• 画像の猫は

    新入りです。よろしくです。にゃん黒おにいさんに遊んで貰ってます。お兄さん最近キャットフードの食べ過ぎで随分太ってます。ひところの渡辺徹さんみたいです。「太陽にほえろ」みたいに走り込んで貰わなければいけません。僕も頑張ります。
    にゃん太郎お兄さんは全然遊んでくれません。ガキはうるさくて仕方ないなあと言いたげな目で僕を見てます。でもつい半年くらい前まではにゃん太郎お兄さんも僕みたいに暴れ回っていたそうです。僕はちゃあんと知ってます。今でも僕が新しい猫じゃらしを買って遊んでいただいてると、猫じゃらしに横から飛びついて来られます。まだ猫じゃらしに我慢できないんなら大人ぶらないで僕と遊んで欲しいと思います。

    ・・・・
    娘が拾ってきた猫。娘の級友が登校途中に拾ったはいいが、やっぱり教室には持ち込めなくて、持てあまして小学校の隣の児童公園に放したらしい。娘が帰宅後にその話を妻にしたら、妻は、それじゃ子猫は死んでしまうよと娘を怒鳴り上げて、その足で娘と拾いに行ったとのこと。
    当初は衰弱していて獣医に連れて行ったりとかけっこう散財した。子猫用のフードも最初はなかなか食べられなかったけれど、娘がフードを細かく砕いて与えたりしてなんとか持ち直した。
    自宅が猫屋敷になるのもどうかと思うし、にゃん太郎やにゃん黒を引き取った経路であるネット上の里親捜し機構に申請するように妻には言うのだが、拾いに行くのは迅速だった癖に、写真を撮る暇が無いだのPTAが忙しいだのとぜんぜん里子に出す気配がない。娘もすっかりこの子猫をうちに置くつもりになっている。
    これに味を占めて次々に捨て猫を拾ってくるようなことにならなければよいがと、それだけが気がかり。
    猫は捨てないようにね。もし子猫が生まれても飼えないのなら、去勢なり避妊なりちゃんとするように。その手術代を払うのは飼い主の義務だと思います。子猫を捨てる罪悪感を回避するにはリーズナブルなコストだと思いますけどね。去勢代が払えないから生まれた子供を捨てることにするなんていうような道徳観の持ち主は動物を飼ってはいけません。

  • 知恵を使った仕事をする

    金曜日は午前中は一般病棟回診と処置・救急の担当。午後が一般外来。
    一般病棟に入院中の腸炎の子は今日も渋り腹で不機嫌だ。しかしカルテの検温表をみたら昨日は昼食夕食とも主食10割副食3~5割を食べたと記録されている。この数字は今朝の病状からして納得できない。そんなに食べられた訳がない。
    付き添いのお母さんに直接確認したら、お子さんが全然食べなかったのでお母さんが食べてしまったとのことだった。
    食事の摂取量を記録する際には、食後に下膳カートに集まった食器をみて、食べ残しの分量から食べた分量を推定する。いちばん手っ取り早い方法ではあるのだが、小児患者相手にはこうして間違いの元になる。
    世の中のお母さんはこどもの残飯を自分の胃袋に始末することが多いよとは若い未婚の看護師たちの一般的な発想のうちには無いことかもしれない。でもね、カルテを書くときには患者さんの顔を思い浮かべるものだよ。いくら、うちは混合病棟だし自分達は小児看護の専門じゃないとは思っていてもさ、この子が飯を全部平らげられる状態かどうか位は考えなきゃ。思いつきさえすれば、ちょっとお母さんに聞いてみれば解決じゃないか。
    数字一つ書くのにも考えて書かなきゃということは時にあります。外来でも、0歳9ヶ月の子の体重をカルテに17kgと書いてきた看護師がありました。そりゃ3~4歳の体重じゃないかと思って確認したら、予診表にお母さんが体重を記載した数字が判読しにくくて縦棒が7の数字の本体から分離して見えたと言うことでした。まあ、体重はこまめに実測しなければとは思います。申告された体重を転記する場合でも、はたして1歳にもならん乳児の体重が17kgもあるものかどうかは考えなきゃいけません。本来7kgの子に17kgと思って処方を書いたらけっこう辛いことになります。まあ、処方書く前には診察もするわけで、目の前の乳児の体重が17kgですとカルテに書いてあったときにそれを丸飲みして17kgの処方を書くようでは医師の素養も疑われますが。

