投稿者: yamakaw

  • 日吉ダムへ往復

    日曜朝に病棟へ顔を出したあと、10時出発で日吉ダムまで行ってきた。鞍馬から花脊とか芹生とか、今までは原生林が広がっているとしか思っていなかった地帯を自転車で走ってみて興味を持ち、このところ金久昌業著「北山の峠」全3巻とか澤潔著「京都北山を歩く」全3巻とか読んでいたので、山へ行ってみようと思った。
    「京都北山を歩く」は安曇川水系についての記載がない。百井とか大見とか尾越とか葛川とか。この地域についての幻の第4巻があるのかも知れない。ご存じのかたご教示いただければ幸甚です。
    往路は清滝道から下六丁峠を越えて保津峡へ降り、水尾・樒原・越畑を越えて神吉から日吉ダムへ到達した。神吉から柿の木峠とよばれた切り通しをとおってダム湖の上流の端に至る。ダムの本体に至るにはダム湖の湖畔を走ることになる。
    ダムは梅雨前で水量が落としてあった。昔の棚田の跡が湖面から顔を出していて、なるほど人里を沈めたのだなと思った。湖全体に、自然にできあがった湖とは違ったまがまがしい感じ、現代人に対して敵意を持つ「ぬし」が棲んでいそうな、得体の知れない感じがした。千年以上にわたって人が暮らしてきた歴史を人為的にいきなり断ち切ったのだから、放置しては祟りが生じるのが当然である。きちんと祀るのが大切なんだろうと思った。今の時代に寒中水泳をしたり参加者の身体に墨を塗ったりといった、NHKの地方版のニュースに出るような祭りをやれというのではない。ここにあった歴史と暮らしを淡々と記録し記憶しておくことだと思った。
    そういう資料館が湖畔にあるはずだからぜひ行ってみようと地図をみてもくろんでいたが、じっさいに来てみると道沿いには案内もなにもない。ないままにダムが見え、ビジターセンターと称する瀟洒な建物が見えてくる。入ってみたがダムの効能を称揚する展示ばかりだった。森の自然についても褒め称えてあって、ダムは決して自然と対立するものではないと言いたげだった。沈んだ村の歴史についてはちょろっと触れてあるばかりだった。まるで結婚式に呼ばれなかった親戚みたいな扱いだった。
    ダムの麓のスプリング日吉という施設で昼食にした。レストランや土産物屋に加えて温水プールや風呂もあった。ダムを造った予算のお釣りでできた施設なんだろうけれども、ダム建設にはでかい金が動くんだなあという感慨をもった。こういう大盤振る舞いができたらさぞや気持ちいいことだろう。まして他人の金を大判振る舞いして自分の手柄にできれば笑いが止まらないだろう。ダム造りを止めさせるのにはパワーがいるわけだと思う。
    往路でダム湖の南側を走ったので復路は北側を廻ることにした。北側の道は南側よりも細く、自動車の交通量もはるかに少ない。路面はそれほど荒れていない。落石にさえ注意すれば自転車には北側の方が走りよい。走りよいので橋の名前など目に入る。沢田橋とか。たぶんこの橋がまたいでいる沢にはかつて沢田という集落があったのだろう。水面が下がって現れた湖底に田んぼの跡らしい段々が見える。なんだか痛ましい気分になる。
    やっぱり資料館を見ずに帰ってはいかんだろうという気がしてくる。湖畔の展望所だったかで案内を見たら、どうやら南岸の「府民の森」とかいう施設にあるらしい。南側か。ダム湖の中程を南北に縦断する橋を渡ってもういちど南へ戻り、その施設へ行ってみた。高所恐怖症なので橋のたもとで湖面を見下ろしてちょっとたじろいだが、欄干に「ゆめのかけはし」とかいった白々しいにも程がある名前が刻んであったり、沈んだ集落の在りし日の写真が陶板で埋めてあったりしたので、こりゃあ渡らなければ祟りがあっても全面的にこっちの落ち度だという気分になった。
    施設には沈んだ天若と総称される地域の模型が展示してあった。手作り感あふれるジオラマだった。いまの湖面が透明なアクリル板で表現してあった。痛ましいほど即物的ではあったが、このそれなりに広い地域が沈んだのだという痛ましい事実をあからさまに表現した感があってなかなか目的に沿った展示物だと思った。
    沈んだ土地から移転させたわらぶき屋根の民家が2軒保存してあった。驚いたことに出入り自由だった。縁側に座らせて貰った。目の前のほんらいは庭だったろう場所が芝生なのが殺風景だが、しかし気分が落ち着いた。1800年代の初めにできた家とのこと。のび太からセワシにわたるほどの世代が代々住んだ家ということになるのか。家が人になじんでいて、空気からほどよくカドがとれていた。
    休憩しているうち時間が経っていて、気がつくと16時をまわっていた。真っ暗になるまでに京都へ帰り着きたいと思って、地図で最短経路を探した。ダムにそってさかのぼったところにある弓削弓槻という集落から京北の細野へ越す峠道が最短だと思った。弓削弓槻までの道は深い谷で、南側にも高い山が続いており、走りつつも本当にここを越える峠道なんて存在し得るんだろうかと焦ったが、弓削弓槻から南へ入る道は広くて路面も美しく、峠越えにはトンネルもできていた。トンネル内部は広い歩道もついていて、自動車の脅威も感じず楽々と越えることができた。
    トンネルからは細野の集落を通る下り道で、162号線の笠峠よりやや北寄りに合流する。合流地点には細野小学校という廃校がある。廃校といってもいやに新しい建物で、まったく煤けた様子がなく、明日の月曜日からまた生徒が登校してきてもぜんぜん不思議ではない印象だった。玄関ロビーの傘立てに笠が2本さしたままになっていたのが目に付いた。今でも土地の人がなにかに使っているのだろうか。管理ついでに何かに使っておかないと、こんな集落の入り口に幽霊屋敷なんてできあがってしまっては集落の存亡にかかわるだろうとは思う。
    162号線は交通量が多く、笠峠をトンネルで越えるのも命が縮まる思いがする。難儀なので杉坂口から左折して京見峠を越えて帰ることにする。疲れた足なので峠までの登りはまた泣きそうになったが、後ろから絶えず車に煽られるよりはまだマシだった。京見峠も木が生い茂っていて写真で紹介されるほどには京都の街並みは見えないんだけど、それでもちらっと見えた京都の街並みにはほんとうに安堵させられた。

