投稿者: yamakaw

  • 大分県で採用不正を理由に20人の先生がやめさせられる

    大分県で採用に関して不正があったとされる2008年度採用の教諭が20名ほど、解雇されることになったと報じられた。
    世間に疎くてよくわからんのだが、採用試験を経て正式に雇用関係が成立したはずの人たちを、採用段階で採用側の内部処理に不備がありましたからと一方的に解雇することが可能なんだろうか。この人たちが生徒への体罰や性的虐待を常習的に行っていたとかならまだしも、現状でこのような解雇のしかたは法律的にOKな話なんだろうか。上級官庁はよく当事者に説明をした上でと言ってるようだが、はじめに解雇ありきで説明ってそれはインフォームド・コンセントとは言わんと思うが。それとも、私は自分の世間知らずぶりを改めて反省しなければならないのだろうか。まあ、法律の話は法律を知らない人間が知らないまま論じても不毛だし、よほど不合理ならモトケン先生のブログあたりに何か出るだろうと期待して、私は現段階ではこれ以上の素人法律論議は控えようと思う。疑問を感じますということだけは明言しておく。
    心情的にはどうにも気の毒でやりきれない話である。まだなりたてとはいえ仮にも先生と呼ばれる立場の人に、まるで日雇い派遣みたいに明日からもう来なくていいからと一方的に言い渡すってのはどうなんだろう。先生ってその程度のものなのよと先生を束ねる教委自身が吹聴してよいものだろうか。ばれた分だけ切り捨てればいいのよとばかりその年度だけ切り捨て処分して、それ以前の年度はお構いなしとするのは、甘いんだか辛いんだか判然としない話のようにも思えるし。総じて、今回の処分には釈然としない。
    採用過程での不正も、べつに受験者側が採用側にばれないような仕掛けをしたわけではない。むしろ受験者の与り知らぬところで受験者の身内と採用側とがたくらんだことである。それで受験者が割をくうのはどうにも不公平なような気がする。採用側で不正をしていた人たちのほうは、天網恢々疎にして漏らさず的に処罰を受けたのだろうか。そっちが先だろうと思うのだが。そっちが先だろうという常識を逆手にとって、若い人を処断することで身内への糾弾に幕を引こうという魂胆なのだろうか。それならずいぶん卑怯な話だ。すくなくとも、彼らに今回の処断を言い渡した人たちは、この若い人たちの人生をけつまずかせたのが自分たちの身内だという責任を意識した態度であっただろうか。子供たちを訓導する先生たちをさらに束ねる教委の人なら、その程度の高潔さは身から滲み出てしかるべきかと思うのだがどうだろうか。
    今回の顛末ではどうしても解雇された若い先生たちの身になってしまう。今回の損得勘定は彼らにとって圧倒的にマイナスだった。自身が不正に関与していたわけでもあるまいに。こうして解雇されるくらいなら最初から雇用されなかったほうがその後の経歴に与える影響も少ないだろうに。地元では固いとされる、それこそ不正を働いてでも子を就職させたいほど人に羨ましがられる仕事についたのが一転して既卒の無職者だ。これから職を探すとしても、よい職があるんだろうか。職を探して歩く先々で、ああ採用試験の不正がばれて首になった元教諭かと後ろ指をさされかねないのではないか。
    しかし今回解雇された人々にとってもっとも衝撃だったのは、実力で勝ち取ったと思っていた職業が実は不公正の結果であったという、その事実そのものであろうと思う。それを知らなかったのが自分だけという事実がさらに追い打ちをかけたと思う(あるいはそっちが本命か?)。周囲も自分をその程度にしか見ていなかった。就職に際してこれで一人前だと祝福してくれた人々が、陰では自分を半人前と思って不正な下駄を履かせていた。それを知らなかったのは自分ばかり。そういう、いかにも「庇護下にある半人前」の立ち位置に自分があったという事実を思い知らされたことこそが、最大の衝撃ではなかったかと思う。今回、採用取り消しを言い渡されて涙を流した人もあったと報じられ一部ではずいぶん貶されている。しかし同じ立場なら俺も泣くよなと思う(私の両親は私を同じ立場に立たせるような愚か者ではないが)。その涙は解雇に対する涙と言うこともあろうがそれはあくまで二次的なものだろう。まして、けっして、知らなかったから勘弁してくださいという甘ったれた心情から流れる涙ではないと思うのだ。
    教委は希望があれば臨時採用で雇うとかなんとか人を小馬鹿にしたような恩着せがましいことを言っているが、いろんな意味で、この若い人たちは大分を出るべきではないかと思う。まずもって、この、教委に責任はないと言わんばかりの被害者面が気にくわない。まあ私が気にくわないからって関係ないかも知れないけれど。でもここで頭を下げて臨時採用で残ったとしても、結局はこの団塊の世代な連中に舐められたまま潰しの利かない年齢までいいように使われて捨てられるだけなんじゃないかと思う。
    社会で生きてゆけば知らないうちに多くの人のおかげをこうむっているということに、いつか気がつくものではあろう。ああ自分一人でがんばっていたつもりが俺はまだまだ皆様のおかげでなんとかやっているのだなあと嘆息することは良くある話だと思う(それとも私だけですか?)。その嘆息が成長の糧なのだと思う。それはそうなのだが、しかし、今回のようにあまりにも根源的なところで不正かつ過剰な横やりが入る環境では、知らず知らずにスポイルされてしまう。全く変質してしまった人生を振り返って、これがあの頃の未来なのかと愕然とすることになろう。
    それにまあ、そんな親やら恩人やらに取り巻かれた環境で歩き始めるのって息苦しくないですか?と思うのだ。私など小児科医修業を故郷の長崎で始める羽目にならなくて本当によかったと思っている。田舎はどこへ行っても何らかの情報網がつながっている。駆け出し時代の失敗がいちいち親や恩師や恩顧の人々に伝わったらと思うといてもたってもいられない。大手を振って故郷を離れることができただけでも、大学受験へ向けて猛勉強をした甲斐はあったと思う。あのまま親の息のかかるところで医者修業を始めていたとしたら、今の私は今以上にはんちくな人物であったことだろうと思えてぞっとする。
    いやそれは私のような凡人に限ったことでもなかろう。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康とほぼ同時代に偉人を3人も輩出しながらついに名古屋が都になれなかったのは、中島らも氏の指摘のように、彼ら偉人とて旧悪を知る人々の多い土地を嫌ったということの現れではないだろうか。海外に目を向けても、かのナザレの偉大な大工も、故郷ではろくろく奇跡を起こせなかったと福音書には伝えられている。ヨゼフのうちの私生児が何を言うとるかとか、長男坊のくせに正業に精を出さず新興宗教にはまりおってマリアさんが泣いとるぞとかいう視線に耐えられなかったに違いないと思う。
    でもこの教委の指揮下にある教師たちって、世間の風当たりが強くなったからって若い同僚を無情に切り捨てるんだから、世間の風向きが変わったら教え子を戦場に送り込むんだろうな。
    うだうだとそんなことを考えながら新生児搬送1件。
    1件では空床は埋まらない。今日も重症2/軽症2.

