• 甘くなったメイアクトは使い潰されるだろう

    メイアクトにバナナ味の製品が出た。明治のセールスマンが説明に来た。製薬が製菓と共同でなんとか甘くしてみました、とのことだった。今はこどもの間でバナナ味が流行してますから、とのこと。たしかに飲みやすくなっていた。
    これでメイアクトの命運は尽きた。
    メイアクトは小児科外来で処方できる経口抗生物質の中ではフロモックスと並んでおそらく最強の抗菌力をもつ薬である。抗菌力は最高ながら、なにぶん従来の製品は恐ろしく苦くて内服する方も処方する方も覚悟が要った。私がメイアクトを処方するのは重症の急性中耳炎のときくらいだが、親御さんには、随分苦いですけど今はこの薬が是非とも必要なんですからねとよくよく説明をする。
    しかし、覚悟して飲まねばならぬ苦みの故に、メイアクトは長らく最強であった。念のためと称して発熱を主訴に受診した患者さん全員にサービス気分で抗生物質を処方する医師もメイアクトだけは敬遠していたからだ。
    開発段階ではおそらく現在のメイアクトと同じ菌種をターゲットにしていたのであろうセフゾンは、その味の良さ故に、発熱したこども全員に取り敢えずセフゾンを出しておくという診療が蔓延している。そしてセフゾンに耐性を持った菌もまた。セフゾンはそろそろ使い潰されている。最強の地位を明け渡して久しい。やがてアリバイ工作のための念のため処方にすら使われなくなっていくことだろう。そうして抗生物質は消えていく。ケフラールがそうであったように。
    今後はメイアクトの耐性菌が広まっていくだろう。メイアクトに耐性をもったインフルエンザ桿菌なんかが世間で急性中耳炎を起こし始めたらいったいどうやって治療をしたらいいのだろう。メイアクト以上に「切れる」経口抗生剤は日本には出回ってないんじゃないか?
    頭がくらくらする。

  • 公式に基本的人権を否定される人がある

    アエラで雅子様について読んだ。結構重大なことなんだなと思った。
    何が重大って、基本的人権や男女平等の例外とされるような人が日本に住んでおられるということ。それを公認しようとしている「学者」がいるということ。
    「皇室は憲法の基本的人権や男女平等の例外。雅子さまのお気持ちを尊重するのはもちろんですが、憲法の人権を認めなければというのは違和感がある。なぜなら皇室は決して憲法によって存在するのではなく、憲法ができる前から伝統として存在するのですから。」こう言うのは、保守派の坂本是丸國學院大教授(神道学)だ。
    そんなことを平気で言う奴らに囲まれて暮らしておられる被差別民が日本には存在する。そんなことをいってそれでも教授を名乗っていられる大学があって、憲法が保障する学問の自由を享受している。
    だったら伝統として皇室を存続させるがいい。でも、所属する人間には基本的人権を認めないというなら、人間を皇室に所属させてはいけない。人間以外の構成員で皇室を構成するべきだ。マッコウクジラの皇太子殿下は現在北太平洋を回遊中です。
    私は、みんなの幸せのために誰か一人が犠牲になることを公認する考え方が大嫌いだ。
    伝統を振りかざして憲法を無視するなら皇太子殿下に側室を何十人もつけるといい。お世継ぎには一番の解決策だと思うよ。いずれのおほんときにか女御更衣あまたさぶらひたまひけるのが伝統だろ?坂本先生の価値観にぴったりなんじゃないの?
    雅子様は緒方貞子さんの助手として外へ出ていただくのはどうだろう。外交官としてのキャリアを生かして。JICAの理事長として途上国を外遊する緒方さんの後ろには、日本国の皇太子妃が控えている。英国に外遊中の皇太子殿下が「いやあ・・女房はいまウガンダでして。」かっこいいと思う。そんな皇室なら、私は支持したい。