  • シルベストサイクル京都店に行ってみた

    日曜の息子の学校の説明会はちょうど昼時に終わった。
    せっかく四条河原町ちかくの会場なのだから、何か食べて帰ろうと誘ってみた。蕎麦でもどうだと言ったが、息子はあまり気乗りがしないように見えた。昔は好きだったのに。寺町を四条からちょっと上がったら焼きそば屋があった。どうだと言ったら目を輝かせたので入ることにした。
    メニューを見せたら「焼きそばとポテトサラダ」と自分で選んだのでそれを二つと頼んだ。息子に注文させてみるのもよかったかもと、後になって思った。
    昔は偏食がきつくて、焼きそばも具はぜんぶとりのけて器用に麺だけ食べる子だったが、今は紅ショウガもまぜて全部食べてしまった。偏食が治ったのか食べ盛りの食欲には勝てないだけなのか。
    同じものを食べたが、しょうじき胃もたれした。もう息子のほうが良くたべる年齢になってしまった。店の造りもはっきりと若い人むけだったし。周囲の席には私同様の中年世代もいたが、こころなしかことごとくメタボリック体型のように見えた。
    終わって寺町通りを北上し、三条通の一筋南である六角通りを西に入って、新しくできたシルベストサイクル京都店に行ってみた。まだ建材の匂いの残る店内に、ロードバイクがたくさん展示されていた。むろん大変に魅力的だった。インターマックスのフレームなんて頭がくらくらするくらい格好良かったが、気がつくと買ってしまっていたということになりそうなので、用心のため目に入らないふりをしていた。
    そういうときに息子はよく「値段が高いぞ」と注意を促してくれるので有り難い。
    パールイズミのフルフィンガーのグローブをひとつ買った。季節がら風通しの良いものが欲しかったので。でもNICUの仕事上、指先に怪我をするのは御法度だから指切りスタイルは心許ない。店員さんに説明を求めたが、一見さんの私にも丁寧に対応してくれて好感度が高かった。装着するときに手首の部分が多少きつい感じがするのは仕様だそうだ。装着し終わったときに手の平がわにあまり余計なしわが残らない程度がよろしいとのこと。その基準で選んだら私の手はLサイズだった。ちなみに手術用の滅菌手袋は7である。
    選びながら他のお客さんと店員さんのやりとりを聞いていた。どの程度に難しい質問だったかはよく分らないけれど、店員さんの即答ぶりが好ましかった。ただ、この店員さんたちにロードバイクについて説明して貰ったりしたら、買わずに出てくるのは少しばかり強めの意思が必要かも知れないとは思った。
    買って帰って、つけてみたら右手首前面橈骨がわの縫い目がほころびていた。縫製に難があったのか、こっそり試着した誰かが破いてしまったのか、自分で破ってしまったのかよく分らなかった。ゴム製の滅菌手袋をつけるときの癖で必要以上にめいっぱい引っ張ってしまったのかもしれないし。ウイザード社の冬物も同じ場所がほころびたので、私の手癖に起因する現象という可能性は大いにある。縫えばいいことなので妻に繕って貰って済ませた。お父さん自分で縫えるでしょと娘には言われたが、お父さんが縫うのは縫ったあと自分でくっついてくれるような素材だけなのだよ。
    あるいは「UVプロテクション」の製品だし女性用なのかな。男女の手ってそんなに違うものなんだろうか。
    メッシュは手の平がわについていたが、つけて走ってみると、かるく手を開くだけで手袋の内部全体に風が通るので熱が籠もらず快適だった。指先もほどよく薄く、財布から硬貨を取り出すていどの作業なら手袋をしたままで可能だった。手の平がわのクッションもほどよいと思ったが、ESCAPE R3のグリップはもとよりクッションの効いたエルゴグリップだから、他の機種に乗っておられる方々には参考程度かも。