  • 平穏無事のNICU

    今日のうちのNICU看護スタッフは、一番下っ端でも経験5年目というとんでもない充実ぶりだった。人数も日勤6人。何とも贅沢。さるさる日記時代に看護師の層の薄さを嘆いたのが嘘のようだ。しかもこんな充実した日に新規入院もなし。午前の外来が終わった後は半日NICUでぼんやり座って本を読んでいただけの平穏な一日。入院中の子供たちみんなの病状が落ち着いているのはベテラン揃いの看護師たちが落ち着けてくれているのだろうけど。
    産科では超未熟児の双胎の帝王切開をいつにするかと検討中。
    できれば今日みたいな充実した日に出生してほしいなと思う。6人いたら超未熟児二人の入院時処置もけっこう楽に進む。楽だというのは大事なことだ。ゆとりがあるほど成功率が上がる。大人でも点滴失敗したら痛いでしょ。超未熟児は点滴失敗が重なると脳室内出血を起こしますからね。やっぱりベテランに介助していただいて処置をしたいです。一人の処置に掛かっている間はもう一人の子をしっかり落ち着けていてもらわなければならないし、日勤3人で二人は1年目なんていう、この3月までは実際にあったようなシフトの日に超未熟児二人の同時入院なんて到底不可能でした。
    うちのNICUでは25週までは在胎週数と生存率がダイレクトに相関している。在胎週数と生存率のグラフを書いてみると、生存率は24週・25週で右肩上がりに急上昇し、26週からはほぼ8割9割以上となって上昇が緩やかになる。数字だけでものを言うならば、25週までは胎内での状況がどうあろうと妊娠継続してほしいが、26週以降は胎内環境が悪化したら程よいところで分娩に持ち込んでほしいと思う。
    むろん、こんなエクセルのマクロで判断プログラムが書けるような単純なアルゴリズムでは分娩時期を決定することはありませんよ。もうちょっと色々と小難しいことも考えてます。感染の合併なんてのも大事な要素だし、双子だと体重差とかも考えるし、臍帯血流を超音波で診ることももちろんだし。
    その「小難しいこと」の中には看護スタッフの充実度ってのも入るのがつらいところです。去年までは、NICU看護師の勤務表を主任と二人で睨んで、この日なら大丈夫だからと超未熟児の帝王切開予定をずらしてもらってたりしました。問題なしとは言えません。もっと巨大なNICUならこんな人的要素の変動もそれほど大きい影響は持たないはずです。日勤20人とか30人とかでやってるNICUなら日ごとの経験度のばらつきもそれほど大きくはならないはずです。
    そんな半端なNICUでも今は業務を止めるわけにはいきません。京都の事情ではね。

  • 小児神経学会の良心的な提言

    記事引用:

    言葉の遅れや自閉症が、テレビやビデオ視聴のせいだとする十分な科学的根拠はない――。日本小児神経学会(青木継稔会長)は17日、そんな提言を発表した。

    長時間視聴児は言語発達が遅れる危険性が高まるという日本小児科学会の提言を念頭に置いたものなのは明らかである。
    この提言が出て以来、心の隅に何かが引っかかったような思いをしていた。日本小児科学会の提言は、米国小児科医会みたいに格好いい社会的コーケンってやつをここらで自分らも一発やってみたいな、という雰囲気が学会で盛り上がったところへ、叩いても表立っては反撃されない低リスクの標的がありますよと持ちかけて火をつけた人が居て、一気に盛り上がったという構図だった。なんだか、小児科学会に一応所属している自分も、父親が逮捕された級友をよってたかって苛めて正義の味方ぶる卑怯な小学生になったような気分がした。子守するお母さんを苛めてそんなに楽しいか?先生ら連続1時間でも自分1人で子守をしたことがあるか?
    小児神経学会の提言をまとめられた小西先生は赤ちゃんの発達に関しておそらく日本で最も発言力の大きい人だと私は思う。障害児への愛情と学問的な誠実さを人格的な熱さで融かして合金にして、該博な学識でその合金を鍛えて、それを材料に学者をひとり作ったら小西行郎が出来上がる。今回の提言も先生の面目躍如と言ったところだ。先生よくぞ仰って下さいました。
    日本小児科学会の提言の実質的な旗振り役であった片岡先生は(この提言はほとんど彼1人の学説を元に出来上がった感があるが)、言葉巧みに、長時間視聴が自閉症の原因であるという誤解を誘ってきた。自閉症児の父親としては、不愉快な人だ。その不愉快さを著名な児童精神科医に代弁して頂く
    お二人への印象があまりに違う故に私にとってはこの二つの学会の提言を同列に考えることなど到底不可能だ。
    自閉症とテレビに関しては妻の言を引用する。
    「一日4時間とか8時間ってのは確かに見せすぎだと思うけど。でも、もうちょっとテレビやビデオを集中して見ててくれたら私も楽だったかもね。」

  • ネオフィリン処方入力の恐怖

    今日は一般外来から喘息発作の幼児が入院した。入院カルテの指示欄にソリタ-T3(500ml)1本にネオフィリン6.5mlを溶解して20ml/hで持続点滴と書く。
    ネオフィリンの製剤は1アンプルあたり250mgの薬が10mlに溶いてある。だからカルテ指示欄には6.5mlと書く。点滴の準備の時は液状の製剤は注射器で計量するから、看護師さん相手の指示はml単位でないと、作業中に要らぬ暗算を強いることになる。しかし注射薬処方のコンピュータ入力では0.65管と入力しなければならない。薬局が病棟へ薬を払い出すのも医事課が請求書を作るのもアンプル単位だからだ。
    カルテにたった今「6.5ml」と書いたその手でコンピュータに入力するのだ。「6.5管」と入力してしまう恐怖を拭えない。徹夜の当直が明けた日なんて、その程度のミスは起きない方がおかしいくらいだ。
    しかも単位は「管」しか選べないから、と、注射薬処方の入力プログラムはご親切にも単位の入力はしなくていい(できない)設計になっている。単位なしの生の数値を「0.65」と入力することになるのだ。プログラムを作った人は入力者の手間を省いて気を利かせたつもりなのだろうけれど、入力する側にすれば安全確認の機会を一段階ぶん奪われた思いである。選択肢が一個しかなくても敢えて意識的にそれを選ばせるのが慎重なやり方というものだ。
    ネオフィリンの処方で小数点の位置を一個間違えたら受け持ち患児を殺すことになる。本気で死にますよ。ときどき新聞に出ています。気管支喘息あるいは「喘息性気管支炎」で10倍量の薬剤を投与されて小児が死亡ってやつ。なんせこの薬は2倍量で嘔吐します。3倍量で不整脈、4倍量で痙攣します。10倍なんて死ぬに決まってます。
     まあ、医師の入力がどうあれ、看護師さんも点滴の準備の段階で輸液ボトルに10倍量のネオフィリンを何の疑問もなく充填してはよくないと思う。喘息の入院患児をあるていど看ていたら、この点滴は何だかおかしいと思わなければならない。思ったら医師に変だよと言えるくらいには病棟は風通しがよくなければならない。
     コンピュータにしても、この子が1歳だと言うことは知っているのだから、6.5管なんて数値が入力されたら、「極量越えてるけど本気かい?」くらいの警報は出してくれても良さそうに思う。
     致命的な医療ミスも、こういう些細な発端から生じるものだ。病院には地獄への落とし穴が思わぬところに口を開けている。落ちないように気をつけなさいって言うばかりでは能がない。あるとわかった落とし穴は埋めて欲しい。せめて、十重二十重に柵を巡らせて欲しい。落ちて一番痛い目に遭うのは患者さんなのだよ。

