カテゴリー: 読書

  • 文藝春秋6月号「医者さえ転落する」

    文藝春秋6月号の「ルポ 世界同時貧困」なる特集の一部として「米国 医者さえ転落する」という記事があり、読んで背筋を寒くした。年収20万ドルを得ていた医師が、医療過誤保険の保険料が年額18万ドルになり、手元に残るのは2万ドル以下と、ワーキングプア同然の水準に転落してしまったという事例が報告されていた。加えて、救急にあふれる無保険の患者と利益中心の病院経営との板挟みで鬱になり、仕事を続けられなくなり、低所得者用食糧配給切符を受給することになってしまった。

    「まさに転がり落ちた、という表現がぴったりの状態でした」と、デニスはその時のことを思い出すようにして語る。
    「振り返ってみれば、あの時の自分を鬱にしたものは切り捨てられてゆく患者や生活が貧しくなってゆくことよりも、社会に裏切られたというショックだったんだと思います」
    「裏切られた、とは?」
    「医者である自分は、国に守られているはずだという自身がありました。尊敬される立場、経済的にも安定し、多くの人のいのちを救うこの仕事に誇りを持てること。それは社会的に認知され、ずっと続いてゆくはずだったのに・・・。一体どこからこうなってしまったんでしょう?」
    毎月送られてくる食糧配給切符を見ながら、デニスは時々思う。これは悪い夢ではないかと。

    俺もまた10年後には、これは悪い夢ではないかと思いながら生活保護の受給の行列に並んでいたりするのだろうか。

  • 戦艦大和ノ最期 「コノ大馬鹿野郎、臼淵大尉」

    戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫)
    吉田 満 / / 講談社
    ISBN : 4061962876
    著者吉田満氏は戦艦大和の最期の哨戒直であった。大和の艦橋の、艦内の各所からの伝声管や電話が集中する場所に居て、各所からの報告を刻々と艦長や艦隊司令長官に伝達する役目である(艦隊司令長官は彼の目の前に座っている)。つまり彼は大和が沈没するまでの一部始終を現在進行形で知る立場にあった。
    そういう部署に、このような文才を得た人がまさにそのときに居て、生き残り、本書のような証言としての価値を超えて古典文学として生き残るべき文章を遺したという点、何らか人智を越えた意志を感じざるを得ない。
    おそらく戦艦大和についての最初の証言であろう本書に、すでに、戦闘にかんして大和がいかに劣悪な兵器であったかが証言されている。それでどうして現在も大和といえば日本の誇る当時最新の兵器という好評を得ているのか、不思議でならない。

    更ニワガ機銃員ノ、過量ナル敵機、相次グ来襲ニ眩惑セラレタル事実モ蔽イ難シ
    宜ナルカナ、二十五粍機銃弾ノ初速ハ毎秒千米以下ニシテ、米機ノ平均速力ノ僅カ五乃至六倍ニ過ギズ
    カクモ遅速ノ兵器ヲモッテ曳光修正ヲ行ウハ、恰モ素手ニテ飛蝶ヲ追ウニ似タルカ

    機銃の弾丸の速度が遅すぎてまるで当たらないというのである。もとより、イージス艦ならまだしも、戦艦から飛行機を人力の照準で撃つという攻撃法がそもそも有効なのかどうかという議論もあるくらいなのに、まして機銃の性能が劣悪では話にならない。
    しかも、甲板に機銃員がむき出して居る限り、大和はご自慢の主砲が撃てないのである。撃てば爆風で機銃員が海に振り落とされるからである。
    そのような劣悪な兵器が、零戦とならんで、なにかというと日本の伝統精神の象徴のように語られているのも、また、人智を越えた誰かさんの冷笑を感じる。
    それはそうと、大和の最期にさいして、ある登場人物について私はひとつ誤解していたので記しておく。