  • 総合支援学校の説明会を聞いてきた

    総合支援学校高等部職業科の説明会があったので息子を連れて出席した。職業科は就職率がよいので人気が高い。多くの聴衆で会場が埋まった。
    京都市内には白河・鳴滝の二つの学校があり、各々の学校の先生や生徒さんにより学校紹介がなされた。とくに生徒さんのプレゼンぶりから、白河は「よく仕込む」鳴滝は「よく伸ばす」校風であるという印象を受けた。白河の先生と生徒さんによるプレゼンは、先生単独・生徒さん単独のセンテンスと二人が声を揃えて読むセンテンスがきっちりと計画されていた。発音の明瞭さには入念な練習のあとが伺われた。その点で彼らが準備したものは「台本」であり「芸」であったと言ったら言いすぎだろうか。対して鳴滝の生徒さんは各々の手持ちメモを通しで一人で読んだ。彼らの準備は「原稿」であった。てにをはを直して通し読みを数回してという以上の手間は敢えて掛けないという意思あるいは心意気を感じた。
    ・ちなみにこの印象は2年前に参加したときも同様に感じたので、たまたまプレゼンの担当になった先生個人の個性というより伝統的な校風なんだと思う。
    ・医師としての目で見て、けっして白河の生徒さんが課題の遂行能力において劣るというふうには見えなかった。

    その校風の違いに優劣がつけられるわけでもないと思う。生徒の障害の特性によっても異なるだろうし。人当たりが良くても課題がいい加減な生徒には白河のきっちりとした校風で育ったほうが卒業後の職業生活もなにかと上手くいくかもしれない。課題はきっちりこなすが朴訥として引っ込み思案な生徒には鳴滝の校風のほうがのびのびとするのかもしれない。客観的な優劣と言うよりは個々の生徒との縁の良し悪しだと思う。
    息子は意外におとなしく聞いていた。退屈すると何のかのと独り言が多くなる子なのだが。各校の校長先生の挨拶まですべてスライドを併用しての説明会だったから、自閉症である彼にも理解がよかったのかも知れない。どちらにするんだと聞いてみたら鳴滝と答えた。校風の違いによる魅力と言うよりも、バスを乗り継いでの通学をしてみたいという動機であるようにも思えた。
    両校とも、入学に必須なのはかならず企業就職をするのだという強い意志だと強調しておられた。それがちょっとネックだなと思った。3年後には必ず就職するのだという強い意志をもったりとか、将来はこういう大人になるんだという夢を持ったりとか、そのためにはこの学校に通わねばならんのだという見通しをもったりとか、そういう両校の先生方のご期待に応えられるようなら自閉症とは言わないんじゃないかと。
    でも夢や見通しや強い意志がなければ退屈だとか無意味だとか駄々をこねて日々の仕事が続けられないなんて、それって定型発達のみなさんの障害特性なんじゃないかとも思う。小難しい動機づけがなくても淡々と日々の仕事をこなしますというのを長所にカウントするのはダメなんだろうか。いったいうちの息子のように毎朝6時に自分で起床してきて、ゴミの日には家中のゴミを適切に分別して出して、新聞を取ってきて父親も起こしたうえで、片道30分の徒歩通学を無遅刻無欠席の皆勤賞でこなすような男子中学生が世間にどれほどあるというのか。

