筑紫哲也ニュース23の特集「自閉症と向き合う家族」

昨日(6月27日)のニュース23の特集「自閉症と向き合う家族」を妻と2人で観た。そろって、辛めの感想を持った。もうちょっと視覚化・構造化できんものかねと。今回の特集は単に自閉症に関して一般的な啓発を図るものではなくて、周囲の対応が不十分な自閉症児はどれだけ毎日がストレスフルであるかというテーマではないかと、私は思った。
自閉症の少年がプールから上がりたくないと泣き、遊園地ではもう帰りたいと泣く。今の活動がいつ終わってその後は何をするというスケジュールの理解が出来ていないのが彼のパニックの主因ではないかと見受けた。お母さんに数字を書いて貰って喜んでらしたけど、数字が分かるならデジタル時計やストップウォッチとかタイマーとかが分からないかな。プールから上げるにしても、例えば、このタイマーが鳴ったらプールから上がっておやつですとか、そういうスケジュールがあらかじめ分かってたら、彼もあんなにパニックにならなくて済むんじゃないかと思います。視覚化の手がかり無しに、パニック起こした自閉症児に口々に「もうちょっと」なんて言葉かけだけで納得させようなんて、そりゃあ無理だ。そもそも「もうちょっと」なんてファジーな表現は彼ら最高に苦手なのに。
ご家族、特に今回の取材のきっかけになった作文をお書きのお兄さんには、大変に酷な言い方で申し訳ないのだが、今回の特集で判断する限り、自閉症に関してまず理解をしなければならないのはご家族の皆様ではないかと、私は思います。視覚化・構造化にどれだけの威力があるか、たぶんあのご家族はご存じないんじゃないかと思います。勘ぐりすぎでしょうか。