  • 「コンピュータが子供たちをダメにする」 クリフォード・ストール 草思社

    今度はこんな本を読みました。
    著者は「カッコウはコンピュータに卵を産む」で自分が管理するシステムに侵入したクラッカーを追いつめた顛末を述べて一躍有名になった人である。2作目の「インターネットはからっぽの洞窟」でネットの空虚さを論じた。本書が3作目。
    コンピュータを熱狂的に教育現場に導入しても教育がよくなるわけではない。売り込む企業が儲かるばかりで、図書館の予算は削られ、子供たちはレポートの中身ではなくフォントに気を遣うようになる。計算練習やスペリングといった学力の基礎が突き崩されていく。云々。確かにそうだよねーと思う内容ばかり。
    僕はチョウについての研究だったら、インターネットからダウンロードした昆虫学の最新の研究を参考に作成されたマルチメディアの展示物より、小学六年生がトウワタの茂る野原でオオカバマダラのさなぎを観察して書いた文章を読みたい。
    でもうちの娘の小学校はコンピュータもそれほど導入しているわけでもないのに計算練習の宿題は自分の小学校時代よりもはるかに少ない。漢字ドリルなんて過去の遺物扱いだ。基礎を反復する地味な教育がおろそかになっているのはコンピュータのせいばかりではないんじゃないか、とも思う。
    「インターネットは・・・」を読んだときは私はまだそれほどのネットジャンキーではなかったし、そんなもんなのかと他人事じみた感想しか持たなかったが、今の生活を思い返せば彼の指摘が正鵠を射ていたのが今更のようにわかる。彼に指摘されたからっぽの洞窟を探検するのに私は随分と時間を費やしてきた。幸いにしてシステム管理者などという恐るべき仕事は引き受けたことはないので「カッコウは・・・」の記述が身に染みることはまだないのが幸いだ。

  • 演奏会

    旧友が所属する金管アンサンブルの演奏会に行ってきました。ほぼ16年ぶりかで顔を見ました。懐かしかった。
    高校の時、3年間同じクラスで、同じブラスバンド部員で同じパートだった人です。そういう仲ならさぞや親友にもなるだろうというのが世間でしょうか。でも20歳の時の同窓会で会ったきり音信不通でした。基本的に馬が合わなかったのかな。でも私は馬の合う友人って今まで経験がありませんし。社会性の欠陥は自閉症の息子に限らず我が家の代々の血筋なのかもしれません。そういえば実家の父にも友人の話をほとんど聞いたことがない。
    昨年だったか、ふと思いついて昔の知人の名前を幾人かGoogle検索してみたところ、このアンサンブルグループのウェブサイトに行き当たりました。ネットってありがたいなと思いました。
    演奏会はよい出来でした。みんな仕事が忙しくなってくる年代なのに、難曲ばかりの選曲をよくここまでこなしたものだと思いました。グールドに毒されている私には彼らのバッハの演奏は些か熱情的過ぎるかに思えましたが・・・3年ぶりの演奏会に、それなりに籠もる熱情はあるのでしょうね。そりゃクールに決めろって言うのは無理かも。
    会場はかなり込んでいて空席を探すのが難しそうでした。私のような嘗ての金管小僧らしき大人に混じって、中高生とおぼしきこどもたちも大勢来ていました。団員の子供にしては年長ですし(そうそう二十歳前後で子持ちになった団員がここまで多くはなかろうし)これはおそらく市内のブラスバンドやオーケストラで金管をやってるこどもたちが勉強に来ているのだろうなと思いました。
    私はレコードやテレビで憧れてブラスバンド部に入った口ですが、金管の生演奏を中高生の時に聴いた記憶がほとんどありません。長崎の片田舎育ちですからね。京都の中高生はこうして日曜ともなるとみんなで連れ立って演奏会なんて聞きに来れる環境にあるんですね。中高生のお小遣い程度の入場料で。プロの演奏会のポスターもたくさん貼ってありましたし。やっぱり生演奏の勉強になり具合ってのはひと味違います。
    羨ましいですね。幼い頃からこうして接している文化の厚みってのは一生の宝物ですよ。