  • 嵐は分らんけどコンタドールなら知ってるってのは日本人女子としてどうなんだろうか

    更新の頻度が落ちた言い訳に興味を持っていただけるほどの人気サイトではないということはよくよく承知の上で、最近あまりブログを書かない言い訳をさせていただけば、昔あれこれ仕事の愚痴を記事に書くのに使っていた時間を、今は自転車に乗ったり自転車雑誌を読んだりサイクルロードレースの中継を観たりするのにつかっているからなのですが。
    ジロ・デ・イタリアを今年はほぼリアルタイムで観た。さすがに夜中のライブ放送を起きて観ていては仕事に障るので録画であるが。イタリアは今年も風光明媚である。コカコーラのでかい看板も自動販売機もない。電柱もない(電話線とか電気とかどうやって各家庭に送ってるんだろうね)。各家庭の屋上にアンテナもパラボラもないから空撮の画像もすっきりしている。イタリアの人ってテレビ観ないのかな。
    今年の主役は復活したランス・アームストロングかと思ってたけど、ランス大丈夫かというスリルよりもアスタナ大丈夫かというスリルのほうが勝ってしまった。世界恐慌でスポンサーがすっかりやる気をなくしたらしくて、チームジャージからスポンサーロゴがじりじり減っていった。選手の給料も払えないとか。ランスは自腹で参加してるから関係ないらしいけど。
    サイクルロードレースとかディズニーチャンネルとか観るんで、うちは地上波はニュースくらいしか観ない。娘は嵐のメンバーの識別がつかない。中学校で珍しがられたらしい。コンタ君とシュレック兄弟が居るからいいのよと言ってやればいいのにとか茶化してみる。ランス様って言っても中学生には年長すぎるだろう。ダニーロ様って言われるとあんな怖い顔の人はやめておけと父は思う。

  • 核実験

    「やあ将軍、元気か。困ったときには電話してみろってタローに勧められたんだが。」
    「そう言う声はアキヒロだな。元気がないじゃないか。君らは前任者を粗末にするからばちが当るんだぜ。俺みたいに神格化しておけば楽なのにさ。」
    「その読み方やめてくれよ。困ってるときにますます滅入るじゃないか。」
    「ああ、そういえば彼は気の毒だったな。もうお葬式は終わったかい? 俺も故人の遺徳を偲んでちょっと6カ国協議にでも顔を出してみようかね。」
    「恐ろしいことを言ってくれるね。君にそんなことされたらいよいよ俺の立場がないよ。」
    「そうだろうね。やっぱり俺に悪役をやれって相談かい?」
    「頼むよ。このままじゃ針のむしろだ。」
    「しかしテポドンはもう使っちゃったし、だいたい急に言われても燃料詰めるのだって大変なんだぜ。もっと他の奴ってえと・・・あれ使うか。」
    「あれって・・・まさか・・・あれかい?」
    「ふふふ。そのまさかよ。」
    「そりゃさすがにまずくないか? 洒落じゃすまんぞ。」
    「案外と小心者なんだな。そこで仲介してポイント上げるのが君の役どころだろうに。」
    「そ、そういうものなのか」
    「伊達にながいこと独裁者やってるわけじゃないんだよ。まあ、まかせておきな。そりゃそうと君も生れは日本のくせに『泣いた赤鬼』って話は読んでないのかね。これからは独裁者だって教養を問われる時代だぜ。蓄財ばっかりじゃ時代に取り残されるぜ。いい映画を何本か薦めてやるから観るとよいよ」
    「まだそんなに貯めちゃいないよ。だいいち俺はもともと金持ちなんだよ。でもなあ。教養ねえ。確かにタローは漫画ばっかり読んでてひんしゅくを買ってるしな。今度のことも彼には言わない方がいいかな」
    「まあ、な。それが彼のためかもな。でもバラクには何とか取りなしてくれよ。それだけは頼むぜ」
    「ああ。分ってるよ」