患者放置の医師に禁固1年 薬剤間違え注射で京都地裁

患者放置の医師に禁固1年 薬剤間違え注射で京都地裁
種々の意味で気分が重くなる事件でした。隣の市で発生した事故で、判決の下った地裁は私の自宅から市バス一本でいける場所です。判決は執行猶予なしの実刑です。
本件の被害に遭われたお子さんの状況には、沖縄の人が使われる「ちむぐりさ」という言葉に尽きます。この子の状況を前にしては、被告医師の事など切り捨てて顧みずにおくべきなのかもしれません。でも、そうして医師に責任を着せて判断停止しているからこそ、本件の報道が何ら今後の医療事故防止に寄与する気がしないのかもしれないと、私は思います。そこで、色々、いま考えていることを書きだしてみたいと思います。あくまで、この被害を矮小化する意図はないということだけは、読者諸賢にはご承知いただきたいと思います。
何より、種々の意味で、この被告医師を庇ってくれる人は誰もいないのだろうなと思います。伝え聞くところによれば彼は婦人科医でした。病院上層部をはじめ、周囲の人たちからは、小児科など自分の専門外の診療は止めるようにと再三忠告されていた由でした。事故の後でこういう話がことさらに漏れ伝わってくると言うことからも、元勤務先の病院でも彼を庇おうとする意思はないのだろうなと推察しています。そりゃ酷だと私は思います。病院の管理責任については他の場で検討されているのでしょうか。准看護師が間違えただけで塩化カリウムが静注用に手に入ってしまう管理態勢って何だよと思います。静注しますと言われてはいそうですかと塩化カリウムを看護師に渡した薬剤師って何を考えていたんだろうとも思います。あるいは薬剤師の目の届かぬところに常備薬としてあらかじめ払い出しされていたのでしょうか。でも塩化カリウムを静注用に常備しておく必要って私にはどういう状況なんだか想像もつかないのですが。
被告医師の資質に問題がなかったわけではありません。塩化カルシウムの静脈注射なんて、現代の小児科医で蕁麻疹の治療にそんな処方をする人はいないと思います。報道によれば裁判では「心肺蘇生をせずに放置した」と言うことに主眼が置かれている印象をうけますが、彼の間違いの最大の点は、心肺蘇生をしなかったことではなく、蕁麻疹の治療に塩化カルシウムを処方してしまったことだったと、私は思います。それだけの知識しかなくて小児科に手を出すなど子どもを舐めとりはせんかという腹立ちすら、感じなくもないのです。お前さんがそういう時代遅れの処方をしたのが全ての間違いの始まりじゃないかと、関係者一同(私を含み)みな思ってることでしょう。例え間違ったのは看護師さんであったにしても、間違えなくとも無効な治療・間違えてしまって致命的な治療の、二進も三進もいかない指示を出された準看護師さんにいったいどういう責任を問えることでしょうか。であればこそこの被告医師がこれだけ冷淡に告発され、全ての責任を彼に帰すという結論が先にあって、根拠が後付け的に捻り出されて居るんだろうと思います。でも実際には塩化カルシウムの処方そのものは告訴に至るほどの誤りではなく(塩化カリウムとの間違いさえなければ事件性はなかったでしょう:何となれば彼がこの処方をするのは初めてではなかったはずで、この処方を問題にするならもっともっと数多くの「被害患者」が列挙されてきているはずです)、彼の責任をなんとか刑事事件で問おうとすれば、蘇生に迅速に取りかかれなかった点を責めるしかないのでしょう。無論、私もこの一件の責任が彼にあるという結論に誤りはないと思うのですが、その責任を問うのにこのような論立てしか出来ないようでは、刑事裁判というメカニズムには少々不備があるように思います。
心肺蘇生について言えば、齢70歳にも至ろうとする婦人科医で、そのような処方をする人に、迅速適格な心肺蘇生など求めるだけ無理だろうとは思います。多分に彼は驚愕に立ちつくすのみだったのでしょう。いや、たとえ熟達した救急専門医のチームが直ちに蘇生に当たったとて、塩化カリウム誤投与後の患者さんを後遺症なく救命することが可能であったかどうか。むろん、だから彼に蘇生をする義務はなかったなどと申すつもりはありませんが。そもそも苟も分娩に立ち会うことを生業としてきた立場にあって心肺蘇生にまるで動けないってのは、昔ならともかく今後は問題視するべきことなのでしょう。でもまあ現実問題として、この被告医師には心肺蘇生は能力的に無理だったのでしょう。
何故そんな彼が小児の診療に手を出してしまったのでしょうか。古き良き時代の、患者の求めを拒まぬ赤ひげ先生のような信条で、手広く診療に当たっておられたのでしょうか。今、彼もまた、闘わない奴らに笑われた気分なのでしょうか。彼にしてみれば専門外や時間外を理由に診療を断る若い連中が不甲斐なくて仕方なかったのかも知れません。自分の手は指一本汚そうとしない「評論家」に結果論だけで責め立てられている気分を味わっているのかも知れません。診療報酬はちゃっかり受け取っておきながら今さら引退勧告は出していたのにとは何だと、勤務先の病院に裏切られた心情になっているかもしれません。患者さんに対しても、診療を求めるときには請い願っておきながら結果が悪かったとみるや掌を返したように自分を極悪人呼ばわりしおってという憤慨もあるかもしれません。そういう彼の憤りの一つ一つが正当かどうかはさておいても、孤立無援に追い詰められた心情の帰結として、彼はことさらに頑なになり、頭を下げる機会を逸し、和解や民事で終わるかも知れなかった事件を、徒に刑事にまで発展させ、情状酌量されることもなく実刑判決に至ってしまったのかもしれません。

あるいは理解不可能なほどの誇大妄想の持ち主だった可能性もある。こうした考察も、根も葉もなく何も生まない単なる想像に過ぎないのかもしれない。

しかし彼にとって皮肉かつ過酷な現実として、彼の知識は時代遅れでした。彼は蕁麻疹に塩化カルシウムを投与するような大時代な知識をもって現代の小児救急に手を出すべきではありませんでした。加えて彼の自己認識や周囲への期待はナイーブに過ぎました。彼が診なくともあの市内には小児救急に対応可能な規模の病院はあります(所在地で言うなら同じ町内です)。周囲は彼が期待していたほどには彼に感謝していないようです。病院は彼を切り捨てて延命を図っています。報道などで知り得る限り、病院職員からも患者さんたちからも、彼に関して減刑嘆願が出されたという情報は聞き及びません。
私も医師として、常に彼と同じ立場に立たされる可能性のある人間として、どうしても我が身を彼の立場に置いて考えてしまいます。私が手酷いミスの結果として告訴された場合に周囲がどれだけかばってくれるだろうかと。私が被告人席に着いたら、どれくらいの人が私の減刑を嘆願してくれるだろうかと。病院はやはり私がもともと厄介者だったという情報をまことしやかにリークするのでしょうか。同僚がテレビの匿名インタビューで、あの先生は我が儘で独善的でした等と語るのでしょうか。顔にモザイクをかけて、奇妙にディストーションをかけた平板な声色で。