    最近頻発セル対空惨敗ノ事例ニオイテ、生存者ノ誌セル戦訓ハヒトシクコノ点ヲ指摘シ、何ラカノ抜本策ノ喫緊ナルコトヲ力説ス
    シカモコレラニ対スル砲術学校ノ見解ハ、「命中率ノ低下ハ射撃能力ノ低下、訓練ノ不足ニヨル」ト断定スルヲ常トス ソコニ何ラノ積極策ナシ
    砲術学校ヨリ回附セラレタル戦訓ノカカル結論ノ直下ニ、「コノ大馬鹿野郎、臼淵大尉」トノ筆太ノ大書ノ見出サレタルハ、出撃ノ約三ヶ月前ナリ

    臼淵大尉といえば、さきの映画でカズシゲ氏が熱演されたという(けっきょく観てないが)青年士官である。唯々諾々と死ぬのが本望のおめでたい人かと思っていたがどうしてどうして。いろいろな意味で深くて篤い人だったようだ。

    「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
    日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ

    彼のこの台詞ばかりが注目を集めがちで、国のための自己犠牲の見本みたいに称揚されているが、しかしそういう人たちが主張する改憲ってのは「私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レ」ているように私には思える。ネタにされるのは彼にとっては大いに迷惑だろう。それこそ「コノ大馬鹿野郎」と罵倒されそうに思える。

  • 臨床力ベーシック 

    臨床力ベーシック―マニュアル使いこなしOS (CBRレジデント・スキルアップシリーズ (2)) (CBRレジデント・スキルアップシリーズ (2))
    黒田 俊也 / / シービーアール
    マニュアル使いこなしOSと銘打ってあるので、てっきり、医者の脳内で各種情報がどう処理されているかといった、いわばメタ診断学のような内容を期待していた。しかしレジデント相手の書物でそんな高尚な内容を期待しても無理なんだろうな。実際には、システマティックレビューで網羅的に診察する方法の推奨であった。
    その方法論は、初学者なら、たしかに、一度は通らなければならない道である。私など、もはやとうてい初学者などと言ってられない年代の医師にも、時には思い返してみるのもためになることだ。そういう意味では、本書を読んだことには大いに意義があったと思う。
    しかし病院中のベテランがいちいちシステマティックレビューを毎回やれるかどうか。外来で一人30分かけられる病院ならそれも可能だろうが、応需義務と保険診療の制約の下で医師全員がそれをやった日には病院経営が立ちゆかないだろう。せめて初診外来だけでもその程度の時間がかけられたらと思うのだが。
    実際にはシステマティックレビューなんて贅沢な手間と時間の使い方が許されるのは病院の医師のなかでもごく一部の人数に限られる。レジデントとその指導医とか。○○リーグ医師とか言ってもてはやされる指導医たちがシステマティックに診ている陰には、大人数かつ大多数の患者さんを「捌く」かのように診ている医師があるはずなのだ。彼らの働きがなければ病院は回らない。いかに天下のK田でもね。
    にもかかわらず、そういう医師に対する「あんなふうにはなるなよ」とでも言うかのような蔑視的な視線が感じられて、私は本書にはなかなか好意的になれない。
    本書には繰り返し、たくさんの患者さんを診るが診療が甘い医師と、数は診ないが奥深い診療をする医師とが対比され、前者の見落としを後者が発見して一件落着という逸話が語られる。一部始終を見ていたレジデントはああ後者のような診療をしなければと深く納得する。
    しかし来院する患者を拒めない日本のシステムにあっては、来院された患者さんは全員その日のうちに拝見しなければならないわけだから、前者の働きがなければ後者はそのスタイルすら保てない。その視点が先達によって明示的に示されないと、世間を知らないレジデントはどうしても前者をバカにするようになる。かつての私がそうだったように。
    にもまして、数はこなすが診療の浅い医師と数はこなさないが診療の深い医師の対比って、それはほんとうに世間によくある話なのだろうかと疑問である。臨床にも世間一般にも、仕事が速くて的確な人と仕事が遅くてしかも出来の悪い人との対比のほうが、よほどよくあるお話のように思えるのだが、読者諸賢の身の回りでは如何だろうか。著者を中傷するようで恐縮だが、数はこなすが診療の浅い医師云々の構図は、仕事の遅い人が抱く願望あるいは幻想的な存在なのではないかと、昔より多少は数をこなせるようになった私は思うのである。昔は俺もそんな仮想敵をあいてにいろいろ憤慨していたなあと。いやまあ、全部が仮想だったかどうか検討し始めるとオフラインで色々とカドが立ちそうだから止めておきますが。
    仕事が速くて的確な医師は、むろん必要時にはシステマティックレビューもするんだろうけれど、他にもいろいろな認識システムを使いこなしているはずなのだ。なかば無意識的に運用されている、そういうシステムがどういう構造になっているのか、分析したような書物を是非読みたいものだと思う。

