昨日は息子の誕生日でした。誕生日にバースデーケーキのロウソクを吹き消すというのをどこかで聞き込んできて、ロウソクに火をつけて云々と数日前から繰り返し言っていました。これはぜひやってみたいとの希望だろうなと思ってやらせてみることにしました。
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「さとうきび畑の唄」を娘と見ました。
「さとうきび畑の唄」を最後の約1時間だけ見ました。昇君と父が語り合っていたシーンから見始めて最後まで。
夏休みで遊び疲れて夕寝をしていた娘が起きてきたので一緒に見ました。 -
シアトルブルーウェーブ
イチローは打率トップ、なのにマリナーズはまた負けてしまった。
けっきょく向こうでもこうなってしまうのね。
彼自身は絶好調なのにチームは低迷していく。
どうしてこうなってしまうんだろう。
何年連続で首位打者になっても記事の扱いは小さくなっていくし。
実は彼と誕生日が同じなので勝手に親近感も持っています。
妻に言わせれば、イチロー・石橋貴明・私と並べて、この日に生まれた奴は性格の悪いのばっかり、だそうですが。俺もあんまり周囲をもり立ててNICUを活気づかせるタイプじゃないしね。 -
MRSAの伝染性膿痂疹
先週末から外来でフォローしてました。
いわゆる「とびひ」は小児科の夏の風物詩ではありますが、起因菌がMRSAでした。メチシリン耐性黄色ブドウ球菌ってやつ。ついにこの日が来たか、という感じでした。別に広域抗生剤など使ったこともない極く普通の乳児のとびひからMRSAが検出される時代になりました。
途方に暮れましたね。
それだけ世間にはMRSAが蔓延してるって事でしょうね。これだけ広域抗菌剤が無闇やたらに処方される時代ではね。夜間に救急外来にお出でになって「近所の先生からこの薬を頂いたんですけど熱が下がらないんです」と仰る親御さんから薬袋を拝借して中を覗いたらまあ出てくるわ出てくるわ、セフゾンのフロモックスのメイアクトの、ちょっと気を利かせたつもりでジスロマックの、もう最新の抗生物質がただの夏風邪に片っ端から処方されてます。その挙げ句、世間の黄色ブドウ球菌や肺炎球菌やインフルエンザ桿菌が、じわじわと抗菌薬への抵抗の仕方を憶えて行きつつあります。
世間のお医者さんに申し上げたい。発熱患者全員に自動的に広域のβラクタムを処方するのはもう止めましょう。咳と聞いたらマクロライドの処方を書くってのももう止めましょう。効かなくなる頃には新しい薬が出るさなどと、同級生をおもしろ半分にぶち殺す中学生みたいな見通しのない精神性を発揮するのはもう止めましょう。片っ端から新薬を作って売って儲けるだけの製薬会社に丁稚扱いされるのはもうプライドにかけて止めましょう。
それともう一つ、言いたいことがあります。 -
「まだ人間じゃない」P.K.ディック ハヤカワ文庫SF
近未来のカリフォルニア。妊娠中絶に関する法律が改定を重ねて、12歳まではまだ人間じゃないってことになっていて、両親がこの子は要らないと言ったら行政のトラックが連れに来るってお話。30日間養親が現れないか待って、引き取り手がなければ殺してしまいます。
檻付きのトラックが音楽をならしながら街を走り、申し出のあった子供を捕らえていきます。子供たちは次に連れて行かれるのは自分じゃないかと怯え、連れて行かれた友人について語り合い、トラックを襲撃する空想も語り合います。夕刻になっても、ひょっとして今日こそあのトラックが自分を待って居るんじゃないかと怯えて帰る足がのろくなります。
ちなみに、12歳までの子供が人間じゃないのは、代数ができないからだそうです。
こんなくそったれな国とはおさらばだと、主人公の少年の父親はカナダへの移住を口にするのですが、経済的な理由から二の足を踏んでいます。行きたいねえ、といいながら結局は行かないってことが分かってる、というまるで進歩のない結末。
