猫の死を看取る

先日、自宅の最後の猫が死んだ。

彼女は晩年は私の寝床でともに寝ることを習慣としていた。すっかり弱って飲食もしなくなってからも、私の寝床にいると落ち着く様子であったから、そのまま寝かせておいた。最後は終日、浅い呼吸をするだけでほとんど動かなくなっていた。ときおり頭を持ち上げて鳴いたが、撫でて声をかけてやると安心する様子であった。最後の日、未明にふと目が覚めて、傍らに寝ているようすを見ていると、あらく喘ぎはじめた。ああ死前喘鳴だと思った。まもなく、呼吸が止まった。

医師という職業上、死に立ち会ったのは初めてではない。小児科医であるから他科ほど頻繁にではないにせよ、NICUなどやっていると赤ちゃんの死に立ち会うことはある。しかし人工呼吸もモニタリングもないまま、素の死を看取ったのは初めてだった。

そういう死は、もっと漠然としたものだと思っていた。動かなくなったあともしばらく様子をみて、一定時間動かなかったら振り返って亡くなったことにするものだろうと。しかしこの猫の死は、いわゆる「息を引き取る」瞬間がはっきりわかった。

昔の医者はこうして死を診ていたのだろうか。これに較べれば今の死は、避けようもないことではあるけれど、いろいろと付随するものが多くなっているなと改めて感じた。医者としての目線ひとつにしても、患者さんの顔よりは心電図モニタの画面を見ている時間のほうが長いように思う。頭の中も考えることがいろいろとある。それは仕事であるし当然のことだと思っていたけれど、そのようなことをいっさい排した、ただ看取るだけの死に臨むと、そのシンプルさにたじろぐ思いがした。

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