プラネテスと自閉症関連

「プラネテス」には幾人か「それっぽい」人が登場します。
コミック第4巻に登場する「男爵」はAsperger症候群なんだろうなと思います。デブリ回収員として宇宙に出てくるレベルの知性を持ちながら対人関係がまったくダメで、「ともだち手帳」を携帯して『教訓361 相手の目を見ながら話す』『名前を覚える』『女性に年齢を尋ねない』『食べかけを他人にあげてはいけない』などなどの「教訓」を書き込んで覚えようとしています。「友達ひとりもいないの」ときかれて「わからない・・・口頭でさえ今まで確認をとれた事がないんだ」と答えてしまいます。
男爵は自分を、もともとは地球外の「レティクル人」だったと自称しています。レティクル人はテレパシー器官をもっているので、同じ器官を持つもの同士なら意思や感情を表に出さなくとも相手に伝わるのだそうです。彼は銀河連邦調査局辺境文明監察隊の一員として、宇宙進出を始めた地球人たちを軌道上から監視するべく地球にやってきたのですが、長い任期の退屈しのぎにミステリーサークルとかキャトルミューテーションだとかの悪戯をしすぎて、体を地球人に作り替えられ地球に置き去りにされたとのこと。
その彼が言うには「この星系はまだ銀河連邦の一員じゃない。だから他星人や銀河共通文化に対する免疫がない。つまり、僕のような者がこの星系で友愛を育むためには、まず君たちのコモンセンスやモラルを学び受け入れないといけないって思うんだ」とのこと。
そういう彼がデブリ回収員として宇宙船乗りになれてるってことは、現代は就労にも苦労しておられるAsperger症候群のひとたちもこの時代にはそれなりにやっていけてるってことかと思います。宇宙船乗りになって以降も社会の基本的なルールを「覚える」のに独り手帳に書き込んで勉強をつづけているのには、もうちっと何かこう上手くできるようなデバイスが開発されていないものかなとも思いますが・・・
もうひとかた、田名部愛という極めて重要な登場人物は、幼少期に全く言葉がでていませんでした。
公式ガイドブックには、このことを指して「彼女は捨て子で、幼少期は自閉症だった。」とさらっと解説しています。「自閉症だった」とあたかも自閉症が完治するかのような過去形の表現はカチンと来ます(例えばドナ・ウイリアムスの著書の邦題が「自閉症だった私へ」というのはかなり物議を醸しています)。これはガイドブックの独走かと思います。原作には養父母が「医者はなにも異常がないといっている」云々の会話をしていますが、まさか2070年代に自閉症の診断がつかんということはないでしょうよと思います。症状もなんか違うような気がする。