  • 早期からの経静脈的アミノ酸投与

    超低出生体重児では、脳室内出血とか慢性肺疾患とか動脈管開存症とかいった合併症がそれほど重篤でなくても、なんとはなく体重増加が悪い。出生予定の時期に体重2500gを越えている子は珍しかった。それが普通だと以前は思っていた。子宮外では自分で呼吸し消化しなければならない。胎盤・臍帯という極めて高度の呼吸・栄養装置を切り離され未熟な肺と腸を未熟な脳がコントロールして自律しなければならない以上、ある程度の歩留まりは避けられないと思っていた。
    解決策はコロンブスの卵的に簡単なところにあった。出生当日からの積極的な経静脈的アミノ酸投与である。胎内で臍帯経由で母体から入る潤沢な供給には及ばないにしても、せめて体組織を維持するために必要な1日体重kgあたり1gのアミノ酸を、出生後も絶やさず投与して飢餓期間を作らないようにするというやりかたである。
    以前はブドウ糖液で輸液を開始し、日齢2から母乳投与開始、母乳が進まない子には生後1週間をめどに経静脈栄養開始が原則で、アミノ酸も早くても生後5日くらいからの投与となっていた。まだ尿量も出ない不安定な時期からアミノ酸を投与することが代謝に悪影響を与えるのではないかということが、早期からのアミノ酸投与をためらう理由であった。他施設には、糖などのカロリー源を十分に与えない状態でアミノ酸を与えても結局は熱源として消費されるばかりで身にならないと、早期からのアミノ酸投与をしかりつけるお年寄りもあったと聞きおよぶ。
    しかし出生当日からアミノ酸を実際に与えてみても、以前に心配していたようなコントロールのつかない代謝性アシドーシスなど生じなかった。生後1週たって浮腫が抜けたあとも、昔のように小乗仏教の修行僧のようなひからびた痩せかたをすることはなくなった。そういう風にいったん痩せるのが当たり前と思っていたので、超低出生体重児たちがみずみずしいままに体重増加に転じることに驚かされた。
    それより驚いたのは、その後の体重増加も改善したことだ。だいたいその日の体重の1~2%増加を目標とするのだが(体重800gの子なら1日体重増加が8ないし16g)、慢性期の栄養管理は以前と方針の変化はないのにぐりぐりと体重が増える。あたかも体重増加のモードが胎児期から変更なく続いているとでも言うかのように。これまで当然と思っていた超低出生体重児の緩慢な体重増加は、けっして必然的なものではなく、出生後に数日間の飢餓期間をおかれたために身体の栄養管理モードが変化した結果の、人為的なものだったようなのだ。
    ようなのだ、というのは、生理的条件の超低出生体重児というものが原理的に存在し得ないため検証のしようがないのだ。健康上の問題がなければもともと子宮内に居た人々なのである。何らかの事情があって外へ出てきた人々であり、外へ出たということ自体が彼らに無視できない影響を与えている。その何らかの事情あるいは影響がどこまで不可避なものなのか。今の時点で不可避と思っているようなことがじつは避けられることなのではないか。健康モデルが想定できない状況でそれはどうやったら知ることができるだろう。
    あるいは避けるべき事なのかどうか。こうして体重増加を維持することが、急激に発達中の脳を守ることにつながるのではないかというのが現在の新生児業界の主流的な考え方であるが、ひょっとしてこの子たちが成人して以降、いわゆるメタボリックシンドロームに悩まされることにはならないのか。多少肥満しても発達の良い方が幸せだろうという考え方を言う人もある。私もその意見にどちらかと言えば賛成なほうなのだが、しかし肥満ながら発達がよいぞ学校の成績も優秀だぞと言って過剰に働いたあげくに若くして心筋梗塞で過労死してしまうということになっては詰まらないと思う。畢竟詰まる詰まらないは一人だけで決まることじゃなくてその時の社会のあり方とかも影響するんだろうと思う。ただこの子らの一生に関して棺を覆って事を定めるとするなら、自分が現役の間には結論は出そうにもない。