  • マイクロソフトでは出会えなかった天職

    マイクロソフトでは出会えなかった天職 僕はこうして社会起業家になった
    ジョン ウッド / / ランダムハウス講談社
    ISBN : 4270002484
    著者の業績をけっして貶める意図ではないが、おそらく、この凄い人も、ただ単に休暇で訪れたさきの貧しさ悲惨さだけでは動かなかったと思う。心を痛めつつマイクロソフトの仕事に復帰して、そのまま北京でのマイクロソフトの販路拡大に奔走し続けたことだろう。彼を動かしたのは、貧困ではなくて、その貧しい中にあって飢えたように学んでいるこどもたちの熱意やぎらぎらした欲求の貢献がかなり大きいんだろうなと思った。
    当直室で本書を読みつつ娘のことを考えたのだが。こうやって知識欲に目を輝かせながらネパールの山奥で英語の本を読みこんで育ってきた面々と、これからの人生で出会っていくことになるんだろうなと。彼らに太刀打ちできるほどの、そういうぎらぎらした生命力を彼女も備えているかどうか、ちょっと心配にはなっている。
    些事ながら、著者は中国におけるビル・ゲイツ氏の不適切なふるまいにほとほと幻滅した様子で、それもまた著者がマイクロソフトを辞める遠因となっている。どうしてあれほどの大企業が、トップに据えた自閉症者にジョブコーチの一人もつけられなかったのか不思議でならない。

  • 万年筆が欲しくなる本2 読者を「あんた」よばわり

    万年筆が欲しくなる本 2 (2008年版)―あんたの万年筆がきっと見つかる… (2) (ワールド・ムック 714)
    / ワールドフォトプレス
    ISBN : 484652714X
    発売されたと聞いてアマゾンを検索して驚いた。「あんたの」というワイルドなつかみ文句がじつに斬新だ。顧客を「あんた」呼ばわりして客商売が成り立つ人ってゴルゴ13くらいしか知らない。この会社は大丈夫なんだろうかと思った。
    画像を拡大してみると表紙には「あなたの」となっているからアマゾンのミスなんだろうけれども。こういうときアマゾンは発行元に対してどういう対応をするんだろうか。
    万年筆が欲しくなる本―あなたの万年筆がきっと見つかる… (ワールド・ムック―HEART LINE BOOK (635))
    / ワールドフォトプレス
    ISBN : 4846526356
    スコア選択: ※※※※
    じつは1冊目ならもっている。書斎に転がしておいたら、娘が目をまるくして眺めていた。要は価格帯ごとに主要各社の万年筆を写真入りで紹介してある書物なのだが、中の「ラブレターを書くために使いたい万年筆」と称する一節で、価格が10万円前後の万年筆をならべて紹介してあった。ラブレターを書くための筆記用具に10万円もつっこむようなバカな男にひっかかるんじゃないよと娘には注意しておいた。たぶんそいつはひどく自己愛の強い人間だからいろいろ苦労するよと。その万年筆をプレゼントにくれるならまだしも。

