投稿者: yamakaw

  • マイクロソフトでは出会えなかった天職

    マイクロソフトでは出会えなかった天職 僕はこうして社会起業家になった
    ジョン ウッド / / ランダムハウス講談社
    ISBN : 4270002484
    著者の業績をけっして貶める意図ではないが、おそらく、この凄い人も、ただ単に休暇で訪れたさきの貧しさ悲惨さだけでは動かなかったと思う。心を痛めつつマイクロソフトの仕事に復帰して、そのまま北京でのマイクロソフトの販路拡大に奔走し続けたことだろう。彼を動かしたのは、貧困ではなくて、その貧しい中にあって飢えたように学んでいるこどもたちの熱意やぎらぎらした欲求の貢献がかなり大きいんだろうなと思った。
    当直室で本書を読みつつ娘のことを考えたのだが。こうやって知識欲に目を輝かせながらネパールの山奥で英語の本を読みこんで育ってきた面々と、これからの人生で出会っていくことになるんだろうなと。彼らに太刀打ちできるほどの、そういうぎらぎらした生命力を彼女も備えているかどうか、ちょっと心配にはなっている。
    些事ながら、著者は中国におけるビル・ゲイツ氏の不適切なふるまいにほとほと幻滅した様子で、それもまた著者がマイクロソフトを辞める遠因となっている。どうしてあれほどの大企業が、トップに据えた自閉症者にジョブコーチの一人もつけられなかったのか不思議でならない。

  • 地頭力だそうだ

    企業の採用試験において「地頭力」が重視されはじめていると、NHKの「クローズアップ現代」4月3日放送で報じられた。地頭力についてはNHKに先だってbogusnewsに詳細に報じられていたので興味はあったのだが、現実はbogusnewsよりもばかばかしいものだと感じられた。
    「5大陸の中でどれか一つを消さなければならないとしたらどれを消しますか、その理由は何ですか」とか、「富士山を移動させるにはどうしますか:トラックとパワーショベルを使う前提で」とかいう、明らかに正解がない設問に答えられるのが、企業の求める「地頭力」なんだそうだ。ちなみに1問目はさすがに政治的影響を考慮してか解答例は示されずスルーされたが、2問目の答えはトラックの積載量から算出して300億回走らせるというものだった。はあ。
    さきのグーグルの採用試験の問題ならともかくも、この例題のナンセンスさは何だと呆れた。大陸を消すって、大きめの火山が一発噴火しただけで気象は地球規模で変動するのに、一大陸を消して他が無事に残るわけがあるまい。最初に消えるか余波を喰らって滅ぶかの二者択一なのに、どれを消しますかもあるまい。「日本沈没」を第二部まで読むとよい。富士山を動かすって、あれは活火山である。山塊そっくり平地になるまで削っても後から後から吹き出てくるに決まっている。現在の山を構成する岩や土砂を他所に盛り上げたところで、現在地に新しく火山が盛り上がってきたら、その後に富士山と呼ばれるのは、たいがい現在地に新しくできた山のほうだろう。
    「泣く子と地頭には勝てぬ」とは、昔の人はよく言ったものだと思う。大陸を消すとか富士山を動かすとか、まさに泣く子か地頭的な無理筋の発想である。こんな浅薄な設問で測定できるのは求職者の教養や思考力の深さではあるまい。求職者についてはどれくらい無根拠な法螺を平気で吹けるかであり、募集側についてはどれくらい無理筋な要求を他に課す企業であるかということだろう。NHKの特集でも、糸井重里氏の「企業も必死ですね」というコメントが秀逸であった。
    私も職業柄、地頭はともかく泣く子の相手はずいぶんしてきたつもりだが、対戦相手としてはかなり手強い。地頭を採用するのに失敗した企業は、つぎはうちのNICUの泣く子たちに給料をくれることを考えてもいいのではないかと思う。大陸を消すならどれとか富士山を移動させるにはとかいう問答で採用されたような面々くらいには世の中の役に立つだろう。
    とは言いながら私も答えを考えてみたのだが。1問目、大陸の中で消すならやっぱりオーストラリアでしょう。今後は島と呼ぶことにすれば大陸がひとつ消えます。2問目、山頂の一番高いところを削ります。削った土は噴火口を半周したくらいの場所に盛り上げればなお宜しいでしょう。山頂の位置が動けば地図上では山が動いたことになるのではないでしょうか。しょせん地頭でも泣く子でもない私にはこれくらいしか思いつかないが。こんなんで企業に採用されてもオフィスでは椅子ではなく座布団を重ねた上に座らされて仕事することになるかもしれんね。成績に応じて座布団が増えたり減ったりして。