  • 「天使の代理人」 山田宗樹 幻冬舎

    昨日入手し一気に読了しました。人工妊娠中絶を題材にした小説でした。読み続けるのは怖いけれど中断することもできませんでした。
    小説として緻密に出来上がっています。テーマに夢中になって構成が粗雑になる「問題提起型」小説にありがちな穴が見あたりません。いかにも幻冬舎が出す、プロの小説家が書いた本です。ひょっとしたら、作者はもともと人工妊娠中絶について特別主張したいことがあったわけではなく、プロの小説家の冷徹な目で評価して、このテーマを書いたら凄い小説が書けるとの思惑で取りかかったのかもしれないと思います。藤子不二雄が猫型ロボットにもともと一家言あったわけではないように。
    生命倫理の書物として読んでも満足です。悪者指摘して終わりとしません。問題の切り口を工夫すれば難解さが消失するという安易な姿勢を感じさせません。複雑な問題は複雑なものとして記載してあります。大事なことだと思います。
    生命倫理を語るときに、万人に通じる原理原則を論文で論じるやり方ではなく、こうして名前と顔をもった1人1人を動かしてみせる、物語という方法が、今後は重要になってくるのではないかと思います。探求の方法論のみに止まらず、探求される内容として、世間一般の誰でも代入可能なマクロな生命倫理ではなく、顔を持った個人レベルのミクロな生命倫理というものが重要な考え方として成立しうると思います。
    作者もまた、システム的に半分マクロの視点で動いた面々と、単純に個人と個人の関係で動いた面々を対比させています。読者として私が腑に落ちたのは後者のほう、徹底してミクロの関係であった人たちのあり方でした。
    顔、か。またもレヴィナス先生や内田樹先生が出てきそうな語ですね。
    表向きは自然死産として届け出られる、闇の後期中絶については、私は初耳でした。これまで公立病院とかキリスト教病院とか(米国南部のごりごりの原理主義的な教派が出資して出来た病院です)とか、この手の儲け話は喉から手が出そうでも決して出してはならない立場の病院にしか勤めたことがありません。でもまあ、たぶん、あるんだろうなと思います。需要がないとは思えないし、関係者一同が黙ってれば闇に葬ることは十分可能だし、経済的にも成立するし。
    胎児適応での妊娠中絶すらシラを切り通そうとする産婦人科学会ですから、この小説は無視するか憤るかでしょうけど。あとがきに、取って付けたように「医学関係の描写についても、必ずしも実際の適応に即したものではないことを、お断りしておきます。」とありますが、この緻密な小説の結末にいかにも蛇足にこんな記載がついているのが、まあ、現状の象徴ですわ。
    結末については、まあ、ほんとにこんな状況からのリカバリーを実現しかねない優れたNICUが埼玉には実在します。