    こんな単純なことで、みたいな書き方になったけど、中心静脈栄養云々には出生体重500gとか600gとかの子にダブルルーメンで中心静脈が確保できての話なんだからそれなりに技術は必要なのだよ。臍静脈使うにしてもそうたやすいことじゃないし。私はできるだけ末梢静脈からPIカテーテルで確保する方針で居るのだが。腹臥位にしやすいし。
    しかし、この方式が良いと分ってみると、これまでこの方式を用いなかった子たちには申し訳なく思う。その時々での最善を尽くしているつもりではいるのだが、進歩の速い分野ではその最善の具体的内容がどんどん変化する。2年前3年前の最善でNICU時期を過ごした2歳児3歳児を発達外来で健診させていただきながら、今ならどうしただろうと思うことはある。そう軽々しく試行錯誤のできる分野でもないんだから目新しいものにつぎつぎ飛びつくのも憚られるしと、この子らの時期に導入をためらったことに内心で言い訳をしてみる。仕方がなかったと思ってみる。思ってはみても、この子らの成長に手柄顔をする気分にはなれない。むしろこちらが救われる思いをさせていただいている。
    俺が指導して発達が改善したのだと公然と語れる先生方がうらやましい。多少、いい気なものだと思わないでもない。
    空床は重症2軽症2。ちょっと暇なので閑居にしてろくなことを考えない。

  • どうやら控訴はしないらしいし

    まったく予想通りに無罪判決だったわけだが。どこをどうひねれば有罪判決が出るやら私ごときには皆目見当も付かなかったのだが。検察も控訴しない方針だと伝わってくるのも理の当然であろう。しかし理の当然を言えば逮捕もあり得なかったわけで、ときに現実は想像力の限界を超えたことが起こるから厄介で。
    すみません心嚢穿刺やったことないのに救急から手を引いてません。
    今日の朝日新聞の朝刊に(うちは大阪本社の13版で29ページに掲載)鳥集徹という人の「大野病院事件『産科医無罪』で終わるな」というご意見が掲載されていた。

    だが、捜査機関が介入したおかげで、明らかにされた事実があったことには違いない。つまり、医師が中心になって行った病院や県の調査では、遺族が知りたかった「真相」をすべて明らかにすることはできなかったのだ。この事実を、医師側はもっと謙虚に受け止めるべきではないだろうか。

    と説き、医療側は捜査機関が介入する余地のあることにこだわらず事故調の設立に合意すべきだと主張しておられる。
    そりゃあ捜査が専門の機関なんだし日本の警察は決して無能じゃないんだから着手したからには新事実もみつけるのが当たり前だろうよとか言うのはつまらん突っ込みかもしれん。私も過去には、事故調査機関は避けてとおれない道だなというような認識にもとづく記事を、このブログにも書いたように記憶している。しかしこの論説など拝読すると、あのころにもしも事故調が実現していたとしたら時期尚早だったのだろうなと思う。今この時点ならどうかは、まだ分らない。
    たとえばこの逮捕劇の時期、小児科医が軽症患者の時間外受診が多すぎて疲れたとブログに書いて炎上していた時期なら、この鳥集氏の主張が世の大勢を占める主張だっただろうなと思う。むしろこの主張はまだ穏健な部類かもしれなかったなとさえ思う。ひょっとしてその時期に事故調が作られていたとしたら、その制度とか運用とかはずいぶんと医療側に対して厳しいものになっていたことだろうなと思う。
    しかし当時に事故調が活動を開始していたとしたら、その厳しさがちょっと厳しすぎるんじゃねえかと思いつくほどの想像力を当時も今も私は持ち合わせていないようにも思う。事故調ってのはこんなものなんだろうなと思いながら、事故調から告発されて刑事裁判になった医師の運命を心配することになっていただろうよと思う。それもまた私の想像力の限界だ。今回の逮捕起訴も想像もつかなかったし。
    事故調の設立を推奨する鳥集氏ですら、