  • 考えない勇気、なのだそうだ

    ふだん愛読している「児童小銃」を経由して、ココロ社さんの「考えない勇気」を持てば、頭がスッキリ!というエントリーを拝読した。その奇妙な明朗さも手伝って、全体主義国家の中央党が「その他おおぜい」的な位置づけの青年党員を対象に発行する機関誌の巻頭論文にはちょうどよい内容だと思った。いらんことを考えず党の指導に従って国家建設に邁進しよう、首領様の偉大さは君の意見ごときでは微塵も揺るがないんだから(でも、もちろん、首領様を疑うなんてことはないよね)、というような。
    まじめな話、水伝や血液型性格診断のようなつまらないことを考えないことにするというのがどうして勇気の問題になるのか、さっぱりわからない。考え続けるほうがよほど骨折りではないだろうか。その労力を維持するのは勇気というより根気の問題だろう。
    そういう、考えるに値しないことをあえて考える労力を維持している理由とは、考えるに値することを考えずに済ますための自分や他者に対する言い訳なのではないか。
    だから、もしここで勇気を話題に持ち出す余地があるとすれば、それは、「そういう詰まらないことを考えることによって、直視するのが辛いことから逃避していないか」ということを考える勇気じゃないかと思うがどうだろうか。真の勇気とは、たとえば水伝を考えない勇気ではなく、「水伝のごとき疑似科学を持ち出さないと自分の言葉は生徒に対する十分な説得力を持ち得ていないのではないか」という恐ろしい観点から逃げずに考える勇気ではないのか。
    格差の問題もまた、考えても這い上がれないのならと考えず自らの境遇に甘んじるのが勇気ではなかろう。ひょっとして自分の能力やらキャリア形成の戦略やらに見直すべき点がないのかと考えるのが勇気であろう。あるいは自分はもうどうしたってこの構造から逃れようがないとしか考えられなくとも、その構造のなかでいかに生き抜くかを考えるのが勇気であろう。そういう事を私やなんかの他人が言うのはポリティカル・コレクトネスに欠ける行為であるが、そして私は個人的にはそういう個人的資質をあげつらって社会的対策をおろそかにしようとする動きには批判的であったつもりだが、しかし本人が自分をそういう目で見直すこと自体は勇気あることだと思うのだ。その勇気を他者から強制するのはやはり間違ったことだとは思うけど、もしこういう案件に「勇気」という概念が介在する余地があるとすればそういうことではないかと、私は思う。

  • 万年筆が欲しくなる本2 読者を「あんた」よばわり

    万年筆が欲しくなる本 2 (2008年版)―あんたの万年筆がきっと見つかる… (2) (ワールド・ムック 714)
    / ワールドフォトプレス
    ISBN : 484652714X
    発売されたと聞いてアマゾンを検索して驚いた。「あんたの」というワイルドなつかみ文句がじつに斬新だ。顧客を「あんた」呼ばわりして客商売が成り立つ人ってゴルゴ13くらいしか知らない。この会社は大丈夫なんだろうかと思った。
    画像を拡大してみると表紙には「あなたの」となっているからアマゾンのミスなんだろうけれども。こういうときアマゾンは発行元に対してどういう対応をするんだろうか。
    万年筆が欲しくなる本―あなたの万年筆がきっと見つかる… (ワールド・ムック―HEART LINE BOOK (635))
    / ワールドフォトプレス
    ISBN : 4846526356
    スコア選択: ※※※※
    じつは1冊目ならもっている。書斎に転がしておいたら、娘が目をまるくして眺めていた。要は価格帯ごとに主要各社の万年筆を写真入りで紹介してある書物なのだが、中の「ラブレターを書くために使いたい万年筆」と称する一節で、価格が10万円前後の万年筆をならべて紹介してあった。ラブレターを書くための筆記用具に10万円もつっこむようなバカな男にひっかかるんじゃないよと娘には注意しておいた。たぶんそいつはひどく自己愛の強い人間だからいろいろ苦労するよと。その万年筆をプレゼントにくれるならまだしも。