プラネテスDVD あるいは 伽藍とバザール

プラネテスDVDの全9巻を見終えた。
西暦2070年代、月には十万人規模の都市があり、月や地球を周回する軌道上には軌道ステーションが設置され多くの宇宙船が発着している。月や地球の周囲には耐用期限の尽きた人工衛星や宇宙船の破片(切り離された燃料タンクやなんか)をはじめとする宇宙のゴミ「デブリ」が多数周回している。たとえボルト1個程度の大きさのデブリでも、衛星軌道では秒速数キロメートルで飛んでいるので、運用中の宇宙船や衛星に当たると大事故を起こす。事故はさらに多くのデブリを生み、多くのデブリがさらに多くの事故を起こすので、デブリ対策が時代の喫緊の課題として要請されている。主人公のハチマキは、何故か常に鉢巻きをしているのでそういうあだ名なのだが、そういう時代に船外活動員としてデブリ回収に従事している。
アニメ版はコミック原作とは別作品と言ってよいくらい改編されているが、出来映えは甲乙つけがたい。コミックを読んでポジティブな評価をしている人ならアニメ版を観る価値は十分にある。逆も然りでDVDシリーズを観てポジティブな評価をした人ならコミックをお読みになるべきである。
コミック原作では軌道上に沢山のデブリ処理班があり、ハチマキたちはデブリ回収船の中で寝泊まりしながらコンテナが一杯になるまでデブリを拾っていく。デブリの発見は各回収船の機器で行っている。回収船のメンテナンスもちょっとした修理くらいなら修理屋の宇宙船が横付けして現場で終わらせてしまう。デブリ回収に従事するハチマキたちは「デブリ屋」であり、デブリ回収は「金になる」仕事である。対してアニメでは、ハチマキたちは大企業の赤字部門「デブリ課」に配属されたサラリーマンである。当然の如く安月給で、あまり出来高は報酬に関係ないらしい。もっぱら軌道ステーションで寝泊まりし、デブリ課のオフィスに「出勤」してから現場に出かけてゆく。回収船とデブリの軌道はステーションの「管制課」(ちなみにエリート部署である)が把握解析し、回収船に対して刻々と指示を出す。いわばコミックは分散型でワイルドでバザール型、アニメ版は中央集権型あるいは伽藍型。
「伽藍とバザール」を引き合いに出すまでもなく、システムとしてタフで能率良くて痛快なのはコミック原作のほうである。
どちらが「現実に即して」いるのだろう。あの軌道高度なら地球を1周するのに数時間というところだろうから(それにしても凄い速度ではあるよね)衛星軌道上の大抵の位置には日帰りで到達できるということかもしれない。一方で軌道を相当きれいに合致させないとデブリと回収船の相対速度は秒速数キロメートルに達するので、デブリの回収は、接近するだけでも極めて高度な技術を要する仕事だと思う。少なくとも最初期には、国家や超大企業レベルの経済力の裏打ちが必要だ。
恐らく、アニメ版設定のような中央集権型あるいは伽藍型の様式を経て、コミックに描かれたような分散型あるいはバザール型の時代が来るのだろう。十分な能力を持った観測機器が、小型化され耐久性も増し安価になって各回収船に積み込めるようになり、かつデブリの回収に何らかの形で経済的なインセンティブを得られるようになると(要するに「儲かる仕事」になると)、デブリ回収は大企業が赤字部門にやらせてお茶を濁すアリバイ的片手間仕事から、上から下まで有能な連中が詰まった組織が競って進出する沃野へと変化する。多くの回収船が、そろって一日一回はステーションに収束する単調な軌道をとるのではなく、何日も掛けて軌道修正を繰り返し多様な軌道に展開するようになると、デブリがどういう軌道を取っていてもどこかの船が接近できるようになる。あと何時間か何日かうちにこのデブリを回収しないと重要な衛星やステーション本体に衝突するぞというような緊急時にも柔軟に対応できるようになる。やはりバザール型の時代がきてようやく本物だ。
アニメ版には大企業につきものの夾雑物が出演する。こんな奴らがのうのうと居るってだけでも伽藍型時代の恐竜ぶりが際だつってものだ。定年間際の無能な課長、宴会芸以外に何もしない係長補佐。稼働しているデブリ処理班はたった1班4人なのに、中間管理職2人のぶんも稼がなければならないなんて、そりゃあ赤字なわけだと気の毒になる。この課長は何を根拠に軌道上に居続けるプライドを保ってるんだろう。課長以上の重役たちも、自分のメンツや保身と派閥争いにしか興味がない、下賤で口の臭そうなデブ男ばかり。そのなかで鮮やかにのし上がっていく人物もいて愉快だったり、潰されてゆく人もいて可哀想だったり。