  • 選挙が終わりました

    参院選が終わりました。今回は政治に徒然です。
    昨日は当直明けで眠かったし昼間は凄く暑かったし、陽が陰ってからぼちぼちと出かけました。8時までにして貰っててよかったです。
    誰の公約がどうというのが今ひとつ判らなかった。選挙に出る人ってこどもを大事にするやり方が判らないのだろうなと思いました。丹念に公約を読んだら少しは言及されてたのかな。共産党の女性候補者が落選してましたけど、あの世代は女性だからというだけではこどもを大事にするとは限らないからね。姑ってのは大抵は子育ての敵だし。
    公約に子供を大事にする具体策が出ないのは、それを述べても票につながらないからでしょう。年寄りは自分で票をもってますし義理堅く選挙に行きますからね。子供は当然のように選挙権を持ってないし、20代30代の親世代は真面目に選挙に行かないし。何の事情もなくて今回棄権した面々には子育ての苦労を政治に訴える資格がないですね。誰も子供を本当に大事にしようとする公約を出しているようには見えなくても、そりゃもう最初から投票に来ないと目されてる人にアピールしても仕方ないじゃないですか。まずは自分達の世代を無視すると痛いよという実力誇示をしないといけません。
    でも私も何か政策に提言してみろと言われても即座には思いつかないです。これはお恥ずかしい話です。でもまあ、まずは児童精神科医を増やして欲しいです。増やすにはどうするか・・児童精神科を標榜すれば儲かるような診療報酬の設定をするくらいしか思いつかないけど・・・後は発達障害児の療育施設をたくさん作って臨床心理士など同分野の職種もどんどん雇います。ポストがあれば若い医者は児童精神科を選びやすくなるでしょう。
    流れ星が消える前に3回唱えた願いは叶うというのは本当だと思います。流れ星なんてこちらの予測するタイミングでは流れてくれないし、流れている時間も凄く短い。流れ星が流れる間に3回唱えることができるほどに要点を簡潔にまとめて常に心に念じていれば、それはもう叶うでしょうよ。
    子育てなんて真面目にやってたら政治家になれるような人生コースには乗れないでしょうから・・・・とか思ってたら隣の滋賀県で31歳女性ご長男は1歳という方が当選しておられました。ご活躍を期待します。

  • 「この森で、天使はバスを降りた」

    レンタルDVDで観た映画ですけどね。
    悲劇ですねこれは。DVDレンタルサイトのレビューにあるような心温まる話なんかじゃないです。
    主人公は懲役刑からの釈放の後、人生をやり直そうとして舞台となる田舎町へやってきて、食堂に住み込みで働きはじめます。その食堂を売りたがっている経営者の老女に、高額の対価を得る妙案を提案し、大成功します。経営者も店を手伝う近所の主婦もそれぞれに人生の問題を抱えているのですが、主人公のお陰で解決の糸口が見えます。闖入者の主人公を最初はうさんくさく見ていた町の面々が主人公を受けいれ始めます。好青年の求婚者も現れて、ようやく幸せになりかけた矢先に、嫉妬と猜疑の強い莫迦男に陥れられ盗みの嫌疑をかけられて死ぬ羽目になります。
    最終的には、主人公以外のほぼ全員が幸せになります。みんな喜色満面でパーティをする場面で映画が終わります。主人公を陥れた男でさえそのパーティにお相伴しているのに、主人公は既に過去の人、教訓話の主人公です。闖入者のお陰でみんな幸せになったのに、闖入者は闖入者たる故に用が済んだら排除されたのです。最後の未解決事項は闖入者の存在であったと言わんばかりです。
    それでは主人公は成仏できないでしょう。
    主人公の女性が懲役になったのは、9歳の時から自分を強姦し続けた義父を殺したからです。母親は義父に捨てられるのを恐れて娘に我慢を強いていました。挙げ句に主人公は妊娠し、義父の暴力で流産してしまいます。
    主人公の人生は、他のみんなが幸せに暮らせるという理由で、彼女が犠牲になることを周りのみんなが許容してしまうような、そういう人生でした。主人公だけが幸せになれなかった。みんな彼女に感謝するけれど、それは彼女が姿を消した後、自分の幸せが確保されて後のことです。間に合ううちに彼女のためにリスクを背負い犠牲を払うような、いわば彼女自身の幸せに責任を持つような存在が誰もいなかった。
    まさに本来の意味での犠牲、いけにえ、ってやつですな。児童虐待の被害者の典型的な役どころです。特にこの映画の主人公のような性的虐待の被害者の。あなたさえ我慢してくれたら上手く行くのだからって言い含められる立場。性的虐待事例のほとんどで、母親は父親が娘を強姦するのを黙認しています。
    こんな犠牲を許す社会は、たとえば、病人が何人か出るごとに誰か一人解体して臓器移植の材料に使うことを許容しかねない社会でしょう。しかし決してこの町は特殊な町ではない。映画を観る限りこの田舎町の人間も田舎者だと言うだけでけっして悪人揃いではないのです。ごく普通の人々の心情に、他者が犠牲になることを許してしまう心情が潜んでいるのです。その心情が根こそぎにされない限り、児童虐待はなくなりません。