  • 城繁幸「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」内田樹との対決

    3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 (ちくま新書 (708))
    城 繁幸 / / 筑摩書房
    ISBN : 4480064141
    スコア選択: ※※※※※
    土曜の午後(午前は仕事)、「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」を一読した。
    「若者はなぜ3年で辞めるのか」の続編である。どこへ行ったのかと括られると、いかにも落剥したような印象を与えるが、本書では「3年で辞めた」若者がその後もタフに働いている姿が報告されている。報告例では仕事の内容も報酬も充実していて、負け惜しみではなく辞めてかえって成功している。著者は、彼らの姿に照り返されていよいよ輝きを失う、年功序列に代表される昭和の価値観を本書でもてひどく批判している。
    ひとりでは生きられないのも芸のうち
    内田 樹 / / 文藝春秋
    ISBN : 4163696903
    スコア選択: ※※※
    内田樹先生は近著「ひとりでは生きられないのも芸のうち」において、「若者はなぜ3年で辞めるのか」を批判している。要約すれば、城氏はけっきょく人生は金がすべてだと思ってるんだろう。こういう主張をする人間は、今は若い者の立場に立っていても、年老いたらこんどは老人の既得権を最大に生かして若者を搾取するんだろうから信用ならない。労働というのは他者のためになされることなのだよ。自分にあった仕事なんて行っててはいかんのだよ。云々。
    その批判を内田は以下の問題提起で開始する。

    私が考えこんでしまったのは、これは仕事とそのモチベーションについて書かれた本のはずなのに、この200頁ほどのテクストのなかで、「私たちは仕事をすることを通じて、何をなしとげようとしているのか?」という基本的な問いが一度も立てられていなかったからである。

    たしかに「若者は・・・」において城氏の著述はもっぱら現状分析にとどまっていた。しかし「基本的な問いが一度も立てられなかった」は内田先生最後まで読んでなかったでしょうと申し上げるしかない。この問いは確かに立てられていた。答えが出されていなかっただけである。その回答を城氏は本書「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」で示したと私は理解する。
    城氏の「3年で辞めた若者はどこへ行ったのか」を一読したうえでは、内田先生の批判はいかにも昭和的価値観の範疇を出ないもののように思える。釈尊の指に署名して上機嫌な孫悟空を彷彿とさせる。そもそも、城氏の分析によれば今の若い者は年老いたところで今の老人が享受している既得権など手にしようがない。そんなもん期待しようがないと見切りをつけて若者は3年で辞めていくのである。
    「何をなしとげようとしているのか」という基本的な問いとおっしゃるが、それを上の世代が一度でも立てたことがあったのか?と内田先生に逆に問いたい。それを体を張って示す先達を職場に見いだせなかったこともまた、若者の離職に拍車をかけているのであると、城氏は分析している。何を?昭和の遺残組は滅私奉公と引き替えにした年功序列の出世しかなしとげようとしなかったじゃないかと城氏は反論しているかのように、私には読めた。
    しかし、内田と城がまったく対立しているかと言われると、どうにも。結局この二人は似たような主張をしているだけではないかと、私には思えるのだがどうだろう。内田先生の、城君の言ってることは間違いなのだよという言に引き続く、人の世のなりたちは本当はこうなってるんだからねと説かれるその説諭は、ほとんど城氏と異口同音のように思えるのだが。振り返るに内田先生は城氏の分析する年功序列型のレールをずいぶん早くから降りてしまって我が道を進んできた大先達なのだから、けっきょく彼の来し方は城氏の理想に近いのではないかとも思える。城氏には、次の企画として、内田先生のインタビューを是非やって頂きたいものだと思う。案外と気が合って、おもしろい対談ができるかもしれない。
    誉めるばかりでは済まさないという当ブログのポリシーに沿って、「3年で辞めた若者はどこへいったのか」に一矢つっこむとすれば、3年で辞めた連中の皆が皆そんなに信念を貫き通して成功してるわけではなかろうということは是非申し上げたい。城氏の尻馬に乗ってか乗らないでか早々と辞めてはみたけれどやっぱり上手くいかなかったよと、不遇をかこつ人も実際にはあるんじゃないかなと私は思う。それもまた人生と覚悟してその後の道をみずから切り開けるほどの強さを、城氏が思ってるほどの水準でそなえた若者は、城氏が思うほどには多くないんじゃないかと危惧する。内田先生が城氏のような思想を目の敵にされるのも、その危惧をお持ちだからなのではないかと思う。教え子が城氏に毒されて人生を誤るかもという危惧をお持ちなんじゃないか。
    冷たく言い放つとすれば、城氏はそれにも答えを出しておられるのだが。最近の若者はなっとらんと昭和的価値観の企業の御大がぐちる中、優秀な若者はどんどん海外をめざしていると。