宴席は苦手

新人歓迎の宴席があった。
私は自宅待機番だったが、新しく配属になった若手医師と看護師の歓迎会であったから顔を出すことにした。会場は呼び出しがあれば応じられる距離にあり、他の医師のご自宅よりずっと近い。無論、酒は飲めない。自分の目の前を自分には手の届かないビールが行き交うのは大変に不愉快で、誰にも注がず料理ばかり食っていた。大変に旨い中華料理でそれだけは救いであった。
今回はNICUと産科病棟との合同の宴会だった。NICU単独の宴席とは雰囲気が異なる。産科病棟のナースたちはNICUナースよりも自分の「おんな」を前面に出してくる。服装も大胆なら喋る内容もかなり大胆。先生今日はもう病院では何も起こりませんよとビールを勧めようとする輩さえある。勧められてここで飲んでもし何かあって下手をしたらクビになるのは俺だよ。笑って断ったが少々腹が立った。まあ勧める方はかなり酔ってるってことで情状酌量にはしたが。NICUナースの宴会出席率は産科合同だとがたっと落ちるのだが、恐らくこの雰囲気の違いが主因なんじゃないかなと思う。
新人たちが芸をするというので料理がまずくなった。私は素人芸が大変に苦手だ。高校時代に吹奏楽部でできもしない音楽に手を出した罰かも知れない。痛々しさが耐え難い。耐え難い芸でも面白がっているふりをして笑って拍手してやれば良いのだろうが、私の家では暇つぶしバラエティのTV番組はほとんど見ないので、彼らの演じる「芸」のネタが分からず、彼らが何を演じているつもりなのか、どこで受けて欲しいと思っているのか、とんと分からないときた。面白くもなく理解も出来ないものは受けようがない。息子も交流学級ではこういう思いをしてるんだろうか。
宴会のさなかに知らせがあり、病院に戻ったところで極低出生体重児の分娩立ち会いとなった。むろん素面のNICUナースたちが出迎えてくれる。自分の居るべき「正しい場所」(@内田先生)に戻ってきた感があった。

ジャック・ロンドン「火を起こす」

なんと言いますか、こう、駄文を書き連ねてきたことを恥じ入らせられますね。
本物ってこういうもんだよ、と、否応無い実例を突きつけられたような気がします。
まあ、ジャック・ロンドンに勝負挑んでどうするんだよとも思いますが。
全文はこちら。枯葉さんのウエブサイト「エゴイスティック・ロマンティシスト」から。

たたかうきみのうたを たたかわないやつらがわらうだろう

1週間、毎夜病棟であるプロジェクトを進行させていた。
重度の障害のある患者さんに、ある治療法の導入を試みていたのだが、
ようやく成果のあがりかけた矢先に主治医から一方的に中止が宣告された。
毎晩定時に帰り、今回の夜のプロジェクトに一滴の汗すら流していない主治医が、
いつの間にかカルテに今回の一件全て中止と指示を出していた。
私は看護師にその指示が出たことを知らされた。直接には何の挨拶もなかった。
ご家族には今回のプロジェクトで挙がりかけた成果を全て自分の僅かな処方の成果と説明してあった。
頭の中に中島みゆきの歌が響いた。
しかし今回の一件で収穫もあった。新しく配属された若手と、幾人かの若い看護師たちの根性を実地に確かめることが出来た。特に若手の意外な根性を見たのは嬉しかった。この子となら、来年から認可病床数が増えて当地最大となる予定の当院NICUを切り盛りしていくのも何とかできると思えた。

研修医に関して資本制社会のタームで語る

内田先生がフリーターについて論じておられる2002年初出の文章を一部引用する。

社会的身分としては失業者なのだが、必ずしも「失業問題」の原因とはならない集団は他にも存在する。
自分に職がないのは自分が無能であるか、または努力が足りないか(またはその両方)のせいだと思って「反省」している人たちがそうである。彼らは「失業者」ではあるが「失業問題」という社会問題の主人公にはならない。
気の毒だが、公的支援はこのような集団には決して優先的に向かうことがない。なぜなら、私たちの生きている資本制社会は、失業問題を「人道的」な問題としてではなく、純然たる「政治技術」の問題として、つまりこの問題を放置しておく場合と、解決する場合と、どちらが「よりコストがかかるか」という非人情な算術に基づいて考察するからである。
失業という身分を自己責任において受け入れている人は「住宅を供給せよ」とか「職業訓練をせよ」などという要求をしない。彼らは、公的支援を頼らず、自力で窮状を脱出する方法を考える。失業は彼らにとってあくまで「個人的な問題」であって、誰か他の人が尻拭いをすべき「社会問題」としてはとらえられていないからだ。この人たちは「社会的コストのかからない失業者」である。だから、政府はそういう人たちのためには何もしない。理不尽だと思うだろうが、そういうものなのである。
「期間限定の思想 『おじさん』的思考2」 内田樹著 晶文社刊 p82より引用