    捜査機関への通知の問題だけでなく、中立公正性を担保できるかなど、事故調にはいくつもの課題がある。

    とのご認識である。中立公正性への懸念は私が指摘するまでもなく鳥集氏もご言及のようだ。とすれば、当時もしも事故調が立ち上がっていたとしたら中立公正とされるポイントが今とではずいぶん違ったんじゃないかという点では、鳥集氏も私と認識を一にするところだろうと思う。そのポイントが那辺に位置するべきかという点では、たぶん見解を全く異にすることだろうけれども。
    あのころに事故調がうまれていたとしたら、それは鳥集氏が仰るような

    「小さく早く生んで、市民と医療者とで充実した組織に育てていこう」

    といったささやかな発足のしかたではなく、もっと大々的に医療者に辛くあたる機関になっていたんじゃないかと、いまさら当時の風潮をかえりみて私は戦慄する。いや鳥集氏の論説を拝読して久々に、昔はそうだったよなあなんて思い出してしまいましてね。小さく早くってのは計画的な分娩を比喩のネタにしておられるのですかね。紛争の多い周産期まわり(今回なんてまさにそれではないか)を題材になさるのはあんまり慎重な態度とは思えないんですがね、まあ、そのたとえ話におつきあいして申すなら、あのころなら小さく早くどころではない、なんだか血糖コントロールに難渋した糖尿病のお母さんから出生したかのように、巨大な赤ちゃんとして事故調は誕生したんじゃないかと思うんですがね。児頭骨盤不均衡やなんかで難産したり、出生後も低血糖とか多血症とかでがんがん輸液したり部分交換輸血したりと、設立だけでもいろいろ大騒動になったんじゃないかと思いますがね。
    いや、そもそもこういう組織で中立公正性が担保できないってのは、それは生まれてくる赤ちゃんの肺に十分なガス交換能力が担保されてないんじゃないかみたいな致命的に危ういお話じゃなかろうかとさえ思う。その状況で出生させようというのを「小さく早く生んで」と仰るあたりはずいぶんあっさりとした表現がおできで羨ましい限りだと、新生児科としては感心してしまう。生育限界を超えてるかどうかの超未熟児をあえて分娩にもっていくかどうかってのは我々でももうちょっと気を遣って考える問題だ。
    鳥集氏の論説は

    医師側も「無罪」を喜ぶばかりでなく、大野病院事件の遺族をはじめとする被害者の声に、真摯に耳を傾けてほしい。

    と締めくくられている。はたして大野病院事件のご遺族は「被害者」の範疇にはいるのか、そうじゃないんじゃないですかというのが今回の裁判の結論だったんじゃないかなと私は疑問に感じる。そのへんはまたモトケン先生のブログとかで勉強しようと思うけど、ただ、今となってはこの論説はもう主流じゃないよなという印象は避けがたいし、状況分析としてそれはたぶん間違っていないと思う。事故調がこれからできるにしても、この論説が主流派だった時代にできたかも知れない事故調とはかなり色彩の異なるものになるんだろうと思う。
    本来なら世の風潮に流されない事故調が理想なんだけど。

  • 昨年の未熟児新生児学会には片岡直樹先生が招かれていた

    医局の机を片付けていたら日本未熟児新生児学会雑誌の6月号が出てきた。まだ開封すらしていなかった。不勉強と片付けの悪さを多忙のせいにして、いまさら目を通してみる。
    記事によると、昨年の学術集会(年1回の総会みたいなもんだ)に、かの片岡直樹先生が招かれて、市民公開講座とやらで語って行かれたらしい。例によってメディアのために「後天的な」コミュニケーション障害が生じていると義憤やるかたない調子で訴えておられる。ますます意気軒昂のご様子である。おっしゃるところのメディアによる発達障害の発生率などに関する御論を拝聴すると、どうやら先生は広汎性発達障害も注意欠陥多動性障害もすべてひっくるめてメディアによる後天性障害だとお考えのご様子である。危ういことだ。
    11月の学術集会が終わって半年以上、すでに今年度の演題募集も締め切られた時期になるまで片岡先生のご登場を知らなかったのだから私も悠長なものだが、しかし学術集会に招くのに他に人がいなかったのだろうか。しかもご丁寧に市民公開講座だ。日本未熟児新生児学会は片岡先生を支持しますと世間様にむかって表明してしまったようなものだ。まずいんじゃないかと思う。どうにも格好が付かない。

