江戸むらさき特急
ほり のぶゆき / / 小学館
ISBN : 4091858910
「時代まんが」ではなく、「時代劇まんが」である。なぜうっかり八兵衛がついてくるのかと悩む助さんとか、うっかり印籠をなくして「うっかり格さん」と呼ばれてしまい八にまで小馬鹿にされて怒りに震える格さんとか、お白砂で脱ぐなとか自分のことを「さん」づけで呼ぶなとかと老中にしかられる遠山金四郎とか、実在しないことを新撰組に揶揄される鞍馬天狗とか。なかでもいちばん秀逸なネタは「店先で隠密同心に死なれたが死体を片付けられず困る湊屋さん」だと思ったが。
元ネタを知らないと面白くないらしくて、妻は時代劇の教養が皆無な人だからさっぱり理解できないらしい。そのてん私は大半のネタを知っていたのだが、いったいいつのまにそんなにテレビを見ていたんだか自分でもよく分らない。しかしさすがに隠密同心心得の上を全文は知らなくて(知っていたのはリフレインされる「死して屍拾うものなし」だけ)、今回その全文が分ったので人生の懸案がひとつ片付いたような気分がしている。
ちなみに八が着いてくるのは、堅物3人の旅だとストレス状況下で容易に2対1に分裂してしまって旅が破綻するからだと思う。助と格の仲裁に手を焼く黄門様というのも何だか痛々しい。1時間ほど放送枠を遅らせ、橋田壽賀子先生に脚本を書いて頂いたら、番組としては成り立つかもしれんが、印籠が毎回出るとは限らなくなるし視聴者層もかなり変わるんじゃないかな。まして由美かおるのかわりに泉ピン子が出たりしたら評判が悪くなるだろうな。
黄門様御一行に限らず、少人数での長期任務は人間関係のごたごたで失敗するリスクが高いから、わざわざ無駄に多い人数を派遣するものだ、と聞いた覚えがある。たしか藤子不二雄先生のまんがにもそういう作品があったと思う。宇宙旅行ものだったが、外的な状況が危機的になってくると、わざと憎まれるような事をして自分に他クルーの敵意を集め、その敵意を媒介にして彼らの結束を保つというウラ任務を担った人物が出ていた。金銭的報酬はよいが、他クルーには彼の正体はついに知らされることがないので、尊敬や感謝云々の精神的報酬はなし、という過酷な任務であった。まさに、死して屍拾うもの無し、である。
平時においても、場を和ませて気分を引き立たせる人物って、けっこう重要な役割なんだろうなと思う。黄門様の足取りを見て頃合いかなと思ったら「ご隠居ぉ、あっしはもうくたくたで」云々とふらついて見せたり、宿場についたら土地の旨いものとか案内して晩飯どきも座を盛り上げたり。いや危機においても、たとえば偽黄門一行が現れたら「うひゃあ。あっしは何が何だかもうわかんねえや」とかあわてて見せて、助さんに「落ち着け八」とか言わせて助さん自身の動揺を解くとか。それを意図してやるか天与の感覚でやっているかはよく分らないけれども。でも、目立った業績はなんにも上げていないように見えて、彼がいなくなるととたんにチーム全体の業績が落ちるという存在は、案外とどこにでも、すくなくとも上手くいっているチームには高い確率で、あるのではないかと思う。
ひょっとしてあちこちの病院で診療科閉鎖とかになってるのも、単に人数が減って負担に耐えきれなくなったというばかりではなく、厳しくなる一方の状況において、単にうっかりしているだけとしか見えない八のような人がまっさきにいなくなった結果ということはないだろうか。無駄な奴を放逐してリストラしたと思ったら云々で。
投稿者: yamakaw
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江戸むらさき特急 あるいはうっかり八兵衛考
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内田樹先生がついに医療崩壊について御言及である
Tokyo Boogie Woogie (内田樹の研究室)において、内田先生が医療崩壊に触れておられる。先生の慧眼には常々尊敬の念を禁じ得ないものであるが、今回のご発言はいささか遅きに失した感がある。
今現場にふみとどまって身をすり減らしているいる医師たちをどう支援するか。