  • 会議だった

    NICUが閑散としている。紹介がないのだから仕方がない。こういう暇なときに英気を養わねばならない。若い人たちにはこういうときこそまとめて文献を読むのだよとか言い置いて、自分はさて今日は江文峠へ行こうか途中越の手前まで行ってみようかと遊ぶことばかり考えながら定時に医局に戻ってくる。だいぶ日も長くなったし5時過ぎに引き上げてもまだ2時間は明るいぜ。へへ。しかし会議室でなにか会議が開かれている模様で、予定表を見ると各科部長会議だった。俺もNICU部長だから出なければならない。いつも忙しいふりをしてさぼっているけれど、NICUが閑散としているのは偉い人にもばれているから今日ばっかりは逃げられない。
    こういう会議も出てみるといろいろ勉強になる。まず狭い会議室に偉い人を集めると加齢臭が凄いことになるというのが教訓だ。臭いから逃げるというわけにもいかないと我慢して座る。集まった面々の中ではまだ若輩者だからいらない口を挟まず偉い人のいうことを黙って聞くことにする。俺ももっと年をとったら目が霞んで点滴が入らなくなるから、その時分にはこういう会議でそれなりに賢そうなことを言えるようになっておかないと病院に居場所がない。なにごとも勉強だ。偉い人ってのはどういうふうなことをしゃべれば良いんだろうと思って聞いてみる。たしかに賢い発言をする人がある。俺が若い頃思っていたほどには年寄りは馬鹿ばっかりではない。しかしその賢い発言に触発されての、俺だって賢い発言ができるんだぜと言いたいだけのあんまり内容的には賢くない発言もあってやれやれと思う。俺が子どもの頃に思っていたほどには大人は賢い人ばっかりではない。

  • 花脊峠・芦生峠を越える

    昔は鬱々したブログ記事を書くのに使っていた時間を、今は自転車で外を走っている。
    昨日の午後は花脊峠を越えて北へ行き、芦生峠を越えて戻ってきた。むろんノンストップで越えられるほどの脚力はなくて、とくに鞍馬から花脊峠の登りは何回休んだか数えるのもうんざりするくらいだが、それでも押して歩くことはなく、越えるには越えた。
    越えて峠の向うへ降りたものか、謙虚に峠からまたこっちへ引き返すべきか、登りつつちょっと迷った。なにせ花脊峠を越えて向うへ下ったら、帰宅するにはどうあってももう一つ峠を越えなければならないはずだから。しかし峠では沈思黙考の間もなく向うへ下ってしまった。峠の向う側(北側ですね)で路面を舗装しなおす工事が行われているらしく、土曜午後で工事関係車両はいなかったものの路面はいちめんに砂埃で覆われていた。それほどがたがたはしなかった。峠の南側の鞍馬から峠までの路面がそうとうひどい道だったし、ESCAPE R3のアルミフレームとクロモリフォークもそれほど振動を上手に処理してくれるものではなし、路面にはあまり贅沢を言える立場ではない。
    花脊の山の家には子供たちも学校行事で宿泊に行くので、話はきいていたが、予想以上に大規模な建物だった。あれは数百人くらい泊まれるんだろうなと思った。おそらくは集落の人口の数倍は泊まれるはずなんだが、その人数が排出する環境負荷をこの土地は支えきれるんだろうか。
    花脊から先しばらくしてバス停留所の標識の形が変わる。バス会社の表示にテープを貼って消してある。好かしてみると京北町の町営バスらしい。そういえば最近京都市と合併したんだった。
    京北町の中心部へいく道と分岐すると、いよいよ本格的に人里を離れていく。芦生峠芹生峠へむかう道の、灰屋という集落を過ぎるともう人は住んでいない模様である。渓流のわきの道であるが、花脊峠と比べてガードレールが少ない印象がある。田舎者なので人がいない道を走るのはあまり苦にならないが、高所恐怖症の気はあるので、ガードレールのない路肩の先がいきなり崖だとあまりよい気分がしない。わりと水量の多そうな渓流の音が聞こえるが、高さどれくらいだろうとのぞき込む気も起こらない。自動車がほとんど通らないのが幸いだと思いつつ登っていく。あまりくねくねと曲がる印象はなくわりと一直線である。休み休みではあるが登れはする。花脊峠の登りはじりじりと勾配が増していって挙げ句の果てにとんでもない傾斜のつづら折りが待っているので、こっちもそうかと思っていたが、案外とあっけなく峠に着く。
    芦生峠芹生峠の南側はやはり急坂である。こっちを登ることにしないで良かったと思った。下り道はやはりつづら折りである。ガードレールはやはり少ない。これは路線バスが走ってるかどうかにも関係するんだろうか。花脊峠のほうは京都バスの路線があるし、京都市じゅうの小中学生が宿泊研修に行く施設もあるし。
    下っていくととつぜん道が良くなり、なんとなく雰囲気が雅びてくる。なにかなと思ったら貴船の料亭街に入る。納涼床のシーズンだったら、人がいない下り道をかっ飛ばす気分でここへ突入すると危険だろうなと思う。