  • ジアゾキシドに保険が通った

    先月から通っていたらしい。昨日初めて知った。

  • 地球温暖化とファイナルファンタジーⅩ

    地球と一緒に頭も冷やせ! 温暖化問題を問い直す
    ビョルン・ロンボルグ / / ソフトバンククリエイティブ
    ISBN : 4797347236
    ビョルン・ロンボルグ氏によれば今の温暖化対策としての温室効果ガス削減では、温暖化を防止できるわけではないという。せいぜい温暖化を5~6年先送りする程度の効果であると。
    たったそれだけの効果のために、とくに排出権取引みたいな得体の知れないことに巨額の金をつぎ込むのはどうなのかと氏は問う。それよりもいま現在の貧困対策にお金を使ったらどうなのか、同じ額のお金をHIV対策とかマラリア対策とかにつぎ込んだほうが、救える人命はよほど多いという。国同士で約束するとしたら、GDPの何パーセントを温室効果ガスを出さないエネルギーの開発に使いますとかいった内容のほうがいいんじゃないかとも言う。彼の目指すところは、温暖化そのものの防止より(そりゃまあ防止できたらそれに越したことはないんだが)、温暖化してもやっていけるようなタフな態勢の構築のようだ。
    たった5~6年というのはなんだかファイナルファンタジーXの「ナギ節」を彷彿とさせる。ゴアのナギ節とかフクダのナギ節とか呼んで欲しい人もいるんだろうかと思う。人類の罪あるいは排出する温室効果ガスのために「シン」あるいは地球温暖化という怪物が世界を脅かすようになり、世界を支配するエボン寺院は機械を使うのが人間の罪であるといい、その罪のためにシンが生まれ人が集まって繁栄する場所を襲ってくるようになったと説く。ちょうど人類が排出した温室効果ガスのために生まれたシンあるいはハリケーン・カトリーナが、海から襲ってくるように。
    思想もまた厳しく統一されている。世界はシンに対する恐怖で凝り固まっているので思想といってもシン対策のバリエーションに過ぎないのだが、エボン寺院が唯一認めるのは「究極召喚」によるシン打倒のみ。他の方法を提唱したりしたら異端として厳しく糾弾される。ロンボルグ氏も科学界で袋叩きも同然の目にあっている。しかし究極召喚によりシンを倒し、シンの来襲を恐れないで済むナギ節と呼ばれる期間が訪れたとしても、やがてシンは復活し、ナギ節(過去1000年のあいだに4回かあったらしいが)は終わりを告げる。そういうものらしい。究極召喚の核心を握る登場人物によれば「人の罪が消えることなどありますか?」ということで人間は永遠にシンに苦しめられる運命らしいが、IPCCのコアなところには「温室効果ガスが消えることなどありますか?」とか曰う人もあるのかも知れない。
    ゲームの主人公であるユウナたちは、究極召喚ではなく、自分たちの技を地道に鍛えてシンに挑み、ついに打倒し、永遠に続くナギ節をもたらす。そういう夢物語みたいな解決は地球温暖化については誰も提示できないけれど、でもロンボルグ氏の説くところのほうがユウナたちの路線に近いものがある。得体の知れない効いてる期間も短いものに、その派手さに判断停止して有り金ぜんぶ賭けるようなことはせず、地道に実効性のある対策を重ねていこうよという提唱である。ただ彼の説くところはファイナルファンタジーⅩ世界で言うならシンに襲われても平気な世界ということになるから、一部の人には受け入れがたいのも当然かと思う。でもなあ、海からシンが襲ってくるのになんでポルト・キーリカは海辺に木造建築の村を作ってるんだよとか(あれじゃあシンのまえに台風で潰れるぜ)という突っ込みは私もしたしなあ。ハリケーン・カトリーナなんてルイジアナ州上陸時には5段階中の3段目くらいのレベルなんだし、それで犠牲者が多く出たのは貧困層を川の氾濫原に住まわせて治水対策も怠ってたからだろという反省はあってもいいと思う。
    個人的にはリュックのほうがすき。