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P.K.ディックが書き続けたのは、こういう八方ふさがりの状況に置かれた、あまり立派ではない男たち(敢えて言えばクズ野郎)の姿です。たぶんにディック本人がクズ野郎だったんです。生涯に5回の結婚離婚を繰り返し、薬物を濫用し、プロットの破綻したSFを次から次に書き続けた男です。
作品の有名どころでは、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」これはリドリー・スコット監督の名作「ブレードランナー」の原作となりました。「トータル・リコール」の原作になったタイトルはなんだったかな。新潮文庫の「模造記憶」にでてたんだけど。最近も何か彼の作品が映画化されてましたね。
自分の見ている現実が本物なのか?という仮想現実がらみの設定をよくするので、最近バーチャルリアリティという言葉の発音をビジネスオヤジやマスコミ心理学者が憶えた時節から急に注目を集め始めた作家ですが、彼が書いてたのはそんな高尚なお話ではなくて、クソったれた状況でなんにも出来ずにぐずぐずしているクズ男たちの姿です。
要するに君や僕みたいな人の痛いところを突きまくってあるのね。どれを読んでも自分のことを書いてあるような気がしましてね。げんなりしながら読み続けています。 -
「ブルー・シャンペン」をNICUで読む
当直と称して何やってるんですかね。
昨夜は当直でした。先日生まれた超未熟児の双子を二人とも抜管して無呼吸発作の様子を見ています。腹臥位にすると舌根が落ちないのかかなり無呼吸発作も減って、これはうまく早期抜管に成功したかなとほくそ笑んでいます。それでも当直室で寝ている度胸はなくて、うだうだとNICUで暇をつぶしつつ数時間に1回の無呼吸発作を待っていました。
その間、ジョン・ヴァーリイの「ブルー・シャンペン」を読んでいました。信じ難いほど美しい小説でした。舞台装置も、登場人物も。月の周回軌道に浮かぶシャンペングラス型のプール、そのプールで泳ぐ金の外骨格を着けた脊損のヒロイン。うわ・・・・・美しいストーリーに負けない卓越したガジェットが惜しげもなく繰り出される、アイディアの蕩尽とも言うべき贅沢な小説でした。 -
「サイレント・クレヴァーズ」原田武夫 中央公論新社
朝日新聞の書評で興味を持って「サイレント・クレヴァーズ」なる書を読んだ。著者は外務省に勤務する1970年生まれの男性。ということは私の二つ下か。
私もこの書に言うところのクレヴァーズの世代である。自分の世代を特別に取り上げて持ち上げた世代論を初めて読んだ。誉められるのはお世辞でも悪くない気分ではある。俺ってそんなに偉かったのか。
部長の悪口はこの日記の主要な話題である。団塊の世代を敵視するのは我々の世代に共通のことらしいとこの本で知った。興味深かった。了見が狭いのは俺ばかりじゃないんだな。
ただ、我々の世代が躍進するために何をするかの提言として異業種間の交流会を提唱してあったのは些か腰砕けだった。芸がない。それこそ団塊の世代の得意イベントじゃないか。
団塊の世代に楯突く振りをして結局は同じ発想をする。反逆する振りをした恭順。ちょっと煙草を吸って本多勝一を読んでみせる生徒会長とか。こんな若い奴は外務省でも団塊の世代の首脳たちに受けが良いんだろうなと思う。骨のある奴とか言って出世するよ。次官になるかどうかはもう入省時点で決まってるんだろうけれど。 -
準夜に超未熟児を双子で
八つ当たりモード全開。
昨日の日中は暇でした。一個前の投稿は昨日書いたものです。こういう暇な日は定時で帰りたいなあと思ってましたが、会議があるというので8時近くまで居残っていました。あんまり生産性の高い日じゃ無かったねと思いつつ帰宅して、飯を食って一息ついてたら、超未熟児の分娩ですと呼び出しがありました。しかも双子で。
おい。