    しかし、彼らの口からは、それら大企業の名前は一社たりとも出てはこなかった。なんと30人中29人が、外資系企業の名を上げたのだ(ちなみに、残り一人はテレビ局)。一人ずつ志望先を聞いていくうち、だんだんと顔がこわばっていったのを覚えている。
     大学名や就職活動に対する真摯さから見るに、彼らは90年代であれば、おそらく日系金融機関や官僚といった道に進んでいた層だろう。少なくともそんな彼らは「日本企業が割に合わない」という事実に、とっくに気づいているのだ。要するに「やる気があって前向きで、アンテナの高い学生たち」から、日本企業の側が見捨てられているわけだ。

     
    ようするに嘆く君らの周囲にはそれだけ質の低い連中しかいないのだよということだ。とすれば、内田先生が、学生が英語ができないとか連立方程式がとけないとか仕事に関する覚悟が甘いとか、あんまり若者を腐してばかりいると、勤務先の大学で内田先生と縁のある若者の質がだんだんと知れてくるということはないのだろうか。学生に迷惑でなければよいのだが。

  • 不機嫌な職場 医療崩壊の構造にも関与するところがあるのでは

    不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか (講談社現代新書 1926)
    河合 太介 / / 講談社
    スコア選択: ★★★★
    職場が「一人ひとりが利己的で、断絶的で、冷めた関係性が蔓延しており、それがストレスになる」ことの原因と対策を論じたものである。
    良いところとして、個人の資質(マッチョだとかウインプだとか)とか世代論(団塊とかバブルとか)に一方的に責を帰して「お行儀を良くしましょう」みたいな説教を垂れるのではなく、社会科学的研究の成果をふまえて考察してあるのが快い。最終的には、そっと、それでも互いに手をさしのべあうことには意義があるのだよと述べてあるのだが、それも個人の努力のみで実現しようというのではなく、職場のシステムを変えることに重きをおいて実現を目指してあるのが、個人的責任と環境の関与のバランスがほどよくとれた論考だと感じられる。ひねくれもせず多責的にもならず、すなおに読める良書だと思う。
    本書の第2章で論じられている、職場の不機嫌さをうむ問題点「組織のタコツボ化」「評判情報流通と情報共有の低下」「インセンティブ構造の変化」はそのまま、崩壊の進む医療の現場で起きていることのように思える。医療の高度化にともなう専門分化・タコツボ化はある程度は避けられないことだし。インセンティブ構造の変化にしても、世間の人はいまごろようやく自分のキャリア形成を優先するようになったらしいが、医者は昔から自分の診療能力の向上を儲けより優先させるのが美徳とされてきたものだし。こういう問題点は世間の先陣を切って医療業界でまず起きていたことではないだろうか。
    評判情報の流通ってのは医局の噂話みたいなもんかね。定型発達のひとに聞いてください。私はわからん。
    崩壊の第一の原因が絶対的なリソース不足にあることは無論なのだが、本書にあるような構造とリソース不足が、ハウリングを起こすかのように、たがいに強めあっているという構図はないだろうか。医師がとつぜん集団退職して診療科や病院の単位で閉鎖に追い込まれている現場では、単純に激務のフィジカルな辛さのみならず、本書にあるような構造の精神的なストレスが、最初の何人かが辞めた時点で爆発したのではないかと思う。