  • 攻殻機動隊2nd.GIG

    攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG DVD-BOX (初回限定生産)
    / バンダイビジュアル
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    いやDVDボックスを買った訳じゃなくて、ケーブルテレビで録画してたのをぼちぼちと見終えたんですがね。なんだかなあ、という感想です。
    以下ネタバレです。というかネタ知らないと読んでも意味ないと思いますけど、あえて今さら本編を観るほどの手間もいらないと思いますので・・・ならこの記事にはどういう意味があるんだろう。
    草薙素子のようなしっかりした女性が、敵将のクゼが昔の男かもしれんくらいの理由で作戦中に上の空になったり職場放棄したりするものだろうか。大召喚士のユウナ様でももうちょっとしっかりしていたんじゃないいか。ユウナ様に関しては19歳の女の子が消えた(文字通り消えたんだけど)男を2年間も思い続けてるものなんだろうかという議論があったよね。素子さんならどうなんだろう。
    優れたハッカーであるはずなのに、クゼの正体については何も具体的な調査をせず爪を噛んで物思いにふけるだけってのは何なんだろう。クゼは素子同様に成長につれて義体を更新しているのだから、その経過は病院の記録なり義体メーカーの記録なりで追跡できるのではないかと思うのだが。素子さんにすら追えないほど痕跡を消すことができてたらそれだけで大したものなのではないか。
    さらにはその昔の男に言いくるめられて不確かな作戦に手を貸したりまでするものだろうか。そもそもゴーストはコピーできないってのは攻殻機動隊の世界観でもごく基本的な要素のはずなのに(それを言っちゃうと原作の「人形つかい」と素子が融合するってのもおかしな話になっちゃうか)。
    世界観といえば、「米帝」が覇権主義を強めるが経済的には没落していたりとか、どう見ても朝鮮半島な国家が崩壊して難民が大量に発生していたりとか、そのくせ日本は東京周辺が核攻撃をうけてほとんど水没しているのに経済的にはおおいに繁栄していたりとか。いろいろと制作者の願望みたいなものが透けて見えるようで気味が悪かった。制作陣は世の中に対して卑屈なルサンチマンを抱いてやしないだろうか。
    原作にはない素子のツンデレぶりもアニメ制作者の願望なんだろうかね。素子みたいなしっかりした美人がじっと自分のことを思っててくれたらなあみたいな。そしていざ自分に遭ったら職務も忘れるくらいにめろめろになってくれたらなあみたいな。こんな絵に描いたような(アニメだから絵に描いてるには違いないけどね)月並みな脚色を見せつけられると、お前らもてないアニメオタクもこういう願望持ってるだろうみたいな勘ぐりをされているようで、どうも嫌だね。いや、持ってないとは言わないけどね、勘ぐられるのは嫌だ。
    タチコマの運用について。重要なシステムはバックアップをとっておく、というのはノヴァ教授(@銃夢)も教えるところの教訓なのだが、タチコマのAIをまとめて一個の人工衛星に積んであるってのはシステム管理としてどうなんだろうかね。太陽にフレアでもあったらどうするんだろう。衛星にデブリでも当ったらどうするんだろう。たった1個の衛星に依存するってのはシステム的な堅牢さに欠けるような気がするのだが。地上にサーバーを置いて衛星にバックアップを積むくらいが間尺に合う方針かと思うが。
    そもそもたった1個の衛星で運用していては、衛星が食に入ったらタチコマが動作を止めるのではないか。衛星にこだわるなら複数の衛星に並列して積み込んで、衛星のうち一個は地球のこっち側にいるように調整するのが本来かと。たった1個の衛星での運用にこだわるなら、食に入らぬよう静止衛星に積むことになるんだろうけれど、静止軌道にあるAIでは地上との通信にかかる時間が無視できないんじゃないかと。通常の平和的な機器ならまだしもタチコマは戦車なんだよね。
    合田が自分は内乱罪だけど自首したから罪に問われないとかなんとか言ってるけど、内乱罪は暴動に至らないうちに自首してこそ罪が免じられるんだよね。あそこまでやっておいて今さら自首したもなにもあるまいに。だいたい彼のやったことは内乱じゃなくて外患誘致じゃないかい?外患誘致罪は有罪なら死刑しかありませんし自白したからって「それが何?」な重大犯罪ですが。合田には内乱罪にこだわらなくても余罪は殺人教唆とか特別公務員何とかとか爆発物何とかとか数知れずあるし。叩けば幾らでもホコリは出ようものを。トグサはともかく荒巻さんまでが合田のこんなでまかせにひるんだりして今後の9課は大丈夫なのか?