  • 「臨床心理士」にむかつくのは何故だろう

    不遜ですけどね。
    「ネオネイタルケア」という新生児医療関連の主に看護師さんが読む雑誌があります。けっこう読み応えのある記事を載せます。畢竟、NICU医療は看護師がやるものですからね。寄稿者は大きなNICUに勤務している看護師さんだったり、新生児科医が解説記事を書いたりしているわけですが、無視できないのが臨床心理士です。
    生まれたばかりで重病でNICUに入院した赤ちゃんの、あるいは出生前診断のついた生まれる前の赤ちゃんの、お母さんをはじめお家の人の心理的ケアについて述べられます。あるいは赤ちゃんが亡くなった後の御遺族のケアとか。
    記事の内容はいちいちごもっともなことばかりなんですけどね。いつも、読んでて腹立たしい思いをさせられます。なんでこんなにむかつくのかな、とその都度反省します。
    痛いところを突かれるからかもしれません。心理的ケアって手薄になりがちです。それに、ここまでで十分という手応えもありません。気にしても気にしても際限がないし、客観的には十分やれていることでも、改まって指摘されたら、指摘されると言うことはまだ不十分なのかなと思わせられるという、疑心暗鬼的な一面もあります。障子の桟に積もった埃を無言で拭う姑に感じる嫁の心境かもしれません。
    批判を予想しない執筆スタイルに反感を感じるのかもしれません。私の言うことはあまりに当然で反論のしようがないだろうと言わんばかりの、直截な、あるいみ無防備でナイーブな雰囲気が臨床心理士の寄稿には共通しています。心理的ケアが必要だってのは同意するけど、だからといって貴女のご意見が各論まで全面的に正しいと言うことにはならんのよと言いたくなります。でもこれは臨床心理という分野が背負った宿命かもしれません。結局、他人の心理という原則的に分からないことに言及する分野ですし、レヴィナス先生に倣って他者の他者性に対して遠慮がちになっていたら一切ものがいえなくなりかねません。立証も反証も可能なら私ら医者の出番ですしね。
    たぶん、こういう非難を受けても臨床心理士ならこの非難の出所を冷静に分析してみせることでしょう。他人の心を手玉に取るとの非難の気持ちもまたあります。繰り返すことになりますが、他人は他人なのよと。他者の他者性に関する扱いは凄く難しいものなのに。
    やっぱ、みんなへとへとになって24時間頑張っているのに、当直もしない職種が単にNICUの中をうろうろしてお家の人と勝手に話をしているという場面を想像すると、自分の手は汚しもしない癖に他人の苦労も知らず好き放題な事を言いやがってという反感がこみ上げますね。うちのNICUにはこの職種が勤務していないせいかもしれません。実際の働き具合を見れば感想も変わるのかもしれません。

  • 一人で学校へ行く

    息子が一人で学校へ行けるようになりました。成長したなあと思います。嬉しいことです。
    2年生までは妻が送り迎えしていました。3年生からは妹が入学したので妹と一緒に学校へ行きました。帰りは時間が違うので妻が迎えに行っていました。今は4年生です。
    この数日ほど、朝の支度が遅くて妹において行かれたりして、一人で行かざるを得ず(妻は冷酷に叩き出したようです)、行ってみたら一人で行けたことに納得したようです。家の鍵を持たせたことも何か安心させる要素になったようです。学校は歩いて5分の近所にあり、途中で1カ所交通量が比較的多い道路を渡ることにはなりますが、右折がややこしい時差式信号ではないので、信号に従っていればまず大丈夫です。
    多動傾向が無いのが息子の売りです。自閉症児特有のこだわりで、横断の時はきっちり左右を確認しますし、赤信号だとたとえ車が来ていなくても絶対渡りません。交通事故の心配はまずありません。障害無しの子よりも低いくらいだと思います。
    中学校は歩いて20分ほどかかり比較的遠いので、今から学校へ一人で行けるようでないと中学から単独通学を導入するのは難しい、となると高校で自立・職業訓練を目指す養護学校への入学が難しくなる・・・と思うと、現時点で単独通学を確立しておくのは将来へ向けての必須事項です。
    確立へ向けて作戦を色々練ってはいたのですが。でも息子の成長のほうが早かったようです。