誤解のないよう最初に申し上げるが内田先生がここで仰っているのは「そういうものなのである」という事実認識であって、「本来そうあるべきなのだ」という主張ではない。時に意図的にそういう誤読をして内田先生を攻撃して鼻高々になる人があるが同類とは思われたくない。
内田先生のこのご指摘には本件にも通底するものがあると思う。結局のところ研修医の待遇改善は、現状を放置しておく方が「よりコストがかかる」という「非人情な算術」に基づくのであって、研修医をいたわる暖かな配慮によるものではない。だから研修医諸君は救済が永遠に続くとは思わない方がいい。今回の改革ではやっぱり上手く育たないねという結論になったら、今の研修医世代はまるごと捨てられることになる。『そう言えば平成17年卒ってあんまり見ないよね。君のところ誰か居る?』『いや採用段階であの年度前後は人事が断ってるらしいよ』とか語られることになる。
また研修医よりも上の院生や医員の諸先生が、待遇が改善されないまま苦労ばかり増えておられるのも、同じ理屈によるものだろうと思う。院生や医員の皆様は現状で放置しておく方がコストがかからないということだろう。畢竟、院生や医員ともなり自力で一人前の医師の仕事ができる方々は、「自力で窮状を脱出する方法を」お考えになるので、薄給も身分保障の欠如も無保険状態もあくまで「個人的な問題」と考えて、ぶつくさは言うかもしれないがそれなりに働いてくれる。ならば放置しておいたほうが、膨大なこの人数に一気に正当な報酬を払うよりも、はるかに低コストである。
医療を資本制社会のタームで語るならこれが赤裸々な事実である。「理不尽だと思うだろうが、そういうものなのである。」
誤解のないよう再び申し上げるが、私がここで申し上げているのは「そういうものなのである」という事実認識であって、「本来そうあるべきなのだ」という主張ではない。意図的にそういう誤読をして私を攻撃して鼻高々になる人があるかもしれないが、あんまりお近づきになりたくない。そもそも内田先生と違って私など攻撃しても貴方のブログの購読者数は上がりませんよ。
そういう邪悪なコスト計算をしてほくそ笑んでいる奴らのせいでこんなに理不尽な状況になってるんだと、厚生労働省の誰かとか大学病院上層部の誰かとかを、つい攻撃したくもなるけれど、内田先生はそういう精神のあり方をも戒めておられる。

「私」は無垢であり、邪悪で強力なものが「外部」にあって、「私」の自己実現や自己認識を妨害している。そういう話型で「自分についての物語」を編み上げようとする人間は、老若男女を問わず、みんな「子ども」だ。

やれやれ。「子ども」からの脱却を目指す「こどものおいしゃさん日記」にはこの話型は禁忌だ。
それで結局のところ本論は結論が出ない。なら書くなよとのお叱りは甘んじて受けますがスルーさせて頂きます(偉愚庵亭憮禄で読んだ言い回しです。達人の真似っこでちょっと上達した気分。へっへ。)