  • 自閉症児とリアルロボット

     自閉症児とリアルロボット
     息子が週刊リアルロボットを購読しています。週刊誌(最近は隔週刊)の付録にロボットの部品を小分けにつけてあり、毎週少しずつロボットが出来上がっていくというものです。
     本来は大人の道楽で、小学生には難しいかと思っていたのですが、彼は一回分の作業の説明書を理解するのに3秒と掛かりません。ほとんど本を開くと同時に部品に手をつけていますが、それでも一応は正しい手順で作業が進みます。自閉症児が視覚認知に優れているってのは判りますがね。やっぱり好きの一念がなせる技ですかね。
     ただ、次の部品が届くまでの1~2週間を黙って待てず毎日毎日ドライバーやペンチでいじり回しているからちょくちょく壊れます。まともに走ってるのを見たことがありません。で、ばら売り部品を買ってくれと要求してきます。どの部品が第何号の付録だったかまできれいに把握しているからたいしたものです。
     そこで、ためしに、買って欲しい部品を一覧表にさせました。そして、お手伝い(風呂の掃除とか猫のトイレ掃除とか新聞を取ってくるとか)あるいは宿題をするたびに、各部品の棒グラフを少しずつ書き足していき、満額になったらその部品を買うという方式にしました。
     そしたら息子の素行が随分よくなりました。宿題は喜んでするしお手伝いもするし。やってやらないことはないけれど今ひとつきっかけが無くて取りかかれない、という類の仕事の取りかかりが随分よくなりました。やいやいと口うるさく催促されて挙げ句にべそをかきながらお手伝いというのでは本人も苦痛なはずです。報酬で釣るってのも何か犬やイルカの訓練みたいで変な気分ではありますが、やらないのを叱られて気分悪くお手伝いをするよりは、報酬を楽しみにでも気分よく暮らした方がマシではありましょう。親の喜ぶ顔とか誉め言葉とかが報酬になるほど社会性が発達していたら自閉症とは言わないですな。
     ゆくゆくは十円玉を報酬に使おうか、とも思います。今はお買い物の練習を、その当のリアルロボットを買う時に本屋で行っています。毎週火曜日の小学校が引ける時分に変な小学生が予約済みの雑誌を買いに来るので店の人も判っているらしいです。他の店でも買い物の練習をして、それから自分の小遣い銭を溜めて自分の欲しいものを計画的に買う稽古もして。
    いろいろと学んで自立へ向かわねばなりません。いちおう、将来的には障害者枠でであれ就労して自活して貰いたいものだと思っています。月7回8回の当直なんてヤクザな仕事しててこの子の将来を十分見届けられるほど長生きできるわけないですやね。その上、実家の仏壇を眺めてみると、我が家で維新以降還暦を過ぎて生きていたのは父が初めてです。あんまり長生きする血筋じゃなさそうだ。
    そもそも、親が子よりも長く生きたいと思うのは重症の障害児を抱えた親が等しく思うことですが(『この子を残しては死ねない』ってことね)そんな悲惨な思いをして頂かないような社会を作るという点に関しては、小児科医の私は職務上の責任も負っています。当たり前に、子供たちに後を託して死にたいものです。

  • 原稿用紙の呪縛

     久しぶりに縦書き原稿用紙を使ってみている。高等学校の現代文の授業以来だ。懐かしい。自分の感覚にぴったりと寄り添う本来の書き方に帰ったような感じがする。たいそう楽にも感じる。会話で言えば九州訛りで喋る楽さにも例えられようか。
     自分の文章を縦書き原稿用紙と横書きのエディタで比べてみると、なにより目に付くのは句読点の打ち方の違いである。縦書き原稿用紙を使うと、横書きではまず区切らなかった位置で句読点や改行を入れている。文章のくどさが目に付くのだ。プロポーショナルフォントを使っての横書きでは自覚しなかった程度のくどさでも癇に障ってくる。
     どうやら私は、この程度の字数で句読点、この行数で段落更新、と縦書き原稿用紙の見た目で文章を整えるやりかたを身につけていたらしい。形式にとらわれず自在闊達に書いていたつもりの自分が、この原稿用紙という体裁に、思わぬほど深く縛られていたことになる。
     武道でも芸事でも、それを身につけることで習熟してゆくような「型」はあるものだ。内田先生の著書でもサイトでも再々登場する概念だ。原稿用紙縦書き四百字というのも、文章を書くことを学ぶための「型」と言えば言えよう。
     であれば、型に縛られていることそのものはそれほど悲観すべき事ではない。単にまだ自分が型を超越できるほどの達人にはなっていないということだ。むしろ原稿用紙という型を練習することが達意の文を書けるようになる早道であろう。
     むしろ問題なのは、この「型」に対して無自覚であったということだ。自分の文章、翻っては自分の思考を束縛するものに対して無自覚であるのはよくない。せめて、自分は何に制約を受けているかくらいは自覚していたい。
     今回はワードの縦書き原稿用紙テンプレートで下書きをして、カットアンドペーストでこのブログに投稿してみた。いつもの文章とはどう違うだろう。私の作文教育を担当した小学校から高校までの国語の恩師たちなら、私の地は今回の文章だと仰るはずだ。
     