  • 若い人が来た

    この4月から一気に3人も若手がやってきた。ウエブに日記を書き出したころは下っ端生活に倦み、そのうち語尾が「やんす」になってしまうのではないかと危惧していたもんだが。
    俺はもう上に対しては自分がなにものであるかを証明しなくていいんだと、さいきん気づいた。彼らはしょせん、俺ごときをNICU部長と奉らねばならないほどに窮した立場なんだ。恐れることはない。俺はむしろこの若い人たちに対して、自分がなにものであるかを証明しなければならないんだ。それはたぶん、上の連中に対して自分を証明するよりも難しいことだ。
    うっかり、もう完成された者のような、上から目線の指導言葉でものを言ってしまったら、彼らの目に俺はもう伸びる余地のない人間にうつるだろう。この人はもうここで行き止まりなんだなと思われるだろう。それはよくない。断じてよくない。

  • いや単なる独り言ですので

    友人の友人がアルカイダだと公言するのと深夜の公園で裸になるのとはどちらが恥ずかしいことだろう。

  • バレンボイム氏の「告別」と挨拶

    今年のウイーンフィルのニューイヤーコンサートはバレンボイムが指揮していた。アンコールでハイドンの交響曲「告別」の第4楽章、演奏者が次々に消えていくという趣向を映像で初めて観た。第二バイオリンの主席以外オーケストラに全員立ち去られしまうわけだが、指揮者バレンボイムのコミカルにおろおろしてみせる芸風が上品で微笑ましかった。
    その後の指揮者の挨拶で、バレンボイムは「中東に正義が実現されますように」と言った。人間の正義、だったかな。普遍的な正義、だったかな。正義に何か修飾語が付いていたと思うが忘れた。正義の具体的な内容はむろん述べられなかった。でも、たぶんにそれは、ハマス殲滅とか、パレスチナ民族浄化とか、ガザ焦土化とかいった野蛮な内容ではないはずだと思った。聴衆が、冷めず引かず、さりとて狂信的熱狂的でもなくの、プレーンに盛大な拍手で彼の挨拶に答えたのが印象的だった。あの場で彼があの挨拶をするのが、聴衆にとっても自然なことだったのだろうと思った。
    今日NICUで仕事をしながら、ふと、この二つの演出は一連のものだったのかなと初めて思った。聞く人によってはちくりと胸に刺さるだろうことを言う前に、ボケ役を自ら演じて見せたのかなと。シャイな人なのだろうか。多分に、そういう挨拶をしたとて、バレンボイム万歳みたいな個人崇拝がわき起こるのは潔しとしない人なんじゃないかと思った。これを機会にもう一度中東の行く末を考えてみようよと言う機運が起こるのは歓迎だろうけれど、これを機会にバレンボイムの演奏を聴いてみようと思った人に推薦するCD10枚なんてお話は勘弁してくださいというような人なんじゃないかなと。まあ勝手な理想化かも知れないが。
    その後にエルサレム賞のごたごたが続いた。「社会における個人の自由」を描いた作家に送られる賞なら何故にさいとうたかを氏じゃないんだと思った。彼はちと彼国の防諜機関を敵役にしすぎたのかもしれない。