  • 城繁幸「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」内田樹との対決

    3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 (ちくま新書 (708))
    城 繁幸 / / 筑摩書房
    ISBN : 4480064141
    スコア選択: ※※※※※
    土曜の午後(午前は仕事)、「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」を一読した。
    「若者はなぜ3年で辞めるのか」の続編である。どこへ行ったのかと括られると、いかにも落剥したような印象を与えるが、本書では「3年で辞めた」若者がその後もタフに働いている姿が報告されている。報告例では仕事の内容も報酬も充実していて、負け惜しみではなく辞めてかえって成功している。著者は、彼らの姿に照り返されていよいよ輝きを失う、年功序列に代表される昭和の価値観を本書でもてひどく批判している。
    ひとりでは生きられないのも芸のうち
    内田 樹 / / 文藝春秋
    ISBN : 4163696903
    スコア選択: ※※※
    内田樹先生は近著「ひとりでは生きられないのも芸のうち」において、「若者はなぜ3年で辞めるのか」を批判している。要約すれば、城氏はけっきょく人生は金がすべてだと思ってるんだろう。こういう主張をする人間は、今は若い者の立場に立っていても、年老いたらこんどは老人の既得権を最大に生かして若者を搾取するんだろうから信用ならない。労働というのは他者のためになされることなのだよ。自分にあった仕事なんて行っててはいかんのだよ。云々。
    その批判を内田は以下の問題提起で開始する。

    私が考えこんでしまったのは、これは仕事とそのモチベーションについて書かれた本のはずなのに、この200頁ほどのテクストのなかで、「私たちは仕事をすることを通じて、何をなしとげようとしているのか?」という基本的な問いが一度も立てられていなかったからである。

    たしかに「若者は・・・」において城氏の著述はもっぱら現状分析にとどまっていた。しかし「基本的な問いが一度も立てられなかった」は内田先生最後まで読んでなかったでしょうと申し上げるしかない。この問いは確かに立てられていた。答えが出されていなかっただけである。その回答を城氏は本書「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」で示したと私は理解する。
    城氏の「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」を一読したうえでは、内田先生の批判はいかにも昭和的価値観の範疇を出ないもののように思える。釈尊の指に署名して上機嫌な孫悟空を彷彿とさせる。そもそも、城氏の分析によれば今の若い者は年老いたところで今の老人が享受している既得権など手にしようがない。そんなもん期待しようがないと見切りをつけて若者は3年で辞めていくのである。
    「何をなしとげようとしているのか」という基本的な問いとおっしゃるが、それを上の世代が一度でも立てたことがあったのか?と内田先生に逆に問いたい。それを体を張って示す先達を職場に見いだせなかったこともまた、若者の離職に拍車をかけているのであると、城氏は分析している。何を?昭和の遺残組は滅私奉公と引き替えにした年功序列の出世しかなしとげようとしなかったじゃないかと城氏は反論しているかのように、私には読めた。
    しかし、内田と城がまったく対立しているかと言われると、どうにも。結局この二人は似たような主張をしているだけではないかと、私には思えるのだがどうだろう。内田先生の、城君の言ってることは間違いなのだよという言に引き続く、人の世のなりたちは本当はこうなってるんだからねと説かれるその説諭は、ほとんど城氏と異口同音のように思えるのだが。振り返るに内田先生は城氏の分析する年功序列型のレールをずいぶん早くから降りてしまって我が道を進んできた大先達なのだから、けっきょく彼の来し方は城氏の理想に近いのではないかとも思える。城氏には、次の企画として、内田先生のインタビューを是非やって頂きたいものだと思う。案外と気が合って、おもしろい対談ができるかもしれない。
    誉めるばかりでは済まさないという当ブログのポリシーに沿って、「3年で辞めた若者はどこへいったのか」に一矢つっこむとすれば、3年で辞めた連中の皆が皆そんなに信念を貫き通して成功してるわけではなかろうということは是非申し上げたい。城氏の尻馬に乗ってか乗らないでか早々と辞めてはみたけれどやっぱり上手くいかなかったよと、不遇をかこつ人も実際にはあるんじゃないかなと私は思う。それもまた人生と覚悟してその後の道をみずから切り開けるほどの強さを、城氏が思ってるほどの水準でそなえた若者は、城氏が思うほどには多くないんじゃないかと危惧する。内田先生が城氏のような思想を目の敵にされるのも、その危惧をお持ちだからなのではないかと思う。教え子が城氏に毒されて人生を誤るかもという危惧をお持ちなんじゃないか。
    冷たく言い放つとすれば、城氏はそれにも答えを出しておられるのだが。最近の若者はなっとらんと昭和的価値観の企業の御大がぐちる中、優秀な若者はどんどん海外をめざしていると。

