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24日に「アレグリア2」を観に大阪へ行った。久しぶりにJRに乗った。
行きがけに大阪環状線に乗った。大阪駅ホームでの待ち位置が端っこすぎて、1両目に乗ったが、運転席の後ろは黒山の人集りであった。運転席の後ろは歩きにくいくらいだったのに座席には空席があった。大和路快速の車両は確かに先頭車両から前方への見晴らしが良かったし、単純に風景を見ていた人が大半であったのだろうが、運転手さんの立場としては仕事がしにくかったろうと内心同情した。視線は感じたろうし、かといって後ろを振り向くわけにもいかんだろうし。
帰りがけ、京都駅の改札で老人が駅員を怒鳴りつけていた。延々と怒鳴っていた。相手に自分のメッセージを伝えることよりも怒鳴りつけることそのものを目的とした怒鳴り方に見えた。メッセージの内容が何であれ公衆の面前であの怒鳴りかたをしては相手に伝わるわけがないなと思った。加えて、何となく、老人が「公憤」に駆られる正義の味方として怒鳴っているようにも感じられた。世間一般は自分の味方であり、自分は社会の正義の声の代弁者として悪のJR西日本を懲らしめてやってるんだという感じ。生真面目でナイーブな罵声。止めに入るには私も暑さで参っていたので素通りしたが、あの罵声に黙って耐えていたというだけで私はJR西日本京都駅改札口の駅員さんに味方するつもりになった。頑張って下さい。本当の責任を担っているのはあなた方だ。「正義の味方」ではないのだ。
この3日間ほど外来が私の許容限度を超えている。19日は連休明けでもの凄い多人数の受診。20日は当直明けでまるでペースが上がらず。二日間ペースを乱すと、それだけで本日21日もペースがつかめない。明日はどうなることか。
でも半日1コマの外来で、だいたい私が担当するコマのほうが受診の人数は多い。人数だけの単純計算ならそろそろ私はうちの小児科の主力になりつつある。・・・まあ、そうとでも思って偉くなった気分でいた方が忙しいなか気張って働けるから宜しい。他人に言われると煽てられている気もして厭な感じがするが。
当院でも医師や管理職の給与が年俸制になるとのこと。年俸の1割前後が実績で変動するらしい。何を評価するかという項目は各人に提示されるが、私に提示された分は、病院上層部に評価して欲しいと思っている項目とだいたい一致していて、なるほど今の方向性で間違っていないんだなとは思った。
小児科部長が言うことには、小児科は一丸となって小児患者を診ているのだから小児科医師の評価は小児科全体の実績に基づいて全員そろって上下するとのこと。小児科内部でなら仕事を他人に押しつけてもかまわんということだろうか。何故にNICUの入院数が上がったら新生児の担当を構造的に免除されている人の給料まで上がるのか、私は世間知らずなこどものおいしゃさんだから今ひとつよく分からない。定時に帰って自宅待機してくれる人があるから安心して当直ができるんだということだろうか。まあ、お陰様という言葉を忘れてはいけないねとは思う。
当直や時間外勤務の手当こそ働いた日数や時間数で変動はしてきたが、しかし仕事の内容に噛み込んだ勤務評価を受けるのは初めてのことである。たぶん、私より年長の医師たちも初めての経験なのだろうと思う。小児科部長が部下の各人を分けて評価するのをびびってるのも分からんことはない。それにまあ各人が内心は自分こそ当院小児科ではいちばん働いてるんだと思ってるに決まってるから(それくらい自分で信じ込める程度には働かなきゃまずいよね)、そのあたりの評価はなあなあにしておくほうが無難なのかもしれない。本式に各人別個の評価を始めたらとたんに小児科全体の実績ががた落ちしそうな気もする。医者ってそういうところはけっこうヘタレな人種だし。
医療過誤にまつわる訴訟で、原告の方々には、訴えたのは真相を知りたいからだと仰る人がいらっしゃる。いらっしゃるどころかかなりの割合に上ったはずだ。
何が起きたかすら分からない。それを解明しようにも今の日本には責任の所在を問い損害賠償を求めるという文脈でしか真相解明に至る道筋がない。従って訴訟を起こす以外に道がない。そういう声を聞いたことがある。
真相解明こそ関係者の皆が希求していることなのではないだろうか。責任を追及される立場にある医師や関係者にとっても、いったい此奴は麻疹と蕁麻疹の区別が付くんだろうかと訝しくさえ思えるような素人すじからあることないこと言い立てられ書き立てられるのよりは、相応の知識を持った権威が中立の立場で調査に当たってくれるほうが善いに決まっている。この権威を否定するのは自らの権威を否定することになるような、斯界のメインストリームによる調査が、もっとも望ましい。
そして心ある医師にとっては、医学的に否定のできない形で、今回の一件は君の行動がこうであったら患者さんの予後はこうなっていたという指摘を受けること、これ以上に「応える」処罰はないようにも思う。いや、そういう医師でありたいと思う、と申すべきだろうか。
国交省の事故調が原因究明と再発防止を目的とするのに対し、厚労省の調査権は行政処分を前提とした事実確認が目的となる。
厭な方向に話が流れていく。厚生労働省は「原因究明と再発防止」には興味がないのだろうか。

