今日入院した5歳の子は、どうだしんどいかと聞いても答えない。そのかわりに胸の前で手を右肩から左肩へと動かしている。何かと思ったら、手話で「大丈夫」との表現らしい。看護師が知っていてよかった。私は全然知らなかった。子供さんのほうでも、これは伝わってないと気付いたのか、3回目に聞かれたときに「大丈夫」と音声言語で答えてくれた。ちなみに、きっちりした発音だった。
要するにこの子は手話と日本語のバイリンガルなのだ。どちらが第一言語なのかは本人も意識してない様子。今日はたまたま脱水で口が渇いていて手を動かす方が楽だったということかもしれない。しかし、如何なる状況であれ手話のほうが楽だと思えたとしたら、手話をきっちり自家薬籠中のものにしている証拠であろう。
ご両親は聴覚障害者である。この子の診察券には「手招きで呼んでくれ」と書いたシールが貼ってある。既製品として印刷されたシールであるところをみると、そうやって我々音声言語しか理解できない不自由な面々とのコミュニケーションに無用の面倒を招かぬよう、組織的に配慮してくれているようだ。
これは自閉症児の親としては学ぶべきところである。自閉症児を医療機関に受診させるときの配慮を親の会として組織的に何かしているだろうか。配慮を求めるプリントなど配布したことはある。しかし、この診察券のように、本質を突いた、シンプルで間違えようのない工夫は、残念ながら何もしてないように思う。診察カードにこの子は自閉症だよと書いておくことすら私はしていなかった。
まあ、自閉症はコミュニケーションそのものに関わる障害だから(それを言えば聴覚障害は「所詮」コミュニケーションの手段の障害に「過ぎない」んだよね)、個別性が大きくて、親の会が全体として統一的に打ち出せるシンプルな手段というものは限られてくるんだけどね。
でも「総論的寛大さを懇請するのではなく具体的対処法を指示せよ」という教訓は揺るがない。
この子の話に戻れば、5歳なのに自覚症状を的確に語り、髄液穿刺も動かず耐える、立派な子である。健気さとか精一杯な印象とかが無くて、ゆとりを持って普通にできている感じ。例えばドラえもんの出来杉くんみたいな、シンプルに優秀な子である。手話と日本語のバイリンガルである(さらにはそうならざるを得たかった状況で育っている)ということは、この子になら、成長の過程にマイナスにはならないと思うが・・・これは私の願望だろうか。
日英のバイリンガルに育てようと無理をして、結局は日本語も英語も満足に語れぬまま(二つの言語ともに「てゆーかー、ぶっちゃけー、ちょーむかつくじゃん」程度のレベルに止まったまま)になる悲惨な例も多いという。音声言語と手話のバイリンガルはその点はどうなるのだろう。興味深いテーマではある。勉強しよう。
でもこの子にはこの親御さんしかないんだよね。当たり前だけど。これだけ情愛深くて立派なご両親を耳が不自由だってだけで捨て去る莫迦もないやね。それこそ親不孝ってものだ。それを唆そうなんて奴が居たらそりゃ鬼畜以下ですよ。

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