    しかし、彼らの口からは、それら大企業の名前は一社たりとも出てはこなかった。なんと30人中29人が、外資系企業の名を上げたのだ(ちなみに、残り一人はテレビ局)。一人ずつ志望先を聞いていくうち、だんだんと顔がこわばっていったのを覚えている。
     大学名や就職活動に対する真摯さから見るに、彼らは90年代であれば、おそらく日系金融機関や官僚といった道に進んでいた層だろう。少なくともそんな彼らは「日本企業が割に合わない」という事実に、とっくに気づいているのだ。要するに「やる気があって前向きで、アンテナの高い学生たち」から、日本企業の側が見捨てられているわけだ。

     
    ようするに嘆く君らの周囲にはそれだけ質の低い連中しかいないのだよということだ。とすれば、内田先生が、学生が英語ができないとか連立方程式がとけないとか仕事に関する覚悟が甘いとか、あんまり若者を腐してばかりいると、勤務先の大学で内田先生と縁のある若者の質がだんだんと知れてくるということはないのだろうか。学生に迷惑でなければよいのだが。

  • 不機嫌な職場 医療崩壊の構造にも関与するところがあるのでは

    不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか (講談社現代新書 1926)
    河合 太介 / / 講談社
    スコア選択: ★★★★
    職場が「一人ひとりが利己的で、断絶的で、冷めた関係性が蔓延しており、それがストレスになる」ことの原因と対策を論じたものである。
    良いところとして、個人の資質(マッチョだとかウインプだとか)とか世代論(団塊とかバブルとか)に一方的に責を帰して「お行儀を良くしましょう」みたいな説教を垂れるのではなく、社会科学的研究の成果をふまえて考察してあるのが快い。最終的には、そっと、それでも互いに手をさしのべあうことには意義があるのだよと述べてあるのだが、それも個人の努力のみで実現しようというのではなく、職場のシステムを変えることに重きをおいて実現を目指してあるのが、個人的責任と環境の関与のバランスがほどよくとれた論考だと感じられる。ひねくれもせず多責的にもならず、すなおに読める良書だと思う。
    本書の第2章で論じられている、職場の不機嫌さをうむ問題点「組織のタコツボ化」「評判情報流通と情報共有の低下」「インセンティブ構造の変化」はそのまま、崩壊の進む医療の現場で起きていることのように思える。医療の高度化にともなう専門分化・タコツボ化はある程度は避けられないことだし。インセンティブ構造の変化にしても、世間の人はいまごろようやく自分のキャリア形成を優先するようになったらしいが、医者は昔から自分の診療能力の向上を儲けより優先させるのが美徳とされてきたものだし。こういう問題点は世間の先陣を切って医療業界でまず起きていたことではないだろうか。
    評判情報の流通ってのは医局の噂話みたいなもんかね。定型発達のひとに聞いてください。私はわからん。
    崩壊の第一の原因が絶対的なリソース不足にあることは無論なのだが、本書にあるような構造とリソース不足が、ハウリングを起こすかのように、たがいに強めあっているという構図はないだろうか。医師がとつぜん集団退職して診療科や病院の単位で閉鎖に追い込まれている現場では、単純に激務のフィジカルな辛さのみならず、本書にあるような構造の精神的なストレスが、最初の何人かが辞めた時点で爆発したのではないかと思う。