「あんた、ちゃんと大学を卒業しなかったのは悔いちゃいないのか」
とまどった。そんな質問を受けた経験ははじめてだったからだ。浅井は私の顔をじっと見つめていた。
私はいままでの時間を考えた。二十二年のあいだにやった仕事を思いうかべた。建築現場の作業がいちばん多かった。それにビルのガラス清掃、旋盤工場。店員も多かった。ゲームセンター、パブ、パチンコ屋。事務職では、運転免許証のないことがネックになった。すべて肉体労働だ。そこになにか意味があったのだろうか、と思った。いや、意味があって私はそういう仕事を続けたのではない。逃亡を続けたのでもない。そんなことは考えもしなかった。私はそういう仕事が好きだった。アル中の中年になっても好きだった。バーテンの仕事も気にいっていた。
「悔いてはいないな」私はいった。「まったく悔いてはいない。私がやってきたのは、私にいちばん向いた生活だったと思う」
おそらく本書のテーマからはかなり外れているのだろうが、私の印象に最も残ったのはこの一節であった。主人公は苦難の人生を送りながら、それを怨嗟しない。自分の選択の結果だから等の理由で堪え忍んでいるわけでもない。避けられなかった運命を従容と受け入れるというのでもない。ごく自然に、あたかも何の強制もなく自分自身の自由意思で選択した人生であるかのように、私にいちばん向いた生活だったと語ってしまう。
無理にそう自分に言い聞かせているような自己欺瞞の様子もない。他の可能性を考えられないほど想像力に欠けた人物でもないのに、自己憐憫の様子も見せない。自分に酔っている風でもない。
格好良い男である。かくありたいものだと思う。
ただし私も、小児科医ではあるが、いちおう医者である。医者として語らせていただければ、ここまでアルコールにどっぷり浸かった人間に、ここまでの明晰な知性など残っちゃいないんじゃないかと思う。特に彼は逃亡生活の中でいっさいメモの類を残さず電話番号から住所から何から全て記憶してしまうのだが、アルコールが真っ先に潰すのは飲んだ(飲まれた)人間の記銘力じゃあなかったかと思うが。アルコールに関してだけは、この主人公の人物造型はSFにちかい。まだ彼がプレコグだとかテレパスだとかいわれた方が現実感があるように思う。
ちりんのblog
警察って、たしか、いったん捜査を始めた「事件」については捜査が終結(あるいは一段落?)した時点で必ず「送検」はするもんじゃなかったかな。警察の判断が入るのは「事件性があるかどうか」つまりは「捜査に取りかかるかどうか」であって、警察はいったん捜査を始めた件は必ず送検しなければならない。検察は送検されてきたら必ず受理するけれど、内容によって起訴したり不起訴にしたりもう少し捜査を加えたりする。法律的な手筈はそうなってなかったかな。
マスコミの報道を眺めていると「書類送検されるからには警察はこの件を悪質と考えているに違いない:捜査して悪いところがなかったら書類送検はされないに違いない」という考え方で書いてるんかなと思うこともあるけれど、書類送検しましたってのは要は警察の捜査は一段落しましたよってことに過ぎないんだよね。たしか。
だからマスコミも書類送検の段階ではあんまり鬼の首を取ったような断罪的な記事は書かない方が上品だと思う。ついでに正論を申し上げるなら検察が起訴した段階でもまだ被告人は有罪じゃない。裁判を経て有罪との判決が出るまでは無罪を推定されるんだから、無罪と推定される相手に書くような報道記事の書き方をしたほうがいいんじゃないだろうか。

長い長いお話の最後に、神についてどのような考察が待っているのかと思ったら、まるで当てが外れた。一人前の神父がアル中寸前まで思い詰めた挙げ句の結論がこの程度かよ。あんまり陳腐で神父が可哀想だ。この程度はユニテリアンの本一冊読めば書いてあるんじゃないかい?
キリスト教の神に言及するならキリスト教の文献はもう少し真面目に読むべきだと思う。本作で著者が提起した問題ってのは歴代のキリスト教の神学者たちが考え抜いてきた疑問ではないか?例えば次作で永久機関について書こうと思ったら、熱力学の法則をいかに突破するかを真面目に考える位には、物理学の文献を真面目に読むよね。読むよね?
これじゃこの神父はまともなキリスト教学の基礎知識さえ持ってなかったってことになるんではないかい?勉強さえしてれば道を外れずに済みました。おしまい。いかにも学校の先生が副業で書きそうな小説。


自分を無垢な立場に置いて医療を語ることの出来る人々を羨ましく思う。