娘をSFファンにするには

最近あんまり魔法とかファンタジーとかいうつまらん非科学的なものを読み過ぎる。夜も遅いから寝ろと叱られてベッドに本を持ち込み暗い中でこっそり読んだりしているから(お父さんはお見通しだよ だって昔やってたことだし)目まで悪くしている。世間にはSFという素晴らしい文学ジャンルがあるというのに、因果律の破綻した物語世界に耽溺した挙げ句に眼鏡っ娘寸前までなってしまってどうするというのだ。そもそもネモ船長の慟哭を知らずに「小五郎のおっちゃん」の脳天気な職業生活ばかり見ていては人生とか「おじさん」とかに対する正しい尊敬の態度が涵養されない。掃除道具にまたがって空を飛ぶ話で空の大きさを測っていては軌道エレベーターなんて想像もつかんだろう。ついでにあのジブリ映画を見た後は魔法使いごっこに付き合わされたにゃん黒が相当迷惑そうな顔をしていた。
まあ、いわゆる「目を悪くする生活習慣」が目を悪くする主因だというエビデンスなんてないらしいけど。けっこう遺伝的に決まってるとか。「小児科診療」で読んだ。 でも妻は先だっての私の眼鏡の修理代でけっこう怒ってるから娘が夜中にこっそり本を読んでるなんて知ったら何が起こるか分かったものじゃない。
最近「プラネテス」のDVDを見せたら気に入ったようなのでほくそ笑んでいる。恋愛物語として楽しんでいる気配もあってまだ油断はできないが。娘もいずれは空中に放り上げた骨が突然に宇宙船に変わる映像の美しさがわかるようになるだろうか。「美しく青きドナウ」を聴いたときに脳裏で優雅に円舞するのはドッキング前でお互いに回転のタイミングを合わせている宇宙船とステーションでなくてはならない。うん。やっぱり。
でもSF読みの眼鏡っ娘なんて世間でやっていけるんだろうかという心配はまた心配であるんですけど。
お父さんの幼い頃はキャプテン・フューチャーの放映がどれだけ待ち遠しかったか。「・・・だが、人は彼を、キャプテン・フューチャーと呼ぶ・・・」というナレーションに重なるように「子どもの頃は・・・」と始まるテーマソング。ちなみに最初のヒデ夕樹さんの声のほうが後のタケカワユキヒデさんより好きだった。タケカワさんのハスキーな声はどうも夾雑物まじりのようでストレートに心に響かなかった。なにより彼がテーマソングを歌うとどうしても美しいヒロインが出なくてはならない気がしてくる。メーテルとか三蔵法師(夏目雅子の)とか。なんかジョン・ランドールでは子供心に格落ちだった。キャプテンにはいつも振られてるし。
スターウルフはキャプテン・フューチャーとどっちが先だっただろう。原作者が同じエドモント・ハミルトンだってのは、中学生になってハヤカワSF文庫なんて読みあさり出したから知った。ついでにさっき検索をかけて知ったのは、スターウルフのテーマソング「青春の旅立ち」を歌ってたのもヒデ夕樹さんだった。うわ。なにか私の幼い頃の音楽体験は凄く狭いところで完結してるような気がしてきた。キャプテン・フューチャーのテーマソングは大野雄二さんの作編曲だった。ルパン三世の音楽をやった人だ。頭に残るわけだ。