それが行政もメディアも医療の受益者である私たちにとっても喫緊の課題であるはずだが、そういう考え方をする人はきわめて少ない。そういう考え方をする人は極めて少ないのだそうだ。先生ご自身が今さらお気づきになったからって他の人まで認識が足りなかったことにしてしまうのはどうかと思うのだが。それって先生が戒めておられるところの、「知らない」ための勤勉な努力ってやつじゃないだろうか。それとも、さいきん読売はともかくも朝日でさえも医療崩壊の特集記事を連載し始めているのを読んで、だいぶ多くの人に医療崩壊に関する危機感が共有されてきて慶賀の至りと思っていたのは、私の現状認識が甘いのだろうか。内田先生は毎日や産経をご購読だというだけなのかな。
これまで、内田先生のブログには、いまどきの若い奴らはやりがいのある仕事とやらばっかり求めてけしからんとか、仕事のリターンが自分自身に返ることを求めるのではなく自分の仕事が全体の利益になることを喜びとせねばならんとか、まともなシステムは構成員全体の20パーセントほどの人数が働いていれば回るものだとか、いろいろと勤労に関するご高説が数多く掲載されてきた。当直で疲れた頭には、内田先生のそういうご高説は、「今現場にふみとどまって身をすりへらしている医師たち」に負担を押しつけるのに都合の良い理屈としか読めなかった。
身も蓋もなく言えば、「コンビニ受診だなんてぶつくさ言わんと深夜救急も徹夜で診てろよ」とか「安くて定額制の当直手当も無給呼び出しもブーたれんと夜中の帝切くらい3件でも4件でもやれよ」とか「おめーら一部が過労死して全体が回るのがフツーなシステムなんだよ分ってんのかよこの世間知らずどもめが」とかいう声が、内田先生の声に重なって、かのブログの紙背から聞こえてたのだが。先生と同世代な日医の偉いさんのようにも聞こえる声で。
その内田先生にいまさら支援云々言われてもねえと思う。せめて我が身を振り返って恥じるところがないか確認してからにしてほしいものだと思う。それもしないうちに「そういう考え方をする人はきわめて少ない」などと根拠もなく先駆者気取りをなさるのは、はた目に美しい姿ではない。
社会的な影響力の大きい人だから、彼が医療崩壊を食い止めようとする側にちょっとでも与してくれたら、有り難いには違いない。良いご意見ですと誉めて煽ててこちら側へ引きずり込むのが、大人の得策なのだろうよと思う。ここで彼を批判して、それならもういいよと開き直られ従来の路線に戻られると、我々にとっては損失である。しかしまあ、釈然としないことというものも世の中にはあるものだ。とくに狭量なこどものおいしゃさんにとってはね。 -
益富地学会館など
娘が鉱物に興味を持っているので益富地学会館という博物館へ行った。ビルの1フロアに鉱物標本がぎっしり並べてあって、娘は熱心に見学していた。私は正直なところ何が面白いのか今ひとつ分らなかった。何万年の単位で語られても新生児科医にはいまひとつピンと来ない。ただ標本の説明が万年筆で丁寧に手書きされていたのに好感を持った。こういうものも好きな人はずいぶん好きで熱意を注ぎ込むんだろうなと思った。重炭酸ナトリウムと塩化ナトリウムの結晶なんていう標本もあって、これはメイロンの結晶かなどと思いながら眺めていた。
烏丸通りを南下すると京都漫画ミュージアムというのがあって、ここでも娘は至福の時を過ごしたようだった。さすがに鉱物よりは漫画のほうが私もまだ理解できた。さすがに娘と行くと青年漫画フロアには行きにくくて少年漫画のフロアでうろうろして、さいとうたかをの日本沈没や新谷かおるのファントム無頼を読んでいた。ここはもとは小学校だった建物らしいが。でも里帰りしてみたら母校が漫画図書館になってたってのは卒業生としてはどうなんだろうと思った。廃墟になっているよりはましかな。 -
クラシック2題
当直明けに、ケーブルテレビの再放送を録画してあった「のだめカンタービレ」第5話を見ていたら、オーケストラの演奏中のホールに主人公が着ぐるみ姿で駆け込むシーンがあって、もと吹奏楽部員の夫婦ふたりでのけぞってしまった。なんじゃああこりゃああ、と松田優作風に。演奏中にあれをやられて一糸乱れないってのは凄いオーケストラだなとは思ったが。私なんか外来診療中に電話がかかってくるだけでペースが乱れてしまうのに。