産科の病棟に行ってみたら、陣痛がつき始めたのはまだ私らが会議だといって居残っていた準夜はじめの時間帯じゃないですか。なんで陣痛がはじまった時点で一報入れないのだろう。超未熟児の双胎ってどれだけ入院後処置に手間が掛かるかわかってるの?お母さんは1人だろうけど子供は二人なのよ。新生児科スタッフの人数をどれだけ集められるかが赤ちゃんの一生を決めちゃうでしょう。もっと早ければ小児科医師は全員残ってたしNICU主任も副主任も居たのに。解散帰宅の後でおもむろに呼ばれてもねえ。主任を呼び戻して、医師も呼び戻して。あまりに段取りが悪い。
私らそんなに情報を回すのに気後れするような態度を取ってるかな。
昨日も張ってたんですけど雷がひどくて驚いた拍子でした、夕立が収まると収縮も落ち着いてました・・・確かにそんな話をしてたなそう言えば。うう・・・産科に任せきりにしないで、陣痛の気配があるのならさっさと日中の人手が厚いうちに帝王切開に踏み切って貰えばよかった。雷さえ止まれば・・って患者さんの子宮をスッポン扱いにしてはいかんわ。
準夜22時に超未熟児の双子の緊急帝王切開。各々に挿管してサーファクタント投与して静脈路をショートとロングの二本確保して動脈ラインも確保して。手首が大人の指より細い超未熟児の手足4本のうち3本に動脈なり静脈なりカテーテルが入ります。まあ臍動静脈カテーテルでなくて済んでよかったのですが。
でも血圧が落ち着かない・・・動脈圧波形が揃わない。この不揃いな波形は気にくわない。呼吸器の設定を探り、血液ガス分析だのソル・コーテフだアルブミンだイノバンだドブトレックスだと使い。手段を一つ繰り出すごとに赤ちゃんの様子をみてモニタの動きも見て。結局深夜も居残りでした。今日が水曜でよかった。半日で帰れました。 -
「街場の現代思想」内田樹 NTT出版
治療の困難な赤ちゃんの診療に、完治をめざして可能な限りの手段を尽くす積極的治療を行うかそれとも苦痛の緩和を優先する方針にするかといった治療方針の選択に関して、あるいはご両親の心情に対してどのように接するのがよいかという面に関して、「愛する家族ならばどうするかと考える」と、上司がよく言うのですが、果たしてこの図式が本当に真実をとらえるものなのかどうか、常々考えてきました。
内田先生の最新刊である本書の最終章「想像力と倫理について」に、この疑問に関する重要な示唆がありました。
想像力というのは、「現実には見たことも聞いたこともないもの」を思い描く力である。そのためには、自分がいま見ているものは「見せられているもの」ではないのか、自分が想像できるものは「想像可能なものとして制度的に与えられているもの」ではないのかという疑念を抱き、そのフレームの「外部」に向けて必死にあがき出ようとする志向がなくてはすまされない。想像力を発揮するというのは、「奔放な空想を享受すること」ではなく、「自分が『奔放な空想』だと思っているものの貧しさと限界を気づかうこと」である。
生命倫理の絡む判断は医師1人では行いません。複数の心で考えるのが暴走を防ぐポイントです。もうちょっと卑近なリスクヘッジの思想もあって、出来るだけ多くのスタッフの意見を聞きます。
出来るだけ多くのスタッフと言うのは医師ばかりではありません。多いのは圧倒的に看護師ですから、必然的に、看護師たちの意見を重要視することになります。朝夕の回診にちょろっと入ってくるだけの、NICU滞在時間平均10分/日の医師に何か聞くよりもよっぽど実のある議論になります。そもそも、親御さんと本当に腹の割った話をしているのは看護師たちですしね。
うちは看護職員も学生もキリスト教徒が多いです(看護学校の推薦入学枠はキリスト教徒であることが必要条件です)。彼女たちは赤ちゃんをあやす片手間に賛美歌を綺麗に三重唱できる面々です。その彼女たちの脳に「愛」という言葉が誘発する心象は、質と深度の双方において、一般の20代女子とは違うのではないかと思います。