  • 「キュア」 各論的には不愉快だが、読まれるべき作品である

    キュア cure
    田口ランディ / / 朝日新聞社
    スコア選択: ★★★★
    土曜の夜に田口ランディ著「キュア」を読了した。久々に、力のある物語を堪能した。読む者を引き込んで放さない力をもった物語である。理屈の上では荒唐無稽な、理不尽で泥臭い物語なのだが。物語の力というのは理屈にあうとかあわないとかいった話とは違う水準に存在するのだと、読者として思い知らされるような作品である。
    じっさい、各論的なつっこみどころは満載なのである。主人公には特殊な治療能力があるらしいが、電磁力に関係するらしいその力を手術室で使おうったって、手術用手袋がその力を絶縁してるんじゃないかとか。腫瘍病棟が地下にありますって、患者さんが寝起きする病棟を地下室に置くことが法令上許されてただろうかとか。ガラスの保育器っていったい何十年前の代物だよとか。
    そのような、と学会的に一笑に付せる些事に混じり、安楽死に関して、ホスピスに関して、あるいは未熟児の予後や障害新生児のフォローに関して、現代医学に関する著者の悪意が感じられる描写が多々ある。読んでいて気持ちがざわつく。思いつきで書いたのなら許し難いところであるが、著者はご家族の病気でさんざんご苦労なさった経験をお持ちなのだから、病院に足を踏み入れたことがないわけではあるまい。そのご経験をふまえての著作なら、無碍に排撃することもなるまい。患者さんの中にはこういうふうにお考えの人もあるのだと、拝聴の上で一応は胸に納めるものであろうと思う。一応はね。同じネタを何回も使い回したら許さないけど。
    著者が本作で提示する死生観には、現代医学に関する描写の不愉快さをおぎなってなお、胸を打たれる。この死生観は医療を変える力を持つと思う。おそらくは崩壊を食い止める方向に働く力となると思う。この死生観ゆえに本作は読まれるべき作品だと思う。少なくとも医療関係者にとっては、医学的描写の不備や悪意をがまんして最後まで読む理由にはなると思う。この場に要領よく要約する筆力を持たないことには寛恕を乞う次第である。

  • 医局の片付け

    医局の机とかレターボックスとかに山積みになった書類を片付けた。さきの記事を書いてから今までごそごそと始末していた。浪費癖の一環として医局にCanonのDR-2050C IIをもっているので(御手洗とかいう人のフトコロを一文でも潤したかと思うと業腹だが)、捨てられる書類は捨てる、迷う書類は電子化してから捨てる、の方針で対処したところ、驚いたことにほとんどすべての書類がごみ箱行きとなった。一部シュレッダー行きになった書類もあるけど。ファイリングしたのは退院サマリーだけ。
    今日は娘が進学塾の入試だとかで外出しているので、家に帰っても徒然ないから雑用をかたづけようと思った。山の半分も崩せれば上出来と思っていたが、まさか全部片付くとは思わなかった。こんなに早く片付くならもっと早く取りかかっておけばよかった。
    しかし娘も公文では中学2年くらいのレベルをやってるくせに、いまさら中学入試の準備でもなかろうと思うのだが。入試でうっかり方程式とか使わないようにとかいったテクニックを学ぶんだろうか。そのあたりは色々と不可解だ。
    息子もひとりで留守番にはしのびないので、連れて行くとのことだった。鉄道関係のポッドキャストをたっぷりダウンロードしたiPodを持たせておいてみると、妻は言っていた。なるほどあの機械も色々と使い道があるものだ。うまくいったろうか。

  • イカの哲学 時代はすでに追い越してしまった

    イカの哲学 (集英社新書 (0430)) (集英社新書 (0430))
    中沢 新一 / / 集英社
    スコア選択: ★★★
     書店で目を引かれて購入し一読した。
     1950年年代に書かれたものとしては、イカの哲学なる論考の原文は読ませるものがある。しかし、もう時代に追い越された感は否めない。流行のエコロジーやらなにやら、いまどういう作文を書けば先生や世間の受けがいいかという風向きにちょっと敏感な高校生なら、これくらいのものは書くように思える。
     はっきり言って陳腐なのだが、2008年の現在にこの文章が陳腐に感じられるのは、けっして著者の波多野一郎氏をくさすものではない。1950年代においてはこの論考は斬新なものだったのだろうと推察する。彼の思想を、その後になって、時代が追いかけ、追い越してしまったのだと思う。あまりにメインストリーム過ぎる思想であった故に、あまりに正鵠を射すぎてしまったために、今となっては陳腐に感じられるのだろうと思う。
     中沢新一さんはずいぶん手放しでの推薦ぶりなのだが、オウム真理教に肯定的にコミットした識者の最右翼みたいな人なので、波多野さんも草葉の陰で困惑してるんじゃなかろうか。松本智津夫と同列あつかいかよ・・・とか。