原作ではちゃんと間に合って最初から聞いてるよというのが妻の言。だってのだめはあの直後にラフマニノフのピアノ協奏曲の二番を弾き通すんだから、最初から聞いてないと楽譜の読めない彼女には無理じゃないかと。あんなバカをするから、のだめのせいでマナーの悪いにわかクラシックファンが増えたなんて言われるんだと。常識を無視してる以前に原作の読み込みも足りないってことか。テレビの奴ら漫画をも舐めてないか?いや医療を舐めてるってのはよく知ってるけどね。
和むつもりが険悪になってしまったので、妻がもう一つの録画を出してくれた。これは実際の演奏会で、マーラーの交響曲の8番だった。「千人」は聞いたことはあるが見たのは初めてだ。いや画像的には迫力満点ですね。じっさいのところ何人いるのかは日本野鳥の会のひとでもいないとよく分らないけれども。音楽としては、正直なところ私の理解の限度を超えている。まとまった一つの曲だとすら、今ひとつ納得できないでいる。ほんとうに千人も出す必然性があるのかどうかも。興行的な趣向で「千人でやってみたかった」みたいな24時間テレビ的な乗りだったのかもしれないね、なんて素人コメントをしてみたり。でも最後に聞いたのは20年ほども前なのに、それでも曲のかなりの部分が記憶に残ってた辺りは、さすがマーラーだと思った、とフォローしておく。 -
ウェルズ遺稿
H.G.ウェルズの遺稿が発見された。作品「タイム・マシン」に関連する文章と思われる。以下に引用する。
タイム・トラヴェラーは彼の到達した三千万年後の世界について、わたしたちにもう少しくわしく話していた。しかし、それまでは奇っ怪な内容ながら理路整然としていた彼の語りが、なぜかそのときだけは全くわけのわからない内容であった。貴重な証言を一部でも削除するのは忍びなかったが、報告の完全性を損なわぬよう、その話だけは出版時に割愛した。以下は、その内容である。
ふと、彼方に動くものが見えた。こちらへ急速に近づいてきた。それは猫だった。猫が魚をくわえて走ってくるのだ。いちもくさんに、なにものかから逃れようとするかのように。
この三千万年後の世界に猫が!しかし追ってくるものの姿にはさらに驚かされた。人間によく似た姿をしていた。さいわいなことにモーロックではなかったが、それにしても奇っ怪な姿だった。顔つきは東洋人の女に似ていたが、その頭の大きさはどうだ。肩幅ほどの巨大な頭であった。しかもその頭頂部と側頭部には不気味な突起がつきでているのだ。衣類は身につけていたが、足には何もはいていなかった。
猫とその生きものは機械のわきを脇目もふらずに駆け抜けていった。
あれは何だったのか。ぼくはあっけにとられてその後ろ姿を見送っていた。
「ねえ、なにしてるの」ととつぜん声をかけられてぼくは飛び上がった。気がつくと、機械のかたわらに少年がひとり立っていた。めがねをかけた少年だった。子供のくせに蝶ネクタイを締めていた。無邪気そうな言葉づかいだったが、いくらか作ったような声色ではあった。その眼光と言い、どことなく、幼い外観よりもほんとうは年をとっているのではないかと思わせられた。
そして、なにより、不気味な雰囲気をただよわせていた。周囲で日常的に人が殺されているような、行く先々で殺人にであっているような、殺伐とした環境で暮らしている雰囲気だった。この子の前でうかつな行動をとると、たちまち凶悪な犯罪者だと決めつけられそうな気がした。しかも一声決めつけられただけで、どんなに隠しておきたいことも、最初から順序だててわかりやすく解説調にしゃべってしまいそうな気がした。なんだか、服も着ず頭もそり上げて全身を真っ黒に塗った人物に、物陰から憎悪を込めた視線でにらまれているような、いやな気分になった。
視線、そう、ぼくはそのときほんとうに視線を感じた。とつぜんに。あたかも、それまで存在感を殺していた人物が、ぼくが彼に気づくのをそのときになって許可したとでもいうように。
ぼくは機械の反対がわに目を転じた。そこにいたのは黒い人ではなかった。目つきの鋭い、身長6フィートあまりの、東洋人離れした体格の男であった。顔つきは日本人なのか、日本人とロシア人の混血か見分けがつかなかった。太い眉をしていた。ひげは生やしていなかった。太い葉巻をすっていた。
「俺に用か」と彼は聞いた。
ぼくはやっと、話の通じる人物に出会えたような気がした。「ここは何なんだ。いったいどうして君たちはこんなところにいるんだ」とぼくは聞いた。しかし男はその質問には答えなかった。「案内は俺の仕事じゃない」とつぶやき、葉巻を指先ではじいて捨てると、いずこかへ歩み去ってしまった。