彼女たちはほぼ全員が独身・子無しです(子持ちのナースでも夜勤が出来るようになってほしいよね)。対して医師たちは全員が子持ち。子持ち医師の中でも、私1人が障害児の親です。やっぱりね、自分の子は名門私立の小学校に通わせている医師が、重症の赤ちゃんの方針に関して「私なら自分の子がこの状態ならもう生きていてほしくない」なんて言うのを聞いたら、障害児の親としては意地になるわけですわ。障害が残るなら死んでしまえというのかってね。同じ「愛する家族」スキームを用いても既に医師内部で分裂していますね。
でもまあ、私らみんな、医療関係者としては一括りな訳で、共通して親御さんをお母さんあるいはお父さんと呼び、彼らを常に赤ちゃんとの関連でとらえて対応しているわけです。ですが、特に赤ちゃんが第1子である場合には、事実上、彼らが赤ちゃんの親として扱われるのはNICU内だけなのですね。親という立場は彼らにしてみれば数ある役割の中の一つでしかない。ちょうど、私のNICU内での役割があくまで新生児科医であって、私が自閉症児の親であるということは日常的には周辺スタッフの意識には上っていないように。その若い夫婦の意向が、必ずしも赤ちゃんを最優先にしているように見えなくとも、それは決して不自然なことではない。
彼らが親として扱われるNICUという環境がどのような環境であるか。四方に並ぶモニタ画面、人工呼吸器、保育器に鈴なりの輸液ポンプ。電子音。人工呼吸器の排気音。慣れない人にはNICUはアルカディア号やヤマトの艦橋あるいは999の機関車内部に見えるはずです。内実はそれほど高尚なものではなくて、せいぜい、大四畳半物語のぼろアパートの一室にテレビを複数台並べたという程度のものなんですが。でも、いきなりこの環境に放り込まれて何か重要な決断を迫られてもねえ、迫る私の姿がたぶんハーロックに見えるでしょうね。考え方が違うと認める相手の下船は許しても逃げるだけの臆病者には死をもって報いるってやつ。私が近視の三枚目だとまでは見て取れた親御さんでも、私を大山トチローと思っても「おいどん」だとは思ってはくれないでしょうね。一応九州男児だし一人称代名詞を「おいどん」で喋ることも抵抗はそがんはなかとばってんね。
「愛する家族」スキームを採用している自分達が共通して「医療関係者」という狭い業界の人間であるということ、そのスキームを採用している現場がNICUであるということ。そのような自分達を規定する特殊な背景要素は常に意識していなければならない。意識するためには、そのスキームを採用すれば必然的にそれを意識するような設計でスキームを作っておかなければならない。自分の愛する家族ならばと自分が考えてそれを患者さんの状況に代入するというのは、自分と患者さんがそれだけ均質な存在でなければならないのですが、まあ、その前に自分が他人とどれだけ違うかを考えるべきでしょうね。
とまあ、内田先生の受け売りでした。この話題今後も続けます。 -
かわいいと思ってよいのである
まだ息子が3歳の頃、当地の自閉症関連のメーリングリストで、さるお父さんの、「この子が可愛くてたまらない、この子に夢中である」との言葉を拝見しました。投稿の本題は他にあって、その最後についでのように書き添えてあったのですが、失礼ながら本題のほうは忘れてしまいました。
虚を衝かれた感がありました。「俺も息子を可愛いと思ってよいのだ」と初めて思いました。考えてみれば他人に許可を受ける話ではないのですけどね。その権利が自分にもあるのだと、言われるまで気付かなかったのです。可愛いとは思っても申し訳なくて世間様にはよう言わんと、なんとなく思っていました。
この子は変だの育て方が悪いだの、このままでは一人前にならんだの出来る限りのことをしてやれだのと散々言われていた時期でした。そりゃもう仰るとおりです不肖の息子で申し訳ありません責任は取らせて頂きますってもので、何かと追いつめられた気分ではありました。
他の立場から、自分の子だし可愛いだろうと言われてしまうと、発言の意図をつかみ損ねて、かえって身構えたかもしれません。同様の立場からのご発言であればこそ素直に受け止めることが出来たのだと思います。