  • 読売新聞によれば子を虐待する親は鬼畜以下だということだが

    7月6日の読売新聞の「編集手帳」にはこどもを虐待する親について鬼畜以下と罵ってあった。一面に載る論評であることを思えば、私見というに止まらず、読売新聞の看板を背負って他人を鬼畜以下と罵っていることになる。当の紙面は一通り読んではみたが、何で今更のように虐待親を罵らなければならないのか、その必然性が今ひとつ掴めなかった。まさか、ネタが思いつかないからひとつ虐待親でもどついて溜飲を下げようとでも思ったんじゃなかろうね。
    無断転載不可との事だし所在だけ書いておきます。
    http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20040705ig15.htm
    そんな無造作に他人を鬼畜呼ばわりするもんじゃないと私は思う。こと児童虐待に関しては尚のこと。罵るほうのお里が知れる。
    子育ての本当の苦労を知り、我が身を謙虚に省みる分別をもった大人なら、虐待事件の報道に接して感じることは、この親の姿は昨日今日明日の我が身ではないかとの戦慄だ。そのおののきを感じつつそれでも虐待親の人格を否定できるとしたら、自分に甘く他人に厳しい二重基準の倫理観の為すところだと思う。あんまり賢そうに見えない。格好良くない。
    今後も子育ての過程が残っている人が自分は虐待とは無縁だと思っているとしたら甘いの一言に尽きる。子育てを終えたが自分は虐待とは無縁だったと総括している人がもしあったら、そういう人はただ御自身の僥倖に感謝するに止めておかれたが善い。幸運に恵まれたというのは他人に対して居丈高な態度をとれる理由にはならない。
    児童虐待という行為そのものは憎むべき罪悪である。別に虐待を奨励したりはしない。解消できないものと諦めるつもりもない。しかし、虐待を論じるに虐待親を罵って結論とするのは浅慮に過ぎる。運転手の人格否定で交通事故がなくなることはない(おそらく減ることさえない)し、医療スタッフの人格否定で医療過誤がなくなることもない。教師の人格否定で教室崩壊が防げるわけでもない。どうして児童虐待に関してだけは親の人格否定をもって結論とする浅薄さがまかり通るのか。
    知らなきゃ教えておいてあげるけど、公器と自ら称する全国紙の一面で鬼畜以下と罵っても文句を言われる筋合いはないという風な、他人をそういう風に扱うのを虐待というのよ。
    浅慮すぎて論が中途半端に終わったから、取って付けたように江戸ローカルな祭りの風物なんて付け足して字数を稼ぐ羽目になっているじゃないか。こんな下手くそな記者に一面の論評なんて書かせるなよ。今年も全国の高校大学の入試問題への採用数で朝日の天声人語に負けるぞ。たぶん「ののちゃん」にすら負けるんじゃないか?
    既に親鸞聖人が喝破しておられる。まあ著作権も問題ないでしょ。歎異抄
    の第13章から引用です。
     よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。
     またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。