以上である。タイム・トラヴェラーがみたものがいったい何だったのか、わたしにはいまだにわからない。しかし、これもまた根拠のない印象に過ぎないが、「ストランド」誌に推理小説を好評連載中のドイル氏が、この少年になにか関わりがあるような気がしてならない。
H.G.W. -
いわゆる
帰って居間のこたつに入ってほっとしていたら、隣室のテレビのニュース番組で、大阪府だったか大阪市だったかが、域内の260ほどの救急指定病院に対して、救急患者の受け入れを促す通達を出したとか言っていた。音声を聞いただけだったが、「いわゆるたらい回し」「いわゆるたらい回し」と、俺が言ってるんじゃないもんねという意味の枕詞である「いわゆる」をつけりゃあ免責されるくらいに思ってたらい回したらい回しと連呼するもんだから、肝心のニュースがよく分らなかった。
いやしくも報道機関なんだから「いわゆる」なんてつけるような言い訳がましいことをせず、堂々と自分の責任でたらい回しと断言するか、あるいは自前のもうちょっと穏便かつ適切な表現をつかうか、どっちかにすればよいのにと思った。そんなことだからいわゆるマスゴミだなんていわれるんだよなと思った。
しかしこたつの中で大阪も大変だとか言っているのは、周産期に関わる私の立場としては、おそらくは米国の農業崩壊のニュースを聞いて米国の人らも腹が減るだろうな大変だと言ってるような愚かさなわけだが。京都の救急は、少なくとも周産期部門は、大阪におんぶにだっこなのだから。京都のみならず奈良も和歌山も滋賀も、おそらくは兵庫も。
なんだかんだ言って大阪というのは凄い土地で、まわりじゅうの府県であふれた搬送依頼をブラックホールのように吸い込んでくれてきた。その大阪が崩壊するときは近畿一円みな共倒れだと思う。大阪がもう他府県は受けられませんと鎖国したらと思うとぞっとする。さらに進んで大阪から難民的に母体搬送や新生児搬送や、さらには一般のお産までがあふれ出てくることになったら、とうてい近畿では受け止められない。その余波がどこまで広がることになるやら見当もつかない。 -
ニュース2題
本日の夕刊には橋下大阪新知事が人件費削減に言及した記事と、東京地裁がマクドナルドの店長は管理職にあらずという判決を出したという記事とが並んで掲載されていた。
朝日新聞大阪本社の夕刊4版1面が伝えるところによると、警察官や教職員も含めた今年度当初予算の人件費は9300億円。1割カットしても府債発行額の半分にもならず、私学助成や医療費助成も含めた大幅な予算の見直しが必要になる。
橋下氏はこうした財政再建策について「それを言い続けて選挙に通った。職員も選挙の重さを感じてもらわないといけない」と強調。マニフェストに掲げた出産・子育て支援策などは「もちろんやる。足りなければ人件費を削ってもらう。それが選挙だ」と語った。出産・子育て支援策はおおいにやっていただきたいところではあるが、その財源が足りなければ(って足りないのは既成の事実なんじゃないか?なんぼ大阪府ったって金があるのに出産・子育て支援に回してなかったってことがあるのか?)人件費を削るって、それで例えば大阪の府立病院の小児科や産科医師の給料を削るってことにもなるんだろうか。たとえば府立母子医療センターの医師はみんな管理職だから残業代も当直手当も無しだとか言われたら大阪の周産期医療が崩壊しますが。あるいは府立病院の夜間小児救急は全員タダで受診できるけどその財源のために医師当直手当は一切なしです、とか。果ては府立の病院は救急からいっさい手を引くから後は大阪市ほかの市立病院やら民間病院でやってね、とか。
現状でもそうなんだよ、とか言われるかもしれんような気がして怖いが。
そういう新知事のご意向を伝える記事の傍らに、マクドナルドの店長を管理監督者とみなして残業代を払わないのは違法だという判決の記事がならぶあたり、まだ世の中も捨てたものではないなと思わされた。そりゃまあ医者とマクドナルドの店長は違うかもしれんが、管理職だから労基法の埒外なんだよという扱いをうけがちだったことは変わらない。これだけ医師不足が叫ばれ医者の取り合いで病院が躍起になっているご時世に医者の超過勤務手当を出し渋るようなお馬鹿な病院があるのかどうかとも思うが、絶対あり得ないとも言い切れないところがこの業界の恐ろしさで。