  • トリアージ考

     NHKの小児救急特集に関する感想の続き。
     本診に先だって手短で定型的な予診を行い、重症度に応じて本診の順序をきめる、いわゆるトリアージであるが、今後の救急診療には必須の手順となろう。重症者を迅速に診るということの、医学的な重要性はいまさら本稿で述べるまでもあるまい。加えて、リスクマネージメントの面もあるということを付け加えさせていただく。米国では(日本でも既出か?)化膿性髄膜炎に関して、外来受付時間から抗生物質の初回投与までに2時間かかったのは遅すぎ怠慢であるという訴訟があったと聞く。病院側が敗訴したというおそろしい追加情報まである。
     
     現状でさっそく当院にも採用できるかというと、それは困難であろう。医師一人看護師一人でやってる小児科時間外では、トリアージに専念できる人員がない。当院では予診票を書いていただき、看護師が簡単な問診をするので、それがいくばくかトリアージのかわりになっている程度だろうか。めったに順番を変えることはないんだけれど。
     
     人数もさることながら、小児の病歴を手短に聴取しバイタルサインなど把握して重症度を判断するなんて、そうとう小児科の経験を積んだ医師なり看護師なりが必要だ(経営的な思惑からおそらくはベテラン看護師の仕事になるんだろうけど)。うちはそんなことができる優秀な人を時間外にも揃えておけるほどの病院かどうか。
     
     昔は私も漠然と、こどもを3~4人も育てた経験のあるベテランならたいてい一目で子供の重症度は分るだろうと考えていた。しかしよく考えてみれば、やはり「専門的」な手順が必要なのだ。というのは、トリアージを行えば、大多数の軽症患者は後回しにされるのである。トリアージの成否は、担当者の診断能力はむろんのことであるが、この後回しにされる大多数の人たちに納得を頂けるかどうかにかかっている。この人たちに、お子さんはこれこれの点でいま順番をとばして診察室に入った子よりも軽症なのですという説明を、客観的な用語を用いてできるかどうかである。その点で、年功を積んだだけでは足りないのである。
     
     むろん、それも、軽症者は後でよいというコンセンサスが得られていればの話である。重症だろうが軽症だろうが関係あるもんか私の子を先に診ろというレベルの主張をされたら、トリアージのシステムは機能しない。
     
     そんな理不尽な主張をすると、じっさい自分の子が重症であった場合に困るだろうという理屈は立つ。しかし、大多数の小児救急患者は軽症である。大多数の軽症の中からいかに極少数の重症者を検出するかが小児救急の勘どころなのだ。大多数の親子にとって、子が重症に陥ることなど生涯(すくなくとも小児期には)経験せずに済むのである。したがって大多数の親子には、トリアージなどなくても、実際のところ困りはしないのである。むしろ後回しにされる言い訳みたいな、不利益なモノなのである。
     
     先に述べたNHKの特集でも、トリアージで先に診てもらえた子の親御さんが、重症だったから早く診て貰えて安心でしたと肯定的にインタビューに答えていた。しかし、本当に聞くべきは、軽症だとされて待たされた子の親御さんたちの感想だろうと思う。親御さんたちは納得してお待ちだったのか。納得しておられたとして、それは医学的に納得されたのか、それとも成育医療センターというビッグネームに威圧されてのことなのか。その人たちが、いやあうちは待ちましたけどあの子は大変そうでしたしね、助かってよかったですよと、おっしゃって下さるかどうか。ぜひ知りたい。
     
     救急医療など、限られたリソースの配分をいかに最適化するかという問題においては、参加者のおのおのがシステムの円滑な運営に協力するという、総員の善意を前提にしないと、最適解は出せないものじゃないかと思う。各人が各人の利益を追求することが最適化の道になるためには、リソースが無限に供給されなければならないんじゃないだろうか。経済学的にはどうなんだろう。各々の善意を前提にしないと救急は回らないってのは、現場での実感なんだがね。相手を潜在的な(あるいは明示的な)敵と見なしての救急医療なんて燃え尽き必発だと思う。
     
     トリアージの成否に関する責任を利用者側に押しつけたような内容になってしまったが、むろん、トリアージの成否を決める一番の要因は診療側の診療能力であるとは、肝に銘じております。その点、いずれまた書かせていただくかも知れません。
     それと、これは声を大にして言いたいんだが、トリアージは確かに必要だけど、トリアージさえすれば救急医療のリソース配分は上手くいくから総量の拡充は不要だなんて議論が行政なんかから降ってくるようなら、それは違うよと申し上げたい。