  • 母乳育児と朝日新聞

    朝日新聞に母乳育児に関して世間の誤解を助長しかねない特集記事が載せられた由で、日本ラクテーション・コンサルタント協会が緊急声明を出している(参照:PDFです)。ちなみに朝日新聞の記事は朝日のウエブサイトで検索をかけても見つからなかった。いちおう読んだ記憶はあるのだが、私自身の印象としては、わりと文献なんか調べてまめに取材もして、方向性は間違ってるけど態度としてはまじめに書いた記事だと思った。記事の原文をご参照いただけないのが残念である。ラクテーション・コンサルタント協会の声明から内容をご推察願いたいと申したらルール違反だろうか。
    私見であるが、やっぱり母乳哺育とかカンガルーケアとかは、じっさいにやっているところを見て意外とうまくいくもんだねという実感を持ってるかどうかで、認識が極端に異なるんじゃないかと思った。
    それは例えば飛行機のようなもので、たとえば19世紀の人にジェット旅客機の設計図を見せても、それが空を飛べるのだと信じる人はかなり少ないんじゃないかと思う。朝日新聞の記者さんも、たぶん母乳育児の上手くいっているところを見たことがなかったんじゃないかと、私は推測している。巨大な金属塊が飛行できるなんて信じられないと19世紀の人が仰るのと同じ水準で、母乳だけで上手くいくということが信じられないんじゃないかと思う。
    でも19世紀の人が飛行機を信じられないからといって、彼らを未開だと見下すのは間違いだ。彼らがこんなもの飛ぶはずがないと言ったとしても、ある意味でそれは正しいことだからだ。19世紀の人がジェット旅客機の設計図を見せられたところで、やっぱり19世紀にはジェット旅客機は作れないし飛ばせないのである。飛行機にはじゅうぶん強くて軽量な金属材料が必要だし、それを精密に加工する技術も必要だ。機械技術のみならず、真っ平らな滑走路が引ける建設技術とか、計器飛行のための通信技術とか電子技術とか、色々とインフラが必要だろう。それのない19世紀に、ジェット旅客機だけが単独で実現することはあり得ない。
    精密加工といえば20世紀に入ってからでさえ、零戦のエンジンのボールベアリングは今のパチンコ玉ほどにも正確な球形ではなかったというし。
    19世紀という時代が飛行機を信じられない環境であるのと同様のレベルで、朝日新聞社というのは母乳育児を信じられない環境であるのだろうなと、今回の記事を読んで思う。朝日新聞社というのは記者さんがご自身で母乳育児ができるような職場じゃないんだろうな。出産後の職場復帰が困難だったり、仕事中の搾乳とかできなかったり。母乳にこだわってると出世できなかったり。推測だけど。
    環境に負けず独立不羈で母乳育児を完遂したとしても、自分の子だけ見てただけでは認識を変えるには不十分かも知れない。子育て中の社員同士で母乳育児について語り合ったり助け合ったり、社外の子育て中の親御さんと交流があったりとかいった、豊かな人間どうしのつながりのなかで、多くのこどもたちが母乳で育っていくのに接していると、なお、いろいろな認識が深まっていくのではないかと思うのだが。それは母乳に限らず、いろいろな世の中の叡智についても。
    そうしてしっかり子育てをした社員がその後も不利益なく(いやむしろその過程で得た知恵ゆえに)出世する人事システムとか、そういう懐の深さを朝日新聞社がどれほど備えているのか。母乳育児を問うた記事で、問われるのは朝日新聞社自体であるように思える。

  • 赤ちゃんは泣くものだと思っていた

    生れたばかりの赤ちゃんは数分間は泣き続けるものだと思っていた。大声で泣くことで肺が開くのだと思っていた。だから帝王切開に立ち会ったときも、赤ちゃんを受け取ったらラジアントウォーマーにのせて羊水を拭き取って、あとはひたすら泣かし続けていた。
    さいきん、とあるきっかけがあって、帝王切開で娩出されたばかりの赤ちゃんにカンガルーケアを何例か行った。体を拭いて気道の安定を確認しだい、お母さんの胸のうえに赤ちゃんを載せる。むろん蘇生術が必要な赤ちゃんにそんなことしている余裕はないが、呼吸も安定して緊張も良い、アプガー1分値をカウントしたらあとは5分まで暇を持てあますような元気な子たちを対象として。
    赤ちゃんはお母さんの素肌にのせるとぴたっと泣きやむ。今まで泣きわめいていたのが嘘のように。息が止まったのではないかと不安にさえなるが、しかし赤ちゃんを支えた自分の手からは赤ちゃんの呼吸運動がしっかり伝わってくる。赤ちゃんの顔をみてもチアノーゼはない。
    あれはお母さんから引き離されて泣いていたという一面もあるのかも知れないと今さら思う。彼らはお母さんの何に反応して泣きやむのだろう。匂いという説もあるが、なんだかそういう機械的なお話に還元して語るのは野暮なような気もする。