絶対あり得ないとも言い切れない、というお題でもう一つ気になるんだが、この橋下という人の風貌とかこれまでの言動とか、これから大阪府立の病院でなにか医療事故があった場合に脊髄反射的に医者や病院を糾弾する側に回りそうな気がする。申し訳ありませんと謝る側に自分自身が立ってるんだということを思いつかないんじゃないかという気がする。直接知りもしない人について根拠の薄い印象を書き連ねるもんじゃないとは思うが、財政再建に関する発言のスタンスを見ていても、何とはなく、その危惧をここに書き記しておくことは意義なしとしないように思える。
って、私のほうが政治家みたいな言い方になってますが。こどものせいじか日記、ですか? -
ドラえもん25巻
ドラえもん (25)
藤子・F・不二雄 / / 小学館
ISBN : 4091405053
「のび太の結婚前夜」が収録された巻である。結婚の前夜、しずちゃんのお父さんが娘にのび太を評して語る「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。」という台詞は、たしかドラえもん全話を通じて屈指の名台詞とされていたような記憶がある。が、狭量な私には耳が痛い。
これはのび太のみならず、ゴルゴ13にも通じる美徳かと思う。彼はいかなる主義主張・イデオロギーにも拘らず依頼を遂行する。それは彼が信じるもののなにもないニヒリストだからとも言われるが、私はそれは皮相な見方だと思う。時として彼は熱い心情を露呈する。例えば「命がけの依頼」に対して破格の低価格で任務を引き受けることが幾たびかあった。標的に対して自らの怒りを表明することもあった。彼が主義主張と無関係に見えるのは、彼が根源的なところで依頼人のしあわせを願い、依頼人の不幸を悲しむことができるからではないかと思う。
それにしても、と、のび太としずちゃんの結婚に際してはいつも思う。しずちゃんは何故にのび太の嫁で主婦なのか。公認会計士の試験に19歳で合格してマッキンゼージャパンとかに就職したりしてるんじゃないのか。
しずちゃんがのび太との結婚を決めたのはのび太のダメさが放っておけなくて、だったと思う。のび太の危機を救うのがしずちゃんの意向とすれば、長じてしずちゃんはゴルゴが世界中に構築している救援システムの一環を担ってるんじゃないかとも思う。ゴルゴが日本で窮地に陥った際は「しずちゃんにたすけられる」ことになるんじゃないかと。
しずちゃんが、のび太の本業がゴルゴだと知っているかどうかは定かではない。もし知っていたとしても「報酬が10倍アップする新・知的狙撃術ー旦那をGOLGO化する方法」といった本は出さない方が無難だと思う。ゴルゴは惚れた女でも(しずちゃんをさしおいて浮気だよね)必要とあれば撃っている。撃った後、じっと照準器の中で彼女の乗ったモーターボートを見送るところに、ゴルゴが中身空っぽの人間でないことが現れているにせよ、撃つときは撃つ。「人を殺すときには余計なおしゃべりをしている暇に引き金を引くことだ」という名言をさえ残しているほどだ。
ゴルゴ13の過去はのび太だった説 -
獄窓記 再生のナラティブ
獄窓記
山本 譲司 / / ポプラ社
ISBN : 459107935X
本書において、著者が描くところの著者自身は、入獄前の政治家時代には自分の行為の犯罪性にうすうす気づいていても目をつぶる愚か者であった。入獄後にはあらためて、活動の重点を福祉にも置いていた国会議員でありながら障害者福祉の実態を知らなかったという愚かさの自覚が付け加わる。その自分が逮捕から実刑判決におよぶ入獄前の体験や、獄中生活の体験によって覚醒していく。獄中では、自らの受刑者としての体験に加え、障害を持った受刑者を糞尿にまみれて世話した体験も加わって、壮絶としか言いようのない体験をしている。その体験を経て再生した自分を語る物語である。
あくまでもこれは彼が彼自身について語った物語である。獄中生活を終えた自分自身を立て直すために、彼にはこの物語を語る必要があった。自身を正当化するという目的をもった行動ではなく、自身を解釈するためである。まずは自分自身に対して現時点での自分の立ち位置をはっきりさせるために、彼はこの物語を彼自身に語り聞かせる必要があった。それがはっきりしないと彼は先に進めない。先に進めず獄中生活を終えたばかりのまま立ちつくしていては彼は救済されない。
