。やれやれですね。
    内田樹先生の書物でレヴィナスの紹介を読み、自分がかねてから考えていた疑問についてこの人なら答えてくれるかもしれないと思っていました。
    その疑問とは、重症新生児の治療方針に関してうちのNICU部長が常々申しますところの「この子が自分の愛する家族と思って考える」という方針がはたして妥当であるかどうかです。
    この場合の「重症」とは治癒を目指すことの善悪を問う生命倫理が前面に出てくるレベルの重症さだとお考え下さい。
    この重症の子を我が子と思って自分を親の立場に重ねることが可能なのかどうか。
    無理でしょ。レヴィナス先生のお陰で確信しましたよ。
    親御さんは私たち医療者にとって「他者」であり、赤ちゃんは私たち大人にとって「他者」です。いや、ここで医療者として括るとき、私は「他者」である部長や看護師たちを自分の内部に引き入れて理解可能な存在として扱っていますが、彼らとて「他者」には違いありません。互いの点滴の上手さとか観察の確かさとかといった医療者としての技量こそ分かり合っている積もりですけど、例えば5年ほど一緒に仕事をしているNICU主任について看護師以外の面を私がどれだけ知っているか。凄い美人だし知りたくなくもないのですけどさ、赤ちゃんの生き死にに関わる倫理観を共有するのには互いの職業生活に止まらずそれなりに深い相互理解を必要とするのではないかな。それが私生活まで突っ込んで知り合うってことなのかどうかはまた別論が要るだろうけれども。あるいは私たちを大人として一括するとき、赤ちゃんを介しての関係でしかない親御さんまでを自分の仲間うちに取り込むことになります。ある時は他者。ある時は身内。それってご都合主義と言わないか?
    あるいは、「愛する家族」すら他人ですやん。
    私は妻を愛してる積もりですが初めて会って20年から経ってる彼女が臨死になったとしても治療方針なんて私の一存では決められないでしょう。生涯の半分以上、母親と一緒にいた期間よりも長いこと付き合ってるんですけどね、でも隅々まで理解して身代わりに何か判断するなんて到底無理だ。付き合えば付き合うほど分からんところが出てきますよ。
    その「無理」はこのレヴィナスの概説を読んでほぼ確信しました。
    で、その「無理」で諦めて放り出すのかどうか、放り出さないとしたらどういうスタンスがあり得るか、レヴィナスの思想はその方面で結構豊穣であるように思えます。
    放り出してしまうようなら只の世捨て人ですね。レヴィナスが徹底して倫理に拘っているというのは必然的なことだと思います。でも彼の思想から生命倫理の体系を立てることが出来るかどうか。
    そもそも、生命倫理といえばカントの定言命法とミルの功利主義から時代が進まんようでは生命倫理も怠慢甚だしいですよ。でもレヴィナス的生命倫理ってのがあり得るか。あり得ないでしょうね。他人は他人だって言う人ですから自分も他人も総括する倫理体系なんて興味ないのでしょうね。