医療資源の分配において切り捨てられるのは誰なのか

「ある内科医の独り言」内の記事「医療資源はどう使うべきか」へトラックバック。私はおそらくここで言及されている「切り捨て」に関する議論の発端にかなり近い位置にいると思うので。
私が切り捨てと言う場合、患者さんを切り捨てる意図は毛頭無いつもりである。また有為の人材を医療の現場から徒に放逐する意図もない。
切り捨てたいのは半端な医療機関自体である。診療所よりは規模が大きくてリソースも診療所より多く喰らうが、しかし時代に求められるレベルの医療を提供するには規模が小さくて満足な成果が上がらない、しかも昨日の成果の少なさが今日の経験不足を呼び明日の成果の不満足さにつながる、そういう半端な医療機関である。これを整理統合して、それなりのレベルの医療が提供できるような規模の医療機関を作るべきなのである。
こと小児救急に話を引き寄せて語るなら、夜間に半径10km以内に小児科医が居るか居ないか分からないような病院が5軒あるのと、50kmあるいは100km走ることになってもそこへ行けば24時間診てくれる病院が1軒あるのと、患者さんにとってはどちらが善いだろうということである。遠距離でも診てくれる病院のほうが、近距離にあって診てくれない病院よりも、患者さんのためになる病院だと、私は思うが、間違っているだろうか。常勤の小児科医が2名しか居ないような医療機関には時間外診療は準夜帯すら無理だが、10名居れば単科当直はおろか夜勤シフトでの診療すら可能なのである(徳島赤十字病院は常勤7名でシフト制を実現している)。
再編で医療機関の数は減ることになる。その分の、日常的なプライマリ・ケアは開業の診療所が担うことになる。プライマリケア医には現在よりも守備範囲を広げた高度な診療が要求されることになる。でも開業のプライマリ・ケア医にとっても、24時間救急対応の可能な高度な医療センターがバックアップについている状態で存分に腕を振るう診療のほうが、規模が半端な故に無床の診療所並みの仕事しかできない病院とパイを奪い合う診療よりも、よほど魅力的ではないだろうか。
加えて、私には、どくちるさんが語り足りないこと、あるいは敢えて明記なさらなかったことがあるように思える。意図的なのか否かは定かではないし問題にするつもりもないが。
医療資源の配分と言うとき、直接に資源を配分されるのは医療機関だということである。分配の恩恵に与ったり、食いっぱぐれてひもじい思いをしたりするのは、直接には医療機関である。患者さんではない。医療資源の再分配が即刻直接に患者さんの切り捨てにつながるかのような言説は、切り捨てられかかった医療機関が自らの保身のためにする議論であるかのように聞こえる。決して、どくちるさんの記事がそんな言説に読めると言うわけではないのですけど。
医療機関も現代の資本主義社会の中で、自らが稼いだ診療報酬によって存続している。医療経済を国策的に縮小しようという時代に現時点まで生き延びてきた医療機関なら、相当強固に自己保存の意思を保っている。規模の半端さ故に時代の逆風をもろに受けている医療機関では尚のこと、自己保存の意思は軒昂なはずである。今のご時世、やる気を失った時点で潰されることになるのだから。
資本主義社会の中では医療機関もまずは自らが収益を上げて潤うことを目指す。自分達が地域社会の求める本質的な医療を供給していればこそここまで収益が上がるのだという論法で、収益を正当化し、マンパワーに始まる医療資源の優先的な配分をも要求し実際に手に入れるようになる。むろんこの論法は全体が方便である。診療報酬は自由競争で決定されているわけではない。診療報酬の体系の中で冷遇された分野の医療を地道に提供し続ける「儲からない」医療機関もあるし、宣伝を煽って要りもしないような内容の医療で大もうけする医療機関もある。しかし現代の資本主義社会は歴史的にこの方便を採用し医療にも適用してきた。歴史的な事実は文句を言っても変えようがない。そして儲けたいという人間の欲望そのものでドライブされる制度は、確かにそれなりに有効だったのも事実である。他の、もっと御上品な仮想的制度が採用されていれば為し得たであろうよりも、よほど効率的に医療資源を分配してきたと、私は思う。
この体系の中にあって医療従事者の良心を支えるのは、自分達の利益が自分達の患者さんの利益と一致しているという信念である。信念というか、語弊を恐れずに言えば、「物語」である。自分達に、他ではなくて自分達に、自分の所属する医療機関や医局や診療科に、有限の医療資源の中から相当分を配分することが、即ち患者さんの利益であり社会の利益であるという「物語」である。この物語を疑いはじめたら、自らの医療の正当性の根幹が揺らぐことになる。だからみんな、この物語を信じている。あるいは、疑いを挟まないという「お約束」にして、みんな律儀にその約束を守っている。我が儘者や変わり者が多いこの業界では、例外的なほどの律儀さで。
しかしそろそろ、私たちはこの物語が物語に過ぎないということを自覚した方がいいんじゃないかと思う。そうそうみんなが全面的に的はずれな医療をしてるわけではないんだから、全体的な傾向としてはこの物語はおおむね正しいんだろうけれども、決して検証無しのアプリオリな正しさとは言えないと思う。自分らの利益と患者さんの利益とは一旦は切り離して考えるべきだと思う。自らが現在の形態と方法で行っている医療活動に医療資源を振り分けることが本当に患者さんのための最適解であると言うことを、常に立証し続けねばならぬと思う。それを立証し得ないうちは、自らの利益に関しては自らの利益として語るべきである。患者さんの利益としてではなく。