  • 昭和史1926−1945 半藤一利 平凡社 東大一直線と関連して

    ぜひ一読するべき書物だと思います。
    なんだって無謀な戦争をしたのだろうと思ってはいましたが、そこにはそれなりに深謀遠慮とか駆け引きとか分析とか止むに止まれぬ事情とかがあったのだろうと思っていました。キャプテン・ハーロックに松本零士が語らせるような美学的なことも若干はあったのだろうと思っていました。
    でも、この書を読んでかなり認識が変わりました。
    先の戦争に至った経緯を描く適任者は松本零士ではありません。
    松本も戦場でのエピソードを個別に描きこそすれ、戦争に至った政治レベルの話は書いてませんしね。その歴史を描く適任者は小林よしのりです。彼が右傾化したのはかなり事情の本質を突いています。
    日本を先の戦争に至らしめた事情に通底するのは、単純一途な思いこみとか、自分の能力が分からない浅はかさとか、周囲の状況がまるで見えない愚かさとか、自分の思いどおりに事が運ぶと信じ切ってしまう幼児性とか。
    まあ、「東大通」が日本の中枢によってたかってやりたい放題やったのですな。
    戦前の日本の歴史は「東大一直線」の世界だったのですな。山本五十六はあの「ちょんまげ先生」の立場にあったのですわ。ははは・・・・笑いが乾いていきます。
    「東大一直線」では、学力など欠片もない劣等生の東大通が何故か自分は東大一直線の優等生だと信じ込み、がり便に励んだ挙げ句、節目節目の模擬試験や本試験では常人を越えた奇跡を起こして良い成績を上げていきました。最後はどうなったかな。見開き2ページが墨で真っ黒に塗られていた記憶がありますが・・・たしか東京大学そのものが崩壊してなかったかな。
    そういう、圧倒的な彼我の実力の違いがまるで目に入らず思いこんだ方針を一途に追求していくのは、東大通も戦前の軍部や政府も変わらないのですが、ただ旧軍は東大通とは違って節目節目のここ一番に奇跡的な勝利を得つづけることはできませんでしたし、一国の歴史は週間少年ジャンプの連載漫画じゃないんだから終末が派手に美しければよいってものでもないです。でも小林はそういう旧軍の精神のあり方にかなり親近感をもってるんじゃないかな。自分の出世作の主人公に通じるものを感じているのではないかな。小林の右傾化の度合いって、なんだかよほど深い事情がないと説明つき難いような気がするのですが。
    なんか東大一直線の話になってしまいました。「昭和史」本筋の話はまた二読三読した後で。でもまあ、買って読むべきですよ。価格と時間のコストは十分に取れます。

  • バカの壁 養老孟司 新潮社

    構造主義の言い古された言説の焼き直しに過ぎないのではないかと思いました。
    そう切り捨てるのもバカの壁にさえぎられてこの書物の本質が見えてないと著者は仰るのでしょうか。
    口述した内容を新潮社の誰かがまとめ書きして養老先生の裁可を得たっていう本でしょ?
    その新潮社の誰かが主著者なのでは?養老先生は監修をしただけでは?

  • 病院内や電車内の携帯電話は本当に危ないか

    これだけ携帯電話が普及したご時世に、病院内は携帯御法度と言うのもつまらんです。入院中の無聊を慰めるにも携帯は便利だと思います。ぼけ老人の相手に人手を喰われると文句を言っている暇に病棟での携帯電話の使用を解禁したら、たまにしか来ない見舞客以外には喋る相手もないまま一日過ごすようなご老人でも惚けずにすむのではなかろうか。小児科の勝手な考えですかね。でもあんな老人の入院生活と同じ事をやってたら私なら三日と持たず惚けますね。
    勝手ついでに、私は重度身障のお子さんに付き添いのお母さんが子供さんがやっと寝静まった深夜にこっそり携帯使ってるのを黙認してますよ。看護師たちだってみんな知ってますがそのお母さんの苦労を知ってるからだれも咎めません。その僅かな息抜きを止めろなんてどういう顔して言えば良いんでしょう。その子が使ってる人工呼吸器は搬送にも使えるのが売りの携帯型です。搬送に使える携帯型呼吸器が携帯電話に負けてちゃあ話になりませんや。
    従来型の携帯電話では植え込み型心臓ペースメーカーに対する最大干渉距離は800MHzの機種で11.5cm、1.5GHzの機種で4cm。第3世代のCDMAなら2GHzの機種で1cm、800MHzの機種でも1.8cm。従来型は出力800mWだけどCDMAは200mWとか250mWですし出力そのものも弱くなっているんですね。11.5cmに安全係数√2(この数字が何処から出てくるのかは知りませんが)を掛けて20cmていどなら、満員電車ではひょっとしたらそれくらい近接する状況があり得るというのが電車内でしつこく携帯電話を禁じられる理由だそうです。ペースメーカーを入れている人の胸元に携帯電話を押しつけて喋ると危ないってんですな。
    最大干渉距離1cmなんて携帯電話そのものも胸に埋め込まんと実現できない至近距離ですな。安全係数を掛けても精々2cmどまりでしょ。アナログだった時代はもっと出力が大きくて危険だったのかな。いまの第3世代の携帯電話なら別に院内で使っても全然平気のような気がする。
    病院内では医師を始め主だった職員は院内PHSを使っています。廊下のあちこちにアンテナが据えられています。10mと電波が届かないようで、それもそのはず出力がたったの10mWです。でも患者さんたちにしてみればベッドサイドで医師が携帯で喋ってるのに(傍から見たら携帯は携帯ですよね)自分たちが禁じられるってのは納得いかないでしょうね。