そう言う意味で、本書は優れた「ナラティブ・アプローチ」の症例報告である。
冷めた賢しらな目で本書を読めば、この物語の主人公はいささかイノセントに過ぎるという印象を受けるかもしれない。「客観的に見たら」どうだったのよという突っ込みは本書のどの部分にも可能である。しかしナラティブ・アプローチにおいて「客観性」などという概念は従来の特権的な地位を持たない。客観的じゃないと言えば攻撃として即有効だと信じ込むのはナイーブに過ぎる。
そういう前提を置いてもなお、本書で著者が報告する、獄中の障害者達の境遇は衝撃的であった。獄中がもっとも生きやすいなどと明言されては、障害児の父としては暗澹とするばかりだ。まだ本邦の障害者福祉はそのような状況なのか。 -
歩行者には逆らえない
緊急搬送中も、大型車は意外にじゃまにならない。大型トラックやバスがぎりぎりに幅をよせて道を譲ってくれる様子は、後ろから見ていて神業にさえ見える。
搬送の妨げとして一番大きいのは道路を横断する歩行者ではないかと思う。救急車が接近してきていても横断を始める。気づいていないのか、気づいていてもまだ遠方だから十分渡りきれるとお思いなのか、あるいは歩行者が青信号なんだから当然渡る権利があるとお思いなのだか。
当方としては減速せざるを得ない。しかし救急車が減速しつつ接近してきていても、横断を断念して後退される歩行者のかたは実は少数派である。さすがに平然と渡り続ける方も少数だが、しかし後退する人よりは多い。大半の人は、立ち止まる。立ち止まってこちらをじっと見る。保育器の脇にいる私と目が合うことさえある。進路に立ち止まられている限り緊急車両でも減速せざるを得ない。こちらが十分減速するのを見定めて、おもむろに渡り続けられる。誰かが渡り続けると、それでは自分もと後から後から続いて渡る。運転士がマイクで「歩行者のかた道を譲ってください」と呼びかけてはじめて、自分にも道を譲るという選択肢があるのだとお気づきになるご様子である。
道路を横断中に立ち止まって接近中の車をじっと見るというのは、猫には往々にして見られる行動である。それでは彼らも猫並みの知性の持ち主ばかりなのかどうか。だとすれば、京大の講義は猫語で行わねばならぬ。まあ、工学部や理学部・農学部といった入試に国語がない人らが横断する今出川通りで、そういう大学生が頻繁に出没するのはまあ仕方ないと思う。彼らはたぶん法律の文面が読めないんだろうから。しかし、あろうことか、いちど東山近衛(北東が京大教養部・北西が医学部基礎・南西が京大病院)の角で大学生らしき男が自転車で救急車の目前に飛び出して横断していったことがある。こいつの写真が撮れていたら学部長に送りつけて処分を求めるところだったのにと、今でも思う。小児科の卒試受験資格永久停止とか。残念である。
むろん、そういう人をはねても良いとは思わない。道義的に許されないのは無論のことである。が、そんな当たり前の議論に深入りするのは野暮だから勘弁してよねということで読者諸賢にもご納得いただいたことにする。加えて卑近な面でもはねるのは非実際的である(例えば犬や猫なら思い切ってはねる方が急ハンドルや急ブレーキで人を巻き込む事故を起こすよりまだマシであるというレベルでの実際性のお話で)。はねたらさすがに救護義務は生じることだろうから、その場に足止めで、搬送の迅速さにも影響する。外傷のプレホスピタルケアなんて慣れない仕事を求められたあげくに、交通事故の責任に加えて外傷の治療の仕方が悪いから医療ミスだなんて責められる羽目になるのは御免である。
以下無用のことながら、緊急走行中の救急車による事故で奪われる命も一般の乗用車の事故で奪われる命も、命として貴重さに変わりはないと思う。というか、命の貴重さの比較などする不遜さを私は持ち合わせない。しかし、その命が損なわれたことに関する責任のとらえ方とか心情のありようについては、違いがあるものだと思う。あって欲しいなと思う。まるで違いなしと言われたら救急医療の存続は困難である。現行の制度でもたしかそのような思想になっていたと思う。
例えば充実した人生を送り老衰で大往生を遂げた命と、泥酔した運転手に衝突されて夜の海に突き落とされ亡くなった子どもの命と、命には違いがないが残された人の心情とか責任のありかたとかには違いが生じるように。