  • 母乳とミルク、米とスターチ

    たとえばトウモロコシやジャガイモから得られたスターチを射出成形とかなんとかで直径数ミリメートルの楕円形に成形したとする。その粒の成分を分析したら炭水化物やらタンパク質やらが相応含まれていたとして、それを根拠にその粒を米と称してよいかどうか。その粒を多数集めて加水し高圧下に加熱して糊化させたとして、それを飯と呼ぶかどうか。その糊化したものを俵型に固めてワサビを塗り魚肉を載せたものを、寿司と称して出されたら寿司屋の客は納得するかどうか。
    母乳と人工乳の関係というのは、この米と成形スターチとの関係だと私には思える。いくら我が社の人工乳は分析したら母乳同然の栄養分をふくんでいますと人工乳のメーカーに宣伝されても、だからってそれが母乳と同格と言いたくないのは米と成形スターチを同格と言いたくないのと同じである。母乳育児は栄養ばかりではなく文化の問題でもあるのだ。
    現在の日本では、店頭には輝くばかりの赤ちゃんの笑顔を描いたミルク缶がならび、育児の象徴といえばほ乳瓶になってしまった。企業から派遣されたスタッフが定期的に津々浦々の産科病棟にやってきて、出産後まもないお母さんたちに「調乳指導」をしてゆく。産院退院の時には人工乳の缶にもろもろのグッズをつけた「おみやげ」が企業の出資で配られる。
    我が社の成形スターチはコメ同様の炭水化物・アミノ酸組成を実現していますと、たとえば米国の穀物メジャーが主張して、その粒を詰めた袋に実った稲穂あるいは茶碗に盛った炊きたての飯の絵を描いたりしたものを売り込んできた場合、消費者はそれをコメとみなして買うかどうか。そんなものが店頭に並んで米を駆逐し始めたときに、栄養のバランスがとれている成形スターチのほうが食品として子供たちの健康によいと言えるのかどうか。穀物メジャーが送り込んだ調理指導員が全国津々浦々の小学校にやってきて、家庭科の授業で「調飯指導」と称してスターチの炊き方を指導したら、PTAは納得するかどうか。そのスターチを食するのに特別な食器が必要だったとして、日本人の食の象徴がその食器だとされたらそれは日本の文化にとってよいことなのか。
    そういうものだと分った大人がそれでもと言って食べるぶんには自由だ。米を食べたくてもときには不作の年もあろう。あるいはきついコメアレルギーだが糊化スターチなら食べられるということがもしもあったとして、そういう人が寿司というものを食べてみたいと仰ったなら、スターチ寿司を食べることに異論のあろうはずもない。同様に、いろいろな事情で母乳が飲ませられないということもときにはある。お母さんが抗ガン剤を投与されているとか。赤ちゃんに特殊な先天代謝異常があるとか。どうしてもコメあるいは母乳が使えない事情があるときに、代替品が用いられることはあり得ると思う。コメでなければ飢えたほうがマシだとか口のおごったことは言いたくない。まして代替品を食べているから卑しい奴だなどと他所様を見下すようなことはしてはならない。
    しかしあくまで代替品は代替品なのであって、それは栄養成分が同じとかいう理由では片付かない格差なのである。本家の足りないところを遠慮がちに埋めるくらいが代替品の正しい立ち位置だ。代替品がデフォルトづらして本家を押しのけるのは本末転倒である。
    その本末転倒な状況を許していることに、赤ちゃん関連の仕事をしている身としては忸怩たる思いである。本稿はけっして人工乳を用いているお母さんたちを攻撃する意図で書いたものではない。
    出産後30分以内に初回哺乳とか、一日8回ないし12回以上赤ちゃんが欲しそうにするたび与える哺乳とか、完全母児同室とか、そういう基本的な母乳確立の努力をせず、お母さんはお産で疲れただろうからと称して生れたばかりの赤ちゃんを新生児室に「お預かり」にして初回哺乳は生後8時間からとか、その後も哺乳といえば赤ちゃんが泣いたときに瓶哺乳するだけで結果として一日5~6回程度の哺乳しかしてないとかいう産科病棟はうちばかりではあるまい。そういう悪習をルーチンにしている産科で母乳が出ないから人工乳でとお母さんに「指導」するのは、赤ちゃんの立場に立ってみれば、たとえば、春先は眠いねとか梅雨どきは雨が多くて嫌だねとかいって代掻きも田植えもしないまま7月になり8月になってしまって、それで今年の稲は不作だから成形スターチを米と思って喰えと言われたようなものではないかと。それは、今年も精一杯がんばってはみたけれど天候不順でどうにもなりませんでしたと言われてスターチをわたされるのとは事情や印象が違うのではないかと思う。そういうスターチが子供たちの学校給食に代替米と称して出されたら親として納得できるかどうかだ。人工乳も同じようなスタンスで考えるべきではないかと、赤ちゃんの医者としては思うところである。
    以下、不要のことかも知れないが。但し書きをいくつか。
    ・いま現時点で赤ちゃんに人工乳を与えているお母さんを弾劾する目的でこう書いているわけではない。母乳が当然で人工乳はあくまで代替品だと思うが、それとこれとは別の話。正しく支援すれば「母乳が出ない」ことはまずないと、母乳育児推進の人たちは主張されるし私もそれに反論する根拠をもたない。であればこそ、母乳ではなくて人工乳を「選ばざるを得なかった」お母さんたちに対しては、周囲の支援が足りなかったのではないかと反省こそすれ、当のお母さんたちを責めるのは当らない。
    ・子育て経験のないお母さんに十分な支援なくいきなり完全母乳を強いるのは、あたかも、まったく素人の都会人に種籾をひとにぎりわたして、これを栽培して子供がたべる米を自給しなさいと強いるようなものだ。それができなくてスターチを食べるはめになったとて、できなかった人を責めることがあろうか。