  • 「キュア」 各論的には不愉快だが、読まれるべき作品である

    キュア cure
    田口ランディ / / 朝日新聞社
    スコア選択: ★★★★
    土曜の夜に田口ランディ著「キュア」を読了した。久々に、力のある物語を堪能した。読む者を引き込んで放さない力をもった物語である。理屈の上では荒唐無稽な、理不尽で泥臭い物語なのだが。物語の力というのは理屈にあうとかあわないとかいった話とは違う水準に存在するのだと、読者として思い知らされるような作品である。
    じっさい、各論的なつっこみどころは満載なのである。主人公には特殊な治療能力があるらしいが、電磁力に関係するらしいその力を手術室で使おうったって、手術用手袋がその力を絶縁してるんじゃないかとか。腫瘍病棟が地下にありますって、患者さんが寝起きする病棟を地下室に置くことが法令上許されてただろうかとか。ガラスの保育器っていったい何十年前の代物だよとか。
    そのような、と学会的に一笑に付せる些事に混じり、安楽死に関して、ホスピスに関して、あるいは未熟児の予後や障害新生児のフォローに関して、現代医学に関する著者の悪意が感じられる描写が多々ある。読んでいて気持ちがざわつく。思いつきで書いたのなら許し難いところであるが、著者はご家族の病気でさんざんご苦労なさった経験をお持ちなのだから、病院に足を踏み入れたことがないわけではあるまい。そのご経験をふまえての著作なら、無碍に排撃することもなるまい。患者さんの中にはこういうふうにお考えの人もあるのだと、拝聴の上で一応は胸に納めるものであろうと思う。一応はね。同じネタを何回も使い回したら許さないけど。
    著者が本作で提示する死生観には、現代医学に関する描写の不愉快さをおぎなってなお、胸を打たれる。この死生観は医療を変える力を持つと思う。おそらくは崩壊を食い止める方向に働く力となると思う。この死生観ゆえに本作は読まれるべき作品だと思う。少なくとも医療関係者にとっては、医学的描写の不備や悪意をがまんして最後まで読む理由にはなると思う。この場に要領よく要約する筆力を持たないことには寛恕を乞う次第である。

  • イカの哲学 時代はすでに追い越してしまった

    イカの哲学 (集英社新書 (0430)) (集英社新書 (0430))
    中沢 新一 / / 集英社
    スコア選択: ★★★
     書店で目を引かれて購入し一読した。
     1950年年代に書かれたものとしては、イカの哲学なる論考の原文は読ませるものがある。しかし、もう時代に追い越された感は否めない。流行のエコロジーやらなにやら、いまどういう作文を書けば先生や世間の受けがいいかという風向きにちょっと敏感な高校生なら、これくらいのものは書くように思える。
     はっきり言って陳腐なのだが、2008年の現在にこの文章が陳腐に感じられるのは、けっして著者の波多野一郎氏をくさすものではない。1950年代においてはこの論考は斬新なものだったのだろうと推察する。彼の思想を、その後になって、時代が追いかけ、追い越してしまったのだと思う。あまりにメインストリーム過ぎる思想であった故に、あまりに正鵠を射すぎてしまったために、今となっては陳腐に感じられるのだろうと思う。
     中沢新一さんはずいぶん手放しでの推薦ぶりなのだが、オウム真理教に肯定的にコミットした識者の最右翼みたいな人なので、波多野さんも草葉の陰で困惑してるんじゃなかろうか。松本智津夫と同列あつかいかよ・・・とか。

  • どこででも生きてゆけるということ ユーコン漂流

    ユーコン漂流 (文春文庫)
    野田 知佑 / / 文藝春秋
    ISBN : 4167269139
    スコア選択: ※※※※
    長野へ行く出張の往路で読んだ本。最近、どこででも生きていけるってどういうことだろうと考え直させられることがあって、思い出した。
    アラスカの大河をカヤックで下った顛末である。著者はそれほどの冒険でもないと謙遜するが、しかし動物性タンパクを魚釣りで現地調達するなどいろいろとワイルドである。しかし、著者はそれでも旅が終われば日本へ帰る人である。現地には、そこに永住してしまう人もあって、その人々のワイルドさは著者とはたしかにレベルが違うように思われた。(むろん、新幹線や長距離バスのシートでぬくぬくと本を読んでいる私などと著者とはレベルが数段違うのだが)。
    その人たちにも子供があって、当然に教育の問題が生じる。むかしは全寮制の学校が主流だったが、それでは家族を離散させてしまう。なんやかやで、通信教育が活用されているとのこと。その下りで紹介されている逸話。

     レポートを提出するのだが、月に一度、生徒が先生の家にやって来て、てほどきする。
     生徒の家というのはどんな山中でも100パーセント川や湖といった水辺の近くにある。
     飲み水の確保のためと、山奥に入るのに船外機をつけた大きなボートで「水路」を伝って入るからだ。だから、アラスカでは飛行機にフロートさえつければほとんどどんな所にも行ける。
     先生は水上飛行機に乗って生徒の家にやって来て、一日いて勉強のアドバイスを与え、帰っていく。
     ある年、アラスカ大学にトップの成績で入学した学生は、一度も学校に行ったことがなく、ずっと通信教育でやってきた人だった。入試問題が日本のように暗記のテストではなく、思考力を見る問題だから、こういうことが起こる。
     このことが話題になり、マスコミが彼をインタビューした。
     アナウンサーの「山の中でいったいどんな勉強をしていたのですか」という質問に彼は答えた。
    「私はただ生活をしていたのです」
     彼のいう「生活」という言葉の重さをアラスカの人間は理解できるので、みんな黙りこんでしまった、という。

     ちなみにこの月一回の先生はいちいち勉強の内容を教えたりはしていられないので、勉強の仕方をアドバイスしていく、とのこと。それはそれでよいとして、「どこででも生きてゆける」という言葉で私が連想するのは、こういう「生活」ができるという意味での「生きる」ことである。
     世界中のどこでも生きていけると公言したときに、その「世界」にあまねくプログラミング仕事やネットや銀行証券屋さらには献本を配達する運送屋がそろってるわけじゃありませんよ、とつっこみを入れられてもうろたえずにすめばいいんだけど。私などとうてい世界中どこでも生きていけるなんて言えない。ライセンスは日本限定だし。日本国内どこだって、とみみっちく幅を狭めてみたところで、日本国内のどの病院にもNICUはおろか一般小児科さえあると決まったわけじゃないよとは、よくわかってるつもりだし。
    でも思い切ってしゃべってみたら、いかに自分がしゃべれないかってのも痛感させられるけど、いかにいい加減な英語でも通じるかってのには愕然とさせられる。まあ、自分の免許も子供の命も賭けられるほどの英語力を持ってるなら、ある意味、医者なんてやってる場合じゃないかもしれない。
    その自分をさしおいて偉そうに言うなら、自分ががひとりで生きていけるかどうかなんて些末な問題なんだ。いい大人なんだからさ。ほんとうの大人が問題にするべきは、食い扶持を自分で稼ぐとか稼げないとかいう些末なお話じゃなくてね、どういう場所にいても自分は周りの人の幸福に資することができます、とかいう問題じゃないかと思うんだがね。食い扶持を自分で稼げない人間はまわりを不幸にするばかり、という社会なら、社会の方を変えなきゃいけないと思うんだけどね。
    ちなみに、本書によるとアラスカで野生に生活する人は外出時も自宅に鍵をかけないんだそうだ。遭難しかかった人が這々の体で自分の家にたどり着いたときに、入り口に鍵がかかっていたばっかりに・・・という状況を避けるためだとのこと。まあ、20年から前の紀行だし、時代は変わっているのかもしれないけれども。